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15-23 変な奴

 イシガメは走っていた。全速力で走っていた。短い脚を股関節が開く限りに突き出し、両腕を前後に振って息を切らしていた。背後を振り返る。カエルはまだいる。むしろ距離は確実に狭まってきている。イシガメは目を剥き、さらに速度をあげた。砂に足を取られる。体勢を立て直せない。地面が目の前に差し迫る。咄嗟に両手で頭を庇い、一回転して止まった。ほっと息を吐いたのも束の間、それ以上に危うい状況を思い出して振り返ろうとしたが、喉元の冷たい感覚に動きを止めた。月明かりを反射させて白い刃が丸く光る。


「ちょこまか逃げくさりやがって」


 だみ声が頭の上から降りかかる。背後で原動機を止めて降り立ついくつかの足音が聞こえる。


「自分、あそこで何しとったん」


 鎖鎌の手が言った。イシガメはごくりと唾を飲み込み、小刻みに首を横に振った。


「なんも」


「とぼけんな。何、聞いとったん」


「本気でなんも…」


 答え終わる前に蹴りつけられた。半身で地面を滑る。イシガメは薄目を開けて敵勢を見た。原付は三台、うち二台にはそれぞれ男が跨っている。自分の物みたいな顔しやがって。


「聞いとんのけ!」


 鎖鎌が再び凄んだ。イシガメは男に視線を戻す。


「どうやってあっこまで来たん」


「迷ったんだよ。仲間とはぐれて、朝になって慌てて逃げ込んでさ」


「下っ手糞な嘘やねえ」


 男に寄り掛かっていた女がくすくすと笑った。「はよしまっし」


「まじ! ほんとだって! まじでただ道に迷って…」


「どこのボケがあんなとこまで器用に迷い込むんけ」


 女が顔と声の色を変えた。


「自分、どこや」


 鎖鎌の男が言った。


「どこのもんだって聞いとろうがッ!」


 男が鎌を振りあげてきた瞬間、イシガメは脇に転がり刃を交わし、低い姿勢のまま空いている原付に飛び乗った。


「野郎ッ!」


 男が背後で怒鳴った。イシガメは握り手を力の限り回し、右足で地面を蹴りつける。だが原付はイシガメの思惑とは裏腹にふらふらと車輪を一回ししたきりだった。間抜けな声を上げてイシガメは車体ごと倒れ落ちる。目を開いた時には男たちに見下ろされていた。後からゆったりと来る女の手の指に引っかけられた鍵がくるくると回っている。


「どこ行くんけ?」


 女がかがみこみ、イシガメの顎を指先で持ち上げた。局所的な痛みが首に走り、顔をしかめながらもイシガメは自分の体を見下ろす。右脚が車体の下敷きになっている。


「やー、お姉さんたちが怖かったもんだから、つい…」


「お姉さんだって」


 女がけらけらと笑ってから無反応な男たちをにらみつけた。


「もうええわ」


 鎖鎌が目の前に光った。女が一歩下がる。イシガメは目を剥く。右脚を必死に引いた。左脚がばたばたともがいただけだった。


「まじだって! ほんとになんにも知らないんだ。ただ迷っただけなんだよ。信じてくれよ。頼んます。むしろ仲間に入れてください!」


「自分みたいな弱っちいのいらんし」


 鎖鎌が心底煩わしそうに吐き捨てた。


「まあ、腹の足しにはなるがいね」


 女が口の端を大きく開いた時だった。ごく限られた一カ所の砂が突然跳ねた。遅れて遠くから破裂音。イシガメもカエルたちも弾けた地面を見つめる。


「何、今の?」


 女が男たちに尋ねる。男たちも周囲をきょろきょろと見回す。イシガメも眼球だけを左右に動かした。と、また同じ破裂音。


「ヘビか?」


「矢なんてないやろ」


「小銃?」


 男たちの会話に紛れてイシガメも思ったことを口にした。男たちが同時にイシガメに振り返る。イシガメは見下ろされながら、


「矢がないなら銃弾…」


「ネズミ?」


 原付に跨っていた男が言って、俄かに騒然とした。と、もう一台に乗っていた男が叫ぶ。見ると腹から血を流していた。鎖鎌の男が駆け寄り、負傷した男を抱えるように原付に跨ってわあわあ怒鳴って走りだした。女も慌てて別の男の後ろに跨り、すぐさま出すようけしかける。二台はあっという間に砂丘の彼方に走り去った。

 残されたのはイシガメだ。必死に右脚を引き抜こうともがく。てめえらのもんなら持って帰れよ! 焦りながら口中で悪態をつき、銃弾が飛んできたと思われる方向を確認しながらじたばたする。駄目だ、抜けない。掘るか? そうだ下から! と思いつき腿の周りから砂を掻くが、掻いたそばからさらさらと、砂はイシガメの脚を呑みこむように元いた場所に流れて行く。やばい、やばい、やばい、やばい! 両手を動かしながら顔を上げると、見たこともない動きをする黒い塊が物凄い勢いで突っ込んできた。イシガメは頭を抱えて地面に伏せる。何だ、今の? ネズミの新しい武器か? 顔を上げたイシガメの真ん前にそれはあった。いや違う。『いた』。武器じゃない。こいつ、生きてる……


 突然、背後から肘を掴まれた。眼前ばかり注意していて全く気付かなかった。体が捩られ顔を上げる。見知らぬ男が息を切らしてイシガメの顔をのぞきこんでいた。反対の手には小銃が握られ、銃口は空を向いている。男はイシガメの顔を正面から見ると、真剣な顔から怪訝な顔に変化させ、


「……誰?」


「……カメ」


 思わず自己紹介していた。男はさらにぽかんと口を開け、二台が去って行った方を見遣り、イシガメから手を離した。その手でそのまま側頭部を掻く。


「違った。行こう」


 誰に言ったのか、イシガメは戸惑う。それから仲間が隠れているのかと思い至り、周囲を見回した。ネズミが群れないはずがない。しかし男の仲間らしき影も気配もどこにもいない。そもそもネズミなら何故自分をそれで撃たない?


「ワン」


 『ワン』? イシガメは眉根を顰めて首を突き出し、はっとして背後を振り返った。得体の知れない黒い奴。四本足で腕は無い。よくよく見ると目と鼻と口と、耳? もある。


「ワン?」


 男がさらに声をかける。イシガメは毛で覆われた四本足から目が離せない。今、目を逸らせば間違いなくこいつは襲ってくる。


「ワン!」


 男が怒鳴ってイシガメと四本足の間に割り込んできた。四本足を見下ろし男は肩を怒らせる。


「あれから少ししか経ってないじゃないか! 少しくらい我慢しろよ!」


 男が物凄い剣幕で四本足に向かって怒鳴り散らした。叱りつけているらしい。だが、上下関係は男の優位ではないようだ。怒鳴られた四本足は体勢を低くし、どこに力を入れればそんな音が出せるのかわからない低い唸り声を響かせ、今にも男に飛びかからんとしているように見える。男も鼻息が荒くなる。片手で掴んでいた小銃を両手で構え、その銃口を黒い四本足に向けた。何なんだ、こいつら。


「言いたいことがあるなら言えよ」


 男が凄む。四本足は唸る。でもこいつら、


「言ってみろよ!」


 殺気が無いな、とイシガメは肌で感じた瞬間、四本足が後ろの二本でばねのように跳び上がり、男の手に噛みついた。男が尻もちをつく。男を踏み越えて、四本足はその黒い体で夜の中に姿を隠した。


「どこにでも行ってしまえ! この毛むくじゃらじゃら!」


 男が空に向かって悪態を吐いて頭を掻き毟った。


「おい、あんた」


 残された男の横顔にイシガメは声をかけた。男は尻もちをついたままイシガメに振り返る。『毛むくじゃらじゃら』に噛まれた傷跡から血が滴っている。


「大丈夫かい?」


「え?」


「手」


「…ああ」


 言われて男は血が滲む手の平の表と裏を交互に返して眺めた。軽く握ったり開いたりしている。


「痛いけど動くから」


 それは良かった。ならば、とイシガメが言いかけた時、男は怪我した手を握りしめて立ち上がっ

た。


「あ、ちょっと待って!」


 イシガメは慌てて男を呼びとめた。男が振り返る。イシガメは小銃を見つめて「…ください」と付け足した。


「急いでいるんだ。用があるなら早く済ませてくれないか」


 男は伏し目がちにぶつぶつとこもった声で言った。銃口は空を見ている。やはり自分を撃つつもりは無いらしい。


「悪い、悪い」言ってイシガメは銃口から男の横顔に視線を移した。「悪いけどその、手、貸してくんない?」


 首だけで振り向く男にイシガメは現状を強く訴えた。


「これ。この原付、ちょっと持ち上げてや。俺だけじゃどうもなんなくってさ」


「『げんつき』?」男が首を傾げる。「原動機付自転車、知らねえの?」とイシガメ。男は怪訝そうな顔のまま、イシガメの上の原付を見下ろす。


「代わりにそれ、手当てしちゃるから。な?」


 男は考えている。


「わかった。飲み水一本つける」


 男が四本足の走り去った方を見遣る。


「わかった、瓶詰! これでどうだ!」


「『瓶詰』?」


「そう、瓶詰!」食い付いた。イシガメは顔を突き出して畳みかける。「最後の一本だ。でもあんたにやるよ。半月はもつだろ? 狩りの手間省けるし悪くないっしょ? あんたはこいつを動かしてくれるだけでいんだからさ」


 男は少し考えてから顔を背けて呟いた。「缶詰のことか」


「『缶詰』?」


 イシガメは訝る。ここらで缶詰なんて流通していない。この男は本線の方から来たのだろうか。…ワシか? それならば頷ける。小銃を持っていることも単独行動していることも、ワシであれば合点がいく。イシガメは身構えた。


「…とにかく頼むよ。ほら」


 言ってイシガメは瓶詰と水筒を地面の上に並べた。男が瓶詰をまじまじと見下ろす。男の死角でイシガメは槌の柄を握りしめた。


「水だけもらうよ」


 男はそう言うと小銃を肩から下ろした。身構えたイシガメには頓着せず、周辺の適当な石を支点に小銃を梃子にして自転車を持ち上げる。わずかな隙間が開けた。イシガメは片手をついて右脚を引く。爪先が抜けたところで原付は再び地面に落ちた。砂埃が収まる前にイシガメは男のこめかみを回し蹴り、倒れたところに跨った。左手で男の首を抑えつけ、右手に握った鎚を構える。


「助かったよ。ありがとな」


 見下ろす先で男は痛みに顔を歪めている。伸びかけた男の手の先が求める小銃を蹴り弾き、そのままその手を踏みつけた。


「何しにこんなとこまで来た、ん?」


 男の首をさらに地面に押しつける。砂を避けて男が唇と瞼をきつく閉じる。


「なあ、答えろよ。頭、かち割られたくねえべ?」


 男が片目を開ける。


「偵察か? また何か仕掛けに来たのか? 他の仲間はどこだよ。何で来た」


「嘘、ついたのか?」


「嘘? 嘘なんてつかねえよ。水はちゃんとやるって。お前の墓前にな」


 イシガメは鼻で笑った。


「それよりも早く答えろや。指一本ずついくか? どうせなら楽に死にてえだろ?」


「何を?」


「だから何回も言ってるべや! 何が目的で来たんだよ!!」


 男の首を砂に押しつけた。砂の一部が弾ける。中で咽たのだろう。イシガメは男の頭髪を掴み直してその頭を引き上げる。


「窒息は苦しいって言うよな? もっかい行くか? おら、早く答えろよ」


「サン…、仲間、探して…。……ネズミが一緒に…」


「ああ?」


「仲間を探している! ヤチネズミが一緒にいるはずなんだ!」

 砂混じりの唾を飛ばして男が叫んだ。イシガメは眉根を寄せる。


「仲間? ネズミ?」


 イシガメの手の下で男がしきりに頷く。


「ネズミが持ってった女、追っかけてきたってこと?」


 男が弱々しくこちらを見た。イシガメは呆れる。


「無理だろ、普通に。ネズミから女をとり返したなんて話、聞いたこと…」言いかけてイシガメは例外がいたことを思い出す。


「ヤチネズミ…」


「は?」


 男の言葉を聞き取れなくてイシガメは顔を近付けた。荒い呼吸が耳につくだけだった。

 イシガメは眉根を寄せて考えた。嘘はついてなさそうだ。だが本気で女を追いかけてきたのだとしたら正気ではない。大体、ネズミを追うなら塔だろう。逆方向だ。それにしても、弱い。弱過ぎる。小銃に頼り切っていたらこうなるのか? 本気でこんなのがあのワシか?


「お前、まじでワシか?」


「ワシ?」


 ん?


「お前、どこ?」


「え?」


「え?」


 イシガメと男は目を見合った。あれ? 


「ワシじゃないの?」


「ワシ……」と男は言って首を横に振る。「じゃない」


 イシガメはさらに顔を男に近づけた。


「ならどこだよ。ど、こ、の! 駅から来たんだよ」


 一言一句、区切りを付けて、幼子に言って聞かせるようにイシガメは男に尋ねた。

 男は口を開きかけ、しかし何かを思い出したのか目を泳がせ、そして口を閉じた。


「……ワシじゃあ、ないんだな?」


「違う」


「どこから来たかは言えねえの?」


 無言。


「女の尻、追っかけてここまで来た、と」


「うん」


 と頷いてから「尻?」と男は首を傾げた。

 イシガメは考えた。困った。何だこいつ。こういう場合はどうすりゃいいんだ?

 ワシではないというのは嘘ではなさそうだ。なぜなら弱い。もちろんカエルでもないだろう。このまま放すか? きっと無害だ。しかし小銃はほしいな、とイシガメは思う。今すぐ必要でもないけれども食糧と小銃は獲っておこうか。


 イシガメが決断しかけたその時、視界の端で何かが光った。ふり返るや否や夜より黒い塊が大口を開けて眼前に迫っていた。白く並んだ歯と唾液が星明かりに照らされる。男の髪から手を離し、頭を守ろうと掲げた腕に四本足は噛みついた。助走と突進の勢いに負けてイシガメは四本足と共に男の上から転げ落ちる。砂の上を回った時に鎚を落とした。瓶詰が割れる。左手で四本足の頭を引きはがそうとした。凄い力だ。四本足はイシガメに噛みついたままその頭を滅茶苦茶に振る。両足で黒い体に踏ん張る。離れない。食い込む。


「ワン!」


 男が四本足の背後に立っていた。見ると四本足を羽交い絞めにしている。イシガメから剥がそうとしているようにも見える。


「やめてくれ、ワン! まだもつだろう? 頼むからやめて…」


 肉が、筋が、


「やめろよッ!!」


 男の叫び声と共に四歩足が剥がれた。男は背中から地面に落ち、男の上で空を仰いだ四歩足が高い声で悲鳴をあげる。イシガメは右腕を確認した。脈打つ痛み。皮膚が大分持っていかれた。どくどくと流れる血で中の方はよく見えない。


「大丈夫か?」


 男に声をかけられた。イシガメは驚いて男を見た。男の傍らの四歩足を見た。四本足は低い体勢の

ままイシガメの血を滴らせた口を、長い舌で舐めまわしていた。

 男が膝立ちしながら肩にかけていた鞄を腹の前まで回して中を弄る。目当ての物は見つからなかったらしく、立ち上がり鞄を肩から降ろすと、中身を砂の上に乱暴にぶちまけた。空になった鞄をイシガメの腕に押し当てる。かけ紐をぐるぐると腕に巻き付けていく。

 イシガメは男を見つめた。男はイシガメの視線に気づかずに一心不乱に患部を圧迫している。手当ても得意ではないらしい。


「次はどうしていた? あの時、シュセキ…」


 ぶつぶつ言いながら頭を掻いていた男が突然顔を上げた。イシガメは唇を閉じて顎を引く。


「切断して縫う! 駄目だ、糸が無い」


 外科的処置の確認か?


「廃屋!」


 そう叫ぶと男は周囲をきょろきょろと見回し始めた。そして、


「ワン、ここら辺で廃屋は無いか? なければ研究所みたいな」


 四本足に話しかけている。四本足は口元を執拗に舐めまわしながら男をじっとり見つめるだけだ。男は歯噛みして頭を掻き毟った。


「頼むよ、協力してくれ。君ならどこに何があるかわかるだろう?」


「おい」


 男が勢いよく振り返った。四本足は相変わらず冷めた視線でこちらを見ている。イシガメは四本足を視野に入れつつ男に向かって、


「お前、何?」


「へ?」と間の抜けた声を発して、眉毛をハの字にひん曲げた。



* * * *



 間違えたらしい。

 男はネズミに連れ去られた女を追ってこんな最果てまで(おそらくは迷って)やって来て、イシガメをその女と勘違いしてカエルから助けた。探していた女ではないと気付いて立ち去ろうとしたが、ワン(どうやらあの黒い毛だらけの四本足は『ワン』という名前らしい)がイシガメを狩り始めたから慌てて止めた。何故なら男とワンはまだ食事を必要とするほど腹が減っていなくて、男の理屈からすると、空腹でなければ狩りはしてはいけないから。

 男の話は妙に分かりづらくてイシガメは何度も話の腰を折り、その度に男も何度も言い直しを試みた。滑舌が悪いとかどもっているというわけではない。語彙だ。言葉使いに特徴的な癖がある。知識が馬鹿みたいに乏しい。

 イシガメはワンを見遣った。イシガメの腕の血だけで満足したのだろうか、すっかり瞼を閉じ、鼻と思われる部分から白い息を吐いている。


「……俺が言うのも何だけどさ、」


 焚火ごしにイシガメは口を開いた。穏やかに晴れた星空の下、男が持っていた着火剤を借りてイシガメは火を熾した。ワンに噛まれた腕を診るために光源がほしかったのもある。だがまず状況を整理したかった。炎に向かってぼそぼそと語っていた男がちらりと顔を上げる。


「お前はまず、ワンに感謝しろ。そしてそいつに従え。ワンがいなかったらお前、とっくに死んでるわ」


「え?」と言って男はワンに振り返る。ワンは聞いているのかいないのか、瞼を閉じて白い息を吐いている。


「あんな? 俺はお前を殺そうとしたわけ。お前はもう少しで死んでたの。わかる?」


「君は僕を死なせようとしていたのか?」


「してたべや! え? 気付かない? 俺、そんなに慈悲深く見えた?」


「磁気が深い?」


 駄目だ、こいつ。どうやって今まで生きてきたんだ?


「いや、だから、俺、お前を蹴り倒したべ? 砂に顔、埋めたよな? あの時点でお前、窒息死一歩手前」


「でも君は僕に質問をしていた。答えを引き出すために少々手荒なことをしたんだろう? そういうのは以前にも遭った」


 特徴的な思考回路で、男は男なりの事実を受け止めているのかもしれない。


「腕は?」


 今度は男が尋ねてきた。「腕。ワンが歯を立てた部位の修復具合は?」


 男は自分の腕を擦りながらイシガメの腕を見た。修復って、と引き笑いしながらイシガメは右腕を持ち上げて肘の方を覗きこむ。出血は止まった。外套の端を割いて患部も覆った。痺れるような違和感と、時折走る痛みはまだあるが、大した傷ではないだろう。帰ったらヤマカガシに改めて診てもらおう、とイシガメは思う。


「悪かったな」


 イシガメは患部を確認しながら呟いた。男が「何が?」と言う。


「水。やるって言ったのにここに使っちゃってさ」


 言ってイシガメは右肘を男の方に突き出した。男は眉毛をハの字にして首を傾げた。


「どうして僕に謝罪するんだ?」


「原付よかしてもらった借りの分だったろ。あれはお前の水だった」


「消毒は必要じゃないか。必要な時に必要なものを使わない方がおかしいだろう?」


「俺の気が済まねえよ。それにワンからも、その、…助けてもらったし」


 カエルたちも退けてもらっている。


「ワンが出来る我慢をしないのが悪いんだ。君の気にかけることじゃないよ」


「でもさあ!」


「だったら僕が使ったんだ」


「は?」


 イシガメは顔を前に突き出す。男も同じ分だけ上体を前に傾け、互いの距離が炎に近づいた。


「『僕が』あの水を使ったんだよ。僕が君にあの水を返した。僕が君の損傷個所を消毒してほしくて僕が君に消毒させた。そうしよう」


「…んだよそれ。何のためにお前がそんなことすんだよ」


「君を修復するためにだ」


「だからなんでお前が俺を助けるんだよ!」


「君が死なないためにだ! 死んでほしくなかった。そのために修復で消毒したんだろう?」


 イシガメは押し負けた。こんな弱い奴に気圧されるはずもないし論駁された訳でもないのに。

 男は頭が悪いのだろう。知識量が少ないだけでなく、話をしていて端々からそう思った。だが悪い奴ではない。そうも思う。


「お前、馬鹿だべ」


「『ば…』? え? 『だ…』?」


 男は首を傾げた。イシガメは呆れ、脱力した。

 ワンを見た。目が合う。先とは全く違う表情をしていた。ワンはおそらく、イシガメが男を襲おうとしていたから噛みついてきたのだろう。反りが合わなくても仲間は仲間だ。その感じはイシガメも心当たりがある。


「お前ら、瓶詰、持ってねえんだろ?」


 飲み水さえ持っていなかった。


「何とかするよ。ある程度は我慢する」


「何言ってんだよ、はんかくせえな」


 言ってイシガメは立ち上がった。男とワンが揃ってイシガメを見上げる。


「やるよ。ついて来い」


 男の眉毛がまたハの字になる。


「カエルと水の借りだ」


「『かえ…』?」


「時間は取らせねえって」


 立ち上がった男の肩を軽く叩いて、その手で小銃を掴んだ。「借りっぱなしは性に合わねえんだわ」


「それはコウの小銃…」


「持ってやるよ」


 男は困った顔でイシガメを見つめる。そして背後を振り返り、下を向いた。


「おい、ワン」


 イシガメが呼びかけるとワンは鋭い目つきで立ち上がった。まだ警戒されている。仕方ないのだが。


「お前、こいつに説明してやれや」


「彼は言葉を持たないよ」


「話は通じてんだべ? うちにも似たようなのがいるから大体わかる」


「一ついいですか?」


 突然、男が片手を上げて敬語になった。イシガメは引く。


「…なんすか?」


 つられて敬語っぽくなる。


「先から君の言葉は端々でおかしい。『だべ』とか何とか何を言っているんですか?」


「お前、馬鹿にしてんの?」


「『ばか』ってどういう意味?」


「ああそっか。お前、馬鹿なんだよな」


 言ってイシガメは息を吐いた。ワンと目が合う。何となく通じ合う。


「だから『ばか』って…」


「方言だ、方言。気にすんな」


 追い払うように手の甲を男の目の前で振った。男は不服そうだ。


「その『ほうげん』というのは…」


「んなことより、」


 男の言葉を遮ってイシガメは振り返る。男は不服そうに唇を尖らせつつも顎を引く。


「なんでいきなし敬語になんの?」


「君たちは敬語で質問した方が答えるだろう?」


 当然だろう、と言わんばかりに男は胸を張る。『君たち』とは他の誰を指すのか。なんか面倒臭いな、とイシガメはうんざりし、はいはい、と言って背を向けた。

 しかしもう一つ思い出して振り返る。


「お前、名前は?」


「名前…」


「俺はイシガメ。そっちはワンだろ? お前は?」


 男は俯き、目を泳がせた。秘密の多い奴だ。


「じゃあ、何て呼べばいい? 道中、困んだろ? 名前無いと」


「…ジュウゴ」


「ああ?」


「皆にはいつも『ジュウゴ』と呼ばれている」


 意外な言葉にイシガメは身を乗り出す。



「お前、ワンの他に仲間いたの?」


「ワンは仲間じゃないよ」


 さらに意外な返答にイシガメは顔を突き出す。


「いや、仲間だべや、どう見ても。こいつ、なんまお前のこと…」


「彼は僕のことを許さないだろうし、きっと僕には死んでほしいと思っているだろうから」


 ワンが立ち上がり、ジュウゴを見ずに歩き始めた。

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