14-10 喧嘩
「ジュウゴ!」
ナナは横たわって歯を噛みしめるジュウゴのそばに膝をついた。頬が赤い。唇の端から流血している。ジュウゴ自身は腹を抱えている。
どこに接触すれば良いのかわからなかった。接触の方法によっては損傷を修復することが可能だということはわかっているのに、どこが一番ひどいのか、何から修復すべきなのか、ジュウゴの損傷はあまりにひどくてナナは用意した両手を胸の前で持てあます。
ジュウイチがよろけながら入ってきた。初めて自分がここに導かれた時と同様に乱暴な扱いを受けたのだろう。ナナは扉の方を見る。包帯の男と目が合って、扉が閉まった。
ジュウイチの呻き声に、ナナは視線と意識を引き戻す。
「あなたは大丈夫? 損傷は? 痛みは…」
「僕は特に。接触は大体全部ジュウゴが引き受けていたから」
ジュウイチは言いながら顔を上げ、肩を竦めて身を寄せてきた。
「ここどこ? あれ何?」
ナナはジュウイチの視線の先を追ってから向き直る。
「彼らはスズメよ。あの古びた男はセッカ。髪の長い女がセンニュウでその横がヨシキリ。彼らは隣の駅の地下に住む者と言っていたけれども先の男たちとは違って…」
言い淀む。先の男たちはナナを初めにここへ連れてきた男たちと同じように乱暴で意地悪だった。でも彼だけは違った。左足首をさする。不器用に巻かれた布からはみ出た金属の板が冷たい。
「ち…、ちか? 地下ぁ!?」
ジュウイチが腰を落として手をついて、後ろ向きにすり寄ってきた。ナナはジュウイチの肩に手を置く。
「大丈夫。彼らは違うの。わたしたちに危害を加えることはないわ」
「でもち、地下って君…」と振り返ったジュウイチは、今度は悲鳴を上げてナナから離れた。
「せ、接触!」
言いながらジュウイチは頬を袖口で拭っている。
「大丈夫よ。接触の方法によっては損傷をしゅ…」
「気をつけてくれ!」
ナナは推察と検証から得た新しい情報をジュウイチに教えようとしたが、ジュウイチから返ってきたのは拒絶の一言だった。
「仲間を連れて来たのか?」
セッカが言った。ジュウイチは再び悲鳴をあげる。
セッカはナナたちをまじまじと見た後で、深いため息を吐いた。
「上に出られた……わけないか。でなきゃそこから戻って来ないもんね」
期待を持って覗きこんできたセンニュウは、尋ね終える前に自ら結論を出してセッカ同様に肩を落とす。
「な、ナナなん、…のはなし……?」
ジュウイチが怯えながら尋ねてきたから、「彼らは大丈夫よ」とナナは答えた。
「出たわ、地上に。ちょうど太陽が昇るところだった」
ナナの言葉にスズメたちがどよめく。センニュウが再び覗きこんでくる。
「本当に? 本当に出れたの?」
ナナの腕を握りしめて揺さぶる様にして尋ねてきた。されるがままに揺れながらナナはもう一度力強く頷く。
「セッカさん!」
センニュウが立ち上がった。すかさず今度はナナがセンニュウの裾を掴む。つんのめったセンニュウはあからさまに眉毛を吊り上げて振り返ったが、ナナはそのまま両手でセンニュウに縋りついた。
「地上には出られるわ。道も覚えている。全部教えるからお願い、彼を修復して。お願い、どこを接触したらいいのかわたし…!」
再び扉が開けられて明かりが射しこんだ。スズメたちもナナも全員がそちらを向く。ジュウイチのように前のめりになって放り込まれてきたのは、
「ナナッ!」
サンだった。サンはナナに飛びつき首に腕を回すと、全身で接触してきた。
「サン?」
ナナは驚きつつも顔を上げる。
「シュセキ、ジュウシも…」
「何があった」
シュセキがジュウゴに早足で歩み寄った。
「どうした。腹でも下したか。排泄か。答えろ」
「君たち!」
ジュウイチが立ち上がる。
「何だよ、支援係とか言いながら! 一体どこに行っていたんだよ! こっちは散々な目にあったんだぞ! どうしてくれるんだ」
「ハチは?」
ナナは尋ねた。力を緩めたサンの肩を押し離し、そのまま揺さぶる。
「ハチは? どうしてハチがいないの? ハチは大丈夫なの? ちゃんと修復した?」
「ハチは……」
視線を逸らしたサンが言い淀む。「ハチは?」ナナはその顔を覗きこむ。
「寝て、る。ネズミの……」
ジュウゴが咳込みながら半身を起こした。サンは目をぎゅっとつむると正面からナナを見据えて言った。
「うん、ハチは眠っているの。損傷も、……もう苦しんでいない。あなたが戻るのを待っているわ。だから早くハチを迎えに行きましょう?」
「苦しんでない?」
ナナは再度確認した。サンは視線を逸らしてから「苦しんでない」と繰り返した。
「良かった……」
どっと力が抜けた。ハチもジュウゴも良かった。本当に、ほんとうに、
「よかった、よかったハチ……」
ナナはその場で泣き崩れた。
「あまり待たせても仕方ない」
シュセキが言ってジュウゴを見下ろす。
「君も動けるなら早く立て。時間は限られている」
「動けるよ。動けるけどさ、」
ジュウゴが腹を押さえながら胡坐になって息を吐いた。そしてシュセキとジュウシを交互に睨みつけ、
「支援係? どこで何を支援したんだ?」
嫌味ったらしく憎々しげに目を細めた。
「サンと合流していた」
シュセキの回答にジュウゴはサンにがばりと振り向く。それから、
「それなら仕方ないね」
言って眩しそうに微笑んだ。
「撃たれたのか」
シュセキがジュウゴに尋ねる。
「腹は足だよ」
ジュウゴに代わってジュウイチが答える。
「小銃は使われなかったけれども手でまず顔、もう一回顔、それから腹を足で、倒れてからまた顔を足、だったかな」
「蹴られたのね」
サンが言ってジュウイチが怪訝な顔を突き出した。サンは少し考えてから、
「直接足で、相手に強い衝撃を与える接触をした?」
「ああ、うん。そんな感じだったかな。ねえ?」
ジュウイチに同意を求められてナナは頷いた。
「わたしのせいなの」
言って頭を下げる。ジュウゴが振り返る。
「わたしが地下の男たちに夜汽車って疑われて、掴まれて動けなくて、ジュウゴはわたしを解放するために飛びだしてくれたの。わたしは腕を離されたけれども反対にジュウゴがこんなになるまで……」
恐ろしかった。ジュウゴが壊されると思った。ハチみたいに呻いて動かなくなって、腹を押さえたまま呼吸も詰まって顔色も悪くなって。
「ごめんなさい」
わたしがあの時、ジュウゴを頼ってしまったから。わたしがあの時、ジュウゴを呼んでしまったから。
「ごめんなさい、わたしのせいで、わたしの…」
「君のせいではないだろう」
シュセキが冷たく遮った。
「恐らく彼が損傷したのは彼の責任だ。あらかた無策で無防備に無茶でもしたのだろう」
「うん」
ジュウイチも頷く。
「いつものことと言うか、いつも通りだったよ」
「君が言うか?」
ジュウゴが立ち上がってジュウイチに怒鳴り始めた。
「何もしなかった君が何を偉そうに講釈垂れているんだよ。あの場であのまま見過ごしていたらナナはどうなるかわからなかっただろう? ハチみたいに損壊して動けなくなっていたらどうするつもりだったんだ。結果的に僕は痛いけれども動けるし間違ってなかったじゃないか!」
ジュウイチも立ち上がる。
「僕は止めたろう? 支援係を待って知恵を出し合って、万全の策を練ってナナを奪い返そうって。それなのに君ときたら僕の制止を聞かないで喚きながら飛び出して行って。おかげで僕も見つかって皆まとめてこんなところに来てしまったんじゃないか」
言って思い出したのだろう。ジュウイチは周囲を見やりながら肩を竦めた。
「その支援係がいなかったんだから仕方ないじゃないか。だから僕たちだけで…!」
「支援出来なかった。僕の責任だ」
シュセキがジュウゴを遮ってジュウイチに言った。シュセキに睨まれたジュウイチは気まずそうに顔を逸らす。
「別に君の責任だとは一言も……」
もごもごと尻すぼみになって、やがて唇を閉じて尖らせた。
「僕に対する態度と全然違う!」
ジュウゴがジュウイチに向かって声を荒らげたが、
「既に地上は昼だそうだ。夜までに戻るのではなかったか」
シュセキの言葉に、やはりジュウゴも唇を尖らせて押し黙った。
ようやく男子たちの言い争いが収まったが、その争いの原因も自分にあるとナナは思った。自分があの時、不注意に地下に住む者にここまで運ばれたりしなければ、皆だってこんなところに来たりしなかっただろう。こんなに雰囲気を悪くしたのも、ジュウゴが損傷したのも、サンの様子がおかしいのも、ハチが苦しんだのも、全部、ぜんぶわたしの……!
「話は終わった?」
センニュウに覗きこまれた。ナナは俯き隠れて目元を拭う。
「出れるんでしょう? 早く道を教えなさいよ」
「その前になんでここに戻って来たかだ」
セッカが言った。
「地上に出たとしてもあいつらに連れ戻されるんじゃあ意味無いしな」
「何の話?」
ジュウゴが尋ねてきた。
ナナはスズメと夜汽車の生徒を見回して、一から順を追って説明した。
* *
「難しいな」
セッカが顎を擦りながら呟いた。ナナは予想外の反応に戸惑う。
「どうして? 道順を探して来いと言ったのはあなたでしょう? 確かに難しい順路だし歩くのが下手なあなたには険しい道のりかもしれないけれども…」
「口の利き方気をつけなさい。今度セッカさんに失礼な事言ったら許さないわよ」
スズメの女が静かに凄む。
別に失礼なことを言った覚えも許されない場合にどうなるのかもわからなかったが、とりあえずナナは口を閉じた。
「どんだけいると思ってる」
セッカが続ける。
「仮にその穴から全員出られたとしても奴らの前を通らねばならないんだろ? さらに昇降機は五台。順番に登っているうちに後の奴は捕まる。地上に出たとしても移動手段は徒歩か? 焼かれて死ぬのがおちだ。もっとましな方法は見つからなかったのか」
そんな言い方しなくてもいいのに。ナナは悲しくなる。
「でも地上にはちゃんと…」
「だったら始めから君が行けばよかったんだ。自分で自分の求めるものを確実に見つけられるだろう?」
ジュウゴが言った。ナナは驚く。
「ちょっと夜汽車! セッカさんに向かって…」
「セッカサンが何なのか敬語を使えばいいのか僕にはわからないけれども、話を聞いていたら危険を冒して時間と労力を費やしたのはナナだけじゃないか。だったら君たちはナナの功績に敬意を払うべきだ」
スズメたちが一瞬静まった。だがすぐに、
「夜汽車の分際で偉そうに!」
「調子に乗るんじゃないわよ!」
ジュウゴは四方から非難を浴びることになる。ナナにはスズメたちの言っている内容が理解出来ないが、悪意を込めて罵られていることだけは肌で感じた。そして数が多いだけジュウゴは劣勢だった。だが言い負かされると分かっていてもジュウゴは、
「うるさいのはそっちだろう! そんなに文句を垂れているなら自分でやってみろよ!」
絶対に引き下がらない。
「ジュウゴいいの。やめて」
ナナはジュウゴの袖にすがった。
「ここで彼らと言い争っても何もないわ。彼らはこの地下の男たちと違ってとても友好的よ。わたしにも優しかった。互いに地上に出ることが目的なのだから協力し合うべきでしょう?」
「君はここまで貶されてそのままでいいの!?」
「いいの!!」
ナナが声を張り上げてジュウゴはようやく口を閉じる。
「いいの。だからもう怒らないで。お願い」
「……わかったよ」
渋々ジュウゴが腰を下ろした。
「だが実際、」
それまで黙ってナナの話を聞いていたシュセキが口を開いた。
「君の言った道程ではこの場にいる全員が地上に出るのは現実的ではない」
「そうなの?」
ジュウゴが尋ねる。
「理由は自分で考えろ」
にべもない。
「それに電気が灯っている場所を通ることはできないわ」
サンが不思議なことを口にした。
「どうして?」
ジュウイチが尋ねる。
シュセキとサンが目配せし、同時にジュウシを見た。そう言えばここに来てから一言も発していない。ナナも気にはなっていたが話しかけられる雰囲気ではなかった。
「そうだ。君たちはどうやってここに来たの?」
ジュウゴがサンたちに尋ねる。サンが困った顔をして、シュセキが答えようと口を開いた時、
「アイだよ」
ジュウシが言った。
口に出してしまってからはっとした。顔を上げると皆が僕に注目していた。伏し目がちのシュセキ、怪訝そうなジュウゴとジュウイチ、全く理解していないナナ、サンは同情の眼差しだ。
「いや違う。違うんだ」
自分で言っておきながら自分で否定する。そんなはずない。アイが、だって、
「故障しているんだよ、ネズミの襲撃を受けて。会話も不安定だったし少しおかしかった。だから多分…」
「僕が見た限り、」
シュセキが口を開いた。僕はシュセキに訴える。頼むからそれ以上はやめてくれ、と。しかし、
「アイはこの地下に住む者たちに使用されている」
シュセキは僕を見ないで言い切った。
「あ」とか「ふえ?」とか「はあ?」とか。間の抜けた空気みたいな声が聞こえた。僕は慌てて訂正する。
「違うよ! そんなはずないじゃないか、何かの間違いだよ。だからきっと故障しているんだ。アイもきっと不本意で…」
「わたしも聞いた」
ナナが呟き、それから目を見開いて顔を上げた。
「地下の男たちがアイを呼びだして、アイが返事をしていたわ」
嘘だ。
「嘘だろう?」
ナナは首を横に振る。
「信じられなかった。けれどもあれはアイの声だった」
「ちょっと待って!」
ジュウゴが大声を出して立ち上がる。
「つまり、………どういうこと?」
ジュウゴは一同を見回して最後に僕を見た。彼の質問に説明するのは大概いつも僕の役目みたいになっているから。
ジュウゴに見つめられる。とても待たれている。でも何と言えばいい? 口に出してしまえば認めたことになるし、何も言わなくてもサンを肯定しているようなものだし。
「君らしくない。落ち着け」
隣でシュセキが呟いた。僕を見ないで真っ直ぐ正面を見据えている。
「ジュウシ?」
ジュウゴにさらに促されたが、僕は顔を背けるだけで精一杯だった。
「僕から説明する」
言ってシュセキが語り始めた。サンの同情の眼差しがわずらわしい。
* *
ジュウゴが頭を掻き毟りながら考えをまとめようと努力している。
「……でも僕たちがナナと合流した時は、アイには一度も会わなかった。僕たちは地下に住む者に殴られて、け、けえ…」
「蹴られて?」
サンが未習熟単語をジュウゴに教えて、ジュウゴが大きく頷く。
「それされて、痛くて思うように動けないうちにここに運ばれてきたんだ。アイは関係ないよ」
「だが僕たちはアイが呼びだした地下に住む者たちに強制的に連れられてここまで来た」
シュセキの言いきりにジュウゴが唇をへの字に結ぶ。
「その状況だとそういうことになるね」
ジュウイチまでもがシュセキの話を納得した。彼だけは夜汽車を、アイを信じていると思っていた僕は予想が外れて戸惑う。
「確かに今日のアイは始業前から変だったかも」
ナナまでそんなことを言いだした。サンが頷くように下を向く。
「ちょっ…、ちょっと待ってよ!」
僕は叫んだ。
「全部今日だけの話ばかりじゃないか。しかもネズミの襲撃を受けた後の、明らかに故障だと分かる事例ばかりだ。
それよりもネズミに襲撃された時のことを思い出してよ。『伏せてください』と言って僕たちを爆風から遮ってくれたのは誰だ? あの時、アイがいなかったらハチ以外にももっと損傷者がでていたはずだ」
「確かに」
ジュウゴが頷く。僕も大きく頷く。
「それに僕たちがここに来る前にこの地下でアイと会話したのは事実だけれども、アイが地下に住む者を呼んだという証拠はない。たまたまアイが何らかの目的を持って発した電子音に、たまたま地下に住む者が耳障りだと言って集まってきただけかもしれないし、僕たちだろうと地下に住む者だろうと質問を投げかければ回答してくるのはアイの性質だ。アイと彼らが質疑応答していたというだけでアイが彼らに従事しているとは限らないだろう? それに…」
「それは厳しいと思う」
サンが小さな声で言った。何だよ、何がだよ、何なんだよ、
「言いたいことがあるならはっきり言えよ!」
「ジュウシ! そんな言い方…」
ジュウゴが仲裁を試みたようだがサンは僕をじっと見据えてきた。
「アイがあの時、何と言ったか覚えている? ナナを探していると言った私たちに『ナナの元に行きましょう』と言ったのよ。
もしもナナの居場所を知っていて会わせてくれるというならその居場所を教えてくれればいいだけじゃない。行き方、道順を。地下は入り組んでいて迷いそうだけれども説明はアイの存在意義でしょう? 何ならナナの元まで音声ででも映像ででも導いてくれれば済むことだわ。それなのにアイはあんな電子音を発した。
偶々じゃない。明らかに彼らを呼ぶための物だった」
そんなこと……。
「その後に言ったことも覚えている? 『侵入者確保』って。『全員夜汽車』って。
ナナたちの元には映像も音声も出さなかったのかもしれないけれども、確実に私たち全員の行動を監視していたということでしょう? その私たちの動向を地下に住む者に報告していたでしょう?
故障じゃない。今日だけじゃない。彼ら、あんなにアイを使いこなしていたじゃない。一朝一夕で出来ることじゃないわ。アイはきっとずっと前から彼らと結託して私たちを…」
「違うッ! そんなことない!!」
「私たちを地下に住む者に提供しようとしていたのよ!」
「はぁあ!? 何だよそれ。それこそ何のために!?」
「ジュウシ……」
ジュウゴに気遣われた。僕はその視線から逃れて俯く。嘘だ。そんなはずない。けれども、いやでも……。否定と疑念が頭の中で渦を巻く。だってアイは、だってずっと僕たちを……。
「あんたらの言っているのは義脳のことか?」
ただ一つの椅子に座っている男が口を出してきた。ナナがセッカと呼んでいた男だが、僕は無視しようとした。しかし、
「地下に…、君たちもアイのことをそう呼ぶの?」
ジュウゴが反応した。
「地下でもアイはいるの? 君たちもアイの授業をうけているの?」
黙っておけよ。ネズミといいこの部屋の彼らといい、なんでそんなに即座に打ち解けてしまうんだよ。
「ちょっとあんた! せめて敬語!」
女のきんきんした声に注文をつけられて、
「アイは地下でも、あなた方のためにも働いているんですか?」
ジュウゴは律儀に敬語で質問し直した。
「働くというか……」
セッカは目頭を指先で揉みながら鼻の奥で唸る。
「うちにはない。多分他所にもない。最近はどうか知らんが、昔は塔が占有してた」
「よく理解出来ません。つまりどういうことですか?」
ジュウゴは完全に授業の態度だ。僕はため息をつく。
「かつてアイは塔と夜汽車にしかいなかった。おそらく今も他の地下にはいない。けれども最近になってこの地下に住む者たちが導入し始めた、と言うことだろう? 多分」
僕は僕なりの解釈をジュウゴに話す。ジュウゴは「そういうことですか?」とセッカに尋ねる。
「概ねそいつの言うとおりだ」とセッカが頷く。
「最近ってどれくらい最近……」ジュウイチが語尾を濁しておずおず言った。
「どのくらい?」
セッカは鼻の奥で唸りながら固まってしまったが、「そこまではなあ」と言って顔を上げた。
「ここの奴らがいつから義脳を使い始めたのかまでは知らない。ただ八年前よりは最近だ。塔に取り入ったあいつのしそうなことだ」
「ハチ?」
「『ねん』?」
ナナが首を傾げ、ジュウイチが首から上を突き出す。ジュウゴが片手を上げて、
「『はちねん』って何ですか?」
皆の疑問を代表して尋ねた。
呆れ顔の女たちが気の抜けた息を吐いた。セッカが目を丸くしている。「あんたたち、本ッ当になんにも知らない…」言いかけたセンニュウをセッカの説明が遮る。
「三六五日を一年として括ってんだ。一年経つごとに皆一歳年をとる。ここまではわかるか?」
「三六五日……」
ということは、
「およそ一三周だ」
算出する前にシュセキに答えられる。
「その『とし』はどこからどうやって入手するんですか?」
ジュウゴがさらに質問した。セッカが口を開けたまま固まる。
「説明するだけ無駄よ、きっと」
セッカの傍らの女が言った。「まあな。わかってはいたんだが」とセッカが首を振った。
「スズメは二さい」
いつの間にかセッカのそばにいた少女が僕たちの横にいて、指を二本立てて言った。目の前に指を突き出されたジュウイチは少し考えて、
「二六周ってこと? なら僕の方が長いね。少なくとも僕は二六周以上は夜汽車に乗っているよ」
「じゃあおにいちゃんのかち?」
少女に尋ねられてジュウイチは戸惑う。ちらりと視線を向けられたが、僕だって何の話かわからない。
「スズメ、こっち来い」
セッカが少女に向かって言ったが、少女はジュウイチに向かって「かち? ねえ、スズメのかち?」と繰り返す。
「別に勝たなくてもいいけど……」
「じゃあスズメのかち?」
ジュウイチが困ったように笑った時、
「スズメ!」
セッカが怒鳴った。
「そうだね、そういうことにしよう」
言ってジュウイチは立ち上がる。そして少女をくるりと回し、その背中を押してセッカの方に追いやった。
「君、呼ばれているみたいだよ。あっちに行った方がいいんじゃない?」
「ねえ、スズメのかち?」
「スズメ!!」
そそくさと僕たちの元に戻ってきたジュウイチは、腰を下ろしながら誰にともなく尋ねる。
「『オニイチャン』って何だろうね?」
だから僕は知らないって。
「何かの掛け声じゃないのか?」
ジュウゴが答える。
「掛け声っぽくはなかったよ」
ジュウイチが刺々しく応じる。
「名前だと思うわ、きっと」
サンが答えた。僕は彼女を見つめる。
「……何?」
サンは僕の視線に気づいて睨みつけてきた。
「いや別に。ただ君は授業で習ってもいない言葉をたくさん知っていてすごいな、と思っただけだよ」
サンが目を見開いて唇をきつく結んだ。ジャコウネズミに言われたことを思い出す。
―あの女、地下じゃねえの?―
「君はアイが僕たちに嘘をついていると言うけれども、僕は君の方がそうだと思うよ」
「何の話?」
ジュウゴが僕たちを見比べて疑問を口にした。ナナが首を傾げる横で、サンが目を逸らす。ジャコウネズミは正しかったのだろう。僕は拳を握りしめて一気に畳みかけた。
「君は何かと言うとアイを否定してアイの方針に逆らうだろう? 何故だろうってずっと不思議だった。なぜそれほどアイのことを侮辱するんだろうって、なぜそこまでアイに対する皆の不審を煽るんだろうって。
考えてみればいつもそうだ。いつも君は何かと言うとアイを差し置いて僕たちだけで行動するよう焚きつける。いつもだ。いつだって君の一言で皆の気持ちが流されるんだ。でもその理由がわかったよ。アイに濡れ衣を着せるためだったんだ!」
「何それ……」
サンが目を見開いて僕を見つめる。随分間の抜けた声で僕は若干、拍子抜けした。普段は無表情を装っているが本気で驚いて思わず声を上げてしまったとでも言わんばかりだ。
だがこれも彼女の策略なのだろう。しらばっくれれば逃げられるとでも思っているか。僕は顎を引く。
「本当は僕たちを地下に誘導しようとしていたのは君だったんじゃないかということだよ。何故なら君自身が…!」
「彼女が何だろうと!!」
シュセキが怒鳴った。僕は驚いて息を止める。
僕以外も同じだったようだ。皆、瞬きを忘れてシュセキを見つめていた。
「彼女は夜汽車だ」
言ってシュセキは僕を睨みつけた。
「それが事実だ」
僕は立ち上がってシュセキの腕を掴み、皆から外れて壁際に押しつけた。シュセキは眼鏡の奥から僕を凝視してくる。僕も負けない。ここは譲れない。
「彼女は地下だ。地下から来た。思い出したんだ」
「だったら何だ」
「だったら?」
僕は目を見張る。
「大問題だよ! 彼女は夜汽車じゃない、彼女は地下に住む者なんだ。僕を撃ってジュウゴを殴ってナナやハチを負傷させた者たちと同じということだ」
「それは地下に住む者がしたことだ。彼女は何もしていない」
「しただろう! 僕たちをここに誘導したのは彼女だ」
「確証はあるのか。物的証拠は。そうだと言い切れる理論は」
「山ほどある! 彼女がネズミの自動二輪を勝手に乗って出て行ったりしなければ僕たちはこんなところに来なかった。彼女が僕たちを誘導したんだ」
全ては計算の内だった。
「ネズミへの返信だってそうだ。あの時は大多数が通信を無視しようという意見にまとまりかけていた。それなのに彼女が『やってみよう』とか無謀な事を言い始めたから女子たちが乗っかった。女子は群がる性質を巧みに使った誘導だ。あと…」
「違う」
シュセキが言い捨てた。腹立たしそうに眉間に皺を寄せて、悔しそうに歯を食いしばって。
……何だよ、なんでそんな顔するんだよ、
「どう違うんだよ!」
「君が言っているのは全て結果論だ」
シュセキが息を吐いた。結果論?
「なんで? 僕の理論が破綻しているとでも?」
「破綻している。気付かないのか」
「気づかないよ! どこがだよ!!」
シュセキは眼鏡を外して両目を手の甲で揉みほぐし始めた。僕は彼の腕を解放する。空になった拳は自分の爪が食いこんで、少し痛みを覚える。
「彼女が、サンがネズミたちの元を去ったのはナナを探すためだ。現にそう言っていただろう」
「でも、」
「ナナが地下に住む者に持ち去られたことこそ偶然だった。もしあれさえも彼女が誘導したことだというならば、その方法を説明しろ。あの時、四輪駆動車の上で立ち上がって座席を移動すると言ったのはナナだ。そのナナを取り返そうと駆け出した彼女は本気だった」
「けど!」
「最後尾の車両のことは僕も覚えている。確かに彼女の一声で皆の気持ちは揺らいだ。あれは誘導と呼んでもおかしくない」
「だったらッ!」
「だが最終的に決めたのは僕たちだろう。そもそも新月のあの時間を見つけたのも皆に集合をかけたのも僕だ。君は僕が皆をここに連れてくるためにあの時から画策していたと言うのか」
「それは……、……ないだろう」
絶対ない。
「なら気づいてくれ。例え彼女が皆を誘導することに長けていたとしても、例え彼女の思惑が僕たちの行動を左右していたとしても、彼女だけの力でここまで僕たちが来たとは考え難い。限りなく不可能だ。何故なら僕たちは皆、各々思い思いに行動して思考して決断していたはずだ。それとも君は君自身で何も考えなかったか。一切合切決断を他者に、彼女に押しつけてきたか」
そんなことも、ない。
「君の言うことも……、理解出来る」
まだ彼女への不信は拭いされないけれども。
「そもそも君が、」
言いかけてシュセキは息を吐いた。
「……何だよ」
気になる。
「そこまで言ったなら言えよ」
シュセキは一瞬躊躇ったようだが、完全に下を向くと観念したように息を吐いた。
「君がそんなでどうする。頼むからしっかりしてくれ」
微動だにせずに、声だけ震わせて頭頂部が言った。
思えば夜汽車を降りてから重要な決断は皆、彼に頼り切っていたかもしれない。ジュウゴはもちろん、ジュウイチも、ナナも僕も。顔色一つ変えずに質問事項には何だって答えるから僕たちはつい忘れがちだったが、シュセキだって相当の疲労が溜まっていたのだろう。重圧に耐えていたのかもしれない。『ジュウイチとは間が持たない』などと自分本位な理由で何かを決めるなど、彼らしからぬ行動も垣間見えていたはずなのに。
「……ごめん」
「とりあえず落ち着け」
「ごめん」
いや、と呟いてシュセキは顔を上げ、眼鏡をかけると横を向いて息を吐いた。僕は面目なくて俯く。
「僕もサンはそんなことしないと思うよ」
知らぬ間にいたジュウゴが口を開いて、僕は思わず飛び上がりそうになった。シュセキはとことん煩わしそうに顔を歪める。
「いつからいたんだ?」
僕は胸を押さえながら尋ねた。ジュウゴは肩を竦めながら頭を掻き、
「サンが皆を誘導したとか、結果論とか」
割と最初から聞いていたのか。
「いるなら言えよ。びっくりするだろう」
「声をかけただろう、今」
出た。開き直り。
「君は本当にそんなことを考えていたのか?」
ジュウゴが不安そうに僕を覗きこんできた。
「話は終わった。もういいだろう、戻るぞ」
シュセキが言う。しかし、
「終わってないよ。気になるじゃないか」
「君の興味の話はしていない。余計な事を言うな」
シュセキは立ち去りかけたがジュウゴは僕の正面に回り込んできた。そして、
「確かににわかには信じられないよ。でも状況を見る限りサンではなくあ…」
シュセキが上半身を半回転させてジュウゴの頬を拳で強烈に接触し…、殴った。ジュウゴは弧を描くようにして床に倒れ込む。
僕は目の前で起こった一連の現象こそが信じられなくて、倒れ込んだジュウゴを見た後でシュセキに振り返った。シュセキは肩で呼吸しながら自分の拳を見つめ、開いて、閉じて、そしてジュウゴを見下ろした。
「話は終わった。今はもういい。君はいちいち余計なのだ」
「なにするんだよッ!」
「手っ取り早く相手を黙らせる方法だ。ネズミから教わったことだ。君も幾つも教わっていただろう」
「ハツはこんなことしない!」
「習ったことを実践することの何が悪い!」
「何をしているの!?」
ナナがひょこひょこと片足を引きずって駆け寄ってきた。
「やめてよ、ねえ!」
だがジュウゴたちは振り向きもしない。
「自分で自分を実践すればいいだろう? 僕を使うなよ」
「『自分で自分に』だ。相変わらず言葉一つ使いこなせない低能さだな。君にはほとほと呆れかえる。全く付き合いきれない」
「誰も君に付き合えなんて頼んだ覚えは一度もない!」
「記憶力が悪いな。いや、全て悪い。頭が悪い。全部君が悪い!!」
「シュセキ??」
ナナがぽかんとして止まった。僕もシュセキをまじまじと見る。彼らしからぬ、それこそ破綻した根も葉もない言いがかりだ。
「君だって悪い!」
ジュウゴも叫ぶ。
「君なんて全部……目付きが悪い、姿勢も悪い、性格悪い、最悪だ!!」
「ジュウシ! 彼らを止めて、お願い!」
ナナに揺さぶられて我に返った。
「ごめん。見とれていた……」
「何に!?」
正確には呆気に取られていた。いや、やはり見とれていたと言った方がしっくりくる。シュセキの接しょ……殴る姿が、無駄のない美しい動きに見えて思わず見とれていた。
ナナが悲鳴をあげた。僕は片足を上げて転がってきたシュセキを避ける。
「手よりも足の方が威力があって断然痛い。地下に来て教わったことだ」
全身を使って呼吸をしながらジュウゴが言った。シュセキが腹を押さえながら起き上る。
「シュセキ、もうやめ…」
「なるほど。確かに痛い」
言ってシュセキは勢いよく立ち上がり、さらにジュウゴに殴りかかった。今度はジュウゴも踏みとどまり、シュセキの頬を殴り返す。質量のあるものを床に落とした時のよう、低くて硬質で、でも粘着質な音が幾度となく繰り返される。
「ジュウシってば! 止めてよ、お願い!」
「お、落ち着けって…」
「ちょっとシュセキ! ジュウゴぉッ!!」




