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死亡フラグが全部付箋で見えるんですが  作者: 絵宮 芳緒


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3/3

第三話 付箋のない人

翌朝。

窓から差し込む柔らかな陽射しが、白いレースのカーテンを淡く透かしていた。


鳥のさえずりが静かな朝を告げ、庭では水やりをする使用人たちの話し声が、かすかに聞こえてくる。


穏やかで、いつもと変わらない朝。

けれど、リシェルだけは違っていた。


目を閉じれば思い浮かぶのは、昨日見た婚約者の付箋。


【7日後 婚約破棄します】


たった一枚。

たった一行。


それだけなのに、胸の奥に落ちた小さな棘は、朝になっても抜けてはいなかった。


眠ってしまえば、少しは忘れられるかもしれない。

そう思っていた。


けれど、目覚めた瞬間、最初に思い出したのはセドリックの穏やかな笑顔と、その頭上に浮かんでいた白い付箋だった。


「お嬢様、お目覚めでございますか」


控えめなノックのあと、侍女のマリアが部屋へ入ってくる。


銀の盆をテーブルへ置き、慣れた手つきでカーテンを開けると、朝の光が部屋いっぱいに広がった。


「おはよう、マリア」


「おはようございます。本日は王都へお出掛けとのことでしたので、お支度をお手伝いいたします」


そう言って衣装を整え始めたマリアは、小さな箱を胸元に抱えたまま、どこか落ち着かない様子だった。


いつものマリアなら、支度の手順に迷うことなどない。


髪を梳く手も、衣装を選ぶ目も、誰より確かだ。

だからこそ、そのわずかなためらいが、リシェルには気になった。


「あの……お嬢様」


「どうしたの?」


「実は、お見せしたいものがありまして」


差し出された箱の蓋を開くと、中には小さな白い花をあしらった髪飾りが収められていた。


朝露をまとった花のような、可憐で繊細な細工。


派手さはない。

けれど、その控えめな美しさが、どこか胸を和ませた。


「以前から、お嬢様にはこちらの方がお似合いになると思っておりました」


マリアは少しだけ頬を染め、言葉を選ぶように続ける。


「今までの髪飾りも素敵なのですが、本日の外出には、こちらの方がより上品かと……」


その言葉を聞いた瞬間、リシェルは昨日の付箋を思い出した。


【お嬢様の髪飾りの趣味を改善します】


思わず口元が緩む。


「そういうことだったのね」


「え?」


「ううん、何でもないわ」


マリアは不思議そうに瞬きをする。

もちろん、付箋のことなど知るはずもない。


「付けてみてもいいかしら」


「はい!」


その返事は、先ほどまでの遠慮が嘘のように明るかった。


マリアは嬉しそうにリシェルの髪を梳き、蜂蜜色の髪を丁寧にまとめていく。


櫛が通るたび、細い髪が朝の光を受けて柔らかく輝いた。


最後に、小さな白い花飾りをそっと差し込む。


「……できました」


鏡の中には、白い花の髪飾りをつけた自分が映っていた。


蜂蜜色の髪。

翡翠色の瞳。

淡い朝の光を受けた、少しだけ不安げな顔。


リシェルは無意識に、視線をほんの少しだけ上げる。

自分の視界の斜め上。


そこには今日も、一枚の白い付箋が静かに浮かんでいた。


【本日 王都へ出掛けます】


けれど、鏡の中にその付箋は映っていない。


白い花飾りも、自分の瞳も、窓から差し込む光さえ映しているのに。


付箋だけは、鏡のどこにも存在しなかった。


リシェルはそっと指先を伸ばす。

鏡の中の自分も、同じように手を伸ばす。


当然、何にも触れない。


それでも視線を上げれば、白い付箋は確かにそこに浮かんでいる。


見えている。

けれど、映らない。

触れられない。


それはまるで、未来という形のないものが、リシェルにだけ見えてしまっているようだった。


「……素敵」


鏡を見つめたまま、自然と言葉がこぼれた。


「とても気に入ったわ。ありがとう、マリア」


その瞬間だった。

リシェルは、ふとマリアの頭上を見上げる。


白い付箋がゆっくりと揺れた。

文字が滲み、新しい言葉へと書き換わっていく。


【お嬢様に喜んでいただけます】


そして、ほんの数秒後。

再び文字が変わった。


【安心します】


「……!」


リシェルは小さく息を呑む。

また、変わった。


未来が叶うたび、新しい未来が生まれる。

昨日の若い使用人だけではない。


付箋は、確かに未来を示している。

そして未来は、一つ終われば、また次へと繋がっていく。


「お嬢様?」


首を傾げるマリアへ、リシェルは優しく微笑み返した。


「ありがとう。本当に嬉しいわ」


その言葉に、マリアもほっとしたように笑みを浮かべる。


胸の奥で、かすかな希望が灯った。


未来は、ただ迫ってくるだけのものではない。

変わることがある。


叶ったあとに、新しい未来へ書き換わることがある。


ならば、セドリックの未来も、あの付箋に書かれた七日後も、変えることができるのだろうか。


マリアが身支度をもう一度確認すると、満足そうに小さく頷いた。


「それでは、お嬢様。朝食のご用意が整っております」


「ええ、ありがとう」


マリアが一礼し、静かに部屋を後にする。


扉が閉まる音が小さく響くと、部屋には再び穏やかな静けさが戻った。


リシェルは、もう一度だけ鏡の前へ立つ。


白い花の髪飾りが、蜂蜜色の髪にそっと寄り添っていた。


派手ではない。

けれど、その控えめな美しさが、どこか自分らしい気がした。


視線を少しだけ上へ向ける。


【本日 王都へ出掛けます】


白い付箋は、変わらずそこに浮かんでいる。

未来は、今日という一日を静かに示していた。


「……行きましょう」


小さく呟き、リシェルは部屋をあとにした。


廊下へ出ると、大きな窓から差し込む春の陽射しが、磨き上げられた床をやわらかく照らしている。


庭では庭師が花壇の手入れをし、遠くからは食堂の楽しげな話し声が聞こえてきた。


いつもと変わらない朝。

その“いつも”が、今日は少しだけ愛おしく感じられた。




食堂へ入ると、焼きたてのパンの香ばしい匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。


温かなスープからは湯気が立ち上り、窓際に飾られた花瓶の花が、朝日を受けて静かに揺れている。


「おはよう、リシェル」


母が穏やかに微笑む。


「おはようございます、お父様。お母様」


父は新聞から顔を上げ、小さく頷いた。


「おはよう。今日はよく似合っているね」


「まあ、本当。白い花がとても可愛らしいわ」


母の言葉に、リシェルは思わず髪飾りへ指先を添えた。


「マリアが選んでくれたのです」


「なるほど。良い目をしている」


父が静かに笑う。

何気ない会話だった。


それなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。


付箋が見えるようになってから、リシェルの世界は確かに変わってしまった。


けれど、食卓に流れる時間は昨日までと同じだった。


母が庭の薔薇の話をし、父が王都の商会通りが混み始めていると話す。


リシェルは相槌を打ちながら、温かなスープを口に運んだ。


穏やかな日常。

守りたいと思うほど、胸の奥がきゅっと痛む。


朝食を終え、食後のお茶を一口飲んだところで、父がカップを置いた。


「そうだ、リシェル」


「はい」


「今日は王都へ行く予定だったね」


「ええ」


「ちょうど頼みたいことがある」


父は席を立つと、飾り棚の引き出しから一本の革筒を取り出した。


深い茶色の革には、アストレア伯爵家の紋章が丁寧に刻まれている。


封蝋はまだ新しい。


「商会へ届けてもらえるかな」


そう言って、革筒をリシェルへ差し出す。


「急ぎではないが、大切な書類なんだ」


「承知いたしました」


両手で受け取る。

見た目より少しだけ重い。


中身までは分からない。

けれど、大切なものを任せてもらえたことが嬉しかった。


「馬車は用意させよう。護衛も一人つける」


「ありがとうございます、お父様」


「無理はしなくていいからね」


母が優しく声を掛ける。


その頭上では、白い付箋が静かに揺れていた。


【11日後 旧友と再会します】


昨日より、一日だけ近づいた未来。


リシェルは自分の付箋へも視線を向ける。


【本日 王都へ出掛けます】


未来は、変わらず今日を指し示している。


「行ってまいります」


父と母へ一礼し、リシェルは革筒を胸元へ抱えた。


屋敷の玄関前には、すでに馬車が用意されていた。


黒塗りの車体には伯爵家の紋章が控えめに刻まれ、御者が恭しく頭を下げる。


護衛の騎士が一人、馬車の傍らに立っていた。


「お嬢様、商会通りまでお供いたします」


「よろしくお願いします」


リシェルは礼を返し、馬車へ乗り込んだ。


扉が閉まり、車輪がゆっくりと動き出す。


窓の外では、屋敷の庭が少しずつ遠ざかっていく。

白い花びらが一枚、風に乗って空へ舞い上がった。


リシェルは革筒を抱え直し、小さく息を吸う。


今日という一日が、自分の“常識”を大きく変える日になることを、この時のリシェルは、まだ知らなかった。




馬車は、昼前には王都へ到着した。


石畳の広い通りには、朝よりも多くの人が行き交っている。


商人たちの威勢のいい呼び声。

焼きたてのパンの香ばしい香り。

色とりどりの果物が並ぶ露店。


活気に満ちた街並みは、眺めているだけで心が弾んだ。


馬車は、商会の前で静かに停まる。


護衛が扉を開けると、リシェルは革筒を抱えてゆっくりと降り立った。


「少々お待ちください、お嬢様。」


護衛が、商会の者へ声を掛ける。


ほどなくして案内された応接室で、革筒を預けると手続きは思いのほか早く終わった。


「お待たせいたしました。」


商会の支配人が丁寧に頭を下げる。


「こちらこそ、お預かりいただきありがとうございました。」


リシェルも穏やかに礼を返した。


商会を出ると、護衛が馬車へ視線を向ける。


「お嬢様。馬車を正面へ回してまいります。恐れ入りますが、こちらで少々お待ちください。」


「ええ、分かりました。」


護衛が御者のもとへ向かう。


リシェルは店先の邪魔にならない場所へ移動し、人の流れを静かに眺めた。


花屋には季節の花々が並び、小さな子どもが母親の手を引いて笑っている。


ふと、その頭上へ視線を向ける。


【今日 母へ花を贈ります】


花屋の主人。


【昼過ぎ 大口の注文が入ります】


荷馬車を押す青年。


【明日 腰を痛めます】


通り過ぎる老夫婦。


【今夜 息子が帰ってきます】


思わず微笑んでしまう未来もあれば、少しだけ心配になる未来もある。


それでも、一つだけ変わらないことがあった。


誰の頭上にも、必ず一枚の付箋が浮かんでいる。


それが、この世界の当たり前だった。


その時だった。

通りの奥が、にわかにざわめき始める。


「騎士団だ。」


「騎士団長様がお通りになるぞ。」


「道をお開けください。」


人々が慌てる様子はない。


けれど、自然と左右へ分かれ、一筋の道ができていく。


商人も、貴族も。

子どもを連れた母親も。

誰もが、静かに道を譲った。


リシェルも一歩下がる。


ほどなくして、一団が姿を現した。


先頭を歩く青年は、黒を基調とした騎士服を身にまとっている。


陽光を受けてもなお、深く見える漆黒の髪。


無駄のない歩幅。

鍛え抜かれた身体。

誰かを、威圧するわけでもない。


それなのに、その場の空気が自然と引き締まる。


青年は、道を譲る人々へ軽く頷きながら歩みを進めていた。

その所作に、驕りはない。


感謝を返すような、ごく自然な一礼だった。


「……騎士団長様。」


誰かが小さく呟く。


リシェルも、いつものように視線を少しだけ上へ向けた。


――あれ?


何も見えない。


見落としたのだろうか。

人混みの向こうだから。

陽射しが眩しいから。


そう思い、もう一度だけ目を凝らす。


やはり、ない。


白い付箋も。

黄色も、赤も、灰色も。

黒も。


一枚もなかった。


「そんな……」


小さく息を呑む。


思わず、周囲へ視線を走らせる。


花屋の主人。

買い物帰りの婦人。

護衛の騎士。

その後ろを歩く兵士。


誰の頭上にも付箋はある。


なのに、あの青年だけが違う。


未来そのものが、存在しないかのように、ぽっかりと空白だけが広がっていた。


あり得ない。

そんなことが、あるはずがない。


父にも、母にも。

マリアにも。

セドリックにも。


今まで出会った誰にでも、未来はあった。

未来がない人など、一人もいなかった。


青年は、静かな足取りのまま近づいてくる。


そして、すれ違う、その瞬間。

ふと、蒼灰色の瞳がこちらを向いた。


ほんの一瞬、視線が交わる。

心臓が、どくりと鳴る。


けれど、青年は何も言わない。


何事もなかったかのように前を向き、そのまま騎士たちを率いて通り過ぎていった。


「お嬢様、お待たせいたしました。」


護衛の声で、リシェルは我に返る。

いつの間にか、馬車は目の前へ回されていた。


「……ええ。」


返事はしたものの、視線は青年が去っていった先から離せない。


街の喧騒は変わらない。

商人の呼び声も子どもたちの笑い声も。

人々の頭上で揺れる付箋も。


何一つ変わっていない。


ただ、一人だけ。

あの青年だけが、この世界の"当たり前"から外れていた。


馬車へ乗り込んでも、その光景は頭から離れなかった。


窓の外を流れる街並みをぼんやりと見つめながら、リシェルは誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。


「……付箋が、なかった。」


その疑問は、春風とともに胸の奥へ静かに残り続けていた。

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