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第二話

 ◎




 たしかにそこは、僕がもといた場所とは異なる世界だった。

 社会制度や装束は清朝末期の中国に近いが、文語はアラビア語に似ており、言語は完全に日本語だった。人びとの容姿はコーカソイドとモンゴロイドが混ざったような無国籍風のもので、大変な美形ばかりだった。(まだそれほど多くの人に会ったわけではないが、これまで会った全員が非常に整った顔立ちをしていた。老人でさえも、人はこれほど美しく齢をとれるのか、と見惚れてしまうほどに)

 蒸気機関も持たない文明レベルでありながら倫理観が高く、衛生観念も発達していた。

 食事はパンとチーズ、川魚が中心のヨーロッパ風のもので、素朴だがとても美味しかった。

 少なくとも食事に関してだけ言えば、僕のもといた場所よりもずっと発達している。いや、発達、というのは適切な表現ではないかもしれない。洗練されている。上質である。そういった言葉の方がふさわしいだろうか。倒れる前の僕が、ほとんど固形物を食べられなくなっていたせいもあるかもしれない。ここで出される食事はとにかくどれも新鮮で、僕の舌や胃にはそれを充分に味わえるだけの余地があった。新鮮さに勝るものはない。そして健康体に勝るものはない。つまるところ、味の良し悪しというのは、環境と健康状態が決定づけるものなのだ。

 それは食事だけに限った話ではない。僕が寝かされていたのは、クメール建築を思わせる、砂岩づくりの広々とした堂の中だったが、壁には見事な装飾が施されていた。壁から天井にかけて、複雑な幾何学模様が掘り出されている。堂内全体を檻のように取り囲むそれは、天井で集約し、ひとつの大きな円を描く。円の内側にはこれまた美しい幾何学模様の彫刻で縁取られた天窓が置かれている。窓から差し込む光は、直下にある寝台を明るく照らす。寝台に横たわる僕は、まるでスポットライトをあてられているようだ。こそばゆいが、光は温かく、心地が良い。

 人はこんなにも美しい空間を作れるものなのか、と、僕は感嘆した。

 朝、目を覚ましたとき。あるいは、午睡から目覚めたときにも、僕は新鮮な感動を覚える。鳥籠の内側にいるようだと錯覚することもあるが、こんなにも美しい鳥籠ならば、僕は空を知らずに一生を終えてもかまわないと思った。

 しかしこんなふうに、なにかの美しさに感動することができるのも、心の余裕がなければできないことだ。仕事に打ち込んでいた僕は、久しくなにかに感動することがなかった。どんな光景を目にしても、それはただの背景でしかなく、眩しい、暗い、熱い、寒い、騒がしい、そういった不快感にしか気を留めることができなかった。

 僕はこの身体を手に入れることで、感性を取り戻すことができた。食事を楽しむことが、美しいものに感動することができるようになった。

 僕は改めて神に感謝した。

 ここは僕にとって天国であり、楽園であり、理想郷だった。これ以上なく満たされていて、幸福とはまさに、いまの僕が置かれた状態のことを指すのだろうと思った。


「わかりません」


 けれどそんな僕の心境に、彼女は共感を示してはくれなかった。


「私にこんなことを言う資格はありません。ですが――――貴方は、幸福ではないと思います。むしろ、とてつもなく不幸なのではないでしょうか」


 寝台に横たわる僕の傍らに立つ彼女は、彼女こそ不幸のどん底にあるかのような表情を浮かべていた。


「私が不幸に見えるんですか?」


 彼女は俯き、小さく頷いた。

 僕はあえて理由は訊ねなかった。そんなことをしても、彼女をますます俯かせるだけだとわかっていたからだ。


「私は不幸ではありませんよ。――――例え余命いくばくもない、寝たきりの身体であったとしてもね」


 むしろ不幸なのは彼女と、この世界の人びとの方だろう。


 僕がこの身体に召喚されたのは、世界を救うためだった。

 もうすぐこの世界には未曾有の大災害が発生するという。それを防ぐために、異界の人間の力が必要なのだそうだ。

 異界の人間だけが持つという、特別な力。

 なるほどたしかに僕は、それらしきものに覚えがあった。前世で僕が就いていた技術職は、彼らが求めているものに近いだろう。然るべき機材と燃料さえあれば、僕は一人で日本の天候を操ることも地震を抑えることもできた。話を聞く限り、その災害の範囲というのは日本の面積のおよそ九分の一程度(旧九州とほぼ同等)らしい。彼らのいう災害がどのような形のものであれ――――大雨であろうと、地震であろうと、噴火や吹雪であろうとも――――僕は対応する自信があった。

 しかしそれは機材と燃料が揃っていれば、の話だ。

 見たところのこの世界の文明レベルは僕のもといた世界よりはるかに低い。コンピューターはもちろん、電信システムどころか電球さえもない。当然、AIによって制御される()()()()も存在していない。

 技術だけあっても、道具が無ければ役には立たない。かなり原始的な構造の、念動術具に近いものあったが――――この世界の人間は、それを()()と呼んでいた。また()()()()のことを、()()と呼称していた――――災害を防ぐには役不足だった。

 マグマの海に木造船を浮かべてどうなるというのだろうか。裸で飛び込むことと結果は変わらないだろう。おまけに操舵手である僕は、寝台から降りることのできない身だ。そんな状態で、どうやって炎の荒波を乗り越えるというのだろうか。

 僕は救世主となるべくこの異界へ召喚されたが、その召喚は、どうも失敗だったようだ。

 意識ははっきりしている。発語や知覚にも問題はない。念力に至っては出力があがっているくらいだ。しかし下半身は麻痺状態にあり、動かすことができない。上半身も、肘から先は比較的自由に動かすことができたが、肩回りは感覚が鈍く、腹筋も背筋も石のように硬直してしまっている。僕は半身不随で、自力で歩くことも起き上がることもできなかった。食事でも排泄でも、人の手を借りなければならなかった。

 この身体は四十九歳の男性のものだったらしい。男はこの世界の技術者であり、並外れた頭脳と壮健な肉体を有していた。救世主に与えるにふさわしい器だったわけだ。しかし頑強なはずの彼の身体は、僕を召喚するために要した三年という長い時間の中で、すっかり弱ってしまった。筋力は衰え、実年齢以上に老け込んでしまった。

 肉体に課せられた障害のどこまでが寝たきりであったために生じたもので、どこまでが召喚の副作用なのか。はっきりとしたところはわからなかった。確かなことは僕の身体はとても救世主になりうるものではなかったということだ。

 僕は目覚めてから数か月間、懸命にリハビリを重ねたが、症状は悪化する一方だった。自力で起き上がることもできず、少し身体を動かしただけで激しい動悸に見舞われるようになった。念力の制御が困難になり、両手の感覚も鈍くなっていった。

 このままいけば、僕は遠からず死ぬだろう。それが来週か一月後かはわからないが、未曾有の大災害が発生するとされている七年後までは、到底もちそうにない。

 幸いなことに、肉体は不自由だったが、苦痛は少なかった。ただ横たわっている限り、僕は穏やかに呼吸することができたし、意識も鮮明で、会話や食事を楽しむ余裕も十分にあった。

 哀れなのはこの世界の人びとであり、救世主の召喚を指揮した彼女だった。

 なんとこの肉体の持ち主であった男は、彼女の夫だったのだ。

 彼女はこの世界を統べる皇帝であり、救世のための犠牲者、救世主の器に、自ら夫を指名したという。それを聞いたとき、僕は彼女に同情し、思わず涙した。これほどまで残酷な悲劇があっただろうか。大切な夫を生贄にしたというのに、召喚は失敗し、救世主は虫の息。まったく神は不公平だ。僕に授けられた幸福はすべて、彼女から奪ったものなのではないかと疑いたくなってしまう。

 しかし僕は、例えそうだと分かっていても、この幸福を噛みしめずにはいられない。彼女に返す機会を与えられたとしても、決して手放しはしないだろう。

 彼女に同情できるのも、彼女のために涙を流すことができたのも、神が用意してくれたこの身体があってこそ、だ。

 僕はもういつ死んだとしても悔いはなかった。

 寝たきりの老人として明日死んだとしても、僕はやはり、神に感謝するだろう。

 この身体を僕に与えてくださって、どうもありがとうございます、と。

 しかし僕の前世――――以前の僕にあったさまざまな不具合、大きな欠陥、それに起因するトラウマたち――――を知らない彼女の目には、寝たきりの身体で幸福を謳歌する僕の姿は、奇妙でならなかったようだ。


「もし貴方が我々を気遣ってくださっているのでしたら、その必要はありません」


 同情する僕に対して、彼女は言った。


「我われはすでに次の召喚準備を進めています。歩くこともままならない貴方に、助力を求めることは致しません」


「つまり私は用済みということですか?」


「そういう意味では……」


「冗談ですよ」


 困った顔をする彼女がかわいかったので、ついじわるを言いたくなったのだ。しかし彼女は僕の軽口を皮肉だと解釈したようで、ひどく落ち込んでしまった。


「少しでも気が楽になるかと思って、あえてお伝えしたんです。世界を救うと、貴方は意気込んでいたから……」


 なるほど。彼女は僕が、責任を感じていると思っているのか。たしかに目が覚めてすぐのころ、僕はたくさん大口を叩いた。神にも、この世界の人間にも心から感謝していたし、なんでもいいから恩返しがしたくてならなかったのだ。

 ところが蓋を開けてみれば、恩を返すどころか、重ねる一方だった。すっかり寝たきりとなり、なんの役にも立たなくなった僕を、この世界の人びとは見捨てなかった。まるで僕が世界を救った人間であるかのように丁重に扱い、これ以上ないほど世話を焼いてくれた。

 寝具と衣類は日ごとに清潔なものへと取り換えられるし、実にさまざまな献立で僕の舌と腹を満足させてくれた。清拭は丁寧だし、排せつの介助も、嫌な顔一つせず行ってくれる。僕が退屈を訴えれば、詩や小説を朗読してくれたり、歌を歌ってくれた。寝台に生花をばらまき、その香りや感触を楽しませてくれることもあった。

 最も心躍ったのは、堂内に小鳥と蝶を放ってくれたことだ。

 彼らは広い堂内を自由に飛び回り、僕の枕元に置かれた花をつつき、やがて天窓から外の世界へ戻っていった。生きている小鳥と蝶をあんなに間近で眺めたのは初めてだった。小鳥の羽音は存外に大きく、蝶の胴体はグロテスクだった。実に興味深い体験だったし、去っていく彼らを見送るのは、なんともいえない晴れやかな気分だった。

 自分も死んだら、小鳥や蝶のように、あの天窓から出ていくのだろうか。そう考えると、いつ死んでも惜しくないと思えた。

 それを伝えると、鳥を放してくれた彼女は、悲しそうに目を伏せたが。


「恩を売っているつもりはありません。貴方は我々の都合で、そんな身体になってしまったんですから。貴方の望みをかなえることは、貴方にその身体を課した我々の、当然の義務です」


 何度言っても、彼女は僕がこの身体を喜んで受け入れているということを、理解してはくれなかった。

 一度死んだ身の僕にとって、これは余生のようなものだ。たしかに寝たきりではあるが、前世の僕も最期は寝たきりだった。どころか植物状態だった。それに比べれば、意思の疎通ができて、見ることも聞くことも味わうこともできるこの身体は、満足のいくものだ。

 そもそも夢にまで見た理想的な肉体なのだ。前世と同じ植物状態に陥ったとしても、僕が彼女たちを恨むことはなかっただろう。


「なにかしてほしいことはありますか?」


 彼女は口癖のように、僕に訊いた。


「なにか足りないものや、欲しいものはありませんか?」


「すでに十分すぎるほどよくしてもらっていますよ」


 僕がこう答えると、彼女は表情を曇らせる。

 僕のワガママに応えることで、それを贖罪としたいのだろう。僕はなにも欲していなかったが、彼女の気が晴れるならと、仕方なくいつもなにかワガママを考えて、口にした。

 甘いものが食べたい。酒が飲みたい。上掛けを鮮やかなものに代えてほしい。――――大抵は叶えられたが、しかし唯一、外に出たいという望みだけは、叶えてもらえなかった。


「お身体にさわるといけませんから」


「少しでいいんです。外の空気を吸いたいです」


「天窓を開けましょう」


「風にあたりたいんですよ。せっかく異界に来たというのに、それを実感する機会が僕にはまるでない。ここで新鮮な食事を食べて、目新しい音楽や物語に触れるのはとても楽しい。貴方から聞くこの世界の歴史の話もとても興味深い。けれどそれだけです。僕はまだ真の意味で理解していないように思うんです。自分がこれまでと全く異なる世界にやってきたのだということに」


 僕はいつになく丁寧に彼女を説得した。


「椅子かなにかで運んでくれればいいですよ。そうでなければ誰かにおぶさってもらうのでもいい。ここは自然豊かな場所なんでしょう?都市から少し離れたところにある、神殿のような場所なんでしょう?私はこの素晴らしい建物の外側を見てみたいし、草原や湖や遠くの山脈の影を眺めてみたい。この世界の空は私のもといた世界の空と同じ色なのか、同じ広さなのか、そういうことを比べてみたいんです」


 彼女はなにも答えなかった。いや、答えは出ているのだろうが、どう言葉にすればいいか迷っているようだった。

 僕はどうにか彼女の気を変えようと、熱を込めて、畳み掛けた。


「そんなに長い時間でなくていいんです。五分かそこらでかまいません。――――死ぬ前に一度、この目で、君の生きている世界を見てみたいんだ」


 僕はとても真剣に、彼女を見つめた。

 彼女は表情を押し殺していたが、しかしその瞳は戸惑いに揺れていた。小さな動物が巣穴から出ようとしているような目つきだ。僕は胸がじんわりと熱くなるのを感じた。彼女はもう三十八歳になるというが、どう見ても二十代にしか見えなかった。威厳はあるが、鼻につくようなものではなく、皇帝というよりは事務や経理を担当してそうな雰囲気だった。知的で実務家。博識だが生真面目で、色恋には疎い。彼女は僕に対してプライベートなことをほとんど明かさなかったが、ここにきてから数か月の付き合いで、なんとなく彼女の人となりをつかんだ気になっていた。

 正直にいって、タイプだった。

 身体のもとの持ち主が、彼女の夫だからだろうか。一目見た時から、僕は彼女に惚れていた。落ち着いた声も、思慮深い眼差しも、白く滑らかな肌も、彼女のなにもかもに、僕は魅了されてしまっていた。


「――――絵をお持ちしましょう」


 しかし彼女は、僕がいくら口説こうとも、取り合ってはくれなかった。


「この世界の風景を描いた絵をお持ちします。風俗や歴史は私がお話します。わざわざ外に出ずとも、ここで十分、この世界を知ることはできます」


 僕はわざとらしく顔をしかめて見せた。

 彼女は弱ったように視線を逸らし、少し考えてから、付け加えた。


「野花もお持ちします。風や空を運んでくることはできませんが、日をたくさん吸い込んだ草花は、きっと貴方の下に新鮮な空気を運んでくれるしょう」


「その花というのは、君が手ずから摘んできてくれるのかな?」


「お望みとあらば」


「君が僕のために花を摘んできてくれるなら、外に出るのは諦めよう」


 僕は彼女の手をつかんだ。

 彼女は小さく震えたが、僕の手をふりほどきはしなかった。

 自分がずるいことをしているという自覚はある。彼女は僕に負い目があり、僕の望みを叶えることを義務だと感じている。おまけに僕の身体は彼女の夫のものだ。邪険にすることは難しいだろう。


「――――わかりました」


 彼女は頷いた。


「次にお伺いするとき、野花を摘んで参りましょう」


 僕は彼女の手を強く握った。貧弱な僕の手は、握っているというよりほとんど彼女に支えられているような有様だったが、それでも精一杯力をこめた。


「楽しみにしています」


 僕は浮かれていた。

 こんなにも堂々と女性を口説くなど、前世では考えられないことだった。僕の本性はこんなにも積極的な人間だったのか。図々しい好色家だったのか。あるいはこのくらいふつうなのだろうか。基準がわからない。とにかく彼女に嫌われるようなことだけは避けたい。

 僕は自分の変化に驚いていたが、それ以上に楽しんでもいた。色恋の駆け引きなどはじめての経験だ。彼女は僕のためにどんな花を摘んできてくれるだろうか。それはどんな花で、どんな香りだろうか。彼女自身はどんな花が好きだろうか。

 僕は寝ても覚めても彼女のことばかり考えるようになっていた。結局のところ外に出たいなどというのは口実だった。一体どんな事情があって、僕がこの堂内に留められているのかはわからない。けれどそれを引き合いに出せば、彼女は大抵どんなワガママでも聞いてくれた。

 僕に食事を与えるだけでなく、一緒に食事をとってくれた。僕のもといた世界にあった愛の歌(女性が男性への秘めた想いを告白する歌だった。歌詞は英語だったので、彼女はその内容を知らないが)を覚えて、歌ってくれた。

 弱みに付け込む僕は、卑怯だろう。しかしどうせ長くはない命だ。前世のように欠陥があるわけでもない。僕は短い今世を、できる限り謳歌しようと思っていた。


 そんな自分勝手なことを考えていたからだろうか。神が僕に、天罰を下したのは。

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