15-37 起きないのに
ナナは散々泣きじゃくった後で、男の腕の中で眠った。ジュウシの冗談抜きで泣きやむ姿をジュウゴは初めて見たと思った。男はサシバと名乗った。何も語らずに立ち去ったチュウヒに代わってジュウゴの疑問に答えてくれた。
ナナは自らの足でこの地下にやって来たという。ジュウゴたちを置いて行った後のことだろう。ナナがこの地下に来た理由は『よたか』だそうだ。しかしナナが来てすぐに『よたか』が倒れ、ナナは夜汽車として提供するようノスリの指示があった。『よたか』はナナを逃がしたがっていた。夜汽車として飲まれることを避けようと画策したのが『よたか』だった。だからサシバ達はナナを生かすことにした。名前を与え、この駅の一員として席を与えた。しかし席には限りがある。頭の意向だ。この駅では減れば増やすがそれ以外で増やすことは許されない。だからナナの代わりに『よたか』を差し出すことにした。『よたか』を夜汽車にすることにした。そうしてナナはサギになり、この駅の一員となった。だが、名前を与えた時にはサギは他の全てを失くしていた。
「全てって?」
「あいつは全て捨てた。あいつの中ではヨタカにも会っていなければお前のことも知らない」
「は?」
サシバはジュウゴをちらりと見遣り、再びサギの寝顔を見下ろした。
「サギはサギだ。『ナナ』じゃない。こいつは自分が夜汽車に乗車していたことを知らない」
「え?」と呟いた後、ジュウゴは意図も意味もなく笑ってしまった。
「何を言っているんだ? そんなわけない。ナナとはずっと一緒だったし同じ夜汽車だったんだ。知らないってそんな…」
サシバの視線が刺さってジュウゴは口を閉じる。笑い事ではないらしい。ならば本当のことなのか? 本当にナナは。乱れる動悸を意識して呼吸で押し止め、胸中に湧き上がってくる不快なものをジュウゴは何度も吐き出した。額を押さえる。地肌を握る。地下に住む者の会話や単語には随分習熟したつもりでいた。多くの事を目の当たりにしても一つひとつ理解を重ねてきた。だが、
「だって、ナナはずっと一緒で…。僕も覚えているし。捨てた? って何? 捨てたって。そうだ、捨てたんなら拾えばいいじゃないか。失くしたなら探せばいい。僕も手伝う。見つかるはずだ。だって……」
「思い出せないんだ」
「ええ?」
「記憶を探す作業そのものがこいつには出来ない」
サシバがジュウゴにもわかる言葉で説明した。
ジュウゴは頭を掻き乱していた手を下ろす。
「…一つ、いいですか。質問」
サシバが静かにジュウゴを見た。ジュウゴはナナの寝顔を見つめながら肩で大きく深呼吸を繰り返す。
本当は一つどころではない。むしろ理解できたことが一つあるかないかだ。だが、淡々と説明し続けるサシバの話についていくために、根本的なことをまず解決しなければと思う。
「何だ」
物静かなサシバが痺れを切らした。ジュウゴは唾を飲み込み顔を上げる。
「『よたか』って何ですか?」
ひどく湿っぽい、薄暗い下層だった。しかし排水設備が整っているのだろう。イシガメたちの地下とは違い、壁から水が染み出すような場所はない。
大分雰囲気が違うが見覚えがある通路に至る。交差する通路の先の壁に小さく見える装置を眺めてジュウゴは合点がいった。ナナを見つけた場所だ。あれで地上に出ようとナナが言っていたのだ。あれは何と呼んだか、同じ部屋にいた古臭い男が連呼していたとジュウゴはぼんやりと思う。あの男と女たちはどうなったのだろう。顔も声も思い出せないが、この地下にいてここで会ったことは確かだ。何を話したっけ。痛いことをされたのは覚えているけれどもどうしてそうなったのだろうか。自分のことで精一杯で、生き残ることに無我夢中で、周りのことを何も見ていなかった。何も、わかっていなかった。
立ち止まっていたジュウゴの足元に光が射した。見るとサシバが通路の先の扉を開けている。ジュウゴはぼそぼそと声の聞こえるその部屋に向かった。
取っ手を押しあけて扉を潜ると声がぴたりと止んだ。黙ってジュウゴを見下ろすサシバの、卓を挟んで向かい側で肘をついていた男、腰を浮かせた男がジュウゴを見つめている。
「あん時の?」
腰を浮かせた男が言って近づいてきた。頬杖をついていた男も作業台に手をついて立ち上がる。
「お前、…まじで?」
「チョウ、」
サシバの呼びかけに近づいてきた男が振り向いた。サシバは男に歩み寄る。
「あいつの振りをしてくれ」
「は? え? 何のために?」
「ノスリに見られた。チュウヒが咄嗟にお前の名前を呼んで顔を隠したが、ノスリのことだ。後で確認にくるだろう」
「えぇえ~?」
チョウと呼ばれた男はジュウゴを見遣るとあからさまに嫌そうな顔をした。
「顔半分を隠せ。ノスリに聞かれたらサギのことで意見が合わなかったとでも言っておけ」
言いながらサシバはチョウの頭に布きれを巻きつけ始めた。どこから出したのだろう、とどうでもいいことをジュウゴは思う。
「ちょ、ちょっと!」
布きれを半分巻かれた男がサシバを突き放してジュウゴに言った。
「お前なんでそんな格好してんだよ」
「そんなって、どんな?」ジュウゴは尋ねた。
「その頭だよ!」
自分も似たような頭にされながら男は怒鳴る。
「何の嫌味だ? 舐めてんのか? それともヨタカの振りしてここに忍び込むつもり…」
「チョウ」
サシバが宥めた。「多分違う」
チョウと呼ばれる男はサシバを睨み上げる。サシバは全く動じずにチョウを椅子に座らせた。
「おそらく本当に怪我をしている」
チョウがジュウゴを睨む。どうやらこの包帯が気に入らないらしい、とジュウゴも気づき始めた。
「なんでそんなとこ怪我すんだよ」
チョウは怒りを抑えながらジュウゴに尋ねてきた。ジュウゴは左目があった場所に手をやる。
「持っていかれた」
「ああ?」
見せた方が早そうだ。
「まだ解くなと言われているんだけれども」
言いながらジュウゴは包袋を解いた。ジュウゴの顔が露わになるにつれ、チョウの怒りが驚きに変わっていく。サシバと頬杖の男も同様に目を見開いた。
全ての包袋を解き、髪の毛を描き上げて男たちに患部を曝したが、久しぶりに空気に触れた部分は妙にひりひりとする。
「もういいかな」
「え?」
チョウが動揺した。
「多分まだ解いちゃいけなかったんだと思う。痛いんだ。いや、当初ほど痛いわけではないんだけれども、なんというか空気がしみるというか微妙な風が刺さるみたいだというか、いうなれば違和感がはんぱな…」
ジュウゴが説明している間に頬杖の男が近くまで来ていた。ジュウゴの手から包袋を奪いとる。
「何?」
「座れ。巻くのは慣れてるから」
男の厚意の理由は分からなかったが、素直に甘えておく。どうやって巻き直せばいいのかわからなかったし助かった、とさえ思いながら。しかし、
「義手?」
ジュウゴは、右肩と右膝と左手で包帯を巻く男に尋ねた。男はじろりと無言でジュウゴを睨む。
「前にも見たことがあるから」
ジュウゴは言い訳がましく答える。言わない方が良かったかもしれない。
「貸せ」
チョウに布切れを巻き終えたサシバがやって来て、義手の男の代わりにジュウゴに包帯を巻き始めた。ジュウゴはチョウを盗み見る。おそらく彼の左手も義手だ。
「俺は?」
右手が義手の男がサシバを見上げて言う。「俺だけいなかったってかえって変じゃね?」
サシバは一瞬手を止めると、「寝てた、でいいだろう」と言った。
右手が義手のハヤブサと左手が義手のチョウゲンボウが、同時に作業台の縁に手をかける。息を合わせて持ち上げ、扉の前まで運んだ。その上に椅子やら工具箱やらを無造作に積み上げていく。ジュウゴが呆気にとられているとサシバが背後から声をかけた。見るとチョウゲンボウたちが運んだ作業台の、その下の床がぽっかりと口を開けていた。
「早く行け」
チョウゲンボウに言われ、ジュウゴは一瞬の躊躇の後、穴蔵の中に足を踏み入れた。
長い梯子を降りると床につく前に弾力を感じた。踝まで冷たい水に浸かる。地下に住む者の靴の長さと、作業靴の皮の分厚さの理由を噛みしめながらジュウゴはサシバの背中を追った。通路が長い。枝葉のように分岐を繰り返し、幹だと思っていた道が突然途切れたり極端に細くなったりして、ジュウゴは完全に方向感覚を失っていた。ヤマカガシの言うとおり、西と言われてもどこがそうなのか見当がつかない。仮にここでサシバとはぐれれば、確実に迷走するだろうと確信した。サシバの足取りは迷いが無く、歩き慣れない水路に足を取られるジュウゴをよそにずんずん進む。やがてサシバはジュウゴを待たずに角を曲がり、視界からその姿が消えてジュウゴは多いに焦った。水飛沫をあげてぬるりとした壁面に手をつきながら急いで角を曲がる。そこには、歩いて来た水路の中には似合わない、数段の登り階段と乾いた扉があった。水圧の纏わりつく足を持ち上げて段を踏み、薄く開いたそれを引き開ける。中はほのかに温かく、単調な機械の音が繰り返されていて、独特の臭いが鼻についた。消毒薬の臭いだ、とジュウゴは気付く。部屋の奥のさらに一段高まったところにサシバの姿を確認した。乾いた床を靴音を鳴らして近づいたジュウゴは、サシバの横に至る数歩手前で立ち止まった。
「これは…」
「ヨタカだ」
サシバが答えた。
「これが」
ヨタカ。
「動くのか?」
ヨタカを見下ろしてジュウゴは呟いた。薄く開いた瞼の下で、薄い色の黒目がどこかをぼんやりと見つめ、鼻の穴から伸びた管が近くの装置に繋がっていた。まるで鼻水を垂らして呆けているみたいだ。
「動いているだろう」
サシバは微かに上下するヨタカの胸元を見つめた。
ジュウゴはヨタカの顔から視線を移した。
「脚は?」
「飲んだ」
疑問符さえ出ずにジュウゴはサシバを見上げた。
「飲まれた、ではなくて?」
「俺たちが飲んだ」
ジュウゴは呼吸をし損なう。塊になった息を吐きだし、やっとのことで「なんで」と呟いた。「仲間なんだろう?」
「サギの代わりに差し出したと言っただろう」
「代わり?」
「サギが生きるために、」
ジュウゴは唇を閉じる。
「ヨタカには死んでもらうことにした」
「死んで、居るんですか?」
「ヨタカは生きている」
「でもこれは…」
「生きている」
サシバは繰り返した。ヨタカは指一つ、まつ毛一本動かない。
「生きているなら起きるんだろう?」
ジュウシはもう起きなかったけれども。
「起きればいいじゃないか。早く!」
癇癪気味のジュウゴにもヨタカは無反応だった。
ジュウゴはヨタカの全身を見回す。トカゲの腕のように完全にその先が無くなった二つの大腿。腕一本でさえ様々な動作がぎこちなかったのに。
「チョウゲンボウたちも?」
ジュウゴは顔を上げた。
「彼らの腕も?」
サシバは答えない。
「どうして……」
「埋葬を理由に頭部と胴部は免除させた。だが四肢全てを落とすことをあいつらは拒んだ。チョウは自分たちの分をヨタカのものとすることを提案し、ハヤブサがのった。チュウヒも同意したが俺たちは体格が違い過ぎた」
サシバの拳に血管が浮く。
「ノスリは上手く騙された。ヨタカは死んだと疑わない。クマタカもそうだろう。だからサギは迎え入れられた。ヨタカの代わりとして」
「代わり?」
ジュウゴはヨタカを凝視する。
「席は埋まった。クマタカが見るのは表面上の数だけだ」
「なんだよそれ…」
ジュウゴは頭髪を握りしめた。
眠ったままでも生きているという。死んだから起きないという。ジュウシは起きなかった。コウも起きてくれなかった。ヨタカも起きない。でもヨタカはまだ生きている。
「リクガメ」
悪夢にうなされたようなジュウゴの呟きにサシバが振り向いた。
もしも眠っていても生きているなら、もしもジュウゴの認識が誤っていたのなら、もしもトカゲの確信が早とちりだったとしたら、もしもそうなら、もしかしたらまだ生きていたのかもしれない。
「彼を起こしてくれ」
ジュウゴはサシバに懇願した。サシバは顔を逸らす。
「彼が起きれば席はまた埋まるんだろう? そしたらナナは解放されるんだろう?」
「サギだ」
「だって眠ったままなのに、起きないのに、彼だけなんで…て…」
ジュウゴは両手で頭を抱えて膝をついた。
「…ずるい……」
リクガメは死んだのに。コウも死んだのに。
「ジュウシ…」
ジュウシも眠っていたのに。眠っていただけなのに。
ジュウゴはヨタカの肩に掴みかかった。
「起きてくれ。お願いします、起きて…」
「やめろ」
「なんで? なんで寝かせたままでいるんだ!? 彼が起きれば僕も納得できる! でも眠ったままなんてそんなの…」
「なら起こしてみろ。出来るなら」
サシバが低い声を響かせた。ジュウゴはサシバを見上げた。サシバは汲み取れない表情でヨタカを見下ろしている。拳が青黒い。
「……ナナは、このことを?」
「知らない」
ジュウゴはサシバの横顔を睨みつけた。
「なんで! 彼が原因でナナはここにいるんだろう?」
「理解できない」
ジュウゴは唇を閉じる。
「今のサギは自分が何者なのかもよくわかっていない」
「そんなの!」
ジュウゴだってわかっている。
* * * *
ナナは、…サギはこんこんと眠っていた。サシバによると昼夜問わず、一日の大半を寝て過ごしているという。声をかければ起きるかもしれないと言われたが、何と声をかければいいのかジュウゴにはわからなかった。
どれくらい長い間、無音の空間で座りつくしていただろう。ふとジュウゴが顔をあげると、ナナは目を覚まし、ぼんやりと辺りを見回していた。
「な……」
違う。サギだった。彼女はこの地下に住む者だ。
サギはジュウゴに気がつくと上体を起こし、じっと顔を見つめてきた。ジュウゴは唾を飲み込み、その視線から逃れて俯く。言葉を探す。
「いたかったでしょう?」
サギの声に顔を上げる。床に膝をつき、いたわるように、憐れむようにジュウゴを見つめていた。そして先もそうしたように、両手の平でジュウゴの顔を包んだ。ふわりと長い髪の毛が揺れる。女の体臭がジュウゴの鼻先をくすぐる。ずっと一緒にいたのに初めて嗅ぐ匂いと、先とは違う温かな手の平にジュウゴは奥歯を噛みしめて下を向く。
「……かみ…」
サギはジュウゴの顔を包んだまま首を傾げる。
「髪、切った方がいいよ。それじゃあ、あまりに伸びすぎだ」
震える声で小さく言った。
サギは自分の髪の毛を見下ろした。胸元まで伸びた毛先を摘み上げる。
「うん」
指先からすり抜けた毛束が弧を描いて胸元で弾んだ。
「そうする。ありがとう」
言ってサギが笑顔を見せた。その笑顔があまりにも見慣れたいつもの笑顔で、見たかった顔で、ジュウゴは応えようとしたけれども、口角を持ち上げるので精一杯で。
引き攣った出来損ないの表情を隠すように奥歯を噛みしめ俯いた。
地上に出る。外気は熱く、蒸せるような臭気に目を細めた。口元を覆いながら空を仰ぐ。半分ほど夜に姿を変えつつあるがまだ目線の先の稜線はうっすらと橙色がかっていた。右手には駅。足元には地面。
「随分静かになったな」
チュウヒだった。
「サシバか」
ジュウゴはチュウヒとは反対側に顔を背けた。チュウヒは全てを理解したように黒目を横に流すと、ジュウゴの足元に何かを投げてよこした。小銃だ。ジュウゴは腰を曲げて拾い上げ、中を確認する。両方とも弾倉は装填されたままだった。
「チュウヒ、」
チュウヒが首を回した。
「なんであの時、僕たちを逃がしてくれたんだ?」
「ああ?」
「なんでナナは飲まなかった」
「サギだ」
「なんで僕を壊さなかった」
チュウヒが顔を上げた。
「なんでさっき、あの時、僕から銃口を逸らした」
「理由がなかった」
「僕は夜汽車だ。君たちにはそれで十分なはずだ」
「今の俺の仕事は警備だ。不審者はぶっ放すけどお前は怪しくなかったしな。あと……」
「『あと』?」
ジュウゴは完全にチュウヒに振り返って尋ねた。
「チュウヒ」
ジュウゴが呼びかけるとチュウヒは回していた首をぴたりと止め、横目でジュウゴを見上げて鼻で笑った。
「お前は?」
「何が」
「二回もあったろ? なんでだ」
ジュウゴは眉根を顰める。
「なんで撃たなかった? なんでその刀で切らなかった?」
ジュウゴはようやく思い出し、顎を引く。
「君には一度、助けられていて、『借り』があったから」
「夜汽車の決まりか? 恩義くらいで躊躇ってたらすぐ死ぬぞ?」
ジュウゴは驚いて顔を上げた。
「そんで?」
「え?」
「それだけか?」
ジュウゴは自分の体を見下ろす。
「今日は、それほど空腹じゃなかったし」
「はあ?」
チュウヒが見た目に似あわない高い声を上げた。
「そんだけ?」
チュウヒはぽかんと口を開け、うつむいたかと思うと堪えるように肩を揺すり、やがて盛大に笑い始めた。
「君は本当の空腹を知らないんだ」
ジュウゴは吐き捨てるように言った。チュウヒの笑い声が止む。
「本気で腹減ってたら俺もお前に飲まれてた?」
側頭部にぶつけられた質問にジュウゴは俯く。
「うん」
「そいつも夜汽車の決まりか?」
答えに詰まる。
「えげつねえな」
言ってチュウヒは大きく息をついた。ジュウゴは気付かずに息を止めていた。気道が締まる。胸が痛い。言いきってはみたが暫定的な決めつけだ。正しいのか間違っているのかも定かではない。自身の感想を優先するならば後者だろう。だが現実的には正誤など考えている余裕もなく、自分の欲求に従っている。
「まあ、」
チュウヒが顔を上げて空を見上げた。太陽の退出を待ちわびていた星たちもいそいそと騒ぎ始めている。
「一理あるか」
「一理」
ジュウゴが呟く。「一理、だけ?」
「そんだけあれば充分だろ」
―あいつの正しさがお前の正しさと同じとも限んねえし―
「そうかもしれない」
ジュウゴは呟き、小銃を肩にかけた。
「チュウヒ、」
「なんだよ」
辛気くせぇな、とか、面倒くせぇな、という言外の意図が伝わってくる。ジュウシの言っていたワンの言葉ってこのことかもしれない、とジュウゴは思う。
「ワンを知らない?」
「あの獣か?」
チュウヒが見遣った先をジュウゴは目で辿った。いた。ワンだ。すぐ傍の改札口を爪で掻いたり歯で噛みついたりしている。
「ワン」
呼びかけながらジュウゴは近づいた。ワンはジュウゴの方を見向きもしないで、何かに追われるように真剣に駅の床を掻いている。
「そこは砂じゃないよ。いくら君の爪でも掘りかえせないって」
ジュウゴは事実を教えてやる。しかしワンはやめない。
「ワン!」
ジュウゴはワンの爪が割れることを懸念してやめさせようとした。ワンの背後に回り、頭側の脚の付け根に腕を回して持ち上げる。ワンは嫌がりもがいてするりと抜け出るとジュウゴの手の平に噛みついた。ジュウゴは声をあげて後退する。
「さっきからずっとそうだぞ」
チュウヒが腰を下ろしたままで言った。「中に入りたがってるな」
「みたいだね」ジュウゴは同意した。そして、
「前は開きっぱなしじゃなかったか?」
「言ったろ? 頭がいるときはアイは切ってあるって」
「ああ、そっか」言われて思い出す。
「俺はお前の後を追っかけたがってんだとばっかり思ったけどな」
「それはないよ」
チュウヒの見当違いをジュウゴは即座に否定した。
「ワン、」
ジュウゴはワンの横に屈みこみ、頭の高さをワンに揃えて語りかける。
「この中には君を追い回した男たちもいるんだ。君を捕まえろという話も聞いた。多分、君が中に入ってもろくなことはないと思う」
ワンは聞いているのかいないのか、ジュウゴの方を見向きもしない。ジュウゴも苛々してくる。
「だから、」頭を掻く。声を荒らげる。
「死にたいならずっとそうしてろよ!」
ワンの動きが止まる。白目の無い暗い目が無言でジュウゴを見つめた。ジュウゴはすぐに後悔する。その場で頭を下げた。
「ごめん、言い過ぎた。……行こう?」
自分の八つ当たりを詫びて、これからとるべき行動を提案してジュウゴは立ち上がった。ワンはもう一度改札口を見つめる。そしてひどく切ない声で「コウ」と言った。
「コウ?」
ジュウゴは驚いて振りかえる。ワンは項垂れ、泣き出しそうな声でそれから何度も、「コウ、コウ」と繰り返した。
「そこにはいないだろう」
ジュウゴはワンの正面に回り、前脚の付け根に手を伸ばす。子どもたちには不評だった『だっこ』だ。ワンは『おんぶ』も『肩車』も嫌がったが、唯一この持ち方だけは受け入れてくれていた。
ワンはジュウゴの肩の上で、まだコウを呼んでいる。これ以上何を頼んでも無駄だということをジュウゴは嫌というほど知っていたから、それ以上何かを言うのはやめておいた。
「チュウヒ、」
「ああ?」
まだいたのかよ、と言わんばかりの返事に対して、ジュウゴは頭を下げる。
「な……サギを、……お願いします」
「……ああ」
チュウヒの返事を聞き終えて、ジュウゴはコウを呼び続けるワンを抱えて歩きだした。
* * * *
「獣?」
ノスリの言葉にクマタカが勢いよく振り返った。普段見せない上司の形相にノスリは目を見張る。
「いつの話だ」
「夜明け前っすね。オジロたちが見たって」
「何故すぐに言わなかった」
いつもは言っても聞き流すでしょう、という本音を飲み込み、ノスリは「すんません」と頭を下げる。
「でも手配はしときました。ミナシ…っと、チュウヒの野郎に捕らえるよう命令はだしといたんで」
危なかった。親を亡くしているクマタカの前で『孤児』は禁句だった。しかし名前を言ったところでクマタカがそいつの顔を思い浮かべているか否かは甚だ疑問だ。覚える気がないのか覚えられないのか、この駅の中でクマタカが顔と名前を一致させられるのはどれほどいるのか。
ノスリの心配をよそにクマタカは思案顔で立ち止まったままだ。まずかったか? とノスリは顎を引く。それなりの付き合いではあるが、この男のことはノスリも未だによくわからない。大抵のことは裁量も手筈も全て自分に丸投げしてくるくせに、時々こうしてどうでもいい案件に過敏になる。
突然クマタカが顔を上げて歩き出した。ノスリはさっと道を譲る。
「行くんすか?」
獣を見に? そんな野次馬根性がある男だったか?
「まだ暑いっすよ? よく晴れてたし」
日は暮れた頃かもしれないが、まだまだ地面が熱を貯め込んでいる季節だ。
「お前は来なくていい」
そう言われても、ノスリは上司の脚を見下ろす。片脚を引きずっている。
時々ふらりと姿を消すが、春先の外出は長かった。自分で粛清したとは言え、弟が死んだ直後の外出だったから、さすがのクマタカも何か思うところがあるのかもしれないとノスリは思った。しかしそれにしても長かった。あまりの長期不在に総員で探しに行こうかと考えていたほどだ。どこに行ったかは大体想像がついていたし。
しかし準備をし始めた頃にクマタカは帰ってきた、片脚を負傷して。
「頭ぁ…」
「早く寝ろ」
それ以上は何も言わず、普段よりも速度を出せない早足でクマタカは立ち去った。ノスリは呼びかけたままの、半開きの口のままでその場に立ち尽くした。やがてその口からため息を吐く。
「もう起きる時間だっつうの」
ノスリはぼそりと呟いた。
夜汽車と獣が夕暮れの中に去っていくのを見届けて、チュウヒは腰を上げた。両目を瞼の上から何度かさする。日陰の中に入ってはいたが、昼日中の日光を見続けていた眼球は乾燥気味でかゆかった。
瞼をこすりながら改札の方に進み、反対の手で動かない自動扉を開けようとしてつんのめる。いつもの半分の力で、いつもの倍の隙間が開いたのだ。驚いて目を開くとそのまま誰かの胸板に衝突し、再び視界が暗転した。
「いってぇな」
舌打ちしながら顔を上げて硬直した。
「か、」
頭…。
「すんません」
慌てて頭を下げて後ろに退く。心臓の音が体の外まで響いているのではと疑うほど驚いた。絶対に咎めを受ける、と肝を冷やしたチュウヒだったが予想は外れ、頭頂部の横を風と靴音が足早に駆け抜けた。
チュウヒは靴音の方に顔を向けながら腰を伸ばす。まるでチュウヒなど眼中に無かったようだ。一安心した後で苛立ちが沸き上がってきた。存在さえ全否定かよ、という悪態が喉元まで上がってくる。それを飲み下しても、実弟の幼馴染みの顔くらい覚えておけ、と言いたくなる。
顔の半分を引き攣らせ、再び目をこすりながら駅の中に入ろうとした。
「お前、」
背中に声を掛けられて立ち止まる。チュウヒは振り返り返事をした。
「獣は?」
予想だにしない問いにチュウヒは一瞬面食らう。
「獣、…っすか?」
「ノスリに命令されただろう」
「はぁ」
「職務を全うしたのかと聞いている」
言いながらクマタカはノスリに迫った。ノスリは後ずさりしかけて半端に開いた自動扉に背を打つ。
「見たのか」
自動扉とクマタカに挟まれてノスリは戸惑った。
「み…ました」
クマタカの目力と威圧感がさらに増す。チュウヒは顎を引く。
「獣だけだったか。同行者は。子どもが一緒じゃなかったか」
チュウヒは驚き、唇を固く結んだ。なぜクマタカは夜汽車が来たことを知っているのか。アイか? いや、アイは完全に落とされている。現に自動扉も動かない。ノスリか? 確かに一瞬顔は見られた。しかし顔だけだ。いくらノスリでも顔を見ただけでそいつがどこの者かまでは判別出来ないだろう。ではどうして。
「いたんだな」
クマタカに見据えられてノスリは目を逸らした。しかしクマタカからしてみれば、その挙動こそが明白な答えだった。
「どの方角に行った」
あの夜汽車は夕方の空に向かっていったから、
「……南東です」
咄嗟についた嘘だった。部外者を駅構内に導いたことが発覚することを恐れた保身だったのか、憎い上司よりもどことなく共感を覚えた他所者に肩入れしたのか、理由はチュウヒ自身にも曖昧だった。
チュウヒの答えを聞くや否やクマタカは再び踵を返して外に向かう。駅から出たところで空を見上げ、南東を見つけたのだろう。片脚を引きずりながら左手に早足で歩き出した。チュウヒは駅の軒先まで駆けていって壁越しに頭の背中を窺い見てから、実際に夜汽車と獣が行った方を見遣る。
「あいつ、うちの頭になんかしたのか?」
片目の夜汽車の身が、少しだけ案じられた。
クマタカは走った。全速力だ。しかしいつもの速度からはほど遠い。焦燥、期待、不安、心配。どこにも見当たらないコウヤマキとワンの足跡を探して回る。
声を上げる訳にはいかなかった。駅の奴らにコウヤマキ達の存在を知らせる訳にはいかない。義脳にコウヤマキの存在を知られる訳にはいかない。ネズミが付近に潜んでいる可能性もある。コウヤマキはネズミを追って出て行ったのだから。それでも大声で名前を呼びたい衝動が喉元まで上がってきていた。
探す。目を凝らす。耳を澄ませて振り返り、見渡す。
「ワン…」
お前じゃないのか。お前の力でここまでたどり着いたのではないのか。
「コウ」
まだ怒っているのだろうか。どうすれば許してくれるだろうか。許してくれなくてもいい。何でもいいから帰ってきてくれ。
クマタカは足を止めた。白い息が黒い空気の中に溶けていく。
「……ワン」
頼む。コウを連れて帰ってきてくれ。




