15-38 ネコの女
満月が輪郭を歪めて周囲の星たちを押し隠し、色の無い空の中で毒々しい黄色い肌をひけらかしている。掴めそうなほどの存在感にウミネコは目を細めた。
「交代」
岩肌をよじ登って来たのはジャコウネコだった。
「アナは?」
ジャコウネコは周囲を見回す。「何してんだろ」
「また寝坊じゃない?」ウミネコは答える。「空けるわけにもいかないし、彼女が来るまでもう少し見てる。チャコは先に休んでいて」
ジャコウネコはぶすっとしてウミネコを見下ろした。鼻から息を吐くとどっかりと隣に腰を下ろす。
「どうしたの?」とウミネコ。
「あんただけじゃ頼りないから」仏頂面のままジャコウネコが答える。
「見張りくらいできるわよ」
「どうだか」
ジャコウネコは両手の指を組んで前につきだすと、そのまま頭の上に持ち上げた。頂点で指を解くと首をぐるりと回す。襟が持ち上がり、胸を真っ二つに縦断する傷跡が覗いた。
「見んなよ。男じゃあるまいし」
鼻筋に皺を刻んでジャコウネコが言う。
「見せたんじゃないの?」
ウミネコは詫びもしないで、驚いた顔をしてみせた。
「んなわけあるか!」
噛みつきそうな形相で否定するジャコウネコがおかしくて、ウミネコは笑った。その笑顔にジャコウネコも脱力する。
「いい根性してるわ、あんた」
ジャコウネコは諦めて項垂れた。その様子を見てウミネコは笑う。そして、
「チャコこそ休憩したら? ずっと姐さんについてたんでしょ?」
「いっちょ前に生意気」
足を砂の上に投げ出して、後ろ手をつきながらジャコウネコはウミネコを鼻で笑う。しかしウミネコの表情は曇る。
「…姐さん、大丈夫なの?」
「何が?」
「何がって…」
ウミネコは言葉を濁す。そんなこと、言わなくてもジャコウネコはわかっている癖に。
ジャコウネコは俯いたウミネコを横目で見た。そんなこと、わかっていても言えるわけが無い。
ジャコウネコは沈んだ空気を吹き散らすように空に向かって息を吐いた。
「あんたがもっといい顔すればね」
「顔?」
「まずは、」
言うとジャコウは両手でウミネコの頬の肉を掴み、目尻の方に引き上げた。
「痛ッ…」
「かったいな。筋肉、使ってない証拠だ」
「やめてってば」
「鍛えてやってんだよ」
上体を捻ってジャコウネコから逃れたウミネコは、ジャコウネコの胴周りに腕を回して脇の下を刺激してやった。今度はジャコウネコが体を捩ってウミネコの頭を押す。
「やだ、ばか!」
「仕返し」
「やめろって」
明るい満月の下、嬌声をあげながら少女のようにじゃれあう。やがてジャコウネコがウミネコから逃れて、砂の上に身を投げて空を仰ぐ。
「くすぐるのは反則」
「始めたのはあなたよ」
互いに息を切らしながら言い合い、どちらともなく笑った。腹を抱えて肩を揺すり続けるウミネコの横で、ジャコウネコは静かにはにかむ。
「どうかした?」
「姐さんに笑ってほしいなら、まずはあんたが笑ってな」
ウミネコは目を丸くしたまま寝そべるジャコウネコを見下ろした。
「ウミ!」
アナグマがやって来た。
「遅い」
ウミネコは不服そうな顔をして見せる。実際は文句などなかったのだが、挨拶のようなものだ。素直じゃない彼女たちに合わせた処世術の一つだった。
しかし今のアナグマがウミネコの冗談に付き合う素振りは無い。その切羽詰まった真剣な様子にジャコウネコも身を起こした。
「ネズミ?」
ジャコウネコが尋ねた。ウミネコははっとしてふり返る。アナグマは息を整えようと唾を飲み込みながら首を横に振る。
「単体。仲間はいないみたい。でもこっちに向かってる」
「姐さんは?」ウミネコはアナグマに尋ねる。
「テンたちが固めてる。オコジョとヒグマもいるから姐さんは心配ない。でも…」
「周辺に仲間がいるかもって?」アナグマの言葉をジャコウネコが引き継いだ。アナグマは頷くと周辺を見回した。
「こっちにはなんも来てない? あとは見てきてここが最後…」
「いないわ」答えながらウミネコも周囲を見渡した。「今まで見ていたけれども何も…」
「アナ、ウミ、」
ジャコウネコが彼方を見つめて小声で言った。ウミネコとアナグマは揃って振りかえる。
「あんたらは姐さんとこ行きな」
「どうして急に…」
「ウミ!」
アナグマに袖を引かれウミネコは指差された方を見つめる。目を凝らすが何も見えない。
「こっちも単体だね。あっちの仲間かな」
アナグマには見えているようだ。ジャコウネコが首を傾げながら鼻の奥で唸る。体力どころではなく視力さえも仲間たちに及ばない自分の非力にウミネコは焦る。
「喰いとめとくから。テンに知らせて」
「私も!」
出しゃばったウミネコをアナグマが止めた。
「行くよ、ウミ」
「でも!」
「アナ、」ジャコウネコが振り返った。「そいつよろしく」
「チャコ…」
「ウミ!」
いまだにジャコウネコの傍を離れずにいるウミネコを、坂を下り出したアナグマが呼んだ。ウミネコはアナグマを見下ろす。ジャコウネコを見つめる。ジャコウネコが振り返り苦笑する。
「私、そんなに頼りない?」
ウミネコは首を横に振る。
「だったらもう少し信頼しな」
ジャコウネコが顔全体で笑った。ウミネコは言葉を飲み込み頷く。
「ウミ! 早く!」
アナグマに再度呼ばれて、ウミネコはようやく踵を返した。その背中を確認してジャコウネコは正面に向き直る。向き直って目を見開き、息を飲んだ。
とぼとぼと歩いていた目標がこちらに方向転換して突進してきていた。速い。普通の速度ではない。走り方も異常だ。身構えるジャコウネコ。だが突進先は自分ではない。ジャコウネコは走り出す。駄目だ、間に合わない。
「ウミ! 逃げて!」
ジャコウネコの声に振り返ったウミネコに、それは跳び上がり覆いかぶさった。
* * * *
ジュウゴは額の汗を拭いながら顔を上げた。何度も立ち止まり、膝に手をついて呼吸を整える。イシガメではないが上半身はほぼ裸、衣類は腰に巻き付けていた。特別な運動をしているわけではない。ただ右足と左足を交互に前に踏み出しているだけだ。それなのに。
晴天が続いている。もうどれくらい雨と雪が降っていないか数えるのも諦めた。降り注ぐ太陽の日差しは地面を熱し、夜になっても冷めきらない。そして翌日以降もさらに熱されて、砂の温度は日に日に上昇していた。
「君は平気か?」
後ろを振り返ってワンに尋ねた。ワンは荒い呼吸に首の下を小刻みに揺らし、唾液を拭きとることも無く垂らし続けている。
「…なはずないか」
返事を待たずにジュウゴは言った。ワンは淀んだ目でジュウゴをちらりと見た後、その場に座り込んでしまった。ジュウゴはため息を吐く。普段は呼んでも振り返りもせずに前方を駆けていくくせに、疲れた時はすぐこれだ。腰を下ろしたワンがジュウゴの依頼で立ち上がることは絶対にない。夜のうちに少しでも進んでおきたいと何度も説いているのに、ワンはわかっているのか聞いていないのか、長い舌を揺らしながらいつもそっぽを向いている。
「頼むよ、歩いてくれ」
言いながらワンのもとまで引き返し、その前で屈んだ。ジュウゴが膝を曲げても、腰を下ろしたワンの目線より低くなることは無い。ジュウゴはさらに背中を曲げて極力ワンの顔の高さまで頭を低くし、ワンにもう一度頼み込んだ。
「もう少ししたら涼しくなるから。…多分。いや、わからないけど。でも暑いのはわかるけれども今のうちに進めるだけ進まないと、日陰も確保しないと。何度も言っているだろう? いい加減、協力してくれないかな」
ワンは流れる唾液を舌舐めずりし、ジュウゴの顔に飛沫を飛ばした。ジュウゴは右目を瞑って手の平で顔を拭う。指先が左目の前を通過する。ジュウゴは動きを止め、右目の瞼を手で覆った。左目だけの視界の中、真っ黒い背景の中で赤い粒子が蠢いている。赤い粒子の集合体が一度引っこみ、また伸びた。ワンが再び舌舐めずりしたのだ。ジュウゴは手を下ろして右目も開けた。自前の視界が開くと義眼の情報はあやふやになる。重なった視界の中で赤い粒子が飛び交うこともあるが、右目の視界情報が優先される。
―暗視鏡しかなかったん。けど無いよりましやろ? とりま、つけてみられ―
無いよりはあった方がいいだろうとはジュウゴも思う。思うけれどもこれは、
「ヤマカガシ、これ、使えるのか?」
包帯を解いてしばらく経つが、義眼が役に立ったことは一度もない。むしろ太陽が出てきたら眩しすぎて大変なことになるし、気がついたら充電が切れているし、不便と面倒くささが先行して恩恵は行方不明だ。
ジュウゴの鼻先にワンの体毛が迫った。義眼に集中していたジュウゴは慌てて身を引き、尻をつく。そんなジュウゴをよそに、ワンは口を閉じてどこか一点を見つめている。
「話を聞く時は相手の目を見ろと、君は教わっていないのか」
うんざりしながらジュウゴは愚痴を垂れたが、ワンは自在に動く耳をぴんと張っており、その穴はジュウゴの方を向いていない。ジュウゴは諦めて立ち上がる。
「『だっこ』だろう?」
はいはい、と誰にともなく返事をしてワンの脚の付け根に手を伸ばした。途端にワンに腕を噛まれる。
「痛ッ…たいな。何だよいきなり!」
何度繰り返したかわからない決まり文句。全ての脚を垂直に伸ばして静止しているワンにはやはり届いていない。
「勝手について来たのは君の方だろう? イシガメたちの元にいればいいと僕は提案したのに。行動を共にするなら僕の意見も聞いてくれよ」
ワンは同じ体勢のまま一点を見つめている。
「もういい! 勝手にしろ。どこへだって行けばいいじゃないか!」
ジュウゴが言い放った途端に、ワンは傍らをすり抜けた。相変わらず風のように走り去るワンの後ろ姿をジュウゴは呆気にとられて見送る。線路からかなり逸脱してワンの姿は稜線の先に見えなくなった。次第に腹の底から熱が這いあがってきた。ジュウゴは拳を握りしめ、歯をきしませる。
「どこにでも行ってしまえ! このよだれの垂れ流しぃッ!」
叫んでから鞄を地面に叩き付けた。ただでさえ暑いのに更にも増して頭が熱くなった。その場にどっかりと座りこみ、額を手の平で拭う。鞄の中に手を突っ込んで水筒を取り出し、浴びるように温い水を飲んだ。ふと気付いて鞄の口を開く。空の水筒が数本出てきて乾いた音をたてた。残りは二本。瓶詰めだけでなく、水も自分にとって欠かせないものだということをジュウゴは学習していた。それはワンにとっても同じだ。
「このまま降らなかったらどうしよう」
水筒の蓋を閉める。
「節約しないと。でもいつまで?」
相手もいないのにぶつぶつと考え事を垂れ流す。
「ねえ、どう思う?」
振り返って静けさに口を閉じた。ワンはいない。途端に恥ずかしくなって頭を掻き毟る。
「…何だよ、全く」
意味も無く意味の無い言葉をこぼしながら荷物をまとめて肩に担ぐ。どこまでも単調に伸びる線路の横を、ジュウゴはとぼとぼと歩き始めた。チュウヒのいる駅で見つけた線路を辿っていた。線路を辿ればやがて嫌でも塔に着くとイシガメ達が言っていたから。線路沿いには駅もある。駅か塔かはわからないけれども、トカゲの話ならばそのいずれかにサンがいるはずなのだ。だが今のところ、駅らしい駅は見つかっていない。駅どころか瓦礫も少ない。
ふと歩みを止めて地面を注視する。反対方向に進む靴跡と特徴的な足跡。元来た道を戻りかけていた。イシガメの指摘通り、ジュウゴだけでは道に迷って水さえ尽きて、あっという間に死んでいるのかもしれない。何やかやでワンに助けられてきた自分にまた腹が立ち、一八〇度方向を変えると、頭をかきむしりながら再び線路沿いを歩き始めた。
一歩、一歩、踏み出す度にワンの足跡が離れていく。立ち止まり、苛立ちを吐きだしながら再び歩きだした。砂利を踏む気配を感じる。
「ワン?」
右手から振り返る。誰もいない暗闇から顔を背けようとした時、視界の中で赤い粒子が光った。顎を引き右目を手の平で覆い隠す。真っ黒い背景の中で小さな赤い光が飛び交った。ワンではない。動き方が違う、赤い粒子の飛び方が。汗だくの背筋に悪寒が走る。動悸が激しくて口から何かが出てきそうだ。緊張を敵に知られまいと、ジュウゴは鞄を静かに下ろした。赤い光はどんどん増えて、徐々に近づいて来ている。
右目を開くとやはり辺りは静かだった。ジュウゴは小銃を構え、腰を低めて周囲を見回す。耳を澄ませ、風の臭いを嗅ぐ。皮膚に感じる圧力。四方を見渡す。毛穴が開く。汗が顎先を伝わる。唾を飲み込み、引き金に指をかけた。
背後からだった。ジュウゴは銃口を影たちに向けて構えたが、はっとして腕ごと空に上げた。
「女!?」
途端に飛び上がった影の一つが脚を振りまわし、小銃は弾かれる。微かに痺れる手の痛みが収まるのを待つ間もなく、影たちが八方から降りかかって来た。黒く開いた空間に向かって受け身を取りその場を逃れる。次の瞬間にはたった今まで自分がいた地面に無数の拳と膝と踵が突き刺さった。影たちがゆらりと立ち上がる。後頭部に感じた風圧に頭を低めると、太い腕がその上を空振った。ジュウゴは危なっかしく手をつき逃れる。左右から腕やら脚やらが飛んできて、ジュウゴは払いきれずにひたすら逃げた。
―女は大事にせんなん―
イシガメたちの教えと現状の間で逡巡しているその間にも雄叫びをあげながら先の太い腕が飛んで来た。咄嗟に短刀の柄を引き抜いて目を瞑ったまま頭の上にかざす。太い呻き声に顔を上げ、得物を鞘に納めるべきか逡巡している間に、反対側から足を払われた。巨体が満月を遮って降って来る。咄嗟に地面の上を転がり直撃は免れたが右腕をやられた。呻く暇も無く別方向から拳が飛んでくる。ジュウゴは脚を振りあげた。女の側頭部に運よく当たった。使い物にならない右手を庇いながら起き上がり、間合いを取りながらもう一丁の小銃を片手で構える。倒れた女に別の女たちが手を差し伸べ、全員でこちらに振り返った。周囲の殺気が膨らむ。四方から女たちが突進してきた。太い腕も混ざっている。逃げよう。彼女たちは小銃を持っていない、距離を取れば損傷させられることも損傷させる必要もなくなるはずだ。自問する前に自答した時、視界の端で短刀が拾い上げられた。
「触るな!」
大女の大振りをかい潜り、ジュウゴの顔を狙って拳を振り上げた女の顔を小銃の持ち手で殴り払った。女を踏み越え、小銃も投げ出して短刀だけを目指す。迎え討とうと身構えた横腹を踵で回し蹴り、短刀を手にして驚いているその首を勢いのまま左手で力の限り握りしめて地面に押し付けた。二本の腕を膝頭で押さえる。
「返せ」
声を出せずに戦慄く女に向かってジュウゴはなおも怒鳴りつけた。
「返せよお!」
やがて女は口から泡をこぼし、白目を剥いて脱力した。息を切らしながらジュウゴは短刀の柄に手を伸ばす。
「そこまでだよ」
後頭部に銃口が突き付けられた。ジュウゴは泡を吹く女の上で動きを止める。
「随分派手にやってくれたね」
後頭部の後ろで銃弾がジュウゴをにらむ。
「姐さん駄目!」
叫び声に背後の女が振り返った。ジュウゴはその隙を逃さなかった。左手を振りあげて銃身を掴み取る。瞬間、地面に穴が開いた。力ずくで小銃を引き抜くと女はいとも簡単に体勢を崩した。ジュウゴは片手で小銃を回して銃身を脇に抱えると女の腹を踏みつけ、銃口をその喉元に押しつける。
「ジュウゴッ!」
叫び声が背後から駆けて来た。ジュウゴは半身と銃口で振り返る。大女が横から体当たりして巨体で以てジュウゴから小銃を奪い、地面を転がった。動かない右手のために受け身を取り損ねる。痛い。場合じゃない。なんとか起き上がるが砂が目に入ったか。右目が開かない。代わりに義眼がよく働く。こちらに駆け寄ってくる赤い粒子の集合体目がけて殴りかかる。赤い粒子が立ち止まる。上腕とそれが交差する直前でジュウゴも止まる。粒子が消える。動きがなくなる。義眼に遅れて開いた視界の映像をジュウゴは始め、信じられなかった。
「……サン」
サンだった。間違いなかった。見間違うはず無かった。シュセキに似ていたトカゲの例もあるけれども目の前の顔は、
「サン!? え、本当に? だ、だって…、ええ?」
「ジュウゴ…」
「うわああっ!」
あれほど探していたのに、あれほど会いたかったはずなのに、ジュウゴはサンを指さして叫びながら腰を抜かした。




