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15-28 鍛錬

 イシガメの粗相と夜汽車の暴走でスッポンが怒り狂い、小銃どころではなくなった空気を何とか静まらせて、その日は早々に作業を切り上げたリクガメは、スッポンを部屋に送った後でトカゲたちの様子を見に行くことにした。誰も寄せつけるなとは言われたが心配が先行する。

 おそらく地上だろうと階段を上る。ふと、冷たい風が吹きこんできてトカゲが中に入って来たところだった。早々に終わったらしい。俯いたトカゲはリクガメに気づいておらず、普段以上に腸を煮え返らせた凶悪な顔ではあったが、目だけは今にも泣き出しそうに見開いていた。


「トカゲちゃん」


 リクガメが声をかけるとぱっと顔をあげ、足を止める。そっぽを向いたその顔は既に、いつも通りの無表情に繕われていた。


「大丈夫かい?」


 リクガメは階段を駆け上り、トカゲの元まで行く。すれ違うようにトカゲは下り始め、「別に」と短く返事した。


「ごめんね」


 後を追いながらリクガメは頭を下げた。「ごめん。イシガメにはちゃんと言っておいたから」


「リクガメが謝ることはない」


「あいつらのバカは俺の責任だしさ」


「リクガメは悪くない」


 リクガメは苦笑する。そして上をちらりと見て、「あの夜汽車に何したの?」


「……別に」


「そっか」リクガメは肩を落とした。かなりやり込めたんだろうな、と簡単に予想がつく。


「あのさ、一応、あの夜汽車も俺らの班になったってことになってるからさ、」


 スッポンが身重な今、労働力も戦力も増えることはありがたい。しかし、上手く回せるか否かは頭数とは別問題で、リクガメが抱える面子の癖の強さは他の班とは比べ物にならない。


「だから、ね? 色々あるかもしれないけど、同じ仲間としてさ、やっていこうや」


「いらない」


 始まった。


「トカゲちゃん…」


「仲間なんていらない」


 リクガメは項垂れる。シマちゃんやスーとは仲いいっしょや、と言ってやりたいところをぐっと堪える。


「仲良くなる必要なんてないからさ。でも、」


 トカゲがちらりと顔を向ける。


「俺の仲間、死なせたら許さねえよ」


 トカゲが視線を逸らした。

 リクガメは小さく嘆息する。そしてまた笑顔を作って、トカゲに向けた。


「共同戦線! ね?」


「わかっている」


 一切反応を見せようとしない、わかりやすい少女のぶっきらぼうにリクガメはまた苦笑した。そしてふと、トカゲの右手に気づいた。駆け降りて見てみるとトカゲは義手を左手で握りしめている。


「転んだのかい?」


「……うん」


 顔を背けて低く返事をすると、逃げるようにトカゲは降りて行った。リクガメは顎を擦る。そう言えばずぼんに砂もついていた。転ばされたということか。あの夜汽車に?

 リクガメは地上の方を見上げた。強運なのは間違いないだろう。しかし運だけでワシの駅からここまで生き延びて来られるものだろうか。大体、あの小銃はどうやって手に入れた? イシガメはあいつに助けられたとも言っていた。


「使えるか?」


 スッポンの代わりとまではいかなくても、半分、いや、四分の一くらいの戦力になれば。

 リクガメはトカゲの義手を外した夜汽車の元に急いだ。



* * * *



「お前また、随っ分、派手にやられたなあ」


 自分のことも棚に上げてイシガメはジュウゴをまじまじと見下ろした。


「大丈夫か?」


 反対にジュウゴに心配される。顔を上げると元の輪郭も残していない不細工面が自分を見つめていた。


「お前に言われたくねえよ」


 思わずイシガメは噴き出す。それでもジュウゴは、「どうしたんだ? その顔」と尋ねてきた。


「リクに殺されかけただけだよ」


「リクガメが……」言ってジュウゴははっと表情を変え、「彼が君を死なせようとしたのか?」


「冗談だって。真に受けんなよ、バカ」笑いながらイシガメ腰を下ろした。


「悪かったな」


 体中を軋ませながらイシガメは詫びた。「お前があんなに行動力があるとは思わなかったんだよ。もっと注意して教えてやるべきだった」


 いててて、と声が漏れる。ジュウゴが奇妙な動きで身を起こす。


「なんで君が謝るんだ?」


「元はと言えば俺だろ?」


―謝ってこいや―


 トカゲに謝り損ねたことは、リクガメには適当に誤魔化しておこう。


「お前に言ったあれな? あれ、禁句だったんだわ」


 ジュウゴが血みどろの顔を傾ける。「だからあ、」とイシガメはため息をつく。


「あの女がネズミに拉致られてたってこと」


 ジュウゴが視線を逸らした。何か聞けたのだろうか。


「何、聞いた?」


 悪いとは思いつつ好奇心が勝る。大体の予想はついているのだが、トカゲがそれを語ったことは一度もないし、シュウダも絶対に答えてくれない。


「場所はわからなかった。知らないらしい」


 イシガメが期待した話はここでも聞けなさそうだ。「そっか」と肩を落とした。


「ただ、」ジュウゴが俯く。「彼女は多分、とてつもなく辛いことを経験したんだと思う」


「まあな」それは大体わかる。


「あと、」ジュウゴがさらに言う。「僕が仲間を置いてきたことを叱責された」


 イシガメはジュウゴの横顔を見た。その話は聞いていない。


「僕はサンを探しているけど、それは言い訳で、本当は僕が死にたくないからシュセキを置いてきたり、コウを…。その、全部、僕は僕のことしか考えていないのにサンを追いかけているという口実で全部、言い訳しているって激怒された」


 鼻の奥で唸ってイシガメは腕組みをした。正直、ジュウゴの話はわかりづらい。というかほぼよくわからない。


「…でもまあ、あいつ、嘘つきだから」


 ジュウゴが顔を上げてこちらを見た。イシガメは「だから心配すんなって」と言ってその背中を叩く。


「結構真顔で嘘つくんだわ、あいつ。だからあんまり間に受けんなよ。疲れるべ?」


「でも彼の…、彼女の言ったことは正しい思う」


「正解なんてその時々で違うべや。あいつの正しさがお前の正しさと同じとも限んねえし」


 イシガメはできるだけ明るい声と調子でジュウゴを元気づけようとした。いつも以上に落ち込んで見えたからだ。その理由は次の返答で判明した。


「サンはもう死んでいるとトカゲは言っていた」


 それだけ言うとジュウゴは首の筋を浮き立たせて俯いた。あちゃあ、とイシガメは気まずくなる。そんなこと誰だって知っている。


「……でもまあ、ほら…」


 適当な慰めが思い浮かばない。


「したら賭けるか!」


 叫ぶほどに大声を張り上げた。ジュウゴがびくりとして顔を向ける。イシガメはにやりとして答える。


「お前の女が生きてる方に瓶詰三日分、俺、駆けるよ。もし俺が負けたら三日間絶食だ。でももし俺が勝ったらトカゲの飯、抜いてやるべ!」


 ジュウゴが怪訝な顔でイシガメを見つめる。イシガメは笑顔を見せてジュウゴの肩を掴んで揺する。


「心配すんなって。あいつに飯抜きの辛さば味わわせてやるんだよ。な?」


 言いながら、ああ、俺、三日も飯抜きか、と後悔した。


「質問…」


「いいですよ!」


 ジュウゴが敬語になりかけたから、イシガメはちゃらけて先に言う。ジュウゴは眉を顰め、それから後頭部を指先で掻きながら、


「『しんぱい』ってどういう意味?」


 と尋ねた。


「心配ってのはあ、今の俺が自分らに持っとる感想」


 ふり返るとヤマカガシだった。薬箱を片手に近づいてきたヤマカガシはジュウゴの顔を見て、「うお!」と体を震わせた。


「僕らに持っている感想?」とジュウゴが呟く。


「随っ分派手にやられたのう。鼻、それ折れとろう」


 顔の下半分を歪ませ、眉根を顰めてヤマカガシが言う。「肩は脱臼け? 相変わらず容赦ない」


「ヤマあ、俺も折れとるがやちゃやちゃ」


 イシガメは頬を指差して顔を突き出した。ヤマカガシは目を細めてじっと患部を見つめ、「自分、何ともないにか」とイシガメの頬を平手で軽く叩くそぶりをした。指がかすっただけだったがしかし、びりびりとした痛みにイシガメは声を上げる。ヤマカガシはそんなイシガメを放置して、ジュウゴの顔を両手で包みこみ、覗きこむように左右上下からじろじろと眺めた。


「…何?」


 されるがままのジュウゴが訝る。ヤマカガシは唸りながら行為を続け、「うん」と言ってジュウゴの肩を叩いた。


「大丈夫やちゃ。まかしとかれ」


「何を?」


 ジュウゴが疑問に首を捻ろうとした時、ヤマカガシが「まあまあ」などと言いながらジュウゴを横たわらせた。何が始まるのかと訝ったジュウゴは、ヤマカガシの指示でトカゲにされたみたいにイシガメに腕を抑えつけられる。


「何? 何をする…」


「喋られんな。すぐ終わっちゃ」


 ジュウゴの不安は的中する。疼くように痛かった顔面の中央は突き上げられ、えぐられるような痛みと呼ぶには強過ぎる衝撃に襲撃された。鼻の治療とやらが終わると、次にヤマカガシはジュウゴの左肩に手をかけた。トカゲとは違う接触方法だったが、再び硬質な何かがぶつかるような音を鳴らしてジュウゴの肩は痛めつけられる。


「足は突き指やね。あんまり動かされんな。でも痛かったら言われ。そん時はまかしとかれま」


 決め顔でにこやかに言われた。ヤマカガシと言いイシガメと言い、この地下に住む者たちの「任せておけ」は金輪際信用してはいけないとジュウゴは噛みしめた。


「お前、ほんっと知らねえことが多いよな」


 自分は無関係だからと涼しい顔で痛めつけられるジュウゴを傍観していたイシガメが言う。ジュウゴはまだ鼻を右手で覆いながら、「なら教えてくれよ」と苦情をつけた。


「心配っつったら心配だよ。大丈夫かなーとか、大丈夫だよなーとか」


「身を案ずるということか?」


 今度はイシガメがぽかんとする。ジュウゴの言い回しはイシガメには通じなかったようだ。


「不安になるということか?」ジュウゴは言い直しを試みる。しかし、


「不安…ともちょっと違うよなあ?」とイシガメはヤマカガシに助けを求めた。ヤマカガシも腕を組み、鼻で唸りながら、


「心配言うんは、心を配ると書いてえ…」


「『こころ』って何?」


「そっから?」とイシガメ。「で、何?」と同じ疑問をヤマカガシに丸投げする。


「心言うんはあ、気遣いというか、こう、胸の中…いや、頭の中?」


「全然わからないよ」とジュウゴ。ヤマカガシはさらに唸る。


「だからあ、こう…、気持ちや! 気持ち。感情? みたいな」


「そうそう! そんな感じ」とイシガメ。


「だったら」ジュウゴは鼻を覆った右手の中で考える。「『しんぱい』は気配りと同義なのか?」


「心配…」


「気配り…」


「『気に病む』と『こころに病む』も同じということだね? それならわかる」


 ようやくジュウゴが納得しかけたが、イシガメとヤマカガシは互いに顔を見合い、「なんか違う!」と首を振った。


「いや、似とる! でもちょっと、なんかこう、微妙にこう…」


「心『に』病むじゃなくて心『を』病むな? でもそれは同じじゃないわ」


「じゃあ何なんだよ。意味がわからないよ」


「『心』が真ん中にあって一つしかないとしたら『気』は周りに浮いてて沢山あるものじゃないかな」


 一斉に振り返る。リクガメだった。イシガメが気まずそうに顔を背ける。


「真ん中で一つ」


 ジュウゴはリクガメの言葉を繰り返した。


「何か、流石っすね……」


 斜め上の宙空を見上げて考えていたヤマカガシが、深く何度も頷きながらリクガメを称賛した。リクガメがヤマカガシに微笑む。


「ところでジュウゴ君、俺からも一ついいかい?」


「何ですか?」


 ヤマカガシの中途半端な敬語に影響されたのか、ジュウゴもリクガメに敬語を使った。リクガメはにっこりと笑うとイシガメの頭を片手でむんずと掴んだ。


「…何すか?」


「逃げんな」


 そこだけ低い声で言うと、イシガメの頭を掴んだままリクガメが真面目な顔になってジュウゴを見下ろす。


「夜汽車って夜汽車の中でどんな鍛錬してるの?」


「『たんれん』?」ジュウゴは首を傾げる。


「体の動かし方とか攻撃の受け止め方とか、夜汽車同士で組み手…殴ったり蹴ったり実際にやってみてそれを避けたりいなしたりとか、そういう練習みたいなことをしてたのかい?」


 リクガメの説明にジュウゴは首を振る。「体育の授業はあったけれども殴ったり蹴ったりなんて。泳いだり走ったりはしたけれども。そもそも夜汽車ではアイは僕たちは僕たち同士で接触してはいけませんと言っていた。僕たちは各々固有の病原体を保有していて、それは皮膚と皮膚が接触すると感染を起こして、感染すると大変なことになってって。もしも万が一接触をしてしまった場合には水で丁寧に洗って消毒をしなければなりませんよと常々言われていたしそれを守っていたよ」


「だからか」


 イシガメは頭を掴まれたまま、これまでのジュウゴの必要以上に自分を避けようとする仕草の理由に納得した。


「でもこいつとは結構くっついてなかったかい?」


 リクガメはイシガメの頭を掴んだまま揺らす。


「それは、」とジュウゴ。「接触もその仕方によっては危険はなくて、むしろ痛みを和らげる効果もあるかもしれないという仮説をシュセキがたてたんだ。ナナだったかな? 夜汽車を降りてネズミたちや地下に住む者と数々の接触を繰り返すうちにその仮説が間違いないと皆で結論づけて。あ、でも、殴ったりは痛いからあながちアイが言っていたことも間違いではなくてだからジュウシはアイは万全を期するために僕たちに万に一つでも危険な行為である接触は禁止していたんじゃないのかと言っていた」


 言い終えてジュウゴは項垂れた。ナナもシュセキも、どうなっているのだろう。ジュウシの死んでいなかった頃の言葉をちゃんと覚えていた自分に驚いて、そして悲しくなった。


「なんかよくわかんないけど」リクガメがイシガメの頭を放してその手で自分の顎を擦る。「つまり君は夜汽車の中では殴ったり蹴ったりしたことはなかった、でいい?」


「うん」ジュウゴは頷いた。


 イシガメはリクガメをちらりと見上げた。トカゲに謝罪していないことがばれてまた叱られるかと思っていたが、リクガメは顎を擦って思案顔のままだ。


「リクさん、どしたんすか?」


 ヤマカガシが尋ねた。リクガメははっと顔を上げて微笑むとジュウゴを見下ろし、そしてイシガメにも微笑んだ。イシガメはどんな表情で応えればいいのかわからず、ただまじまじと見上げる。


「イシ、」


「……はい」


「塩以外にもいい手土産持って来たんでないかい?」



* * * *



 ジュウゴの鼻が治るや否や、リクガメによる鍛錬という名の授業が始まった。やる気も生気もないジュウゴは寒空の下に連行される。

 最初に課せられたのはとにかく走ること。『逃げる』と言うらしい。他の地下の連中やネズミに遭遇した時にはとにかく『逃げる』。走って走って相手を撒く。


「体力ないねえ。ほら、がんばれ。早くしないと轢いちゃうよ」


 リクガメは原付(とイシガメは呼んでいた)に跨って、原動機の音を響かせながら笑顔でジュウゴを追いかけてはジュウゴを足で蹴ってくる。『ひいちゃう』というのは車輪の下敷きにするという意味だとヤマカガシが教えてくれた。下敷きになった瓦礫はへちゃげて原型を止めない。原型が留まらない自分とはつまり損壊しているということで、要は死んでいるのではないだろうか。笑顔のリクガメがそんなことをするとは考えられなかったが、そう言えばイシガメが前に「殺されかけた」と言っていたのを思い出す。


「リクさんな、笑って喋るときは大抵本気やから」


 小声で耳打ちするヤマカガシの目は本気だった。


「敵は俺みたいに優しくないよ」


 リクガメが原付の上からにこやかに言う。


「『てき』って何?」


 蹴り倒されたジュウゴは、砂に手をついたま反抗的な態度を隠さないで質問した。そもそもリクガメは優しいのか?


「仲間の反対。ジュウゴ君にとっては仲間を拉致ったネズミかな」


 原付に肘をついた手で顎を支えてリクガメが答えた。「俺に勝てなきゃネズミなんて無理だよ。仲間、奪い返せないよ?」


 イシガメから聞き出したのだろう。リクガメはジュウゴが迷子になった理由を利用して戦力強化に取りかかる。


「……サンは死んだとトカゲに言われた」


「確認もしてないのに諦めんの?」


 ジュウゴは顔を上げる。


「死んでないの?」


「トカゲちゃんに聞いてみな」


「だからトカゲが!」


「あの子、しょっちゅう嘘つくから」


 イシガメもそんなことを言っていた。リクガメがにっこりと笑う。


「もっかい聞いてみればいっしょや。トカゲちゃん、負けた相手には何でも正直に答えてくれるよ」


 口から出任せにも程がある。だがジュウゴもジュウゴだ。まんまとそれに嵌まる。


「君から逃げきればいいのか?」


 立ち上がったジュウゴにリクガメは満足げに頷いた。



 原付のリクガメから蹴られないようになると、今度は砂の上で逃げない授業が始まった。最初の授業では左腕を掴まれた。ジュウゴの腕を掴むリクガメは喜々として右脚を大きく振りあげた。体勢を崩されながらジュウゴは無様に右手をかざす。目を開けるとリクガメはジュウゴの肩口付近で足を上げたまま止まっていた。


「反応は悪くないね。頭は全方位が急所だからそれを守るのはいいよ。でも形がひどいわ。それじゃ攻撃から逃げれても反撃、間に合わないっしょ。腰は低めても曲げない。わかった? それと、」


 言いながらリクガメがジュウゴから手を離す。ジュウゴは手首のねじりを戻そうと体勢を伸ばしかけたが、飛んできたリクガメの指先に目をつぶって両手をかざし、尻から地面に落ちる。


「目、瞑んなって。視覚は頼り過ぎも危ないけど瞑っちゃったら圧倒的に不利っしょ? 耳も塞がない。五感は常に研ぎ澄ましな。あ、でも、鼻だけは守ったほうがいいかもね」


「あれ、絶対鼻狙ってる。お前、今度折れたら、絶対後遺症だぞ。死ぬ気で逃げろよ」


 イシガメのリクガメに対する警戒は『敵』に向けるそれと同等だと後に知った。

 イシガメの忠告通り、リクガメは執拗にジュウゴの頭を集中的に狙ってきた。正確には顔、中でも鼻を。ジュウゴが鼻骨の骨折で苦しんだのを知っているくせに、リクガメのそれは再び同じ苦しみを与えようとしているようにしか思えなかった。鼻を覆えばその上から蹴り込んでくる。防ぐどころかジュウゴの手や腕自体がジュウゴの鼻を直撃する。顔を背ければ腕を捻られ体を回され、無防備な正面に何発も拳を打ち込まれ、最後は必ず蹴り込まれる。お陰でジュウゴはリクガメから目を逸らさないことを身を以て覚えた。視覚情報大切。見えていれば逃げられる。見ていなければ打たれる、蹴られる、踏みつけられる。見えてさえいれば。

 そう思っていたから背中を回し蹴られた時は愕然とした。全く見えていなかった。


「あんまりだ! 見えないところを蹴ってくるのはあまりに卑劣じゃないか!」


「見てないジュウゴが悪いっしょ」


 ジュウゴ『くん』を省略し始めたリクガメは更にも増して楽しげだった。


「見るのは目だけかい? 耳も皮膚も持ってるもの全部使って見切ってみな」


「耳で見えるわけないだろう!」


 地べたに手をついたまま抗議するジュウゴ目がけてリクガメが笑いながら突進してきた。あの大きな体でなんて速度で……


 ジュウゴは慌てて横に転がった。見ると砂の中にリクガメの拳が埋まっている。リクガメが驚いた顔でジュウゴを見ている。


「受け身?」


「なに見?」


「無意識で?」


「え? え?」


「いいね」


 笑わない目で口角を上げた顔にジュウゴは寒気を覚えた。



 リクガメの鍛錬は、作業後から明け方までの数時間に及んだ。空が明るくなり始めるとリクガメは「おやすみ」と言って地下に帰っていく。その日もリクガメの姿が見えなくなってから、ジュウゴは砂の上に倒れた。


「ジュウゴ、大丈夫か?」


 イシガメの声に砂に突っ伏したまま首を振る。


「リクさん、楽しそうやねぇ」


 感嘆の息を漏らしながらヤマカガシが言う。


「しごき甲斐があるっつって笑ってたわ」


「いびり甲斐の間違いやろ」


 イシガメの言葉にヤマカガシが悲鳴まじりで返した。


「水…」


 イシガメから水を受けとるとジュウゴは浴びるように飲み干した。


「俺、考えたんだけどさ」


 ジュウゴが息をつくのを見計らってイシガメが口を開く。「リクは剛法ばっかだろ? あいつ柔法苦手だしさ。だからお前、柔法収得しろよ」


 ジュウゴは少しだけ考える努力をした。しかし体がしんどいので頭も全く回らなくて、「何、言ってるの?」


「ヤマ」


 イシガメがヤマカガシに説明を促す。


「殴る蹴るはリクさん得意やんねえ? でも関節技は苦手なが。だから自分が関節で決めたらリクさんから一本取れるかもしれんのやって」


 ジュウゴはじっとヤマカガシを見た後で「わかんない」


「だーもうめんどくせぇ!」イシガメが立ち上がった。「ジュウゴ! お前は体で覚える方だろ? ヤマ、口で教えるより実際かけちゃってや」


「だから何の話…」


 疲れ切ったジュウゴの横でヤマカガシが立ち上がり、首をぐるりと回した。


「自分ら、そろって突きと蹴りばっかやしの」


「お前らが関節決めすぎなんだよ」


 ヤマカガシとイシガメが、ジュウゴにはわからない話をジュウゴの真上で繰り広げる。


「僕、もう寝るよ」


 会話について行けないし体中痛いし、翌日も堆肥作りにかり出された後で授業があるし、シュウダには呼び出されてチュウヒたちのことを聞かれるし、いい加減に疲労も頂点に達していたのだ。なのに。


「待たれ」


 ヤマカガシに腕を掴まれた。そのまま捻られ背中に回され、ジュウゴの体は勝手にのけ反る。


「痛い痛…、って! 痛いって!」


 回らない首を最大限伸ばして背後のヤマカガシを目だけで探した。


「何なんだよ! 離してくれ!」


「体で覚えれま」


「なにを?」


「追加の鍛錬だ」


 イシガメが腕を組んで言う。追加?


「補習もするのか?」


「なーん」


 ヤマカガシが手を離した。ジュウゴは解放された腕と肩と首をさする。


「治さんよ。外すが。覚悟しられ」


 放課後補習が始まった。



 リクガメも酷いがヤマカガシも質が悪かった。

 イシガメの提案で始められた補習は、リクガメの授業と違って殴られたり蹴られたりはしない。ヤマカガシはとても優しく、何かする度に丁寧な説明をしてくれたが、その説明をジュウゴが理解することはほとんど無く、最終的に毎日苛々されていた。苛々してくるとヤマカガシは雑になる。雑になると捻りが厳しくなり、固め技が強くなり、手加減がなくなってある時など本当に外された。正式名称は『脱臼』というらしい。トカゲにやられたあれだ。リクガメの授業は、衝撃を受ける際に力を入れればある程度、痛みを防げるとわかってきたが、ヤマカガシの補習は力を入れれば入れるほど痛くなる。かといって脱力していても力が入る。そして痛みが後に引く。いやらしさというかしつこさが耐え難い。本当にこんなのでリクガメから『一本とること』が出来るのだろうか。


「そもそも『一本取る』ってどういう意味?」


「お前、またそれか」


 イシガメが呆れる。


「勝つってことやろ」


 ヤマカガシが説明する。


「勝つ?」とジュウゴ。


「だからぁ、」とイシガメがしゃしゃり出てきてジュウゴの鼻先で大口で喋る。「お前は今、リクにやられっぱなしだべ? 負け負けなの。でもヤマの技で不意打ち食らわせりゃ1回くらいは勝てるだろって言ってんだよ」


「リクガメを倒すということか?」


「そう!」イシガメが大げさに頷く。「わかってんじゃねえか」


「倒したらどうなるの?」ジュウゴは真面目に尋ねる。イシガメとヤマカガシは呆れた顔で互いを見合い、「ヤマ」とイシガメがジュウゴを顎で指した。


「俺、もう疲れてきてんのやけど」


 ヤマカガシがいらいらしながら話し始めた。


「リクさんはな、例えんなら今はお前の仮想の敵なん。敵には勝たんとだめやろ?」


「勝たないとどうなるの?」


 ヤマカガシの『方言』にも最近は慣れてきた。


「負ければ死ぬべや!」


 横からイシガメが口を出す。


「負けると死ぬの?」ジュウゴは驚いて聞き直した。


「自分は生き残り方を教わっとるん、わかっとらんかったが?」ヤマカガシが呆れ声をあげてから空を仰いだ。


「『いきのこり』って何?」


「またこいつは…」イシガメが諦める。


「まんま。生きて残る言うことやろ」


 呆れ果て、苛々しながらも答えてくれる。ヤマカガシは優しい。


「『生きて』って?」


「死んどらん言うこと」


「死んどらん」ジュウゴは繰り返し、そして顔を上げた。


「僕は今、生きてるの?」


「イシ、」ヤマカガシが切れた。「いっぺん、こいつ殺していいけ?」



 ヤマカガシが首を締めてきて、苦しくて息が出来なくなったと思ったら時間が飛んだ。背後からジュウゴの咽を圧迫していたはずのヤマカガシはいつの間にか自分を見下ろしていて、呆れて怒鳴りまくっていたイシガメが息をのんで自分を覗き込んでいた。


「やり過ぎだろ!」イシガメがヤマカガシに怒鳴る。


「どっかで教えんなんとは思っとったん。ちょうどよかったにか」とヤマカガシ。


「君たちは一瞬で移動でもしたのか?」


 起き上がりながら尋ねたジュウゴにヤマカガシが凄むような視線で言ってきた。


「今のが死ぬ一歩手前。意識飛んだん、わかったやろ? 殺したかったら締めとる相手が意識飛ばしてもしばらく固めとられ」


 突然、明け方の寒さが全身を覆って、ジュウゴは身震いした。苛々したまま先に下に戻っていくヤマカガシの後ろで、ジュウゴは喉元を擦る。


「もう十分だと思うけどなあ」


 イシガメが言った。「ヤマのやつ、意外に完璧主義なとこあっからさ、お前がちゃんと覚えないと許せねんだわ。でもお前も会ったときに比べれば全然強くなってると思うよ?」


「ヤマカガシが正しいよ」


 イシガメの慰めを否定する。だってわかる。まだリクガメにも一本取れない。トカゲから本当のことを聞き出すこともきっと出来ない。

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