第二十一話
一面の銀世界、氷雪に覆われたこの星で、唯一色が残る場所。
地熱のためか、他より低い標高のためか、あるいはなに者かの手で守られているのか。
連なる高峰が城壁のように囲う緑の大地では、今日も生命の息吹で溢れている。
穏やかな四季。繫栄する動植物。均衡のとれた生態系。その上で営まれる、賑やかな人間社会。
人種も言語も単一で、国という枠組みはない。世襲の君主が主権をもつ君主制の形をとっているが、その統治は緩やかなもので、君主というご意見番を中心とした共同体、といったほうが正確だろう。
身分や階級は存在しない。教育は義務付けられ、生活困窮者には行政からの援助もある。貧富の差はあるが、過去の人類社会と比較すれば、これほど平和で安定した社会もないだろう。
楽園を絵に描いたようなこの場所で、人びとは素朴な暮らしを推奨されている。
この世界の人びとは神を持たない。信仰されるのは形なき自然であり、生きている人間である。そして人びとが規範とするのは統治者である皇帝の生き様そのものだ。
滅私奉公がなによりもの美徳とされ、隣人に誠実であること、利他の心を持つこと、この世を尊び、慈しむことが人のあるべき姿だとされた。
当然ながら、この世界に生きる誰もがそれに則る聖人君子というわけではない。理想はあくまで理想。僕の生きていた時代の人びとと変りなく、この世界の人びとも名誉や富を追い求めている。臆病で、嫉妬深く、我がままで、ないものねだり。一方で家族を愛する勤勉な努力家で、闘争を好まない平和主義者でもある。そりの合わない相手とも、いざとなれば手をとり合う度量も持ち合わせている。
人間という生き物の本質は、管理された楽園の中にあっても変わらないのだ。
見栄っ張りで滑稽で、驚くほどにたくましい。
彼から市井の人びとの様子を聞いた僕は、そんな感想を抱いた。
『達観してみればそうかもしれんけど、実際に町歩いてみたら、やっぱなんか違うなって感じるけどな』
文明が衰退し縮小した社会であろうが人間の本質は変らない。という僕の意見とはまたちがった考えを、彼は抱いているようだった。
『具体的になにが違うんかって言われると、説明むずいけどな。最初はよう知らん外国を旅してる気分やったけど……なんかなあ?なんかが決定的にちゃうねん。オレらの生きてた世界と地続きとはどうも信じられん。未だに異世界って言われたほうが納得できる。VRやってるみたいや。知らん文化なのに言葉だけはちゃんと通じるちぐはぐさとか、よけいに――――っていうかそもそも、なんで言葉通じるんやろな?』
いまさらやけど、と彼は慌てたように言った。
『おかしいよな?おっさんの予想やと、ここはたぶんスイス(・・・)なんやろ?なんで日本語で会話できてるんや?』
『ここがスイスとはいっていないよ。ここはスイスを意識して作られたんじゃないか、というだけさ』
地形はずいぶん異なるが、山に囲われたこの土地の輪郭は、スイスとよく似ている。面積もちょうど合致するし、ここが地球のどの地点に作られた場所であっても、スイスという国がモデルとして意識された可能性は高い。
なによりスイスは特権階級の土地だった。ここが彼らの作った楽園であるならば、関連があっても不思議はない。
『スイス風に作られてるならなおさらや。なんで日本語やねん。それに風景はスイスっぽいのに、建物とか服はアジア風やし、文字はアラビアって、なんでこんな文化ちゃんぽんみたいなことになってるんや?ほんまになんちゃって異世界フィクションの世界観やで』
『それぞれ都合がいいものだけ残ったんじゃないか?』
あるいは都合がいいものだけを残したか。
『日本人が生き残って日本語が残ったってことか?でもじゃあなんで顔は外人やねん』
『ああ、人種はいろいろ混ざっているみたいなかんじがするよね』
『いろんな国のやつが混ざるのはわかるけど日本語だけきれいに残ってるのはキモイわ。言葉に難儀しないのは異世界転生あるあるやけど、それはあくまで物語をテンポよく進めるためであって、現実であったらおかしいやろ』
『しかしこの場合おかしいのは、この世界の言葉がわかる僕たちの方かもしれない』
『どういうことや?』
『召喚の条件に、日本語話者であることが含まれているのかもしれない、ということだよ。この時代で最低限のコミュニケーションをとれる人間しか、転生は認められていないのかもしれない』
彼はそれについてしばらく考えていたようだが、やがて僕が抱いたものと同じ結論に至った。
『まあいまここで考えることやないな。考古学(・・・)じゃ腹は膨らまん』
『そうだね。フィールドワークはあくまでついでにしておこう。せっかくのお祭りなんだから、楽しまなくちゃ損だ』
彼が西都にたどり着いたのは、朝廷を出て三日後のことだった。
実にスムーズな旅路だったといえるだろう。貴金属の換金や宿泊手続きに手間取ることもなく、追手に捕まることもなければ皇帝だと見抜かれることも、不埒な輩に絡まれることもなかった。
彼は見事に土地の人間を演じていた。親戚を訪ねるため辺境の村落からやってきた農婦という設定で、うまく周囲に溶け込んでいた。
例えば金銭のやり取りで彼の振る舞いにぎこちなさがあったとしても、不慣れな一人旅をしているからだ、と周囲は解釈し、実に親切に彼を手助けしてくれた(彼の無知につけこみ、値段を上乗せされるようなこともなかった。それどころか彼の方が親切につけこみ、値切らせてみせたくらいだ)。彼があれこれと的外れな質問をすることがあっても、いまどき珍しいくらいの世間知らずな田舎者だ、とおもしろがって話し相手を務めてくれる者がたくさんあった。(彼の演じた農婦が、非常にあけすけのない、おしゃべり好きな人物であったから、というのも理由だろう。あんなに明るい女性であれば、誰だって話をしたくなるものだ)
彼は道中千を超す人びととすれ違い、二十人近い人びとと交流したが、一度として正体を暴かれることはなかった。彼はことあるごとに自分の役者としての力量がいかに優れたものであるか自賛していたが、どうやらそれは誇大ではなかったらしい。彼は多くの人に素顔をさらしながら、正体を見抜かれるどころか、皇帝にそっくりだ、と指摘されることさえなかったのだから。
彼女は各地の視察や訪問をまめに行っており、その顔は民衆にも広く知られていた。巷には彼女の業績を称えた書物などがいくつも出回っており、表紙には大抵彼女の肖像が描かれていたので、(過剰に美化されたものばかりであったが、おおむね彼女の特徴はとらえていた。滑らかな輪郭と鼻筋。凛とした眉毛。引き締められた口元。伏し目がちな目つき……)彼女の人相は広く知られていた。
それにも関わらず、彼は顔を隠すこともせず、堂々と素顔をさらしていた。
彼が外見上で変化を与えたのは、せいぜい薄汚れることくらいだった。
濁った雨水で顔と頭を洗い、素手で地面を掘って爪の隙間に泥を押し込んだ。馬糞に足を沈めて靴の寿命を縮め、よく手入れのされた長髪は団子にしてまとめあげ、ぼろ布で覆い隠した。宿屋街までは盗んだ官服の上に、同じく盗んだ古い外套をまとっていたが、宿屋街で農婦らしい簡素な古着を購入し、以降はそれをまとっている。(足がつくとまずいとのことで、盗んだ官服と外套、さらにその下に着込んでいたシルクの寝着は、着替えが手に入るとすぐに火にくべていた)
重要なのは外見上の特徴ではなく全体の印象だということが、彼にはわかっていたのだ。
人目を憚らず欠伸をかき、唇を舐め、背中をかきむしる女を、天上人と見紛う者はない。
皇帝としての彼女は常に、威厳をそのまま羽織ったような豪奢な衣装と、それに見合うだけの派手な化粧で身を固めていた。常に多くの従者を引き連れ、振る舞いや言葉遣いも立場にふさわしいものだった。権威という黄金のベールは人々の目を眩ませる。その下にある彼女の素顔は、誰の記憶にも残っていない。背格好が同じでも、顔の作りが同じでも、よほど親しい人物でもなければ、同一人物だと見抜くことはできないのだ。
素顔で堂々と振舞うことが一番の変装になる。彼女が皇帝という誰にも知られた人物であるからこそ、彼は誰にも見つけられることはない。
それを知った僕は、ほの暗い喜びを抱かずにはいられなかった。
自分が彼女の素顔を知る数少ない人物だということに、優越感を覚えたのだ。
僕の前でも彼女は派手な衣装と厚い化粧で身を固めていた。けれど僕はその奥にある彼女の性根を、優しさと恥じらい、か弱く繊細な乙女の顔を見抜いていた。
きっと僕は、彼女がぼろ布一枚まとった姿で、万人の群衆に紛れていても、見つけ出すことができるだろう。
『ほんまキモイ』
一途な男として見直されるかもしれないと思い僕は彼にこの自信を伝えたが、あえなく一蹴されてしまう。
『おっさん、オレと同じ時代に生まれなくてよかったな。キャバとか風俗にドはまりして人生終わってたやろうからな。いやそういう商売女ならまだいい。看護師に本気で惚れて退院後にストーカーとかする一番性質の悪いタイプになったかもしれん』
彼のいう性質の悪いタイプがどういうものなのか僕にはよくわからなかったが、ひどく貶されていることは理解できた。
どうやら僕はまた彼の中で評価を落としてしまったらしい。あくまで女性関係においてのみ、ではあるが。
『僕は彼女が嫌がることはしないよ。彼女にきっぱりと拒絶されれば二度と近づくことはしない。けれどだからといって彼女への気持ちを捨てられるわけではない。遠くから想い馳せることくらいは許されるはずだ』
『ストーカーの思考や。可能性ないなら忘れるよう努力するのがふつう(・・・)やで』
ふつう。
この言葉に弱い僕は、返答に詰まってしまう。
『百万人の中から君だけを見つける、なんて聞こえはええけど、それ好きでもない男にやられたらただただキモイだけやからな。恋愛映画でそれが感動的に演出されんのはそいつらが相思相愛だからや。一方通行は純愛でもなんでもない、ただの執着や』
『執着は悪いことかな』
『良くはないやろ』
『でも、執着をもたない人間がふつうってことはないんじゃないか?だってそんな簡単に割り切れるものなら、どうして世の中にこれだけ愛のための詩があふれているんだ?』
『そりゃ誰だって熱に浮かれる時期はある。でもそれはすぐに冷めるもんや。おっさんみたいにもう会えない相手のこといつまでも引きずるやつは異常や』
『じゃあ君はこれまで一度も失恋を引きずったことはないのかい?』
『ないで』
彼はきっぱりと断言した。
『そもそもオレは売り出し中の役者やったからな。恋愛なんてリスク高いお遊びやっとる暇なかったわ』
お遊び、という言葉に僕はひっかかる。
『じゃあ君、そもそも恋愛経験がないのかい?』
『なくはないで。芝居では数えきれんくらいやっとるし、中高のときは彼女おったし。まあノリで付き合っただけやからすぐに自然消滅したけど』
彼があまりにも平然と言うので、僕は呆気にとられてしまう。
『君……それはふつう(・・・)ではないんじゃないか?』
『なんやて?』
『だって、さんざん僕に言っておきながら、君自身に恋愛経験がほとんどないじゃないか』
それはズルいだろう、と僕は責めたが、彼は意に介さなかった。
『まったくないわけやない。むしろ同世代では多い方や』
『芝居上の経験はカウントに入らないと思うけれど』
『それを抜きにしたって、彼女がいたことはいたんやから、ゼロではない』
それは屁理屈じゃないだろうか。
納得がいかなかったが、彼は僕に反論の隙を与えなかった。
『大体な、若いうちから恋愛にリソース割くのなんてよっぽどの暇人か夢のないやつだけやで。仕事も趣味もないから性欲に頭偏って女の尻ばっか追いかけるようになんねん。言わせてもらえば負け組や』
『しかしそれでは婚期を逃すよ』
『結婚と恋愛は別やろ。結婚こそ急いでも失敗するだけや』
これは世代差による価値観の相違だろう。
彼の時代より僕の時代はずっと平均寿命が短く、男女どちらも、子を為せるだけの生殖機能はごく限られた時期しか保持することができなかった。彼が言うようにのんびりしていたら、僕らは瞬く間に生きるだけで精いっぱいの老人になってしまう。故に僕の時代では、十代後半から二十代前半にかけての肉体の成熟期間は恋愛、結婚、子作りに注力することがふつうだった。
彼のふつうと僕のふつうはちがうのだ。
だから彼にとって僕がふつうでないことは当然なのだ。
そう思い至り、僕はほっと胸をなでおろしたが、それでもすべてに得心がいったわけではない。
『とにかく君に経験がないという事実は変らないじゃないか』
僕は彼に反論の余地を与えず続ける。
『この人の他にはなにもいらないと思えるような恋を君は経験したことがないんだろう?それなのに僕を異常者扱いするのはズルい。僕から言わせれば君はお子さまだ。知識だけの若造だ。誰かを心から愛したことのない君の言葉は、僕には響かないよ』
僕なりにトゲを刺したつもりだったが、彼にはまったく効果がなかったようで、返ってきたのは聞き分けの悪い子供にむけるような力のないため息だった。
『恋愛脳はこれだから困る。自分に酔うのもたいがいにせんと痛いで、クソじじい』
やれやれ、と首をふりながら、僕は同じため息を返す。
『頑固で狭量なクソガキよりマシだよ』
『言うようになったやん』
『失敬。どうも日々クソガキの相手ばかりしていると口が悪くなる』
なにがおかしいのか、彼は声をだして大笑いした。
まただ。彼は僕が口を悪くしたり、侮辱に近い軽口を叩くと、なぜかいつも笑いだす。
どうもそれくらい歯にもの着せない間柄のほうが、彼にとっては心地がいいらしい。僕はいまだに慣れず、どぎまぎしてしまうのだが。
『僕らは性愛に関する話題でいつも衝突するね。まあ主に君がつっかかってくるからなんだけど』
『価値観合わないからな』
『相互理解にはまだまだ時間がかかりそうだ』
『せやな。そしてあんたのことを理解する前に、オレはこっちの見識を広めなくちゃあかん。――――さあて、どこから見て回ろかな』
彼は僕との雑談を打ち切り、祭りの見物に向かった。
毎年秋に、五大都市で七日間に渡って開かれる大祭。彼が朝廷を抜け出した翌日から始まったこの祭りは、今日ですでに四日目を迎えている。しかし祭りの熱は冷めることなく、むしろ四日目にして最高潮に達しているといっても過言ではなかった。
なにしろ宿から祭りの中心地を目指した彼は、数万の群衆に揉まれた揚げ句、歌と踊りと酒の輪に入り込んでしまい、およそ半日間解放されることがなかったのだから。




