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15-36 サギ

 斜面を登る。始めは二本の足でも平気だったのに、気がつけばワンのように這っていた。左手、右足、左足、左手。


 軽々と斜面を登っていくワンに遅れて、ジュウゴもその頂上を目指す。三輪は三日も走るとただの荷物と化した。油が尽きたのだ。引いて移動するのも諦めて、八日目の昼をやり過ごした廃屋の中に置いてきた。瓶詰はワンと分け合うから消費が早く、すでに過半数を割っていた。


―そんな都合よく死体が転がってることの方がないやろ―


 リクガメの小銃を握りしめ、掛け紐を肩にかけた。コウのは反対の肩に。すぐに構えやすいように何度も紐の長さを調整した。

 瓶詰が入れられていた大判の布を短刀で裂いて縛った簡易鞄には、瓶詰と銃弾とイシガメ達の気遣いを入れて担いだ。両手が空き、動きやすくなった。


―いろいろ使えると思う―


 めちゃくちゃ使えている。短刀の柄を握ると頑張れる気がした。

 靴先が空を掴んで滑落しかけ、右手も思わず岩を掴む。両手両足で踏ん張ってなんとか体勢が調うと、今度は肩に鞄の重さが食い込んだ。見上げる先にワンの姿はない。また置いて行かれた。しかし先に行ったということは方角は合っているということだろう。きっとどこかでまた、いつものように素知らぬ顔で寛いでいる。ワンだって瓶詰はほしいのだ。どれだけ置いていこうともはぐれることはないとジュウゴは学習した。


 ようやく急斜面が終わる。平らな地面に両腕を置いて上半身を持ち上げ、左脚から登り切った。ワンがいた。鼻を動かして前方を見つめている。ジュウゴもワンの隣に立ち、同じ方向を見た。


「朝だ…」


 絶壁しか見ていなくて空の確認を忘れていた。見上げると頭の上まで色が変わっている。

 足元を見下ろす。前後とも壁のような傾斜だ。ヤマカガシに『傾斜を登れ』と言われたから、とにかく目に付く坂道を登ってきたが、進むも戻るも下り坂の時はどうすればいいのだろう。


「どうしようか」


 ワンに尋ねる。ワンは耳と鼻を動かして、じっと前方を見つめている。


「ワン?」


 ジュウゴがその顔を覗き込むと同時に、ワンは全速力で斜面を下り走り始めた。慌ててジュウゴも後を追う。足がもつれる。勢いづく。気を抜けば前傾姿勢になって頭から転げ落ちそうだ。四本足のワンが羨ましくなる。


「ちょっ待って! 待ってって!」


 顎を引き胸を逸らす。止まらない。足が…、転ぶ!

 背中の鞄を胸前に回して両手で抱え、目を瞑って前屈みになった。予想通りの軌跡を描いてジュウゴの体は斜面を転げ落ちる。傾斜が緩まった中腹で、ようやくジュウゴの体は回転を止めた。全身が痛い。腰を強打した。でもリクガメの授業に比べれば全然大したことない。


「ワン?」


 顔を上げる。当然のごとく姿も返事もない。ジュウゴがため息をつきながら腰を上げかけた時、銃声が聞こえた。近くはないけれども遠くもない。続いて銃声。息を飲んで顔を上げる。続いて数発、それから数え切れないほど。ジュウゴは小銃を構えて走り出した。

音は聞こえる。叫び声も彼方から。だがワンはおろか撃ち手がいる場所すら見当がつかない。瓦礫が多いのだ。乱立している。あの斜面を超えてからこっち、砂丘ばかりだった昨日までの風景とは雲泥の差だ


「いたぞ!」


 息を止めてそばの瓦礫の陰に隠れる。複数の銃声の後で走り抜ける靴音の一団。こちらには気付いていない。ならばやはり追われているのはワンか? 無関係ならば逃げきってほしい。靴音が通り過ぎてしばらくしてからジュウゴは壁から首を伸ばした。


「見ぃつけ」


 背後で声がして後頭部に銃口が突き付けられた。全てが止まる。小銃を構え直していたのでは間に合わない。


「一応聞くけど、」


 背後の男が喋り始めた。ジュウゴの呼吸と鼓動が再開する。右目は最大限に目尻に寄り、背後の状況を読み取ろうと足掻く。


「お前、どこ?」


 はっとした。何度もされた質問だ。答えようによっては一瞬かもしれないが相手の動きは止まる。


「言う気ない? あっそ。なら…」


「夜汽車」


「はあ?」


 気の抜けた返事に間髪いれず、ジュウゴは後ろ手で相手の銃身を握った。押し上げながら自分は腰を下ろす。頭上を走る銃弾。装填の時間は与えない。確かリクガメは肘打ちだった。左肘を思いっきり引く。かわされる。右手で銃身を引く。力負けする。


 ジュウゴは腰帯から短刀を引き抜いた。胸前で縛った鞄の結び目を断ち切る。銃弾の束が相手の脛を直撃した。瓶詰めが音を立てて割れる。

「いってえ!」という声を聞きながら回る様に身を翻し、小銃を構えて向き直った。男も小銃をジュウゴに向ける。向けて、向けられて互いに目を疑った。


「…ヨタカ」


「チュウヒ!?」


 銃口を下げて叫んだジュウゴにチュウヒは眉根を寄せ、じっとジュウゴを凝視した。


「誰だお前。なんで俺の名前知ってんだよ」


「僕だよジュウゴ! 夜汽車! 満月みたいだって君、言ってくれただろう? ほら、天井から突然降りてきた君たちが地上に出してくれた…」


「ああ!」


 チュウヒも銃口を下ろした。「あん時の?」


 ジュウゴは短刀を鞘にしまいながら駆け寄る。「思い出した?」


「おま…、まじであの…?」


 近づいて来る足音にチュウヒは振り返った。ジュウゴを足蹴りで瓦礫の陰に押し込み、反対側に向けて小銃を撃った。


「いたか」


「悪い、逃がした」


「働けよ、ミナシ!」


 短い会話の後で男たちが走り去っていく。チュウヒが振り返るより先にジュウゴはチュウヒに縋りついた。


「ワンが追われているんだ。何とかしてくれ」


「は?」


「ワンだよ! 姿が見えないと思ったら銃声が聞こえて慌ててきたけど君に会った」


 チュウヒは困惑して顎を引く。


「だからワンが!」


「仲間がいんだな?」


「僕の仲間じゃないけれどもコウの仲間でヤモリとも仲がいいんだ」


「なんかわかんねえけどそいつがあれか?」


 チュウヒが前方を指差す。瓦礫の間に走り去るワンの姿。


「ワンッ!」


 ジュウゴは飛び出す。慌てて止めるチュウヒ。


「馬鹿! 死ぬぞ?」


「だってワンが!」


「あいつを逃がしゃあいいんだな?」


 言うとかチュウヒはその場で深呼吸をし始めた。何を悠長に。ジュウゴが再び憤りかけた時、


「朝ァッ!!」


 思わず耳を塞ぎたくなるような声量でチュウヒが空に向かって叫んだ。一周回ったこだまがいくつも戻ってくる。見上げた空は完全に明るく、青さも濃度を増していた。


「隠れてろよ」


 言い置くとチュウヒは男たちが駆けていった方へ行ってしまった。ジュウゴは困る。後を追おう。ワンが損傷していないか気が気でないし、チュウヒの行動も意味不明だ。第一、待っていろと言われて待っていられる性分ではない。短刀の柄を握りながら小銃を構え直し、唾を飲み込み足を踏み出した時、ぞろぞろと男たちがこちらに向かってくるのが見えた。慌てて近くの瓦礫の陰に身を隠す。


「あれ『けもの』ってやつだよな」


「塔によくいるだろ。初めてか?」


 やはりワンのことを話している。


「なんでこんなとこにいんだ?」


「塔の奴らが捨ててったんじゃなんすかね?」


「バカツミ。こんなとこに来るはずないだろ」


 男たちがぞろぞろとこちらに近づいてくる。場所を移動した方がよさそうだ。かくれんぼなら車内で飽きるほどしてきた、と腰を上げたジュウゴは、香しい匂いにふと目をやり、「あ!」と思わず声を上げた。結び目を切った鞄がそのままだった。割れた瓶詰めから中身がこぼれて黒い水たまりを作っている。


「何か聞こえませんでした?」


 一団の中の男が足を止めた。きょろきょろと辺りを見回している。


「何も聞こえなかったけど?」


「いや、俺、確かに聞こえたんすけど…」


 ジュウゴは中途半端な姿勢のまま、これ以上音を立ててはならないと動くことも叶わず、顎を引いて目を見開いて耳障りな鼓動を聞いていた。


「焼け死にてえのかよ」


 チュウヒだった。「せっかく朝だって教えてやったのによ。それとも『ノスリさん』の直属は死んでも仕事はやり遂げるってか?」


「ああ?」


「かまうな、こんな奴」


「『こんな奴』に尻拭いされてるのは誰だよ」


 喧嘩の様相だ。チュウヒと男たちが言い合って小突きあって怒鳴り合い始めた。止めるべきか? ジュウゴは腰を伸ばす。瓦礫越しにチュウヒと目が合う。チュウヒは目を見開くと眼前でわめき散らす男を突然殴りつけた。


「何すんだてめぇ!」


 別の男がチュウヒの胸座を掴み上げる。チュウヒはジュウゴを見ながら何度も顎を下げて見せた。ジュウゴに意図は伝わらない。何をしきりに頷いているのだろう? ジュウゴは首を傾げる。胸座を掴まれたままチュウヒが首を横に振る。


「何見てんだよ、さっきから」


 取り巻きの男が振り返った。ジュウゴは慌てて瓦礫の陰にしゃがみこむ。


「んな奴ほっとけ」


 喧嘩が仲裁されている。


「もう行こうぜ」


「片しとけよ、ミナシ」


「鍵も忘れんな」


 口々に言い捨てて、男たちはチュウヒを残して去って行った。先のチュウヒみたいに時間差で誰かが来ないことを確認してから、ジュウゴは日影を選んでチュウヒに近づく。


「大丈夫か?」


「お前、馬鹿か!?」


 気遣ったのに怒りをぶつけられた。ジュウゴは眉根を顰める。「何度も聞くんだけれども『ばか』ってどういう意味?」


 しかしチュウヒはジュウゴの質問に答えずに、ジュウゴの背後に回ると小銃をむしり取る。


「やめ! ちょ! 返してくれ!」


「後でな」


 言うとサシバはジュウゴの腕をがしりと掴み、


「お前には責任あるよな?」


 意味不明の言葉を吐いて歩き出した。



「ちょっと待っ…、離してくれ!」


 ジュウゴはチュウヒの手を振り払おうと足掻く。「ワンは? ワンを助けてくれるんじゃなかったのか?」


「助けただろ」チュウヒはジュウゴの腕を掴んだまま前を向いて歩き続ける。


「助けたのか? 彼、助かっているのか?」ジュウゴは引き摺られながら尋ねる。「駆け抜けた彼の姿が一瞬見えただけで僕は彼が無事か安全なのかわからないよ」


「死んでたらあいつらが運んでたよ」とチュウヒ。「あいつらが手ぶらで帰ったのが死んでないって証拠だ」


 ジュウゴは思い返す。確かに誰も何も持っていなかった。ならばワンは逃げ果せたということなのだろう。

 考え事をしているうちに、いつの間にか視界は暗くなり、足底に伝わる硬さは夜汽車によく似た床のそれになっていた。駅の中に入っていたのだ。はっとしたジュウゴは膝を曲げて床にへばるほどに足を踏ん張る。ようやくチュウヒが振り返る。


「待ってくれ、チュウヒ。どこに行くんだ?」


 見回す景色は既視感でいっぱいだ。しかし、


「電気をつけないのか?」


 ジュウゴは立ち上がりながら天井を見回した。イシガメたちの駅と違って電球はある。剥き出しの配線もある。それなのにイシガメたちの駅のように等間隔で壁際に炎が揺れている。


(かしら)がいる時はこうなんだよ」チュウヒが言った。「アイが嫌いなんだとよ」


「アイ…」言ってジュウゴも思い出す。そうだ、この駅にはアイがいるのだ。


「アイ! アイに会わせてくれ! 聞かなきゃいけないことが山ほどあるんだ」


 チュウヒの胸座に掴みかかって訴えた。「どこに行けばアイがいる? 今すぐにでも確認することが…」


 手首を取られたと思った刹那、ジュウゴは足を払われ床にたたきつけられていた。襟を正しながら見下ろすチュウヒの視線は冷たい。


「物聞く態度じゃねえだろ」


 言うとチュウヒは無理矢理ジュウゴを立たせ、再び痛いほどの握力で引き摺り始めた。


「チュウヒ、アイに…」


「お前が会うべきなのは別にいんだろ」


 ジュウゴは眉根を顰めて聞き返す。チュウヒはちらりとジュウゴを見ると憮然として前方を睨みつけた。



 自分で動くことを忘れた自動扉をチュウヒが無理矢理押し開ける。促されてジュウゴは進む。何を尋ねても何も応じてくれなくなったチュウヒの後ろに、ジュウゴは黙って従った。チュウヒの話だとワンを助けてくれたというし、『借りた物』は返せとイシガメも言っていた。

 不本意ながらもそんなことを自分に言い聞かせていたら、扉の前でチュウヒが振り返った。ジュウゴも足を止めて顔を上げる。


「仲間だろ。責任持って何とかしろよ」


 首を傾げたジュウゴを尻目にチュウヒは無言で扉を開けた。背の高い男が振り返る。男はジュウゴに目を細めてチュウヒを見た。


「あん時の夜汽車だ」


 チュウヒは吐息ほどの小さな声で呟いた。

 ジュウゴは目を見開く。チュウヒに促される前に足が動いていた。男の隣には、


「ナナ」


 ナナが顔を上げる。ぼんやりとジュウゴを見つめると、ふらふらと椅子から立ち上がった。ジュウゴは駆け寄る。


「ナナ! 良かった、生きてた! なん…、損傷、ない? 無事だった」


 言いながら笑う。黙っていても笑顔がこぼれる。しかしナナは黙ったままだ。全然嬉しそうでもない。


「ナナ?」


 ジュウゴは、あ、と気付いた。何よりもまず謝罪をすべきだったのかもしれない。持て余した手で側頭部をかき、床を見つめて謝罪する。


「あの時、君を追わなかったのは、君よりもシュセキを優先しようと言ったのは僕だ。でも、あの時はシュセキの損傷が酷かった。優先順位がシュセキだった。だから」言ってジュウゴは思い出す。「ちょっと待って? むしろなんで君は僕たちのことを置いていったの? そうだよ、置いていったのは君だ。っていうか君はここで何をしているの?」


 混乱してきた。腹も立ってくる。何の怒りだ? なぜこれほど腹が立つ?


「違う。違うんだ、君が無事で良かった、思ってるよ本当にでも! でも、」


 頭髪を握りしめながらジュウゴはナナを見つめる。


「でも、なんで? なんで君は僕のことをそんな目で見るの?」


 背後でチュウヒが息を吐いた。


「ナナ……」


 返事もせずにナナが両手を伸ばしてきた。ジュウゴは自分の髪の毛を掴んでいた手を下ろして近づいて来る手の平を交互に見つめる。顎を引き、一歩下がる、しかしナナの手はジュウゴを捉えた。両手でジュウゴの頬を包みこむ。ひんやりとした、自分のよりも一回り小さな手に包まれて、ジュウゴはナナを見つめた。


「いたかったでしょう?」


 泣き出しそうな顔でナナが言った。

 何を言われたのかわからなかった。眉根を顰めてナナを見つめ、この目のことか、と思い至る。


「痛かったけど、今はそんなに何も。うん、大丈夫」


「駄目だな」


 チュウヒがひと際大きなため息を吐いた。それから大股で近づいて来てジュウゴの襟を掴む。


「邪魔した」


 言うと再びジュウゴを引き摺ろうとした。ナナの手が離れる。ジュウゴは後ろ向きに歩かされながら後ろ手でチュウヒを払い、ナナの正面に舞い戻って両手でその腕を掴む。


「ねえ、どうしたの? ナナ。なんか変だよ? 寝起きのシュセキみたいだ。どこか損傷しているの? 何があったの? 君を選ばなかったことを怒っているの? だったら謝るよごめん。ごめんなさい。そうじゃないの? だったら何? ねえ、ナナ…」


「もういい」チュウヒが再びジュウゴの外套を掴む。ジュウゴももう一度その手を払いのける。


「ハチ! そうだ、ハチは? ハチを待たせているじゃないか! 彼女を置きっぱなしだ。迎えにいってあげないと。君、あんなに仲が良かったんだし」


「おい、夜汽車」


「サンもジュウイチもシュセキもはぐれてしまったけれども探しに行こう。君がこうして生きていたんだ、きっと他のみんなも。そうだよ、教室のみんなもどこかにきっと…」


「もういいって言ってんだろ!」


「うるさいな! 邪魔しないでくれ!」


 怒鳴るチュウヒに向き直ってジュウゴも怒鳴り返した。


「うるさいのはてめぇだよ」


 チュウヒの声が低くなる。


「離してくれ」


 掴まれた腕に力を込めてジュウゴも凄む。まるで効いていない。


「離せ!」


 やわら殴りつけんばかりに腕を振るったが、チュウヒはジュウゴの腕から手を離した途端にその胸座を掴んで吊し上げた。


「もういいって言ってんだろが!」


「話している最中だろう? 邪魔するなよ!」


「何、目の色変えて飛びついてんだよ」


「ナナが生きていたんだ。彼女に話があるんだ」


「女の尻ばっか追っかけやがって畜生が。恥を知れ」


「やっと会えたんだ。生きてたんだ。でも変なんだ。ナナがナナなのにナナじゃない」


「揃いもそろってこんな女にへつらいやがって。ふざけんな、糞野郎」


「返してくれ。彼女は夜汽車だ。僕の。同じ」


「ほっとけよ、こいつはもう駄目なんだよ、この女は…」


「仲間なんだ!」


 自分の胸座を押さえつけるチュウヒの襟元を同様に握り返してジュウゴは唾を飛ばした。


「彼女は夜汽車だ。僕の仲間だ」


 互いに一方通行だった言葉の応酬が途切れる。チュウヒは眉間に皺を刻んだままジュウゴを凝視した。ジュウゴも一つ目だけでにらみ返す。


「他の皆はどこだ」


 チュウヒが怪訝そうに瞬きした。ジュウゴはチュウヒの腕を払い下ろして大きく踏み込む。


「持っていっただろう? 『でんしゃ』で。ワシが持っていったと言っていたし、ワシって君のことだろう?」


 チュウヒが眉根を顰めた。ジュウゴは畳みかける。


「地上に僕たちを出してくれた後、あの直後! 君たちがたくさん追ってきてシュセキは脚を持って行かれた。シュセキは脚だけだったけれどもヤチネズミは教室の皆は全部だって言っていた。だからここに持ってきているはずなんだ、皆を。教室のみんな、いるんだろう? 会わせろよ! どこにいるんだよ!」


 チュウヒは顎を引いてジュウゴを見下ろした。ジュウゴはワンのように鼻筋に皺を刻んでチュウヒをにらみ上げ、拳を握りしめて歯茎を晒した。


「……飲んだ…?」


 唇をほとんど動かさずに呟いた。チュウヒは開いたままだった唇を閉じ、ジュウゴから目を逸らす。その刹那、ジュウゴは背中から短刀を引きぬき、反対の手で押さえつけたチュウヒの喉に刃を向けた。


「やめて!」


 ナナだった。ジュウゴは振り返る。


「やめて、やだ、」


「なんで」


 ナナが顔を上げる。涙目で、非難するように、突き離すように。


「なんで? だって、みんなが…」


―お前、飲んだな―


 ジュウゴは腕を下ろした。チュウヒから離れる。ナナがチュウヒに駆け寄り、しがみ付いた。チュウヒは眉根を顰めてナナを睨み下ろした。

 ジュウゴは短刀の柄を握りしめる。歯を食いしばる。反対の手で頭髪を握りしめ、奥歯が鳴った。


「……どこの夜汽車だとか考えたことねえんだ。仕込みの奴らは知ってただろうが興味ないから聞いたことも無い。分別が俺の仕事だった」


「『分別』って何?」ジュウゴは尋ねる。


「搾血後の処理」


 思い出したくもない光景が頭の中に映し出された。臭いまで想起される。ジュウサンもシイもニイもロクもみんな、みんなあんな。


「チュウヒ、」


 ナナがチュウヒにしがみ付いたまま顔を上げた。「だいじょうぶ?」


 側頭部が激しく疼く。これ以上歯を食いしばっていたら何かが破裂しそうで、ジュウゴは怒りのままにナナの肩を掴んだ。


「ナナぁ!」


「何の騒ぎだよ、おい」


 乱暴に扉が開かれたと思ったらそんな声が聞こえて、声の主がずかずかと部屋の中に立ち入ってきた。ジュウゴは声のした方に顔を向ける。途端にチュウヒがナナを押し退けてジュウゴの頭を床に叩きつけた。


「ざけんな! チョウ!」


「チュウヒ…」とナナ。


 背の高い男が扉の方に歩みより、部屋の中を隠すように声の主の前に立ちはだかる。


「何の用だ、ノスリ」


 ノスリと呼ばれた声の主は舌打ちし、背の高い男を睨む。


「お前らがまた『おいた』しないか見張ってんだよ。当然だろ?」


 言うとノスリは、背の高い男の肩越しに部屋を覗きこんだ。


「ったく、朝っぱらにめんどくせえ。おら、部屋戻れ。持ち場離れんな」


「就業時間は終わりましたあ」チュウヒが鼻で笑う。


「残業って言葉があるんだよ」ノスリが嫌味っぽくチュウヒに言い放ち、チュウヒの顔から笑みが消える。


「獣がうろついてるって言うじゃねえか。単体でいるわけねえだろ? 仲間がいんだよ。何、取り逃がしてんだよ」


 ワンのことだ。ジュウゴは慌てて起き上がりかけ、しかし力でチュウヒに圧し止められる。


「離してく…」


「顔、上げんな。死ぬぞ」


 怒鳴りかけたジュウゴの耳元でチュウヒが囁いた。


「おら、デカブツ、早く地上(うえ)、行けよ。お前の『仕事』だろ?」


 ジュウゴの頭の上でチュウヒの体が強張った。


「昼だろう」


 背の高い男が口を開いた。「こんな晴天の日に上に出れば…」


「昼だなあ」


 ノスリが素知らぬ顔で言った。「ネズミも来ないし見通しも効く。最高じゃねえか」


「お前!」


「いい、サシバ」


 チュウヒが立ち上がった。「行ってくる」


「随分物わかりがいいじゃねえか」


 ノスリが満足そうに微笑んだ。

 ナナが無言で動いた。ノスリの前に歩み出てじっと見上げる。


「…んだよ」


 ナナは何も言わない。言葉を探しているのかもしれない。視線だけで伝えようとしているのかもしれない。


「元はと言えばお前のせいだろ」


 ノスリがナナに向かって言った。「どっかの誰かさんがきちんと働けばこいつらがこんなに仕事に明け暮れることもないじゃねえの?」


「下がれ、サギ」


 背の高い男がナナに声をかけた。だがノスリの口撃はまだ続く。


「働かざる者食うべからずって言うだろ? 働かないお前は飲み食いしちゃいけねえんだよ。お前は生きてちゃいけねえんだよ」


「ノスリ!」


「死ねよ」


 ジュウゴは立ち上がった。チュウヒの制止は間に合わない。完全な死角から飛び出してきた男にノスリは目を見開く。その顔目がけてジュウゴは拳を振り上げる。

 背の高い男に足を払われた。拳が空振り前につんのめる。倒れそうな体は襟を掴まれて引き戻され、開いた体の中央に強烈な蹴りがめり込んだ。ジュウゴは腹を抑えて膝をつく。


「お前…」


「行きゃあいんだろ? 邪魔だ、どけよ」


 ジュウゴの顔を覗き込もうとしたノスリを食い止めたのはチュウヒだ。しかしノスリも安い挑発には乗らない。立ちはだかるチュウヒと背の高い男をたやすく押し退け、ジュウゴの頭に手を掛けた。頭髪を掴まれ否が応でも顎が上がる。チュウヒがノスリの腕に手を伸ばした時、


「ノスリ」


 ナナがノスリを呼んだ。途端にノスリが眉毛を吊り上げる。


「何、呼び捨てにしてんだ」


 ノスリがジュウゴから手を離した。小鼻までひくつかせてナナの眼前で睨みを利かす。


「しごと、します」


「てめぇが働くのは当然だろ! ミナシの作業量とは無関係だ。…まあ、」ノスリがナナを睨めまわす。「やるっつうなら仕事はやるけどよ」


 ノスリがにやりと片頬をあげた。


「必要ない」


 背の高い男がナナとノスリの間に割って入る。


「お前は余計な心配をしなくていい」


「てめえは関係ないだろ!」


「ノスリ」


 開け放たれたままの扉の向こうから男の声がノスリを呼んだ。振り返ったノスリは目に見えて態度を変える。チュウヒや背の高い男も身構えた。張り詰めた空気をジュウゴも肌で感じ、声の主の顔を探して硬直した。見たことがある顔だった。強烈すぎてきっと忘れられない。コウの研究所で見た、ヤチネズミを損壊間近にまでいたぶっていたあの男、『おにいちゃん』だ。


「何してる」


 よく通る沈んだ声がノスリに尋ねる。その声の主の目も暗く濁って沈んでいる。


「怠け者共の監督っすよ」


 ノスリが敬語で答えた。『おにいちゃん』は室内に目をやる。ジュウゴと目が合う。恐怖で固まったジュウゴをしかし、『おにいちゃん』の視線は素通りしてナナで止まった。


「ほうっておけ」


 『おにいちゃん』は言うと踵を返す。


「でも(かしら)、この女ぁ…」


 『おにいちゃん』に見据えられてノスリは押し黙る。チュウヒにちらりと顔を向けると、「上の、捕まえとけよ」と言い捨てて早足で去って行った。

 『おにいちゃん』の姿が完全に見えなくなってから、ジュウゴは胸に溜まっていた息を吐き出した。一息吐いてから顔を上げると、他の面々も同様に緊張を解いていた。ジュウゴはナナに駆け寄ろうと腰を上げかけたが、背の高い男に先を越された。


「サギ…」


 ナナはぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。泣きじゃくり、男に縋りつく。まるでヤモリをあやすトカゲのように、男はナナの頭を優しく撫でた。


「ナナ?」


「サシバ」


 チュウヒが背の高い男を呼んだ。「そいつ頼むわ」


「お前は?」


「上、行ってくる」


 地上に出るということだろう。こんな昼間に? ジュウゴは慌ててチュウヒを止めようとした。


「行くなよ。今日はすごく晴れていたし暴力的な暑さのはずだ。日光の刺激は衣服の上からでも皮膚を損傷させるしその痛みときたら…」


「お前、もういいぞ」


 ジュウゴの忠告をまるで聞かずにチュウヒが言った。ジュウゴは意味がわからない。


「巻きこんじまって悪かったな。もう帰れ」


「何の話だ?」


 ジュウゴは本気で首を傾げる。チュウヒは呆れて目を見張るが、ナナを見遣ると納得したように息を吐いて項を掻いた。


「話が通じないのはサギだけじゃなかったんだな」


「何の話だ、チュウヒ」


 ジュウゴはわけがわからない。眉根を顰めて首を突き出す。

 チュウヒは顔をあげるとジュウゴを見ずに、


「うちの問題はうちで解決しないとなって言ったんだよ」


 ナナを見遣って呟いた。ジュウゴもつられてナナに振り返る。まだ泣いている。泣き出すと止まらないのだ。笑いだしても止まらないのだが。こういう時はジュウシのつまらない冗談が一番効果があるのだが、ジュウシはいないから自分が何かしなくてはとジュウゴは踏み出す。その肩をチュウヒが掴んで食い止める。


「サギの扱いはサシバが熟知してる。邪魔すんな」


 ジュウゴは振りかえり、チュウヒを見上げた。


「『さぎ』? 『さしば』?」


「サギ。あの女の名前だ」


 白けた目で泣きじゃくるナナを見つめながらチュウヒが言った。


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