〈第1話〉忘れられた夜の、忘れられない奇跡
午前3時。
それは、ほとんどの人が眠りにつき、街が静寂に包まれる時間。
けれど、そんな夜更けにも、誰にも言えない悩みを抱え、一人きりで涙を流している女の子たちがいます。
もし、そんな女の子が午前3時ちょうどに、とある配信アプリへログインしたら……。
おすすめ欄に、見知らぬ配信者の名前が現れるかもしれません。
その名は、「けっさく」。
そこには、雪国の夜職のお姉さん「へい師匠」、関西のマッサージ屋さん「あさくらん」、そして素性の知れない暴れん坊お姉さん「キャプテン」など、少し変わった仲間たちが集まっています。
彼らは特別な魔法使いでも、神様でもありません。
ただ、悩める女の子の話に耳を傾け、時には笑わせ、時には一緒に考え、そっと背中を押してくれる人たちです。
しかし、この配信には、一つだけ不思議な秘密があります。
救われた女の子たちは、配信で過ごした時間をすべて忘れてしまうのです。
誰と話したのか。
どんな言葉をかけてもらったのか。
どうして、あんなに泣いて、あんなに笑ったのか。
何一つ、思い出すことはできません。
それでも、彼女たちの心には、確かに何かが残っているのです。
これは、誰にも知られることのない、午前3時の小さな奇跡の物語。
そして、名前さえ忘れられてしまう人々が、見返りを求めず、誰かの幸せを願い続ける物語です。
今夜も、どこかで一人の女の子が、スマートフォンを握りしめています。
もし、あなたが午前3時にその配信を見つけたなら。
それはきっと、偶然ではありません。
ようこそ。
『配信者・けっさくの導き 〜午前3時のシンデレラ〜』へ。
9m 33s考えました
### 配信者・けっさくの導き
〜午前3時のシンデレラ〜
### 第1話 忘れられた夜の、忘れられない奇跡
### 第一章 誰にも届かない声
その夜、水瀬美緒は、自分がこの世界から少しずつ消えていくような気がしていた。
十七歳。高校二年生。
特別に目立つ女の子ではなかった。かといって、教室の隅でいつも一人ぼっちだったわけでもない。友達と笑い合うこともあれば、くだらない冗談を言って先生に注意されることもある。放課後には友達とコンビニに寄り、新発売のお菓子を買って、どうでもいい話をしながら帰る。
そんな、ごく普通の高校生活を送っていた。
少なくとも、一週間前までは。
午後十一時四十分。
机の上には、開かれたままの数学の教科書と、芯の折れたシャープペンシルが転がっていた。勉強をしようと思って机に向かったのは、もう三時間以上も前のことである。
しかし、美緒は一問も解いていなかった。
窓の外では、細かな雨が降っている。
街灯に照らされた雨粒が、暗い空中を白い糸のように落ちていた。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
クラスのグループチャットだった。
『明日の体育って体育館だっけ?』
『たぶん外じゃね』
『雨なら体育館っしょ』
楽しそうなやり取りが続いている。
そこには、美緒が一週間前まで当たり前のように参加していた日常があった。
誰かが冗談を言えば笑い、分からない問題があれば教え合い、週末には遊びに行く約束をする。
そんな場所だったはずなのに。
今の美緒には、その画面を開くことさえ恐ろしかった。
通知を消そうとした指が、途中で止まる。
少し前に届いたメッセージが、頭の中によみがえった。
『美緒って、なんか怖くない?』
『分かる。ああいうの書いてるんだ』
『悲劇のヒロインみたいw』
そして、最後に送られてきた、たった一行。
『もう学校来なくてよくね?』
美緒はスマートフォンを伏せた。
何度読み返しても、文字は変わらない。
どれだけ祈っても、その言葉が送られなかったことにはならない。
彼女が学校に行けなくなったのは、四日前だった。
始まりは、一冊の小さなノートだった。
美緒は小さい頃から、絵を描くことが好きだった。
風景画でも、人物画でも、漫画のような落書きでもよかった。
鉛筆一本あれば、退屈な時間も楽しい時間に変わった。
特に好きだったのは、何でもない日常を描くことだった。
誰もいない夕方の教室。雨上がりのバス停。駅のホームで電車を待つ人。冬の朝、白い息を吐きながら歩いている女子高生。
他人にとっては何でもない景色でも、美緒には不思議と輝いて見えた。
彼女は、その絵の横に、ときどき短い文章を書き添えていた。
『今日も一日、頑張って笑った』
『本当は少しだけ、誰かに気づいてほしかった』
『嫌われるのが怖いから、いつも平気なふりをしている』
誰かに見せるための言葉ではなかった。
自分の心の中にあるものを、誰にも知られずに外へ出すための、小さな習慣だった。
ところが、そのノートを親友だと思っていた紗季に見られてしまった。
放課後の教室だった。
「美緒、これ何? めっちゃ絵うまいじゃん!」
紗季は笑いながらノートを手に取った。
「ちょっと! それ、見ないでよ!」
「えー、いいじゃん。親友なんだから!」
美緒は困ったように笑った。
あの日、どうして無理にでも取り返さなかったのだろう。
今でも、何度も考える。
けれど、あの時の彼女にとって、紗季は何でも話せる大切な友達だった。
まさか、そのノートの一ページが撮影され、クラスのグループチャットに投稿されるとは思わなかった。
『美緒のノート、なんか病んでるw』
そんな一言とともに。
そこから先は、あっという間だった。
最初は数人の笑いだった。
それが別のグループへ広まり、翌日には知らないクラスの生徒まで、すれ違いざまに美緒を見て笑うようになった。
廊下で誰かがひそひそ話をしているだけで、自分のことを言われている気がした。
教室に入ると、会話が止まる。
気のせいかもしれない。
けれど、気のせいだと自分に言い聞かせることさえ、もう疲れてしまっていた。
勇気を出して紗季に尋ねたこともあった。
「ねえ、どうしてあれ、みんなに送ったの?」
紗季は不思議そうな顔をした。
「え? だって、面白かったから」
「私、嫌だったんだけど……」
「いや、そんな本気で怒ること?」
美緒は何も言えなかった。
「ただの冗談じゃん。美緒って、そういうところ重いよね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが音もなく壊れた。
美緒は笑った。
いつものように。
「……そっか。ごめんね」
謝る必要なんて、どこにもなかった。
それでも、そう言わなければ、その場に立っていられなかった。
そして翌朝、美緒は学校へ行こうとして、玄関から一歩も出られなくなった。
制服に着替え、鞄を持ち、靴まで履いた。
それなのに、どうしてもドアノブに手を伸ばせなかった。
怖かったのだ。
教室の扉を開けた瞬間、また誰かに笑われることが。
誰かと目が合うことが。
何もなかったように振る舞わなければならないことが。
結局、彼女は玄関に座り込み、何十分も泣いた。
その日から、美緒の時間は止まってしまった。
学校からは担任の電話があった。
「水瀬さん、何かお友達と行き違いがあったみたいだけど、学校でちゃんと話し合ってみない?」
先生は悪い人ではない。
むしろ、親切な先生なのだと思う。
けれど、美緒はその言葉が苦しかった。
自分がもう一度傷つくかもしれない場所へ戻ることを、簡単に勧められているように感じたからだ。
母親には、詳しいことを話していなかった。
美緒の母は、駅前のコンビニエンスストアで夜勤をしていた。
父親とは美緒が幼い頃に離婚しており、それ以来、母は一人で美緒を育ててきた。
決して裕福な暮らしではなかった。
それでも、誕生日には必ずケーキを買ってくれたし、美緒が欲しがった色鉛筆も、少し高いものを選んでくれた。
そんな母に、心配をかけたくなかった。
だから美緒は、学校に行けない理由を聞かれても、いつも同じ言葉を繰り返していた。
「ちょっと疲れただけ。大丈夫」
大丈夫。
それは、美緒が最も得意な嘘だった。
その夜も、テーブルの上には母が用意してくれた夕食があった。
ラップのかかったオムライス。
横には小さなメモが置かれている。
『美緒へ。温めて食べてね。無理しすぎないでね。お母さんより』
何でもない、たったそれだけの言葉。
けれど、美緒はメモを見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……お母さん」
声に出すと、涙がこぼれそうになった。
しかし、泣かなかった。
泣いたところで、何かが変わるわけではない。
そう思っていた。
美緒はオムライスを温め、一人で食べた。
味は、よく分からなかった。
午前二時四十分。
布団に入っても、眠れなかった。
明日も学校に行けないのだろうか。
明後日も、その次の日も。
このまま、ずっと。
高校を卒業することもできず、友達もいなくなり、母親を悲しませてしまうのだろうか。
そんなことばかり考えていた。
天井を見上げる。
暗闇の中で、小さな時計の秒針だけが動いている。
カチ、カチ、カチ。
まるで、自分を置き去りにして、世界だけが進んでいくようだった。
「……誰か」
美緒は、小さくつぶやいた。
「誰か、話を聞いてよ……」
もちろん、返事はなかった。
その時だった。
枕元に置いていたスマートフォンが光った。
美緒は何となく手に取った。
画面には、以前よく使っていた配信アプリの通知が表示されていた。
そのアプリは、誰でも気軽に雑談配信を楽しめる、ごく普通のものだった。
美緒も以前は、夜中に眠れない時など、知らない人の雑談を聞くことがあった。
誰かの声が聞こえているだけで、不思議と落ち着くことがあったからだ。
しかし、学校での出来事があってからは、ほとんど使っていなかった。
久しぶりにアプリを開くと、ログイン画面が表示された。
どうやら、しばらく使っていなかったせいで、ログアウトされていたらしい。
美緒は保存されていたパスワードを確認した。
ログインボタンに指を置く。
ふと、画面の上の時刻が目に入った。
午前二時五十九分。
もうこんな時間なのか。
そう思った。
時刻が切り替わる。
午前三時〇〇分。
美緒は、ログインボタンを押した。
その瞬間。
それまで何も変わらなかった彼女の人生に、ほんの小さな奇跡が訪れたのである。
### 第二章 午前三時の、見知らぬ配信
ログインすると、いつものように、おすすめの配信一覧が並んだ。
歌を歌っている人、ゲームをしている人、寝落ち配信をしている人。
その中に、一つだけ、妙な配信があった。
『けっさくの雑談部屋』
見たことのない名前だった。
配信のサムネイルには、特別な画像が使われているわけでもない。暗い紺色の背景に、小さな白い星が一つ描かれているだけだった。
けれど、その配信だけが、なぜか画面の一番上に表示されていた。
おすすめの表示を更新しても、変わらない。
ほかの配信を見ようとして画面をスクロールしても、気づけばまた、一番上に戻ってくる。
美緒は首をかしげた。
「……何これ」
配信の説明欄には、短い文章が書かれていた。
『眠れない夜に、少しだけ。』
美緒は、その言葉をじっと見つめた。
別に、誰かに相談するつもりなどなかった。ただ、誰かの話し声を聞いていたかった。
それだけだった。
美緒は、配信を開いた。
すると、イヤホンから、突然にぎやかな声が聞こえてきた。
「だから、何回言わせるんや! うちはそんな時間まで店開けとらんって!」
関西弁の男性の声だった。
続いて、少し低めの女性の声が聞こえる。
「何だよ、あさくらん! そこは気合いで開けろよ!」
「キャプテン! あんた、マッサージ屋を何やと思ってんねん!」
「揉む仕事だろ?」
「そらそうやけど!」
そこへ、別の女性の声が加わった。
「あのねえ、二人とも。夜中の三時に何の話してるのよ」
どこか落ち着いた、それでいて親しみやすい声だった。
「へい師匠、聞いてや! キャプテンが無茶苦茶言いよるんや!」
「いつものことでしょ」
「それはそうやけど!」
最後に、穏やかな男性の笑い声が聞こえた。
「はいはい、二人とも。そのくらいにしておこうか」
どうやら、この男性が枠主らしい。
画面を見ると、配信者の名前は「けっさく」と表示されていた。
その下には、通話に参加している三人の名前が並んでいる。
へい師匠。
あさくらん。
キャプテン。
顔は映っていない。
アイコンと声だけの、グループ配信だった。
美緒は、思わず小さく笑ってしまった。
何を話しているのか、さっぱり分からない。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
楽しそうだった。
学校の教室で聞こえてくる笑い声とは違っていた。
誰かを傷つけるための笑いではない。ただ、くだらないことを言い合って、互いに笑っている。
そんな当たり前の光景が、今の美緒にはひどく懐かしかった。
その時、画面に小さな通知が表示された。
『みお が入室しました』
美緒は少し驚いた。
そういえば、アカウント名を昔のままにしていたのだった。
配信者のけっさくが、その通知に気づいたらしい。
「お、こんばんは。みおちゃん、いらっしゃい」
いきなり名前を呼ばれ、美緒は慌てて画面を見つめた。
「こんばんはー!」
へい師匠が明るく挨拶した。
「おお! 新入りか!」
キャプテンも続く。
「あら、こんばんは。こんな時間まで起きてるんやなあ」
あさくらんの関西弁が、イヤホンから聞こえてくる。
美緒は返事をしようとして、指を止めた。
怖かった。
知らない人たちなのに、どうしてだろう。
また何か変なことを言って、笑われるのではないか。
そんな考えが頭をよぎった。
画面には、コメント入力欄がある。
『こんばんは』
そこまで打って、消した。
もう一度、打った。
けれど、送信ボタンを押せない。
その様子が見えているはずもないのに、けっさくは静かに言った。
「みおちゃん、無理してコメントしなくてもいいからね。聞いてるだけでも大丈夫だよ」
美緒は、はっとした。
まるで、自分の心を読まれたようだった。
「そうそう。ここの人たち、こんなんだけど、怖い人じゃないから」
へい師匠が笑った。
「こんなんって何だよ!」
キャプテンが抗議する。
「いや、キャプテンはちょっと怖いやろ」
あさくらんが言うと、また笑い声が起こった。
美緒も、つられて笑った。
笑ったのは、何日ぶりだろう。
自分でも分からなかった。
少し考えてから、美緒はコメントを書き込んだ。
『こんばんは。初めまして』
「おお、こんばんは!」
「初めましてー!」
「よろしくな!」
四人が、それぞれ違う声で返してくれた。
たった、それだけのことだった。
けれど美緒には、胸の奥で何かが少しだけ温かくなるのが分かった。
学校では、誰かに挨拶することさえ怖くなっていた。
それなのに、この見知らぬ人たちは、何の疑いもなく自分を迎えてくれた。
美緒は画面を見つめながら、不思議な感覚に包まれていた。
そこへ、けっさくが優しく尋ねた。
「みおちゃん。今日は、どうしたの?」
『眠れなくて』
美緒は答えた。
「そっか。眠れない夜って、あるよね」
『はい』
「何か、あった?」
その言葉を見た瞬間、美緒の指が止まった。
何か、あった。
あったに決まっている。
けれど、それをどう説明すればいいのか分からなかった。
学校で嫌なことがあって。
友達に裏切られて。
みんなに笑われて。
学校に行けなくなって。
母親に心配をかけて。
自分のことが嫌いになって。
そんなことを、見ず知らずの配信者に話していいのだろうか。
美緒は、しばらく黙っていた。
すると、けっさくが言った。
「話したくなければ、話さなくていいよ。ただ、もし何か抱えてるなら、少しくらい置いていってもいいからね」
置いていってもいい。
不思議な言い方だと思った。
相談していい、ではなく。
助けてあげる、でもなく。
置いていってもいい。
まるで、重い荷物を持って歩いている人に、ひと休みする場所を差し出すような言葉だった。
美緒は、涙が出そうになった。
『学校に行けなくなっちゃいました』
気づいた時には、送信していた。
四人の声が止まった。
美緒は慌てた。
『ごめんなさい。変な話して』
すると、すぐにキャプテンの声が聞こえた。
「何で謝んだよ!」
美緒はびくっとした。
けれど、キャプテンは続けた。
「学校に行けなくなったくらいで、謝ることなんかねえだろ!」
その言い方は少し乱暴だったが、不思議と怖くなかった。
へい師匠も言った。
「そうよ。別に謝るようなことじゃないよ。何かあったんでしょう?」
あさくらんが、いつもより穏やかな声で続ける。
「まあ、急いで話さんでもええからな。俺ら、聞いとるで」
最後に、けっさくが言った。
「みおちゃん。よかったら、少しだけ話してみない?」
美緒は、イヤホンを耳に押し当てた。
そこには、四人の知らない大人たちがいた。
どこに住んでいるのかも、どんな顔をしているのかも知らない。
けれど、今この瞬間。
世界のどこかに、自分の話を聞こうとしている人たちがいる。
それだけで、美緒は少しだけ救われた気がした。
そして、ゆっくりと指を動かした。
『友達だと思ってた子に、秘密をばらされました』
その一文を送った瞬間、美緒の頬を、一筋の涙が伝った。
### 第三章 四人の、少し変わった大人たち
美緒は、ぽつりぽつりと事情を説明した。
ノートのこと。
親友だと思っていた紗季のこと。
クラスのグループチャットに写真を載せられたこと。
学校で笑われるようになったこと。
そして、四日前から学校に行けなくなってしまったこと。
最初は短いコメントばかりだった。
しかし、一つ書き込むたびに、けっさくたちは真剣に聞いてくれた。
誰も途中で話を遮らなかった。
からかう人もいなかった。
時折、へい師匠が「うん、うん」と相槌を打ち、あさくらんが「それはしんどかったなあ」とつぶやいた。
キャプテンだけは、途中から明らかに怒っていた。
「おい、ちょっと待て。その友達って奴、勝手にノートを撮ったんだろ?」
『はい』
「それを勝手にみんなに見せたんだろ?」
『はい』
「で、お前が嫌だって言ったら、冗談だろって?」
『そうです』
「……ふざけんなよ」
低い声だった。
美緒は、少し驚いた。
自分のことで、こんなに怒ってくれる人がいるなんて。
「キャプテン、落ち着いて」
けっさくが言った。
「いや、だってよ! 人の大切なもの勝手に見せびらかして、嫌がったら冗談って何だよ!」
「気持ちは分かるけどね」
へい師匠も、静かな口調で言った。
「みおちゃん、それは嫌だったよね。ノートって、自分だけの大切な場所だったんでしょう?」
『はい。誰にも見せたくなかったです』
「うん。そういう場所は、誰にだってあるものね」
美緒は、少し考えてから書き込んだ。
『でも、私が変なことを書いてたから悪いのかもしれません』
すぐに、けっさくの声が返ってきた。
「それは違うと思うよ」
静かだった。
けれど、はっきりとした声だった。
「自分のノートに何を書こうが、みおちゃんの自由だよ。人に見せたくないものを、勝手に見せられた。それは、みおちゃんが変なことを書いたせいじゃない」
『でも、みんな笑ってて』
「笑ってる人が多いからって、その人たちが正しいとは限らないよ」
美緒は、画面を見つめた。
胸の中に、小さな波紋が広がった。
そんなふうに考えたことはなかった。
みんなが笑っている。
だから、自分がおかしいのだ。
ずっと、そう思っていた。
けれど。
もし、そうではないのだとしたら。
美緒は初めて、自分が傷ついていい理由を、誰かに認めてもらえた気がした。
「みおちゃん、私ね」
へい師匠が口を開いた。
「雪国で夜のお仕事をしてるの」
『夜のお仕事?』
「そう。夜の街のお姉さん、って言えば分かるかな」
美緒は少し緊張した。
どんな人なのだろう。
へい師匠は笑った。
「そんなに構えなくていいよ。普通のお姉さんだから」
「普通かどうかは怪しいけどな!」
キャプテンが口を挟む。
「キャプテン、あとで覚えてなさいよ」
「おっ、怖え!」
配信に笑い声が戻った。
へい師匠は、少しだけ真面目な声になった。
「私のお仕事ってね、お客さんの話を聞くことも多いの。楽しいお話もあれば、すごくつらい話もある。みんな、それぞれ何かを抱えてるんだよね」
美緒は黙って聞いていた。
「それでね、私も昔は、嫌なことを言われても笑ってたの。何でもない顔をして。傷ついてるって知られたら、負けた気がしてたから」
その言葉に、美緒は息をのんだ。
まるで、自分のことを言われているみたいだった。
「でもさ。笑ってるから傷ついてないってわけじゃないのよ」
へい師匠は続けた。
「むしろ、本当に苦しい人ほど、周りに心配をかけないように笑ったりするんだよね」
美緒は、母親の顔を思い浮かべた。
毎朝、眠そうに帰ってきても、自分を見ると必ず笑ってくれる母。
疲れているはずなのに、いつも「大丈夫よ」と言ってくれる母。
そして、自分も同じことを言っていた。
大丈夫。
大丈夫。
何も、大丈夫ではなかったのに。
「みおちゃん。笑えない日は、笑わなくていいんだよ。泣きたい日は泣いていい。誰かに嫌だって言ってもいい。自分の気持ちを隠してまで、他人を安心させなくていいんだから」
美緒は、声を出さずに泣いた。
頬を伝う涙が、スマートフォンを握る手に落ちた。
『ありがとうございます』
そう書き込むと、へい師匠は明るく答えた。
「いいのよ。私も昔、誰かにそう言ってほしかっただけだから」
少しの沈黙が流れた。
今度は、あさくらんが口を開いた。
「みおちゃん、俺はな、関西でマッサージ屋やっとるんよ」
『そうなんですね』
「そうそう。毎日いろんなお客さん来るねんけどな、肩も首もガッチガチの人、ようおるねん」
キャプテンがすかさず言った。
「私も揉んでくれよ!」
「あんた、さっきからそればっかりやな!」
また笑い声が起こった。
あさくらんは笑いながら続けた。
「でな、体って、不思議なもんでな。無理に力入れて何とかしようとしても、余計しんどくなることあるんよ」
美緒は耳を傾けた。
「心も、ちょっと似とると思うねん」
『心も?』
「うん。学校行かなあかん、笑わなあかん、友達と仲直りせなあかん、ちゃんとせなあかん。そうやって自分を追い込んだら、休む間がなくなるやろ?」
確かにそうだった。
美緒は、ずっと考えていた。
早く学校に戻らなければ。
母親に迷惑をかけてはいけない。
先生に心配をかけてはいけない。
みんなと仲直りしなければ。
元の自分に戻らなければ。
その一つ一つが、重い石のように胸の中に積み重なっていた。
「なあ、みおちゃん」
あさくらんが言った。
「今、肩に力入ってへん?」
美緒は、はっとした。
気づくと、肩が耳に届きそうなほど上がっていた。
『入ってます』
「やろ? ほな、ちょっと肩をストンと落としてみ。無理せん程度でええから」
美緒は、言われたとおりにした。
「ほんで、一回ゆっくり息してみ」
息を吸う。
そして、吐く。
「どうや?」
『少し楽です』
「せやろ。別に何も解決してへん。でも、少し楽にはなれる。それでええねん」
美緒は、目を閉じた。
そうか。
今、全部解決しなくてもいいんだ。
「今日は学校行けへんかった。それでええやん。明日も難しいかもしれへん。それなら、どうやって休むか、誰に相談するか、一緒に考えたらええ。学校行けるかどうかだけで、みおちゃんの価値が決まるわけやないで」
『でも、逃げてるだけじゃないですか?』
すると、今度はキャプテンが勢いよく口を挟んだ。
「逃げて何が悪いんだよ!」
美緒は思わず目を丸くした。
「嫌な場所から逃げるのって、そんなに悪いことか?」
『だって、みんな頑張って学校行ってるし』
「みんなはみんなだろ! お前はお前じゃねえか!」
「キャプテン、声でかい!」
へい師匠が笑う。
しかし、キャプテンは止まらなかった。
「いいか、みお! 世の中にはな、逃げたほうがいい時だってあるんだよ!」
その言葉は乱暴だったが、美緒の胸にまっすぐ届いた。
「逃げるってのは、負けることじゃねえ。自分を守ることだってあるんだ。学校に行くのが怖いなら、まず安全な場所にいろ。それから考えればいい!」
『でも……』
「でもじゃねえ! お前、自分のこともっと大事にしろよ!」
キャプテンの声が、少しだけ震えた。
「……大事にしてくれない奴らのために、自分まで自分を嫌いになるなよ」
その瞬間、美緒は声を上げて泣いた。
堪えようとしても、もう無理だった。
涙が次から次へとあふれてきた。
誰かに、そう言ってほしかった。
ずっと。
ずっと、そう言ってほしかったのだ。
美緒はスマートフォンを胸に抱きしめた。
顔も知らない四人の声が、イヤホンから聞こえてくる。
「大丈夫だよ、みおちゃん」
へい師匠。
「泣いてええんやで」
あさくらん。
「泣け泣け! 今日は泣いちまえ!」
キャプテン。
そして、けっさく。
「みおちゃん、今まで頑張ったね」
そのたった一言で、美緒の中に張り詰めていた糸が、静かにほどけていった。
美緒は泣いた。
何日分もの涙を、全部流してしまうように。
その間、四人は急かさなかった。
何かを言わなければならないとも思っていないようだった。
時々、へい師匠が小さく声をかけてくれた。
あさくらんは、キャプテンが余計な冗談を言いそうになると止めた。
けっさくは、ただ静かに待っていた。
いつの間にか、時計は午前三時四十分を回っていた。
けれど、美緒はまだ知らなかった。
今、自分が参加しているこの配信が、決して普通の配信ではないことを。
そして、今夜の出来事が、やがて自分の記憶から跡形もなく消えてしまうことを。
### 第四章 けっさくの導き
ひとしきり泣いたあと、美緒はようやく落ち着きを取り戻した。
不思議なことに、少しだけお腹がすいていた。
先ほど食べたオムライスの味が、今になって思い出された。
母の作るオムライスは、昔から少し甘い。
ケチャップを入れすぎるからだ。
美緒は、その味が好きだった。
どうして、こんな時にそんなことを思い出したのだろう。
自分でもおかしくなって、少し笑った。
「みおちゃん、落ち着いた?」
けっさくが尋ねた。
『はい。ありがとうございます』
「よかった」
しばらく、配信には穏やかな空気が流れていた。
美緒は勇気を出して、一つ質問してみた。
『あの、けっさくさんは、何で配信してるんですか?』
けっさくは、少し考えるように黙った。
「ああ、何でだろうねえ」
「おい! 自分で分からんのかい!」
あさくらんが笑った。
「いや、最初は普通に楽しく話せたらいいなと思って始めたんだけどね」
「けっさくは昔から、誰にでも優しいからねえ」
へい師匠が言った。
「そんなことないよ」
「いやいや、あるでしょう。ねえ、キャプテン?」
「ん? ああ、けっさくは変な奴だよな!」
「褒めてるの、それ?」
「褒めてんだよ!」
美緒は笑った。
そして、もう一つ質問した。
『みなさんは、いつも一緒に配信してるんですか?』
「そうだね。毎日ってわけじゃないけど、結構集まってるかな」
『仲良しなんですね』
「まあな! 私がまとめてやってるようなもんだ!」
キャプテンが得意げに言った。
「誰がまとめとんねん!」
あさくらんが即座に突っ込む。
「キャプテンが一番暴れとるやないか!」
「何だと、あさくらん!」
「はいはい、喧嘩しない」
へい師匠が、慣れた様子で二人を止めた。
美緒は声を出して笑った。
先ほどまで泣いていたことが、嘘のようだった。
しかし、けっさくは笑いながらも、美緒に大切なことを尋ねた。
「みおちゃん、さっきお母さんには詳しいことを話してないって言ってたよね」
『はい』
「話せない理由って、あるのかな」
美緒は、少し考えた。
『心配かけたくないからです』
「そっか」
『お母さん、夜も働いてるんです。私のために頑張ってくれてるのに、学校にも行けないなんて言えなくて』
「うん」
『だから、ちゃんとしなきゃって思うんですけど』
美緒は、指を止めた。
『もう、どうしたらいいか分からないです』
けっさくは、少しの間黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「みおちゃん。これは僕の考えなんだけどね」
穏やかな声だった。
「お母さんがみおちゃんのために頑張ってるのって、みおちゃんが学校に行くためだけなのかな」
美緒は首をかしげた。
『どういうことですか?』
「学校に行って、いい成績を取って、立派な大人になる。そのためだけに、お母さんは頑張ってるのかなって」
美緒は答えられなかった。
「もちろん、お母さんがどう考えてるかは、僕には分からないよ。でも、きっとそれだけじゃないと思うんだ」
けっさくは続けた。
「みおちゃんが、ご飯をおいしいって食べたり、好きな絵を描いたり、笑ったり。そういう何でもない時間を過ごせることも、お母さんにとっては大切なんじゃないかな」
美緒の目から、また涙がこぼれた。
母親が、自分の絵を褒めてくれた日のことを思い出した。
小学校三年生の時だった。
美緒は、母親の似顔絵を描いた。
決して上手な絵ではなかった。
目は左右で大きさが違っていたし、鼻も曲がっていた。
それでも母は、その絵を見て大喜びした。
「美緒、ありがとう! お母さん、こんなにかわいいの?」
そう言って笑い、冷蔵庫に貼ってくれた。
その絵は色あせるまで、何年もそこに飾られていた。
美緒は、あの時の母の笑顔を覚えていた。
「みおちゃん」
けっさくの声が聞こえた。
「お母さんに話してみない?」
美緒は、思わず身構えた。
『でも』
「うん。怖いよね」
『怒られるかもしれないです』
「そうかもしれない。でも、これまで聞いた話だと、お母さんはきっと、みおちゃんのことを大切に思ってるんじゃないかな」
美緒は黙っていた。
「全部話さなくてもいいんだよ。まずは、学校に行くのが怖いって。それだけでもいい」
『迷惑じゃないですか?』
けっさくは、優しく答えた。
「頼ることと、迷惑をかけることは、同じじゃないと思うよ」
その言葉に、美緒は胸を打たれた。
「それにね、学校のことは、みおちゃん一人で解決しなきゃいけない問題じゃないんだよ。勝手にノートの写真を広められたり、嫌なことを言われたりしたなら、ちゃんと大人の力を借りていい」
「そうそう!」
へい師匠が続けた。
「担任の先生が分かってくれなかったら、保健室の先生でも、スクールカウンセラーでもいいのよ。ほかに話せる大人がいたら、その人でもいい」
あさくらんも賛成した。
「学校のグループチャットとか、嫌なこと書かれた画面が残っとるなら、消さんと取っといたほうがええかもしれんな。今すぐ見返す必要はないけど、相談する時に役立つこともあるから」
「そうだな!」
キャプテンが言った。
「もし私が学校の先生だったら、そんなことした連中、全員まとめて説教してやるのによ!」
「キャプテンが先生になったら、毎日職員会議が大騒ぎだよ」
けっさくが笑った。
「あ? 何だと?」
「いや、何でもない」
また笑い声が起こった。
けれど、美緒は笑いながら、画面の向こう側にいる四人のことを考えていた。
へい師匠は、雪国で夜の仕事をしているお姉さん。
あさくらんは、関西のマッサージ屋さんのお兄さん。
キャプテンは、何をしているのか分からない、少し乱暴だけれど優しいお姉さん。
そして、けっさく。
何者なのか、よく分からない配信者。
住んでいる場所も、年齢も、顔も知らない。
普段の生活で出会うことなど、きっとない人たちだ。
それなのに、どうしてこんなにも親身になってくれるのだろう。
美緒は、思い切って尋ねた。
『みなさんは、どうして私にこんなに優しくしてくれるんですか?』
四人は、少し黙った。
最初に口を開いたのは、へい師匠だった。
「そうねえ。困ってる女の子がいたら、力になりたいじゃない?」
あさくらんも言った。
「まあ、こういうのって、お互いさまやと思うで。俺らかて、誰かに助けてもろたことあるしな」
キャプテンは、いつものように豪快だった。
「理由なんかいらねえだろ! 泣いてる奴がいたら、ほっとけねえんだよ!」
そして、けっさくが言った。
「みおちゃんが、ここに来てくれたからかな」
『私が?』
「うん。みおちゃんは、ずっと一人で抱えてきたんでしょう?」
『はい』
「でも、今日は誰かの声を聞こうと思って、このアプリを開いてくれた。それで、ここに来て、自分の話をしてくれた」
美緒は、画面を見つめた。
「僕たちにできることなんて、そんなに多くないよ。明日の学校を魔法みたいに変えてあげることもできないし、嫌なことを全部なかったことにもできない」
けっさくの声は、どこまでも穏やかだった。
「でも、みおちゃんが明日、どうしようかなって考える時に、少しでも力になれたらいいなと思うんだ」
美緒は、長い間、何も書き込めなかった。
そして、ようやく一言だけ送った。
『私、もう一度、頑張ってみたいです』
すると、けっさくは言った。
「うん。でも、頑張りすぎないでね」
「そうよ!」
へい師匠が続く。
「まずは、ちゃんと休むこと!」
「うまいもんも食べや!」
あさくらん。
「あと、嫌な奴には無理して笑うな!」
キャプテン。
美緒は、涙を拭きながら笑った。
そして、スマートフォンのメッセージアプリを開いた。
母親とのトーク画面。
最後のメッセージは、昨日の夕方に届いたものだった。
『今日、少し遅くなるね。ご飯は冷蔵庫に入ってるからね』
美緒は、入力欄を開いた。
何度も文字を打ち、何度も消した。
本当に送っていいのだろうか。
仕事中の母親を、困らせるのではないだろうか。
そんな不安が、また胸を締めつけた。
その時、イヤホンからけっさくの声が聞こえた。
「みおちゃん。もし、怖かったら、今日じゃなくてもいいからね」
美緒は、少しだけ笑った。
急かさない。
無理に背中を押さない。
それが、この人たちの優しさなのだと思った。
美緒は深呼吸した。
そして、ゆっくりとメッセージを打った。
『お母さん。夜中にごめんね』
『私、学校で嫌なことがあったの』
『怖くて、もう四日も学校に行けてない』
『ずっと大丈夫って言ってたけど、本当は大丈夫じゃなかった』
『帰ってきたら、少しだけ話を聞いてほしい』
送信ボタンに指を置く。
手が震えた。
でも、今度は逃げなかった。
送信。
小さな音とともに、メッセージが母親へ届いた。
美緒は、スマートフォンを見つめたまま動けなかった。
数分後。
画面に、既読の文字がついた。
続いて、返信が届いた。
『美緒、話してくれてありがとう』
その一行を見た瞬間、美緒の胸がいっぱいになった。
さらに、メッセージが続いた。
『気づいてあげられなくてごめんね』
『今、休憩中だよ。電話してもいいし、朝まで待っててもいいよ』
『お母さんは美緒の味方だからね』
美緒は、とうとう泣き崩れた。
悲しいからではなかった。
安心したのだ。
自分には、帰れる場所がある。
自分のことを、待っていてくれる人がいる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
美緒は、涙でにじむ画面を見ながら返信した。
『ありがとう。朝、話したい』
少しして、母から返事が届いた。
『うん。帰ったら一緒に朝ご飯食べようね』
美緒は、スマートフォンを胸に抱いた。
そして、配信のコメント欄に戻った。
『お母さんに話せました』
「おお!」
キャプテンが歓声を上げた。
「やったやん!」
あさくらんも嬉しそうだった。
へい師匠は、少し声を詰まらせながら言った。
「よかったねえ、みおちゃん。本当によかった」
そして、けっさくが優しく言った。
「よく勇気を出したね」
美緒は笑った。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま。
けれど、その笑顔は、一週間前までのように、誰かに嫌われないための笑顔ではなかった。
自分の心から生まれた、本当の笑顔だった。
### 第五章 午前3時のシンデレラ
午前四時十二分。
窓の外では、雨がやみ始めていた。
真っ暗だった空の向こうに、ほんのわずかに朝の気配が感じられる。
美緒は、配信を聞きながら、机の上のノートを開いた。
あの日から、触ることもできなかったノートだった。
自分の心を書いたせいで、みんなに笑われた。
そのことが、怖かった。
もう二度と、絵なんて描かない。
何度も、そう思った。
けれど、今は違った。
美緒は鉛筆を手に取った。
白いページに、一本の線を引く。
それから、もう一本。
小さな窓を描き、窓の外に星を描いた。
夜空の下には、ひとりの女の子。
女の子は、少しうつむいている。
でも、その足元には、小さな道が続いていた。
美緒は夢中で描いた。
数日ぶりに、鉛筆が紙の上を走った。
やがて、絵が完成した。
『みなさん、私、絵を描いたんです』
美緒がコメントすると、へい師匠が嬉しそうに言った。
「あら! どんな絵?」
『女の子が、夜明けの空を見てる絵です』
「いいねえ!」
あさくらんが言った。
「みおちゃん、絵が好きなんやな」
『はい。大好きです』
そう書き込んだ瞬間、美緒は自分でも驚いた。
大好き。
そんな言葉を、久しぶりに使った気がした。
けっさくは、楽しそうに言った。
「じゃあ、これからも描いていこうよ」
『でも、また笑われるかもしれません』
「そうだね。残念だけど、誰かに笑われることはあるかもしれない」
美緒は黙って聞いていた。
「でもさ、みおちゃんが好きなものまで、その人たちに決めてもらう必要はないんじゃないかな」
その言葉に、美緒は目を見開いた。
そうだ。
どうして、自分の好きなものを、他人に決められなければならないのだろう。
誰かに笑われたからといって、自分が絵を好きだった時間まで、嘘になるわけではない。
美緒はノートを見つめた。
ページには、夜明けを待つ女の子がいた。
その女の子は、まだ一歩も歩き出していない。
けれど、足元には確かに道があった。
美緒は、小さくつぶやいた。
「……私、まだ描きたい」
その声は誰にも届かなかった。
しかし、確かに彼女自身の耳には届いた。
それで十分だった。
「ねえ、みおちゃん」
けっさくが言った。
「今日は、ここに来てくれてありがとう」
美緒は、思わず画面を見つめた。
『お礼を言うのは私の方です』
「そんなことないよ」
『みなさんに会えて、本当によかったです』
四人が、少し静かになった。
そして、へい師匠が言った。
「私たちも、みおちゃんに会えてよかったよ」
あさくらんも続ける。
「せやな。元気出してもろえて、よかったわ」
キャプテンは、いつもの調子だった。
「おう! また何かあったら、いつでも来いよ!」
その時、けっさくが小さく言った。
「……キャプテン」
「あっ」
キャプテンは、何かに気づいたようだった。
へい師匠も、あさくらんも黙った。
美緒は、不思議に思った。
『どうしたんですか?』
けっさくは、少しの間考えてから答えた。
「みおちゃん。最後に一つだけ、話しておきたいことがあるんだ」
声の調子が、少しだけ変わった。
美緒は姿勢を正した。
『何ですか?』
「この配信ね、ちょっと不思議な配信なんだよ」
美緒は首をかしげた。
『不思議?』
「うん。普通の人には、見つけられないんだ」
美緒は思わず笑った。
『そんなことないですよ。私、おすすめに出てきましたよ』
「そうだね。でも、みおちゃんがここに来られたのには、理由があるんだ」
へい師匠が静かに言った。
「けっさく、ちゃんと話すの?」
「うん。本人には、知っておいてほしいから」
けっさくは、ゆっくりと説明を始めた。
「この配信はね、午前3時ちょうどに、特別な女の子のところへ現れるんだ」
『特別な女の子?』
「そう。誰にも言えない悩みを抱えていたり、一人で苦しんでいたり。そういう女の子が、ちょうど午前3時にアプリにログインすると、不思議と僕の枠がおすすめに出てくるんだ」
美緒は、画面を見つめた。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
「僕たちも、どうしてそうなるのかは分からない。ただ、今まで何度も、こういうことがあったんだよ」
あさくらんが続けた。
「最初は俺らも驚いたんやで。何で毎回、悩んどる女の子ばっかり来るんやろって」
「しかも、普通の時間に配信してる時とは違うのよね」
へい師匠が言った。
「午前3時になると、いつものリスナーさんたちからは、この枠が見えなくなるの。私たちと、招かれた女の子だけの場所になるのよ」
美緒は、少し怖くなった。
『じゃあ、みなさんは……』
「普通の人間だよ」
けっさくが笑った。
「へい師匠も、あさくらんも、キャプテンも、僕もね。ただ、この不思議な配信のことを、みんな知っているんだ」
キャプテンが元気よく言った。
「まあ、理由なんか知らねえけどな! 困ってる女の子が来るなら、助けてやろうじゃねえかって話だ!」
「それで、こうして毎回みんなで待ってるんだよ」
へい師匠が言った。
美緒は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
この人たちは、待っていたのだ。
いつ来るかも分からない誰かを。
どこの誰かも分からない、悩みを抱えた女の子を。
「それからね、みおちゃん」
けっさくが続けた。
「もう一つ、不思議なことがあるんだ」
美緒は、黙って耳を傾けた。
「ここに来た女の子はね、悩みを話して、少しでも前を向いて、この枠を出ていくと……この配信で過ごした時間を忘れてしまうんだ」
美緒は、何を言われたのか理解できなかった。
『忘れる?』
「うん。僕たちと話したことも、この配信に来たことも、全部」
『どうしてですか?』
「それは、僕たちにも分からないんだ」
けっさくは、少し寂しそうに笑った。
「最初は僕たちも戸惑ったよ。でも、今までの女の子たちも、みんなそうだった」
美緒は、思わず叫びそうになった。
忘れる。
この夜のことを。
けっさくの優しい声を。
へい師匠の温かな言葉を。
あさくらんの関西弁を。
キャプテンの豪快な笑い声を。
全部。
『嫌です』
美緒は、震える指で打った。
『忘れたくないです』
しばらく、誰も喋らなかった。
『みなさんに会えて、すごく嬉しかったんです』
『今日のこと、ずっと覚えていたいです』
画面が、涙でぼやけた。
『せっかく救ってもらったのに、忘れちゃうなんて嫌です』
すると、へい師匠が静かに言った。
「みおちゃん。ありがとうね」
『へい師匠……』
「そんなふうに思ってもらえるだけで、私たちは嬉しいよ」
あさくらんも言った。
「せやな。俺らは、みおちゃんが元気になってくれたら、それで十分やで」
キャプテンは、少し照れたように笑った。
「おいおい、そんなに泣くなよ! 私ら、別に消えてなくなるわけじゃねえんだから!」
美緒は、涙を拭った。
そして、けっさくが言った。
「みおちゃん。忘れるって、必ずしも全部なくなることじゃないと思うんだ」
『どういうことですか?』
「今日、みおちゃんはお母さんに話せたよね」
『はい』
「絵も描いたよね」
『はい』
「それから、少し笑えたでしょう?」
美緒は、うなずいた。
「そのことは、消えないんだよ」
けっさくの声は、どこまでも優しかった。
「僕たちの名前は忘れてしまうかもしれない。でも、今日みおちゃんが勇気を出したことや、もう一度絵を描きたいと思ったことまで、なくなるわけじゃない」
美緒は、画面を見つめた。
「だから、いいんだよ。僕たちのことは忘れても」
『でも……』
「みおちゃんが、明日を少しだけ楽しみにできるようになったなら。それだけで十分だよ」
美緒の頬を、また涙が伝った。
こんなにも優しい人たちがいるのだ。
自分が忘れてしまうと知っていても、見返りなんて求めずに手を差し伸べてくれる人たちが。
美緒は、震える指でコメントを書いた。
『私が忘れても、みなさんは覚えていてくれますか?』
けっさくは、間を置かずに答えた。
「もちろん」
へい師匠も言った。
「絶対に忘れないよ」
あさくらんが続く。
「みおちゃんのこと、ちゃんと覚えとくで」
最後にキャプテンが、大きな声で言った。
「当たり前だろ! 私らを誰だと思ってんだ!」
美緒は、泣きながら笑った。
「また、いつものキャプテンだ」
へい師匠が笑う。
「ああ? 何だよ!」
「褒めてるのよ」
「ならいいけどな!」
配信には、再び笑い声があふれた。
美緒は、その笑い声を一つ残らず覚えておこうと思った。
声の高さも、話し方も、笑い方も。
忘れるなんて、信じられなかった。
けれど、不思議と怖くはなかった。
それよりも、この夜が終わってしまうことのほうが、寂しかった。
窓の外を見る。
いつの間にか、雨はすっかりやんでいた。
雲の向こうが、少しずつ白くなり始めている。
もうすぐ、朝が来る。
美緒は、ふと尋ねた。
『この配信って、何か名前があるんですか?』
けっさくは少し考えた。
「名前?」
『はい。普通の雑談枠じゃないんですよね』
「そうだねえ。特別な名前はないけど……」
その時、へい師匠が言った。
「そういえば、けっさく。前に言ってたじゃない」
「何を?」
「シンデレラの話」
「ああ」
けっさくは、思い出したように笑った。
美緒は首をかしげた。
『シンデレラ?』
「うん」
けっさくが答えた。
「普通、シンデレラの魔法って、午前0時に終わるでしょう?」
『はい』
「でも、この配信の魔法は、午前3時から始まるんだ」
美緒は、黙って聞いていた。
「それに、シンデレラはお城で素敵な時間を過ごして、帰っていくよね」
『はい』
「ここに来る女の子たちも、少しだけ元気を取り戻して、自分の世界へ帰っていくんだ」
へい師匠が、優しく付け加えた。
「だから、午前3時のシンデレラ」
美緒は、その言葉を心の中で繰り返した。
午前3時のシンデレラ。
なんて素敵な名前なのだろう。
『じゃあ、私もシンデレラですか?』
すると、キャプテンが勢いよく答えた。
「そうだよ! 今夜はお前がシンデレラだ!」
あさくらんも笑った。
「せやな。ガラスの靴はなくてもええんやで」
「どうして?」
へい師匠が尋ねる。
あさくらんは、少し得意げに答えた。
「だって、みおちゃんは自分の靴で歩いていけるやろ?」
一瞬の沈黙。
そして、キャプテンが笑い出した。
「おお! あさくらん、たまにはいいこと言うじゃねえか!」
「たまにはって何やねん!」
四人の笑い声が、イヤホンから聞こえた。
美緒も笑った。
その時、けっさくが静かに言った。
「みおちゃん。最後に一つだけ、約束してほしいことがあるんだ」
『何ですか?』
「明日から、何でも一人で抱え込まないこと」
美緒は、少し考えた。
「すぐに学校へ戻らなくてもいい。すぐに元気になれなくてもいい。また泣く日があってもいい。でも、困った時は、ちゃんと誰かに頼ってね」
『……はい』
「みおちゃんの人生は、まだまだこれからなんだから」
美緒は、力強くうなずいた。
『約束します』
そして、最後のコメントを書いた。
『けっさくさん』
『へい師匠』
『あさくらんさん』
『キャプテンさん』
『本当にありがとうございました』
少しして、へい師匠が答えた。
「こちらこそ、ありがとうね。みおちゃん」
あさくらんも言った。
「元気でな。無理すんなよ」
キャプテンは、いつもの大きな声だった。
「おう! 幸せになれよ!」
そして、けっさく。
「みおちゃん。おやすみなさい」
美緒は、目を閉じた。
その声を、心に刻みつけようとした。
忘れたくない。
絶対に。
忘れたくない。
けれど、いつまでもここにいるわけにはいかない。
そろそろ、朝が来るのだから。
美緒は、震える指でコメントを打った。
『みなさん、おやすみなさい』
そして、退室ボタンを押した。
画面が、ゆっくりと切り替わる。
その瞬間。
美緒の中から、一つの夜が消えた。
### 第六章 消えてしまった記憶
午前四時二十分。
美緒は、スマートフォンを握ったまま、ぼんやりとベッドに座っていた。
「あれ……?」
画面には、配信アプリのホーム画面が表示されている。
いつものおすすめ配信。
ゲーム配信。
歌配信。
雑談配信。
見慣れた光景だった。
美緒は、首をかしげた。
「私、何してたんだっけ……」
確か、眠れなくて、配信アプリを開いたはずだった。
午前三時ちょうどにログインしたところまでは、覚えている。
けれど、その後のことが思い出せなかった。
誰かの配信を聞いていたような気もする。
しかし、どんな配信だったのか、まったく分からない。
配信履歴を確認した。
何も残っていない。
いつの間にか、一時間以上も経っていた。
「……寝落ちしたのかな」
美緒は、不思議そうにつぶやいた。
その時、自分の頬が濡れていることに気づいた。
涙だった。
どうして泣いていたのだろう。
悲しい夢でも見たのだろうか。
けれど、胸の中には、不思議な温かさがあった。
今まで感じたことのない、柔らかな安心感。
誰かに、頭を撫でてもらったような。
誰かに、背中を押してもらったような。
そんな感覚だった。
美緒は、机の上に目を向けた。
そこには、一冊のノートが開かれていた。
鉛筆で描かれた、一枚の絵。
夜明けの空を見上げる女の子。
美緒は、驚いた。
「……私、描いたんだ」
描いた記憶が、なかった。
それなのに、確かに自分の絵だった。
線の引き方も、影のつけ方も、自分の癖がそのまま残っている。
美緒は、絵をじっと見つめた。
女の子は、まだ暗い夜の中に立っていた。
けれど、その足元には、一本の道が続いている。
そして、道の向こうには、朝日が昇ろうとしていた。
「……きれい」
思わず、声が漏れた。
自分が描いた絵なのに、誰かから贈り物をもらったような気がした。
その時、スマートフォンにメッセージが届いた。
母親からだった。
『美緒、あと少しで仕事終わるよ』
『帰りにパン買っていくね。何が食べたい?』
美緒は、画面を見つめた。
そこには、夜中に自分が送ったメッセージも残っていた。
学校で嫌なことがあったこと。
もう大丈夫ではないこと。
帰ってきたら、話を聞いてほしいこと。
自分の言葉だった。
けれど、どうしてあんなに怖かった話を、突然できるようになったのだろう。
思い出せない。
ただ、一つだけ分かることがあった。
もう、隠したくなかった。
母親に、ちゃんと話したかった。
美緒は、返事を打った。
『クリームパンがいい』
すぐに、母から返信が届いた。
『了解! お母さんも同じの買うね』
美緒は、笑った。
何でもない会話だった。
けれど、こんな何でもない会話が、今はたまらなく嬉しかった。
美緒は、窓を開けた。
雨上がりの冷たい空気が、部屋に流れ込んでくる。
遠くで、新聞配達のバイクが走っていた。
空は、まだ薄暗かった。
それでも、確かに朝は近づいていた。
美緒は、空を見上げた。
「……ありがとう」
なぜ、そんな言葉が口から出たのか、自分でも分からなかった。
誰に言ったのかも、分からない。
ただ、そう言いたかった。
世界のどこかにいる、誰かに。
心の底から。
「……ありがとう」
美緒は、もう一度つぶやいた。
そして、静かに窓を閉めた。
### 第七章 ガラスの靴はいらない
午前七時十五分。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
母親が帰ってきた。
美緒は、リビングで待っていた。
テーブルの上には、二つのマグカップ。
母が好きなコーヒーと、美緒のココア。
そして、真ん中には、夜中に描いた絵が置かれていた。
「美緒、起きてたの?」
母親は驚いたように言った。
「うん」
「ちゃんと寝た?」
「……あんまり」
「もう、夜更かしして」
そう言って笑おうとした母親だったが、美緒の表情を見て、言葉を止めた。
「……美緒」
美緒は、両手を膝の上で握りしめた。
何から話せばいいのか、分からなかった。
学校のこと。
紗季のこと。
ノートのこと。
みんなに笑われたこと。
怖くて学校に行けなくなったこと。
言いたいことは、山ほどあった。
けれど、最初の一言が出てこない。
すると、母親は何も言わずに隣へ座った。
「ゆっくりでいいよ」
その声を聞いた瞬間、美緒の目に涙が浮かんだ。
「……お母さん」
「うん」
「私ね……」
声が震えた。
「学校で、嫌なことがあったの」
母親は、黙ってうなずいた。
「友達だと思ってた子にね、私のノートを勝手にみんなに見せられて……」
美緒は、ぽつりぽつりと話し始めた。
最初は、何度も言葉が途切れた。
話している途中で泣いてしまい、うまく説明できなくなることもあった。
けれど、母親は急かさなかった。
最後まで、何も言わずに聞いてくれた。
「……それでね、私、学校に行くのが怖くなっちゃった」
美緒は、涙を拭った。
「ごめんね。お母さん、一生懸命働いてくれてるのに……」
その瞬間。
母親は、美緒を強く抱きしめた。
「美緒」
声が、震えていた。
「謝らなくていいの」
美緒は、母親の胸に顔を埋めた。
「でも……」
「学校に行けなくなったからって、お母さんが美緒を嫌いになると思う?」
美緒は、首を振った。
「じゃあ、謝らなくていい」
母親は、もう一度、強く抱きしめた。
「美緒が元気でいてくれることが、一番大事なんだから」
美緒は、泣いた。
もう、何度目の涙なのか分からなかった。
けれど、今度は、泣くことが怖くなかった。
「……お母さん」
「うん」
「私、しばらく学校休んでもいい?」
母親は、迷わず答えた。
「もちろん」
「……怒らない?」
「怒らないよ」
「……本当に?」
「本当」
母親は笑った。
「ただ、お母さんと一緒に考えようね。学校のことも、これからのことも。一人で悩まなくていいから」
美緒は、何度もうなずいた。
その朝、二人はクリームパンを食べながら、久しぶりにゆっくりと話をした。
母親は、学校に連絡することを約束してくれた。
担任の先生だけではなく、スクールカウンセラーにも相談してみようと言ってくれた。
美緒は、ノートの写真が送られた時の画面を保存してあることを話した。
母親は、必要なら一緒に確認しようと言った。
すぐに何もかもが解決するわけではない。
それは、二人とも分かっていた。
学校へ戻るには、まだ時間がかかるかもしれない。
友達との関係だって、元どおりにはならないかもしれない。
それでも、もう美緒は一人ではなかった。
母親が、ふとテーブルの上の絵を見つけた。
「あら、これ、美緒が描いたの?」
「うん」
「きれいねえ」
母親は嬉しそうに絵を手に取った。
「やっぱり、美緒の絵って好きだなあ」
その言葉に、美緒は笑った。
「……ありがとう」
「これ、飾ってもいい?」
「えっ?」
「お母さん、気に入っちゃった」
美緒は、少し考えてから答えた。
「……いいよ」
母親は、絵を大切そうに持ち上げた。
そして、冷蔵庫の扉に貼りつけた。
まるで、小学校三年生の時のように。
美緒は、その様子を見つめていた。
あの頃と同じだった。
母親は、何も変わっていなかった。
変わってしまったと思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。
そして、美緒は気づいた。
自分も、何もかも失ったわけではなかったのだ。
絵を描くことが好きな自分。
母親のオムライスが好きな自分。
くだらないことで笑える自分。
その全部が、まだここにあった。
美緒は、小さく笑った。
「お母さん」
「なあに?」
「私、また絵を描こうと思う」
母親は、嬉しそうにうなずいた。
「うん。いっぱい描いてね」
その日の朝、美緒は学校へ行かなかった。
けれど、久しぶりにカーテンを大きく開けた。
青い空が広がっていた。
昨日の雨が、嘘のようだった。
美緒は、新しいページを開いた。
そして、真っ白な紙に、一本の道を描き始めた。
### 第八章 それぞれの朝
それから、一か月が過ぎた。
美緒の生活は、少しずつ変わっていった。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
学校のことを考えると、今でも怖くなる日があった。
クラスのグループチャットは、まだ開けなかった。
母親と一緒に学校へ相談に行った時も、緊張して途中で泣いてしまった。
紗季からは、謝罪のメッセージが届いた。
『あの時はごめん。そんなに傷つくと思わなかった』
美緒は、何度も読み返した。
以前の自分だったら、すぐに『大丈夫だよ』と返していたかもしれない。
けれど、今回は違った。
まだ、大丈夫ではなかった。
だから、無理に許すことはしなかった。
母親やスクールカウンセラーと相談しながら、自分の気持ちを少しずつ整理していくことにした。
それでいいのだと思えた。
今すぐ、すべてを解決する必要はない。
美緒は、学校の別室で勉強する日もあれば、家で過ごす日もあった。
調子が悪い日は、無理をしなかった。
そして、絵を描いた。
毎日、何枚も。
夕焼けの街。
雨に濡れた紫陽花。
バス停で傘を差す女の子。
公園のベンチに座る老人。
どれも、ごく普通の日常だった。
けれど、美緒には、その一つ一つが宝物のように思えた。
ある日、母親が一枚のチラシを持って帰ってきた。
市民ギャラリーで開催される、小さな絵画展の案内だった。
「美緒、これ出してみない?」
美緒は、少し迷った。
また誰かに笑われるかもしれない。
そんな不安が、胸をよぎった。
けれど、今度は違った。
「……出してみようかな」
美緒は、自分からそう言った。
出品することにしたのは、あの夜、知らないうちに描いていた絵だった。
夜明けを見つめる、一人の女の子。
足元には、どこまでも続く道。
美緒は、その絵に題名をつけようとした。
何がいいだろう。
夜明け。
朝の光。
新しい一日。
いくつもの言葉が浮かんでは消えた。
そんな時、ふと、不思議な言葉が頭をよぎった。
シンデレラ。
どうして、そんな言葉を思いついたのだろう。
美緒は、首をかしげた。
絵の中の女の子は、お姫様でも何でもない。
ドレスも着ていないし、ガラスの靴も履いていない。
ただ、少しくたびれたスニーカーを履いて、夜明けの道に立っているだけだった。
それでも、美緒には、その女の子がシンデレラのように見えた。
魔法で美しく変身したわけではない。
誰かが迎えに来てくれたわけでもない。
けれど、自分の足で、もう一度歩き出そうとしている。
そんな女の子だった。
美緒は、絵の下に小さく題名を書いた。
『ガラスの靴はいらない』
その文字を見た時、なぜか涙がこぼれた。
悲しいわけではなかった。
胸の奥に、懐かしい何かが広がっていくようだった。
誰かに、そう言われたことがあるような。
どこかで、誰かと笑い合ったことがあるような。
でも、思い出せない。
美緒は、不思議そうに笑った。
「……変なの」
そして、絵を大切に封筒へ入れた。
その頃。
雪国の小さな繁華街では、へい師匠が仕事を終えようとしていた。
夜の街には、まだ少し雪が残っていた。
店の外に出ると、冷たい空気が頬をなでた。
へい師匠は、白い息を吐きながらスマートフォンを取り出した。
配信アプリを開く。
画面には、けっさくたちのグループが表示されていた。
『今日もお疲れ様』
そう書き込むと、すぐに返信が届いた。
あさくらんからだった。
『へい師匠、お疲れさん!』
続いて、キャプテン。
『おう! お疲れ!』
そして、けっさく。
『今日も一日、お疲れ様でした』
へい師匠は、微笑んだ。
あの夜の女の子は、今頃どうしているだろう。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
少しは眠れるようになっただろうか。
また絵を描いているだろうか。
分からない。
彼女たちが救われたあと、どんな人生を歩んでいるのか、けっさくたちには知る術がなかった。
午前3時の配信は、いつも一方通行だった。
悩みを抱えた女の子が現れ、話をして、少しだけ元気になって帰っていく。
そして、二度と会わないことも多かった。
けれど、それでよかった。
名前を覚えてもらわなくても。
感謝の言葉を残してもらわなくても。
どこかで元気に生きていてくれたなら。
それだけで、十分だった。
へい師匠は、スマートフォンを見つめながら、小さくつぶやいた。
「……みおちゃん、元気にしてるといいなあ」
夜空には、静かに雪が降り始めていた。
### 終章 今夜も、午前3時に
その日の夜。
午後十一時五十分。
けっさくは、いつものように配信を始めた。
特別なことなど、何もない夜だった。
へい師匠が入室し、少し遅れてあさくらんが現れた。
そして、最後にキャプテンがやってきた。
「おう! 全員そろってるか!」
開口一番、いつもの大きな声だった。
「キャプテン、今日も元気だねえ」
けっさくが笑う。
「当たり前だろ! 元気だけが取り柄だからな!」
「いや、ほかにも取り柄あるやろ!」
あさくらんが突っ込んだ。
「おっ、あさくらん。分かってるじゃねえか!」
「いや、何があるかは知らんけどな」
「何だと!」
へい師匠は、呆れたように笑っていた。
いつもの四人。
いつもの雑談。
いつものくだらない会話。
そして、いつもの笑い声。
午前二時五十分。
配信は、相変わらずにぎやかだった。
「そういえばさ」
へい師匠が、ふと思い出したように言った。
「この前の、みおちゃん。元気かなあ」
その名前を聞いて、三人が少し静かになった。
「ああ、あの子か」
けっさくが言った。
「学校に行けへんようになった子やな」
あさくらんも覚えていた。
「そうそう。絵を描くのが好きな女の子」
へい師匠は、少し寂しそうに笑った。
「お母さんと、ちゃんとお話できたかな」
すると、キャプテンが言った。
「できたに決まってんだろ!」
「どうして?」
けっさくが尋ねる。
「だって、あいつ、最後に笑ってたじゃねえか!」
キャプテンは、当然のように答えた。
「笑って帰ったんだから、きっと大丈夫だよ!」
へい師匠が、優しく笑った。
「そうね。そうだといいね」
けっさくは、少しの間、黙っていた。
そして、静かに言った。
「みおちゃんが、今どこで何をしてるのかは分からないけど……」
三人は、耳を傾けた。
「きっと、あの夜に自分で選んだ一歩を、少しずつ歩いてるんじゃないかな」
あさくらんが笑った。
「せやな。あの子、最後はええ顔しとったもんな」
「顔は見えとらんやろ!」
キャプテンが突っ込む。
「あっ、ほんまや!」
四人は笑った。
その時だった。
けっさくが、ふと時計を見た。
午前二時五十九分。
「……そろそろだね」
その一言で、三人は何を意味しているのか理解した。
へい師匠は、静かにうなずいた。
あさくらんは、少しだけ姿勢を正した。
キャプテンは、腕を組んで言った。
「よし。今夜はどんな奴が来るんだ?」
けっさくは、穏やかに笑った。
「さあ。それは分からないよ」
時計の秒針が進む。
五十七秒。
五十八秒。
五十九秒。
そして。
午前三時〇〇分。
配信画面が、一瞬だけ暗くなった。
それまで表示されていた通常のリスナーたちの名前が、静かに消えていく。
代わりに、紺色の画面に小さな白い星が浮かび上がった。
それは、四人だけが知っている合図だった。
今夜もまた、どこかで誰かが泣いている。
誰にも言えない悩みを抱え、一人きりで夜を過ごしている女の子がいる。
そして、その女の子が、偶然のように、この場所へ導かれようとしている。
けっさくは、静かに画面を見つめた。
その時。
小さな通知が表示された。
『新しいリスナーが入室しました』
へい師匠が、優しく微笑んだ。
あさくらんが、少しだけ笑った。
キャプテンは、いつものように大きな声で言いかけたが、けっさくに目で合図される代わりに、その声を少しだけ抑えた。
そして、けっさくはマイクに向かって、優しく語りかけた。
「こんばんは。初めまして」
少しの間、返事はなかった。
けれど、誰も急かさなかった。
やがて、コメント欄に、一行の文字が浮かんだ。
『こんばんは……』
けっさくは、微笑んだ。
「いらっしゃい。ここはね、眠れない女の子が、ちょっとだけ休んでいける場所なんだ」
へい師匠も、優しく声をかけた。
「こんばんは。ゆっくりしていってね」
あさくらんが続ける。
「気楽にしときや。ここは、変な奴ばっかりやけどな」
「おい! 変な奴って誰のことだよ!」
キャプテンが抗議した。
小さな笑い声が起こった。
そして、けっさく。
「よかったら、話してみない?」
その言葉のあと、しばらく沈黙が続いた。
やがて、コメント欄に新しい文字が現れた。
『私、誰にも言えないことがあるんです』
四人は、静かに画面を見つめた。
けっさくは、優しく答えた。
「うん。聞くよ」
その声は、いつもと変わらなかった。
優しくて、穏やかで、何の見返りも求めない声。
夜明けまで、あと数時間。
それは、世界のほとんどの人が眠っている時間。
しかし、誰かにとっては、一生忘れられないほど大切な時間でもある。
たとえ、その記憶が消えてしまったとしても。
交わした言葉が、心の奥に残ることはある。
誰かに差し伸べられた手が、見えない力になって、その人の明日を支えることだってある。
そして、今夜も。
午前3時の小さな配信室で、一人の女の子の物語が始まろうとしていた。
誰にも知られない、ささやかな奇跡。
誰も覚えていない、優しい夜。
けれど、けっさくたち四人だけは知っている。
ここから帰っていく女の子たちが、どれほどの勇気を振り絞って、もう一度自分の人生を歩き始めたのかを。
だから、今夜も彼らは待っている。
雪国から。
関西から。
どこか分からない場所から。
そして、けっさくの配信室から。
午前3時。
シンデレラたちの魔法は、静かに始まる。
第一話 完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『配信者・けっさくの導き 〜午前3時のシンデレラ〜』、第1話はいかがでしたでしょうか。
世の中には、誰にも打ち明けられない悩みを抱えながら、それでも毎日を懸命に生きている人たちがいます。
学校のこと、友達のこと、恋愛のこと、仕事のこと。
悩みの大きさも、その苦しみも、人それぞれです。
そんな時、たった一言の何気ない言葉に救われたり、誰かが話を聞いてくれただけで、少しだけ心が軽くなったりすることもあるのではないでしょうか。
本作に登場する「けっさく」「へい師匠」「あさくらん」「キャプテン」たちは、決して特別な力を持った人間ではありません。
時にはふざけ合い、くだらない冗談で笑い、どこにでもありそうな雑談を楽しんでいる、ごく普通の人たちです。
けれど、午前3時になると、彼らの配信には不思議な奇跡が訪れます。
悩みを抱えた女の子たちが、まるで導かれるようにやってくるのです。
そして、救われた女の子たちは、彼らと過ごした時間をすべて忘れてしまいます。
感謝されることも、再会を約束することもできない。
それでも、彼らは毎晩のように集まり、誰かの心に寄り添い続けます。
たとえ自分の存在を忘れられてしまっても、誰かの人生に小さな光を灯すことができたなら、それだけで十分なのかもしれません。
第1話の主人公・美緒も、午前3時の出来事を覚えてはいません。
けれど、あの夜に流した涙も、勇気を出して踏み出した一歩も、決して無駄にはなりませんでした。
この物語は、一話ごとに異なる女の子たちが主人公となる、連作形式でお届けしていく予定です。
次は、どんな女の子が午前3時の配信に導かれるのでしょうか。
そして、けっさくたちが集まる不思議な配信には、いったいどんな秘密が隠されているのでしょうか。
その答えも、物語が進むにつれて少しずつ明らかになっていくかもしれません。
最後になりますが、この小説を読んでくださった皆様にも、心が疲れてしまう夜があるかもしれません。
そんな時には、どうか一人で抱え込みすぎないでください。
あなたの話に耳を傾けてくれる人が、きっとどこかにいるはずです。
そして、もし午前3時ちょうどに配信アプリを開いた時、「けっさく」という名前を見つけたなら……。
ほんの少しだけ、覗いてみてください。
そこにはきっと、いつもの賑やかな仲間たちが集まっていることでしょう。
「こんばんは。どうしたの、こんな時間に」
そんな優しい声が、あなたを迎えてくれるかもしれません。
それでは、また次のお話でお会いしましょう。
今夜も、すべてのシンデレラたちに、優しい夜明けが訪れますように。




