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15-27 トカゲ

 連れていかれたのは地下の中でも最低層階で、暗くてじめじめしていて、臭かった。目を凝らすと大量の糞尿が溜まっていた。慌ててジュウゴは足を上げる。


「お前の靴ってそういやぺらっぺらだよな」


 そう言ってイシガメが貸してくれた靴は底も布地も厚く、足首よりも上まで覆う長さがあって、足場の悪い場所では夜汽車内用の靴よりもずっと歩きやすかった。


 肥溜、というらしい、の糞尿は手桶で掬って流れ作業で上層階まで運び、所定の場所にばらまくよう指示された。クサガメの話だと腐るのを待つらしい。糞尿が腐るというのがジュウゴには想像できなかったが、腐ってどろっとした植物の葉を最後尾の車両で見たことがある。ただでさえ臭いものを何故さらに臭くさせるのか皆目見当がつかない。意味がわからない、やめようと提案したが、手を動かさないと下に埋めると言われては従わざるを得なかった。そう言えば借りた便所は水洗ではなくて、黒くて臭い穴のあいただけのそれを便所と呼ぶイシガメに愕然としたことが思い出される。この地下には電気はおろか水道もないらしい。アイの気配もまるでないし、イシガメはアイを知らなかった。チュウヒたちの地下とは全然違う。授業で教わったのはこの地下のことだったのだろうか、とジュウゴは思ったりした。


 延々繰り返される作業のうちに、ジュウゴは臭いの不快さを忘れていた。そう言えばいつから入浴していないだろう、僕自身も相当臭いのだろうな、などと考えながら汗を拭う。


「これ終わったら休憩すんべ」


 クサガメが手桶を渡して来て、ジュウゴが受け取った後で腰を伸ばしていた。階下からイシガメとヤマカガシも上がって来て全員で揃って地上に出る。「くっせえよお」とヤマカガシが泣きごとを言いながらふらふらと歩いていく。「泣くなよ、まだまだあるべや」とイシガメが慰め、「元はと言えばお前のせいだろが」とクサガメが悪態をついて、「そうなのか?」とジュウゴが尋ねた。


「そうなのかってそうだろが」


 言いながらクサガメが何かを投げてよこしてきた。ジュウゴは右手でそれを掴み取る。


「これは何?」


「飯だ、飯」


 クサガメが隣で蓋を開け、口をつけた。この地下版の缶詰か、とジュウゴは納得する。


「そうだジュウゴ、お前、それで貸し借りちゃらな」


 イシガメが首を伸ばして、クサガメの向こうから言ってきた。何のことかとジュウゴは眉根を寄せる。


「お前のもんじゃねえべや」クサガメがため息を吐いて、「悪いな、しょうもない奴で」と何故か謝って来た。


「うるせえ、バカ」


 イシガメがクサガメに唾を飛ばしたがクサガメは知らんぷりで瓶詰に口を付けていた。

 ジュウゴは手の中の瓶詰を見つめ、それをクサガメに返した。


「何?」


「遠慮しておく」


「なんで?」


「今はそんなに空腹じゃないし」


「飲める時に飲んでおけよ。腹減った時に飲めるとは限んねえべや」


 クサガメが押し返してきたがジュウゴは蓋を開ける気にはなれず、黙って手の中のそれを見下ろした。イシガメが気付いて立ち上がって来る。


「いい、いい。後で飲むだろ」


 イシガメの言葉にクサガメは不思議そうだ。


「それよりジュウゴ、お前、野菜の方がいいんでないの?」


「野菜?」


「そうそう。全然野菜食ってねえよな?」


 笑顔でジュウゴの手から瓶詰を抜き取ると、「お前も食えよ」とクサガメにきつい口調で言った。


「いらねえよ」クサガメがそっぽを向いて瓶詰に口をつける。


「いらねえじゃねえだろ。好き嫌いすんな」


「うっせえな」


「んだと? こら!」


「やめろよ、君たち」


 何故彼らはたった二言三言ですぐに喧嘩を始められるのだろうか。


「なーん、いっちゃいっちゃ。ほっとかれジュウゴ」


 どこに行っていたのかヤマカガシが戻って来た。「そいつら息吸う度に喧嘩するんやわ」


「息する度?」


 言ってジュウゴはイシガメを見つめる。


「本気にすんな」


 目が合ったイシガメは不機嫌そうな顔のまま言った。そして立ち上がり、ヤマカガシから何かを受け取る。受け取った何かをジュウゴに押し付け、もう一つをクサガメの手の中に押し込んだ。


「お前、絶対食えよ」


「…いらねっつってるべや」


「食べ物を粗末にするんじゃねえよ!」


「これについてはイシが正しい」


 ヤマカガシが頷き、手の中の物を口元に持っていって歯を立てた。まるでワンが誰かの体を飲むときみたいだ。ジュウゴはヤマカガシをまじまじと見つめる。


「……食いたい奴が食えばいいだろ。俺はいらねえって言ってんだよ」


「瓶詰だけじゃ栄養偏るだろ!」


「うるせえな。ヒメ姉(ねえ)みたいなこと言うなよ」


 先ほどまではぎすぎすとした視線を飛ばし、イシガメやジュウゴにさかんに喧嘩腰で唾を飛ばしていたクサガメが、若干肩まで竦めてイシガメの勢いに圧されている。


「それだけは絶対に食えよ」


 イシガメがクサガメの前に立ちはだかる。クサガメを睨みつけながらヤマカガシと同じように手の中の物に噛みついた。


「食べてみられ」ヤマカガシがクサガメに言ってからジュウゴに真顔で振り返り、


「何け?」


「え?」


「用があるなら早よ言われま。そんなに見られると食べにくいぜー?」


 自分を避けるように身を引くヤマカガシの口元と、その手の中の物を見比べてジュウゴは尋ねた。


「何、しているの?」


 イシガメとクサガメがこちらを見る。


「……飯、食っとん」


 ヤマカガシが言ってイシガメたちの方を向き、首を傾げた。


「めし? 『くっとん』?」


 繰り返してジュウゴは自分の手の中の物を見下ろした。軽く握ってみる。固体ではあるが水分を含んでいるのか微かに表面に弾力がある。


「これは飲みのもなのか?」


 クサガメとヤマカガシが、片眉をひん曲げて口を開けっぱなしにした顔で揃って振り返った。イシガメが「あ」と小さく言った。

 ジュウゴは手渡されたそれを見つめ、ヤマカガシやイシガメの手の中の、半分欠けた同じものを見比べ、再び自分の手の中の物を見つめた。飲み物らしい。だが動き出す気配はない。すでに死んでいるのだろうか。ならば、と唾を飲み込み、その表面に歯をつき立てた。



 汚らしい音の中で驚愕の光景を目の当たりにしながら、全員が目を見張ったまま固まっていた。ヤマカガシに至っては食べかけの野菜を砂の上に落としたことにさえ気付かないままだ。


 最初、自分の食事をまじまじと見ては奇妙な質問を繰り返していた、夜汽車と名乗る客は(迷子と言った方が正しいとヤマカガシは思ったが)、野菜を食べ物だと認識すると、その水分だけを飲み始めた。飲む? 違うなとヤマカガシは首を横に振る。啜る、か? 吸う、かもしれない。いずれにしろ『食べて』はいない。野菜の表面に歯を立てて、皮を剥くでもなく実の部分まで歯を立てて、唇をすぼめて懸命に水分だけを啜ろうとしている。しかしその日、ヤマカガシが収穫して来たのはそれほど水分の多いものではない。むしろ歯応えのある、固い部類のものだった。目の前の男が欲する水分だけを、その方法で抽出するのは難しいのではないだろうか。



 クサガメは瓶詰を口につけたまま目を疑っていた。兄の連れてきた怪しげで弱々しい、話し方に特徴のある掴みどころのない男は、野菜に吸い付いている。何をしているのか、野菜嫌いでほとんど口にしたことがないクサガメにはさっぱり見当がつかない。野菜好きの者の中にはあんな食べ方も流行しているのだろうか、などと想像してみたが隣のヤマカガシも呆然としているところを見ると、やはり違うらしい。自分の抱えている違和感と疑念は決して自分の無知によるものではないと思っていいだろう。それにしても何をしているのか。それよりも何なのか。この男は何者なのか。



 イシガメは弟の好き嫌いを矯正することも忘れて、新しく加わった仲間の食事作法に絶句していた。同じだと思った。駅に帰って来る前、腐敗した女の遺体をワンと共に食らいついていた姿と。吸っている、水分を。吸えてはいないようだけれども。おそらくこれがジュウゴの食事方法なのだろう。しかし……。


 イシガメは我に返って弟と気の合う仲間の顔を見た。案の定、双方とも口をあんぐりとしてジュウゴを見つめている。ヤマカガシは呆気に取られた間抜けな顔で、弟に至っては拒絶を滲ませた顔をしていた。


「そうだ、ジュウゴ!」


 イシガメはおもむろに振り返った「お前の女、ネズミに連れていかれたって言ってたべ?」


 ヤマカガシとクサガメがイシガメの大声に反応した。ジュウゴも野菜から口を離す。イシガメは飲み干した空瓶と食べかけの野菜をクサガメに押し付け、ジュウゴの肩に腕を回した。ジュウゴが「何をするんだ」とお決まりの文句を口にする。


「もしかしたらそいつのいる場所、わかるかもだわ」


 ジュウゴが目を見張る。その隙に吸いかけの野菜を抜き取った。


「経験者に聞きゃいいんだよ」


「おい、イシ!」


 クサガメが憤る。ヤマカガシが慌てて立ち上がり、イシガメを止めに来た。イシガメは興奮するジュウゴの肩に腕を回したまま、ヤマカガシの制止を避けて歩き出した。


「本当なのか? 本当にサンの居場所が?」


「多分な」


「それは駄目やちゃ!」


「おい!」


 怒鳴る弟たちを尻目に、興奮するジュウゴにイシガメは耳打ちした。


「お前、今度からなんか食う時、誰もいないとこでな」


「え?」


 やはり気付いていなかったようだ。イシガメはちらりと後ろを見てからジュウゴに向かって笑顔を見せる。


「心配すんな。大丈夫だって」


 ジュウゴが怪訝そうな顔を向けてきた。不安がったかと思ったイシガメは少し意外だ。


「どした?」


「『しんぱい』って何?」


 自分で言った傍から、イシガメは先行きが少し心配になってきた。



* * * *



 どたばたと振動と騒音をまき散らしながらジュウゴたちは作業場と呼ばれる部屋になだれ込んだ。リクガメたちはジュウゴが持っていた小銃を分解していた手を止め顔を上げる。


「トカゲ! トカゲは?」


「待て待てジュウゴ、落ち着けって」


「なした? なんかあったかい?」


 リクガメが膝をついて立ち上がる。


「リクガメ、トカゲは?」


「いや、違うんだ、リク。これにはいろいろ複雑な事情があって…」


「トカゲは!?」


 イシガメは気まずそうに言い訳をし、ジュウゴはトカゲを血眼で探している。その後を追うようにクサガメとヤマカガシも駆けこんできて、クサガメがジュウゴを背中から羽交い絞めした。


「邪魔した、リク。おい、行くぞ!」


「離してくれ!」


「ジュウゴ、とりあえず出直すべ、な?」


「離せ!」


 あの兄弟が珍しく協力している。兄弟に抑えつけられて喚き散らす夜汽車、その横で息を切らして膝に手をついているヤマカガシ。リクガメは口と鼻を手で覆いながら顔を背ける。とりあえず、


「うん、出直してきな。お前ら臭いから」


 他の連中にも迷惑がかかるし、とリクガメは顔を顰めながらやかましい年下たちを見下ろした。


「そうそう! 俺ら臭いから、な?」


 イシガメが首を縦に振りながらジュウゴを説得する。クサガメも同意している。珍しいこともあるものだ。


「トカゲならいるよ」


 タイマイが顔を上げてトカゲを呼んだ。


「いいって! いい、いい! 余計な迷惑だって!」


 イシガメがタイマイの親切を必死に拒否する。言い間違いかもしれないが随分な断り方だ。


「大して時間とらないしょや」


 タイマイはイシガメの拒絶を遠慮ととったようだ。呼ばれたトカゲは奥から顔を覗かせた。トカゲを見つけたジュウゴが駆け出そうとする。それをイシガメたちが止める。これ以上中に入って来てほしくなくてリクガメもイシガメに手を貸した。


「何だ」


「質問してもいいですか!」


「駄目です! だめだめ! 行くぞ、ジュウゴ」


「トカゲは忙しいんだよ。戻るぞ、おい」


 目をぎらつかせながら敬語で窺いを立てるジュウゴを、イシガメとクサガメが大声で止めようとしている。ようやく息切れが収まったらしいヤマカガシがトカゲの前にやってきて、「戻られ、トカゲ」と絞り出す。トカゲは左手で鼻を覆い、おもむろに顔を顰めた。


「用があるなら早く言え」


「うん!」


「バカ!」


「やめッ!」


「聞くな、トカゲ!」


「ネズミは君をどこに持っていったの?」 



 完全な静寂が作業室を覆った。皆の異変に気付かないジュウゴだけが荒い呼吸の中、ぎらぎらした目でトカゲを見ている。最初に動いたのはクサガメだった。羽交い絞めしていた腕を解き、ジュウゴの正面に回ってその腹に拳をめり込ませた。およそ声とは言えない音を出してジュウゴが膝をつく。次に動いたのはリクガメだ。おそらく事の発端であろう大馬鹿者をとりあえず殴っておいた。無防備だったイシガメは踊る様に半回転して床に倒れる。


「おいで、トカゲ」


 スッポンが大きな腹を抱えて立ち上がり、トカゲの体を抱えるようにして移動を促す。蹲っていたジュウゴが顔をあげ、スッポンの上着の裾を掴んだ。


「待って、話を…」


「離しな」


 スッポンが一喝する。抑えこんだ怒りが今にも溢れだしそうだ。


「君じゃない。トカゲに聞きたいんだ。トカゲはネズミに持ち去られた経験があるとイシガメに聞いた。だからその時のことを教えてほしくて…」


 クサガメが尚も喚き散らすジュウゴの襟首を両手で掴み、吊るし上げる。


「いい加減にしろよ、お前」


「そいつは何にもわかってないんだ」イシガメが尻をついた体勢のままジュウゴを庇う。「俺の言い方が悪かったんだよ」


「関係ねえだろ!」クサガメが兄に怒鳴る。


「わかってねえんだから仕方ないだろ!」イシガメが弟に怒鳴り返す。


「わからないよ。わからないから知りたいんじゃないか」ジュウゴがさらに喚き散らした。


「お前、まだ!」


 クサガメが拳を振り上げた。しかし夜汽車も負けていない。


「離せ! 絶対知らなきゃいけないんだ! 教えてください!」


「ちょっとあんたッ!」


 終にスッポンが怒鳴った。腹の子に障る、リクガメは努めて静かにスッポンを宥める。


「落ち着きな。赤ちゃんがびっくりするだろ」


「だって!」


「スー」 


 スッポンが歯噛みして見上げてきた。


「お願いします!」


 ようやくスッポンが落ち着いたところに、またジュウゴが叫んだ。さすがのリクガメも苛立ってくる。


「おい!」


 クサガメがジュウゴを揺さぶり、イシガメが駆けつけ、ヤマカガシがあわあわしているところにトカゲが歩み出た。ジュウゴを含め、臭い男たちが息を飲んで固まる。


「来い」


 言うとトカゲはリクガメに振り返り、「少し外す」と呟いた。目も合わせない。スッポンが何か言いかけたのを止めてリクガメが前に出た。


「大丈夫かい?」


「何が?」


 そう返されると何も言えない。今度はリクガメが目を逸らして「行ってきな」と告げた。


「トカゲ、」


 クサガメが心配そうに声をかける。トカゲはクサガメを無視して、「こいつ以外は近づけないでくれ」とリクガメの方に呟く。腹を押さえながらトカゲの動きを目で追うジュウゴの上着の肩口を掴むと、抵抗も抗議も聞かずに扉を押し開け、出て行った。


「…ごめんなさい」


 タイマイだった。「わたし、ほんとに余計なことした」


「なーん、気にしられんな。自分は何もしとらんやろ」ヤマカガシがすぐさま否定する。


「でも」となおも不安がるタイマイを、小柄な男は苦笑で慰めた。


「俺、行ってくる」


 トカゲたちを追おうと踏み出したイシガメの頭をリクガメはむんずと掴む。


「離せよ! り…」


「どの口が何つった?」


 掴み上げたその頭を持ち上げて、最悪の粗忽者を睨み下ろした。



* * * *



 どんなに痛いと訴えてもどんなに離せと懇願してもトカゲは聞き入れてくれなかった。首が絞まることこそなかったが、歩きにくいことこの上ない。トカゲの方がジュウゴよりも若干背が低いから、腰は伸ばせないし膝に負担がかかる。そんな状態のまま地上まで引き摺られ、扉を出たところで砂の上に投げつけられた。


「痛いじゃないか!」


 ジュウゴは早速、抗議する。正直に言えば目が覚めてから色々ありすぎて全身どこもかしこも違和感しか無かったから、どこの痛みに関しての苦情なのか自分でも把握しきれていなかったが、とりあえず怒っていることは伝えねば。

 しかしジュウゴの思惑はさらりと流され、トカゲは背を向けたまま口を開く。


「何を聞きたい」


「え?」


「お前が言ってきたんだろう? 何が聞きたい」


 ジュウゴは頷き身を乗り出す。


「ネズミ! 君はネズミに持ち去られた事があると聞いたんだ。その時の話を聞きたい」


「……具体的には?」


「どこに持っていかれたの?」


 ジュウゴは立ち上がる。


「具体的にはどこ? ここからはどうやってそこまで行けばいい? そこからどうやってここまで来たんだ?」


 トカゲはまだ背を向けたままだ。ジュウゴは正面に回り込む。


「お願いだ。急いでいるんだ。教えてくれ、くださいお願いします!」


「なんで?」


「仲間だ。持って行かれた」


 トカゲが初めて視線上げた。ジュウゴは続ける。


「サンがネズミに持って行かれた。仲間だ。ネズミと言ってもハツたちとは違ってヤチネズミとも仲違いしていたけどネズミだった多分」


 トカゲが眉根を寄せる。ジュウゴは頭を掻き毟る。


「だからサンが仲間でネズミが持って行ったんだよ。ヤチネズミが追って僕もコウ…とワンと追いかけかけたけど氷が降ってきて吹雪になって動けなくなって見失ってしまった。晴れてからまた探し始めたけど見つからなくて、イシガメに会って、時間はかけないと言ったのに予想以上にかかってしまって」すでに頭髪は乱れに乱れている。「こんなところにいる時間は無いんだ。シュセキも置いてきてしまったしナナもジュウイチもどこかに行ってしまったし」


 言っていてさらに思い出す。


「ハチもだ。あんなところに寝かせっぱなしだ」


 あの時点ですでに生きてはいなかったけれども。そんなことを言ったら教室に残してきた他の皆のことも気がかりで気が気でなくなる。でもやっぱり今は、


「サン、サンを取り返さなきゃ。だから頼む。お願いだします。します!」


 出来得る限り誠意を込めて嘆願した。頭も下げた。瞼も瞑った。他にどう伝えればいいのかわからなかったから伝わることだけを願った。


「つまり、」


 トカゲが口を開く。ジュウゴは頭を上げる。


「お前はネズミに拉致られた女を追うために他の仲間を捨ててこんなところまでやって来たということか」


 一部理解しかねたがサンを追っていることは伝わったようだ。けれども、


「『捨てた』…って何だよ」


 ジュウゴはひどく狼狽した。それまでは真っ直ぐに見つめていたトカゲから目を逸らし、黒目を右往左往させる。


「捨て、てないよ。違うよ。仕方なかったんだ。だってシュセキが、シュセキだ、立ち上がらなかったのは。行こうって言ったのに、急いでって頼んだのに変な事ばかり言ってあんな時だけ目を合わせたりして来てコウだって『早く』と言っていたのに…」


「『コウ』って?」


 ジュウゴは思わず唇を閉じる。目を見開き、拳を握りしめ、顎が胸に刺さらんばかりに肩を竦める。


「ワンじゃないのか?」


「ワンはワンだ」


「じゃあコウは?」


「コウは……」


「質問しておいて自分は答えないつもりか」


 尤もだ。


「コウ…は、ワンの仲間で、多分彼の一番大切な仲間で、シュセキを修復する場所を提供してくれて、缶詰も分けてくれて、サンにすごく懐いていてでも僕のことは見下していたから少し鼻についてでも…」


「そいつは今どこだ」


 ジュウゴは唇を固く結んだ。


「そいつも捨ててきたのか」


「違う!」


 大声と同時に顔を上げた。


「ならどこだ。それほど世話になった奴をどこに置いてきた」


 目が泳ぐ。挙動不審なジュウゴをトカゲは見据える。そして、


「お前、飲んだな」


 ジュウゴの喉が鳴った。蔑み、怒りを伴った眼差しが後頭部に突き刺さる。


「話の流れだと吹雪の時か? 身動きが取れなくなって食い物も切らして、世話になった奴を殺したか」


「…してない」


「でも飲んだ」


 ジュウゴは何も言わない。トカゲが息を吐く。


「他の仲間も同じか。手持ちの瓶詰が無くなったら他の連中は飲み物にしか見えなかったか」


「飲んでない! そんな風に見たことない! 皆、仲間だ!」


「でも『コウ』は飲んだ」


 言葉に詰まる。


「そして他の連中は捨てた」


「ちがう……」


「最悪だな、お前」


 吐き捨てるようにトカゲが言った。


「女、探してネズミを追って? 勇敢な英雄気取りでその実は仲間を飲み物にしてきた下衆野郎だ。生きてる価値も無い。なんでお前みたいのが生きてて『コウ』は死ななきゃいけなかった。お前が死ねばよかったのに」


「そんな言い方…」


「間違ってるか?」


 言い返せない。


「挙げ句の果てにはイシガメのせいにして『こんなところにいる暇ない』? そうやって都合の悪いことは何でも周りのせいにして逃げてきたんだろう、卑怯者が」


 トカゲが歩きだした。


「あの単細胞も焼きが回ったな。こんな奴助けるなんて狂気の沙汰だ。所詮はイシガメだ」


「イシガメを悪く言うな。彼は関係ない」


「お前と親しげに口を利いてる時点であいつも同類だ」


 トカゲが屈みこみ、砂の中から何かを拾い上げた。


「約束だ。教えてやる」 


 突然トカゲがそんなことを言ったから、ジュウゴは訳がわからなくて顔を上げた。見ると手に何かを持っている。曲がった棒きれか?


「ネズミに連れていかれた奴がどうなったか」


「本当に?」


 絶対に教えてもらえない流れだと思っていた。ジュウゴはにわかに興奮してトカゲに駆け寄る。と、トカゲが体を捻った。咄嗟にジュウゴは目を瞑り、両手で頭を抱えてその場にしゃがみこむ。どうやら足を振りまわされたようだ。


「避(よ)けるな」


「避(よ)けるよ!」


「くず」


 言うとトカゲがさらに足を振りまわしてきた。足は痛い、経験から知っている。ジュウゴはトカゲを窺いながら背を向け走り出す。すぐ追いつかれる。速い。

 背後から腰を思いっきり蹴られる。前傾姿勢が真逆に反りかえり顎が上がる。すかさずトカゲがジュウゴの正面に回りこみ、今度は頭頂部に踵が落ちてきた。上下の歯が強制的に噛み合い、くらくらする。

 何とか踏みとどまったところに、今度は脹脛(ふくらはぎ)を蹴られた。殴打の衝撃の後でびりびりとした痺れが走る。反対の膝をつき、蹴られた方の脚を両手で覆う。蹲ったその背中に狂気がさらに振り落とされた。声も出ない。


「逃げるな。教えてやると言っただろう」


「『にげる』…」


 って何?


 質問する間も許されず、顔を上げかけたジュウゴの頬をトカゲの靴先が直撃した。ジュウゴは砂の上に倒れ込む。


「最初にされるのは身体的管理だ。逃亡の道を閉ざされる」


 トカゲが自らの靴底とジュウゴの靴底を合わせてきた。そのまま踏み込む。激しく鈍い痛みにジュウゴは悶絶する。


「抵抗する手段を奪われる」


 絶叫するジュウゴの左手首をトカゲは掴む。ジュウゴが顔を上げようとした刹那、背中を膝で抑えつけられた。そのまま腕を倒される。何かを無理矢理接合した時のような音が響いた。音と共に駆けめぐったのは痛みだ。声にならない息を垂れ流しながらジュウゴは右手で左肩を握りしめる。のた打ち回る。


「何かを考えようという気が失せる。死なないように生きるようになる。生きる気も失せる」


 しかしその声はジュウゴの耳には届いていない。トカゲもそれを察知したのか、鼻から息を吐いてそっぽを向いた。一度瞬きをして、先ほど拾い上げた棒きれを持ち直し、砂の上をやかましく転げ回る男に近づく。


「そして、」


 言ってジュウゴの顎を蹴りあげた。蹴られた拍子に左肩を握りしめていた右手が外れる。トカゲはジュウゴの右手首を踏み押さえ、その袖を棒きれで砂に打ち止めた。左肩が上がらず、右手は打ち押さえられていて、ジュウゴは身動きが取れない。


「精神的管理」


 涙目でジュウゴはトカゲを見上げた。知らない単語が多すぎる。


「存在の全否定。物になる。なり下がる。それが延々繰り返される。使える奴は塔に送られる。お前は…使えないな」


 トカゲがジュウゴの体を見下ろした。背中を恐怖が駆け抜ける。何もわからないが何かされることだけはよくわかる。


「やめてくれ! わかった! わかったからッ!」


 膝を持ち上げていたトカゲが動きを止めた。ジュウゴの目を見て「何が?」と眉を顰める。ジュウゴは「はえ?」と叫びながら首を傾げる。


「何がわかった?」


「え? いや…」


「これだけで『わかった』? 何が?」


「ごめんなさい…」


「なんで謝る? そんな言葉だけで何が許される?」


 なら何を言えばいいのだろう。


「い、意味あるのか?」


「あ?」


「今君がしているこの行為に意味はあるのかと聞いたんだ!」


 張り付けられて身動きも取れないまま、ジュウゴは見上げる相手に唾を飛ばした。


「僕はサンがどこにいるかと尋ねただけだ。場所を! それさえ教えてくれれば十分なんだ。なのに君は教えるとか言っておきながら要の部分は何も言わないで、こんな暴力を無暗に行使して。無意味じゃないか。場所だよ! まず初めに場所を言えよ!」


「場所は知らない」


 ジュウゴの質問に初めてトカゲが答えた。しかしそれは、


「知らないって…、何だよ。何だよそれ。答えになってないじゃないか!」


「知らないから知らないと答えただけだ。あれがどこだったかなんてわかるわけがない」


「ふざけるな」ジュウゴは歯ぎしりした。「ふざけるな! 一番大事なところじゃないか! 何が『知らない』だ! 教えてくれると思ったからついてきたんだ。場所がわかると思ったから黙って従ったんだ。わからないんじゃ意味無いじゃないか、嘘つき!」


 喚きながらもがく。左腕は肩から下が動かない。右手は袖がつっかえる。右足の足先はずくんずくんと脈打って左脚だけが自由だ。左の膝を曲げ、足で地面を踏む。右肘を曲げて棒きれを抜こうと指を伸ばす。届かない。尻をついて左脚を思いっきり振りあげる。爪先が棒きれを掠める。もう少し。

 トカゲが足を踏み下ろした。股間に直撃する。言い得ない、声も出ない激痛にジュウゴは息と動きを止める。


「いちいち喚くな。耳障りだ」


 今度は腹。吐き気が襲う。でも股間の方が痛い。


「意味があれば何をしてもいいのか。意味って何だ。仲間を捨てて飲み殺してここまで来た意味は?」


 トカゲが自ら打ち込んだ棒切れを抜いた。抜いてそのままジュウゴの頬を殴りつける。ジュウゴは顔を手で覆いながら起き上ろうとして、左腕が動かないことを思い出し、右手で地面を押す。血まみれの顔でトカゲを睨み上げ、歯を食いしばって股間を庇った無様な格好で左脚だけで立つ。


「必要だろう? それが全てじゃないか。サンを取り返すためにシュセキを置いてきた。動き続けるためにワンと一緒に……。でも皆迎えに行くよ。絶対捨てない。捨ててない。ただサンが先なんだ。それが理由だ」


「その女が不憫だ」


 トカゲが棒切れを引き摺りながら近づいてきた。


「不憫ってどういう意味だよ!」


 ジュウゴは片足で後ずさりする。


「お前のは『意味』じゃなくて『言い訳』だ」


 ジュウゴが息を飲んだ瞬間、再び棒きれに吹き飛ばされた。再び手をつく。今度は左半面だった。口の中も切れる。


「捨てた連中も飲んだ奴も全部女のためだから仕方ない? 違うだろ。お前が生きたかっただけだ。お前が生きたいから仲間を捨てて逃げた。お前が生きたいから仲間を飲み殺した。何もかも自分のためだ。お前の生存欲求だ。女はそれを隠すための言い訳だ」


「違う! 僕は本当にサンを…」


「お前みたいな偽善者が一番鬱陶しい」


 トカゲが再び棒きれを振りあげた。ジュウゴは右手で頭を覆う。前腕に直撃して痺れに歯を食いしばるが、頭に直接打撃を受けるよりはましだった。


「止めるな」


「止めるよ!」


 噛みつかんばかりに叫びながら右手は棒きれを掴んだ。


「そうだよ! 生きたいよ死にたくない、当然じゃないか! 言い訳? いいよそれで、言い訳だ。でもそれが何だよ。言い訳でも何でもいいよ、でも取り返すんだ。彼女は夜汽車だから、同じ夜汽車で仲間だからネズミになる気はないと言っていた彼女の意思を尊重する!」


 ジュウシが聞けば開き直りと言っただろう。シュセキに言わせれば主語も目的語も行方不明だ。しかしそんなこともかなぐり捨ててジュウゴは破綻した自分の思考そのままの思いのたけをぶちまけた。右手で奪い取った棒きれを地面に叩きつける。


「くだらない」


「そっちだろ!」


 白けた目でぼやいたトカゲに向かってさらに怒鳴った。


「冷静なふりして鬱憤を暴力で晴らして、欲求を暴走させているのは君の方じゃないか! 同じ地下でもイシガメは違う。彼は仲間のことを常に考えていた、君を含めた君たちのことをずっと気にかけて急いでいた。僕やワンにも協力してくれた。彼がいなかったら僕たちは『うみ』に飲まれていた。あんな仲間思いのいい奴を身勝手で激情を隠すために冷静さを装っているような恥ずかしい奴が君が悪く言う資格ない!」


「類(るい)友(とも)か」


「何?」


「あの馬鹿の肩をもつのはお前みたいな馬鹿しかいないと言ったんだ」


「『ばか』ってどういう意味だよ」


「そのままだ」


「そうじゃなくて!」


 ジュウゴは頭を掻き毟る。痛くて思わず声を出す。


「とにかく!」


 指先についた水滴を振って払い落す。


「下らないのは君の方だ。イシガメを悪く言うな!」


 言いきって大きく息を吐いた。


「君によく似た男を知っている。いつも相手を見下して僕の揚げ足ばかりとって不機嫌そうに四六時中ぶすっとして沈着冷静な振りして皆も彼がそうだと思っている。でも本当は未知への興味が激しくて誰よりも色んな細かいところも目を配って気も配って実はとんでもなく面倒臭いくらいにお節介で率先して雑用を済ませていたりする奴で、本当は大口開けてよく笑っていたことを皆知っているのに知られていないと勘違いしている腹立たしい奴だ」


「何の話だ」


「腹立つし苛々するし腹立つ嫌な奴なんだ。なのに何だかんだでいつも必ず最後は助けてくれるんだよ、愚痴言いながら最後までやり遂げるんだよ、すごいんだよ! 時々めちゃくちゃ意見が合致する、腹立つくらい!」


「何が言いたい」


「僕が言いたい! 君は何が言いたいんだ、何がしたいんだよ! 言ってくれなきゃわからないよ!」


「何を」


「本音!」


 トカゲが唇を閉じる。ジュウゴは畳みかける。


「何のために僕をここに呼んだ。何がしたかったんだ。暴力を振るうことが目的じゃなかったはずだ」


「それが目的だ」


「嘘だ。君は僕を殴ったり蹴ったりしている時、すごく苦しげだった」


「お前なんて死ねばいい」


「だから嘘だ! だって君は仲間がいる。その君が優しくないはずないじゃないか!」


「お前、心底うざいな」


「本当は僕に何を聞きたかったんだよ!」


「言ってろ」トカゲが踵を返した。


「なんで僕が仲間の話をしたら怒るんだよ! 君だってあんなにいい仲間に囲まれているのに、何の嫉妬だよ!」


 トカゲが後ろ蹴りしてきた。ジュウゴが反応出来るはずもなく、きっちり顔面で受け止める。


「お前の追ってる女は十中八九死んでる」


「嘘だ」鼻を押さえながらジュウゴは起き上がる。「う、嘘だ!」


「事実だ」


「なんでわかるんだよ!」


「ネズミに拉致られた奴は大体死ぬ」


「だって君は…」


「絶対死んでる」


「嘘だ。そんなの信じない!」


「希望的観測か。弱い奴がよく選ぶ逃げ道だ」


―脳は希望を採択したがるものです―


「嫌だ」


 トカゲが鼻から息を吐いた。笑われたようにジュウゴには聞こえた。サンが、コウが、ジュウシが、皆が軽んじられたみたいで、許せなくて、嫌で、頭の中心が熱を帯びて、


 叫びながら踏み出していた。唯一動く右手を思いっきり振りまわす。振り抜いて、自分の行動に気づいて、周囲を見回すと、尻をついたトカゲと分離した腕が目についた。腕?


 ジュウゴは左脚だけで飛ぶように進み、右手で砂の上に落ちていた腕を持ち上げた。見事に肘から上で切れている。と、立ちあがっていたトカゲに奪い取られた。


「それ……」


 トカゲが無言で立ち去ろうとする。


「ごめん」


 ジュウゴはその背中を追いかけた。「ごめん、それ、僕が…?」


 顔面を拳とは違う、もっと硬質な何かで殴られてジュウゴは背中から砂の上に倒れる。見上げるともげた右腕を左手で握ったトカゲがいた。


「お前、それ、使い方間違ってるべや」


 見るとイシガメが歩み寄って来ていた。左頬がひどく腫れあがっている。


「夜汽車だぞ? 何、本気になってんだよ」


「イシガメ…」


 憤怒と侮蔑をこめた目で睨みつけ、トカゲは無言で去っていった。

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