大学病院にて
一月十五日は旧暦の小正月。外来の廊下は所々に黄色い灯りを落として、ひっそりと静まり返っている。
小林修一は、一人当直室のソファに座って遅い夕食を摂っていた。昼間の内に売店で買っておいたお握りとカップヌードルは如何にも栄養のバランスが悪そうだが、いつ来るが分からない急患のことを考えると、つい、こんな選択になってしまう。だが、スチームのラジエーターの上に上げて置いた暖かいお握りはカップヌードルのスープと一緒に空腹を十分に満たしてくれた。修一は、テーブルの上のミカンに手を伸ばした。
閉め忘れたブラインドの隙間を雪がチラチラと舞い落ちていく。その先には改築したばかりの十階建ての病棟がそびえ立っているのが見える。縦横に規則正しくに並んだ部屋の灯りの向こうに、新しい医療によって管理されている病棟患者の生活が見えてくるようだ。
小林修一が勤務する北都大学病院は、日本の医療をリードすると共に、研究機関・教育機関としての使命を担う東北地方有数の病院と言われている。修一は三年前に、医学部の付属医療短大を卒業し、この病院の放射線科へ配属された。
放射線技師の仕事は経験がものを言う。一寸した体の角度一つにしても、感覚的に覚えるしかない。修一は、三年目にしてやっとそういった要領が分かってきたように感じていた。当直の仕事も、今は不安に思うことはない。ついさっき救急車で運ばれてきた患者の写真もちゃんと撮ることが出来た。交通事故で興奮している患者への接遇も間違いはなかった。そして,今こうして当直室でつかの間の休憩をしている時こそ、僅かばかりの充実感に浸ることが出来るのだ。
その日の勤務は比較的平穏だった。夕刻になってから、バスケットをしていて足首を捻挫した大学生、肺炎の疑いのある小学生、トイレで転んで頭を打ったという老人等が、立て続けにレントゲン室を訪れたが、その後はぱったりと来室者がなくなり、ほっと一息ついているところだった。救急車のけたたましいサイレンが鳴り響いた。交通事故だった。上腕部に裂傷あり。出血が白いティシャツを染めていた。患者は随分興奮していたが、意識はしっかりしていた。レントゲンの結果、骨折等の所見は認められなかった。その後、あれやこれやと事後処理にあたり、気が付いてみたら時計が午後九時半を過ぎていたという具合である。
修一は、ソファに座って熱いココアを一口啜り、テレビのスイッチを入れてみた。漫才師たちが画面いっぱいに映し出されているが、早口で何を言っているのかさっぱり分からない。かといって、チャンネルを他に換える気力もなく、それはやがて、適度なBGMとなって、修一を眠りに誘い込んでいくのだった。
目を覚ましたのは、午前四時頃だった。テレビ画面は砂嵐になっており、テーブルの上には、ココアの残ったマグカップとミカンの皮が散乱していた。修一は、白衣をはおり、外来にある売店に足を向けた。大学病院の外来は、一本のメインストリートのような広い廊下を基幹に、各科へ通ずる廊下が枝を分けるように分散している。そのメインストリートには、花屋、果物屋、パン屋、クリーニング屋などが連なっていて、日中は一つの商店街のような賑わいを見せていた。
売店のシャッターは下りている。修一は、シャッターの横の自動販売機で缶コーヒーを買い、そばにあったベンチに腰をかけて煙草に火を付けた。薄暗い廊下を早番の看護婦が早足で駆け抜ける。やがて、引き継ぎを終えた夜勤明けの看護婦たちがここを通るだろう。と、また一人、職員入口の方から、こちらに向かって歩いて来る姿があった。小さな黒いシルエットが少しずつ大きくなってる。白いスニーカーが修一の視界に入った。コンバースのバスケットシューズ。薄暗い病院の廊下に佇む白衣を、わざと無視して通り過ぎようとしている。
「あれ、美希ちゃんじゃないの」
オーバーオールのジーンズに赤いスタジアムジャンバーを着て、頭には白のニット帽を深々と被っている。精一杯変装したつもりだったろうが、すぐに色白で長い睫毛の横顔は、すぐに入院患者の美希であると分かった。美希は、歩みを止め、修一の方を向くと、
「あれー、わかっちゃったのー。小林さん、なんでこんな所に居るの、まったくもう」
と、小さく舌打ちをした。
「おいおい、まったくもうじゃないよ、どうしたのこんな時間に」
すると、美希は、少し表情を変えて修一の座っているベンチの隅にちょこんと座り、
「小林さん、お願い、このことは内緒にして。誰にも言わないで。お願い」
と両方の手を合わせて懇願した。修一は、面倒な場面に出くわしてしまったと思った。美希が病院の規則を破って外出していたことは明白だったのだ。
山下美希が救急車で運ばれてきたのは、暮れ押し迫る夜十時過ぎのことだった。ストレッチャーに乗った顔は蒼白し、身を捩るような痛みに七転八倒していた。美希は、学校から帰宅後、食卓に着いたが食欲がなかった。四、五日前から便通がなく、腹部が張り、むかむかと気分が悪かった。その内に治るだろうと通学していたが、やがて、嘔吐と腹痛が始まった。尋常でない苦しみようを見て、母親が救急車を要請したのだった。当直医は診察後すぐに患者のレントゲンを撮ることと、外科医へ連絡を看護婦に指示した。
修一の出番が来た。連絡を受けてレントゲン室に向かうと、間もなくストレッチャーに載せられた患者が到着した。二人の看護婦と力を合わせて患者を平面撮影台に移動する。
「すぐ終わるから、動かないでね」
と、声を掛けた。痛みに顔を歪めながら、修一の方を見て必死に頷いたのがわかった。修一の撮った腹部単純X線写真にはガスの異常があり、腸の閉塞した部分が明らかになった。担当医は写真を診てすぐに「腸捻転」と診断し、緊急手術が行われる事になった。美希の不規則でアンバランスな食生活がもたらした結果だった。無理もない。夜更かしがたたって早起きできず、朝食も摂らずに家を出て行く生活が続いていたのだから。
美希は、仙台城西中学校の一年生である。バレーボール部に所属していたが、一つ上の先輩たちとの関係が上手くいかず、ずっと練習に行っていなかった。勉強が終わると、部活に入っていない麻里と一緒に商店街をぶらぶらしながら帰路に着く毎日を送っていた。
セーラー服の臙脂の帯と白いソックスが、地元の中学生であることを印象づける。しかし、その小さな商店街で暇を潰したとしても、時間の経過はたかが知れていた。本屋の店先で少女雑誌を立ち読みしたり、文房具屋でキャラクター用品を手にしたりするのが関の山だった。
麻里は、クラスの中でも居るか居ないか分からないほどのおとなしい性格で、おしゃべりな美希の話を黙って聞いているような子だった。美希がクラスの男の子の話をすると、嬉しそうにその話を聞いているのだが、麻里に好きな男の子が居るのかどうかは分からない。美希にしてみれば少し物足りない感じもするが、逆に変に気を遣わなくてもいい相手だった。美希は商店街の小路を抜けた所で麻里と別れ、自分の家に向かった。
北山三丁目の急な坂道の途中に美希の住むアパートがあった。三DKのアパートは母子二人が生活するには十分な広さだった。母由美子は、八幡町の雑居ビルの一階で小さな喫茶店を営んでいた。仕事柄、帰宅は夜半となったが、早起きをして、美希に朝ご飯を食べさせることだけは欠かさなかった。学校からの配布物にもしっかり目を通し、提出すべき物が滞らないように心掛けていた。だから、短い朝の時間帯であっても、美希と言葉を交わす話題には事欠かなかった。美希は、それだけで、母が自分のことを大切にしてくれていることを実感することができた。そして、PTAとかの行事に母が来ることができなかったとしても、それを不満に思うことなどただの一度もなかった。由美子にとっても、美希は何よりも大切な存在だったのだ。朝の光が、ベランダのプランターに実ったミニトマトを優しく包み込んでいた。
それなのに、どうしたのだろう。いつからか知らないうちに美希の心中に暗雲がかかるようになったのだ。その雲はどこからともなく現れて美希の心を通り過ぎていく。雲は不定期にやって来る。また来たな、と身構えて次の雲を待ってみるが、待っていると雲はなかなか現れない。そして、なんだもう来ないのか、と安心しているときに限って雲はやって来て、水に垂らした墨のように心の中に広がっていくのだ。
美希が三歳のときに死に別れた夫の写真が小さな仏壇に置かれている。元々専業主婦だった由美子は、市役所職員だった夫の遺族年金や生命保険で、しばらくは美希を育てながら細々と暮らしていくことができた。しかし、美希が成人するまでの家計を考えると、いつかは、自分が職に就いて収入を得なければならないということは明白だった。由美子は自活するために、美希が保育園に入ったのを契機に調理学校に通うようになった。得意の料理を生かして調理師の免許を取って、やがては軽食が出せる小さな喫茶店でも開こうと考えたのだ。そして、美希が小学校に入る頃、由美子の計画が実現した。店の名前は「喫茶MIKI」。いつも美希のことを考えて仕事をしたいという意志の表れだった。
バス通りに面した白壁に赤いドアの店は、近所の大学に通う学生の目を引いた。デミグラスソースにチーズを効かせたオムライスの人気が口コミで広がり、客足は次第に増えていった。順風満帆だった。全てが順調に進んでいった。しかし、数年後、美希が小学三年生になる年、近くの丘陵に郊外型の大型スーパーがオープンすると、その客足は次第に減っていった。レストラン街に出店した飲食店の安価で豊富なメニューには太刀打ちできなかったのだ。由美子は洗面所の鏡に向かって栗色のショートヘアを両手でかき上げると、疲れ切った素顔に化粧を施した。
そんな由美子をいつも心配そうに遠くから見守っていたのが、店がオープンしたとき以来、ずっとコーヒー豆を卸していた加藤忠良だった。忠良が、カウンターの向こうに力無く座っている由美子を見かねて、「山下さん、俺がコーヒー入れてやるよ」と声を掛けたのが始まりだった。忠良が入れた香ばしくて深みのあるコーヒーに由美子は癒された。それ以来、忠良は週に一度決まった時刻にやってきて、由美子のためにコーヒーを入れてやるようになったのだった。
そして、月日は過ぎた。「喫茶MIKI」はコーヒーの香りに包まれた店に生まれ変わっていた。由美子が軽食を出し、忠良がコーヒーを入れる。店内にはビルエバンスのピアノの音。「喫茶MIKI」はお客さんにとっても癒しの空間になっているようである。ジャズの音を聴きながらゆっくりと食事できる店として、人気を取り戻していった。しかし、美希は、そうした状況を受け入れることができなかったのだ。美希は中学に入学する年齢になっており、最も感受性の強い時期を迎えていたのである。
美希の手術は無事終了した。開腹手術だったので二日間ほどはその痛みに耐えなければならない。忠良のことがあってから、どこか素直になれない美希だったが、こんな時に頼れるのは母の由美子しかいない。もちろん由美子も、娘の心の変化を気にしていない訳ではなかった。しかし、由美子が美希に付き添っている間、店を切り盛りするのは他ならぬ忠良なのだ。良きパートナーを得た幸せを感ずる一方で、美希に淋しい思いをさせている。由美子はそんな葛藤に嘖まれた。
術後一週間は絶食が続いたが、二週間目から食事が出るようになると、点滴の本数が減り一日一本となった。退院も近いらしい。由美子は、一日一回夕食の時間に合わせて美希の所に行くようにしていた。
午後六時、夕食のコンテナが運ばれてくる音がする。いつもなら、もうとっくに着いているはずの由美子がまだ来ていない。「どうしたんだろう」。健康な人でも、待ち人来ず、となると心配したり不安になったりするものである。ましてや、まだ年若い入院患者の美希にとって、由美子はたった一人の待ち人なのだから、その不安は少しばかりではないだろう。コンテナの中の夕食は同じ部屋の人たちの分と一緒に看護婦が運んできてくれた。結局、美希は一人で夕食を摂り、お盆と食器を自分で返しに行った。
夕食後の病室では、入院患者たちが消灯までの一時を思い思いに過ごしている。テレビを見たり、本を読んだり、中には見舞客が来ている人もいる。美希が、コミック漫画を読んでいると、看護婦さんが来て、美希の耳元で言った。
「美希ちゃん、今、お母さんから電話があったわよ。美希ちゃんに伝えてくださいって」
「はい」
美希は小さな返事をした。
「今日は、お店の仕事が忙しくて、病院に行けないって。明日は必ず行くからねって言ってたわよ」
美希は、再び小さな声で「はい」と応えた。しかし、看護婦が病室を出て行くと、美希はベットのカーテンを閉めて一人唇を噛み締めた。「お母さん、どうして来てくれないの。お店が忙しいだなんて。お店には加藤さんだっているんでしょ。お任せして来たらいいでしょ」
その頃、八幡町界隈は、大崎八幡神社のどんと祭に詣でる人々で賑わっていた。その日、「喫茶MIKI」にも、一日中客が途絶えることがなかった。むしろ、夕方になってから客足は予想以上に増え、店内は常に満席状態になった。「どうしよう。美希の所に行く時間なのに、美希、私のことを待っているだろうなあ。でも困ったなあ。忠良さん一人にお願いして行く訳にはいかないし」。由美子は、いろいろと考えた末に、今日は忙しくて行けないということを病院に電話して、美希に伝えてもらったのだった。
由美子は、悔やんでいた。これほど客が来ようとは予想していなかったのだ。美希に一言「今日はどんと祭だから来れない」と言っておけばよかった。その日、祭りが終わったのが午後十時。店を閉めたのは、かれこれ午後十二時を回っていた。
北都大学病院五階病棟の消灯時間は、午後九時三十分である。その時間になると入院患者達はベットのカーテンを締めて、枕元のスタンドの灯りに切り替える。美希が病院を脱出するのは意外に簡単だった。お気に入りのオーバーオール等の着替えを入れた紙袋を持って、病院服のままエレベーターに乗り、一階の外来用のトイレで着替えを済ませ、夜間救急用入り口から外に出た。エレベーターの三階から看護婦が一人乗ったが怪しまれることはなかった。
「美希ちゃん、一体どうしたの、その格好」
病院服を着ているべき患者が、オーバーオールにスタジャン姿とあっては、修一としても黙っている訳には行かなかった。しかも、中学生が朝帰りである。そんな修一に対して美希は、「小林さん、お願い、誰にも言わないで」と懇願するばかりである。修一は、美希をそのまま病室に帰す訳にもいかず、とりあえず当直室のソファに座らせた。美希は、黙ったままだったが、しばらくすると、
「だってねえ、小林さん。家のお母さんたらね……」
と、涙を堪えながら話し始めるのだった。
美希は、病院を抜け出すと、夜の街を彷徨うようにして一番町まで歩いたらしい。三十分の道程はそう遠くはない。途中、西公園前に新しく出来たばかりのコンビニに寄ってみた。どんな品物が並んでいるのか興味があったのだ。そして美希は、定禅寺通りを東に向かった。葉を落としたケヤキ並木が寒々と続き、歩道には木枯らしが舞っていた。
一番町通りはまだ宵の口のようである。スクランブル交差点を渡る人の群れが見えてきた。地元の人間は一番町通りを番町通りと呼び、番町界隈をぶらつくことを「番ブラ」と呼んでいた。美希は、とりあえず定禅寺側から青葉通りに向かって番ブラすることにした。もう既に大人の時間帯になっていたので、美希のような中学生の姿はない。たまに塾帰りかと思われる自転車の男の子とすれ違ったりはしたが。マクドナルドとかミスタードーナッツとかの硝子張りの店内で、若いカップルが顔を付き合わせて話し込んでいる。
それほど長く歩いたという実感はなかったが、なんと言っても病み上がりの身である。一番町と青葉通りの両方に面したデパートには小さいときからよく来ていたので、そこで一休みできれば一番いいのだが、残念ながらシャッターは大部前に降りてしまったようである。
青葉通りのスクランブル交差点を渡り少し行くと、映画の看板があった。「エデンの東」「風と共に去りぬ」と書かれている。そこは名画座という映画館で、三百円で三本立てが観られる若者に人気の場所だった。中に入ってみて美希は驚いた。超満員なのである。客席は全て埋まり、その周りを立ち見客が囲んでいる。大勢の視線がスクリーンに注がれていることが、雰囲気として肌に伝わってくる。美希は大人たちのほんの少しの隙間に身を挟んだ。そして、暫くして「エデンの東」の上映が終わると、客席の人々が立ち上がり外へ動きだし、代わりに立ち見客たちがそこへ移動して行くのだった。美希は、その流れに乗ってやっと客席に座ることが出来た。もう既に十二時を回っていた。中学一年生がオールナイトで映画を観るなんて、許されるものではない。美希は暗がりの中でニット帽を深々と被り映画を観た。母に対する怒りがまだ燻っていたが、そんな感情を抑えつけるように睡魔が襲ってくる。スカーレットオハラの激しいセリフでときどき目を覚ましたが、気が付くと、エンデングのタラのテーマが流れていた。
修一は、美希に熱いココアを差し出し、飲み終わったら病室に戻るように話した。 美希は、「はい」と小さく頷き、ぽろりと涙した。
ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ。
夜勤を終えて家路に着いた修一のポケベルがなった。「えっ、急患」。修一は、近くの電話ボックスに入って、病院に電話をした。
「小林さん、すぐ戻ってくれませんか。五〇二号室の山下美希ちゃんが急変したんです」
「えっ、どうして私が行かなくちゃいけないんですか。さっき引き継ぎしたばかりですよ」
「今、それを説明している時間はないの。とにかくすぐに来てね」
電話がガチャンと切られ、不通音に変わった。「何故自分が行かなければならないんだ。美希の朝帰りを見つけて、病棟に連絡したのが自分だったからだろうか」。修一は、納得がいかないまま、来た道を引き返した。
病院に戻ると、ナースセンターで病棟の看護婦が修一に説明した。美希は、修一が居た当直室を出てから、予定通り一階外来のトイレで病院服に着替えて、エレベーターで五階病棟に戻ったらしい。ナースセンターでは、修一からの連絡を受け、美希を安全に迎え入れる準備を整えていたという。ところが、美希がエレベーターから降りて、廊下を歩き出したとたん、全身に痙攣を起こすようにしてその場に倒れたというのだ。ただならぬ物音に気付いた看護婦たちがストレッチャーで処置室に運び医師に連絡した。医師が到着した頃には痙攣は収まっており、この後詳しい検査が予定されているということだった。
そこまではよいのだが、次の看護婦の言葉に修一は戸惑った。
「小林さんの名前って修一だわよね」
「そうですが、それがどうかしましたか」
「美希ちゃんがね、『修君、修君』って、うなされたように何度も言うのよ。それで、訊いてみたの、『修君て、もしかして、放射線技師の小林修一さんのこと』って。そしたら、安心したように大きく頷いたのよ。小林さん、とにかく美希ちゃんと会ってみて」
修一には事の展開が今ひとつ飲み込めなかったのだが、美希に会うことは難しいことではなかったので、看護婦に導かれて美希の居る個室に入ってみた。
クリーム色のカーテンが閉ざされ、その向こうにベットに横たわる美希の気配がした。美希は小さな寝息をたてて眠っていたが、修一たちの気配を感じて目を覚ましたようだった。
「ごめんね。起こしてしまったみたいね」
美希は、看護婦の気遣いに、首を横に振り、その隣に立っている修一の方を見た。美希のその穏やかな眼差しは、数時間前の当直室で見たそれとは別人のものだった。
「修君って、この人」
と看護婦が多少の不信感を残しながら訊いてみると、美希は、「はい」とはっきりと頷いてみせた。それを見て、修一が初めて口を開いた。
「美希ちゃん、それってどういうこと。僕のことを修君なんて呼ぶのは、清沢に居たころの友達くらいなんだけど」
と、美希は満面の笑みを浮かべて言った。
「そう、私は修君の友達よ」
修一は、美希の言っていることが理解できなかった。それよりも何よりも先ず、美希に修君なんて、子供のときの呼び名で呼ばれること自体、受け止めることができないでいた。しかし、美希は嬉しそうに話しを続ける。
「修君、清沢にある中田病院って知ってるでしょ」
美希が中田病院という名称を口にしたことは驚きだった。仙台で生まれ育った美希が清沢にある小さな病院を知ってあろうはずがない。
「あそこで修君、私に聞かせてくれたじゃない、赤い着物を着た女の子の話」
「女の子の話」
美希は体を仰向けに戻し、天井の一点を見つめて続けた。
「そうよ。修君が小学一年のとき、青い着物をきて病院の廊下で遊んでいると、白いタクシーが玄関に横付けされて、運転手がドアを開けると、そこから赤い着物を着た女の子が降りてきたんだよね。そして、その女の子が修君に話しかけてくるんだけど、修君にはその声が聞こえなかったんだ。女の子は一生懸命話しているのに修君に聞いてもらえないものだから、業を煮やして待合室に入ってしまう。修君は女の子が何を言ったのか知りたくて女の子の後を追おうとするんだけど、足が滑って少しも前に進まない。焦れば焦るほど足は前に進まないって話」
話し終えると、美希は、満面の笑みで修一を見た。修一は、「どうして美希がそんなことまで知っているんだ」と怪訝そうな顔をした。しかし、美希の笑みの中にある穏やかで落ち着いた眼差しが修一に向けられたとき、修一はその瞳の中に吸い込まれるようになりながら、過去のことを思い出していくのだった。
時間が止まっている。闇の中に居る感じ。何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。体に触れるものは何もない。自分の体が有るのか無いのかさえ感じることができない。ただ意識という目に見えないものだけが自分の存在を支えているように思う。暫くすると、その意識の先に針の穴ほどの小さな光が見えてきた。凍っていた意識が少しずつ溶けてくる。白いパイプベットに白い布団、白いカーテン。窓辺には薄紅色のカーネーションが飾られている。
ナ・オ・ミ。
「直美。直ちゃんなんだね」
直美は大きく頷いた。
「どうしたの、直ちゃん。こんな所で会えるなんて思ってもみなかったよ。元気だった」
「何言ってるの修君。私がこの病院に入院していたこと忘れたの。あれからずっと入院生活が続いているのよ。元気な訳ないじゃない。」
「ああ、そうだっけ。ごめんごめん。でもさ、直ちゃんは、あの時のままなんだね。僕はもうすぐ二十四歳になるところだというのに」
「修君ったらもう。そんなこと当たり前でしょ。私も同じように大人になることができるのなら苦労しないわ。だから、こうやって、大人になった修君に会いに来てるんじゃないの」
「大人になった僕に」
修一は、小さく驚いて見せた。
「いやだあ、修君。私が書いた手紙、忘れたの」
もちろん、忘れてはいなかった。しかし、あれから十年以上も経っている今、あのときの感情をそのまま維持できている訳ではなかった。だから、直美の問いに端的に「イエス」と答えることはできなかったのだ。しかし、直美はそんな修一の複雑な心境を知ってか知らずか、それ以上返答を求めようとはしなかった。
「でもよかった、修君に会えて。私が思っていた通りの大人になっていたわ。やさしくて、穏やかで、そして、立派に放射線技師の仕事をしていて、すごいなあ、と思ったわ」
修一は、「それほどでもないよ」と頭を掻いた。
「修君に会わせていただいたこと、神様に感謝しなくちゃね。実はね、修君が高校生の頃、私、修君に会いに行ったのよ。知ってる」
直美は、寝返りを打って修一の方に体を向けた。修一は目を丸くして直美を見た。
「だけど、会うことはできなかった。彼女、声も小さくて大人しい感じだけど、芯が強いのね」
「それって、もしかして……」
修一は、思わず、高校時代に少し付き合っていた女子高生の名前を出そうとしたが、直美は、それを押し止めるようにして、
「素敵な人だった。私も友だちになりたかった。一緒に列車で通学したかった。だけど、私が入り込む隙間はなかったみたい。」
と、少し戯けるように肩を窄めた。修一は、何も言うことが出来なかったが、「やっぱりあの時、直美が来ていたんだ」と思った。
「あのとき、本当は私、修君に会うつもりで彼女の中に入っていったんだけど、彼女は私を受け入れてはくれなかったの。だけど、私、どうしても自分がいることを修君に知らせたくて、いろいろなメッセージを送ってみたの。そしたら、修君は少しだけ私のことを思い出してくれたわ。私、嬉しかった」
修一は、自分の予感が当たっていたことに驚いた。そして、人間が持つ魂の存在に強い感銘を覚えた。しかし、一方で、何故あの時、里子が何も告げずに転校して行ったのか、という疑念が再び蘇って来るのだった。
「直ちゃん、一つだけ聞いていい」
直美は、修一の瞳を見つめて大きく頷いた。
「直ちゃんの言うことは良く分かったよ。あの時、あの場所に君がいたことは、ちゃんと分かっていたよ。だけど、どうして、里子さんは、ぼくに何も言わないで転校して行ったんだろう」
修一は、自分の中で封印していた思いを率直に述べてみた。すると、直美は、
「修君、ごめんなさい。修君のこと苦しめてしまって。だけど、あれは、彼女の障がいのせいなの。」
「障がい」
修一は、思わず直美の言葉を復唱した。
「修君は気付かなかったかもしれないけれど、彼女、生まれながらに人との関わりが上手くできないという障がいを持っていたの。だから、相手の表情や態度から人の気持ちを察知してその場に応じた対応をすることができないことがあるの。でも、彼女はそうしたハンディキャップを持ちながらも、人から誤解を受けないように人一倍努力していた。だから、修君と友達になれたときは本当に嬉しくて喜んでいたのよ」
修一は驚いた。そして、里子の口数が少なく、真面目で、少し天然な性格を思い出していた。
「だから、転校が決まっても、そのことを修君に、いつ、どこで、どんなタイミングで、どんなふうにして伝えればいいのか分からなかったの。そうしている内に転校の日はどんどん近づいてくる。彼女、どんなに辛かったか」
見ると、直美は瞳に涙を一杯に溜めていた。そういえば、転校する前の日に里子のことが心配になって電話をしてみたけれど、里子は修一の話を聞いて、ただ「はい」「はい」と応えるだけだったことを思い出す。あの時も里子は、転校のことをどう修一に伝えればいいのか分からずに苦しんでいたのだろう。修一は今更ながらに悔やんだ。どうしてあの時、里子の心情を察してやることができなかったのだろう。自分だけが悲劇のヒーローのような顔をして思い悩んでいた。
「直ちゃん、僕のところへ会いに来てくれて、ありがとう」
修一は、芯から直美のことが有り難いと思った。
「どうしたの、急にあらたまって」
「だって……」
修一は、泣きたくなるのを必死で堪えた。悩み苦しむ自分のことを、いつも遠くから見守ってくれてい直美のことを思うと、感謝せずにいられなかった。
「修君、私少し疲れたみたい。眠っていい」
「ああ、いっぱい話したもんね。ゆっくり休んで」
仰向けになった鼻がちょこんと高い。閉じた瞼はあのときのままだ。修一は、直美の寝顔を見ながら、清沢で出会った頃のことを一つずつ思い出していった。幼い頃のアルバムを捲るように。
そのとき、急に窓の隙間から吹雪きが舞い込んできた。その白い粉雪は、やがて花吹雪に変わり、直美のベットの周りを舞い回った。部屋の灯りがフェードアウトされ、暗闇となった病室に桜色のグラデーションが映し出された。
目を覚ますと、そこは美希が眠る病室だった。美希の話を聞いているうちに眠り込んでしまったらしい。美希は小さな寝息を立てて眠っている。
「美希ちゃん、お昼ご飯ですよ」
と元気のよい看護婦が昼食を運んできた。修一は代わりに給食を受け取り、ベッド脇のサイドボードにそっと置いた。その弾みで美希が目を覚ましたようだ。
「あれ。小林さん、どうしたの」
修一は、まだ半分寝ぼけている美希に向かって、
「美希ちゃん、どうもありがとう。君のお陰で頭の中がすっきりしたよ」
と声を掛けた。そして、美希の頭をくしゃくしゃに撫でてから立ち上がり、「じゃあね」と手を挙げて病室を出た。
廊下の向こうから急ぎ足でこちらに向かってくる男女の姿があった。擦れ違いざま、コーヒーの深い香りがしたような気がした。修一は振り返り、二人が五〇二号室に入るのを見届けて、再び帰路に着いた。




