【研究室にて】
「あ、あの。さっきは本当に……」
「もう良いわよ。驚いたってだけでしょ」
私がひとしきり笑い転げた、その後。
さっきの事をまだ引きずっているのか、少女は未だにしょげていた。
ふわふわの髪が肩に垂れ下がる様は、飼い主にそっぽを向かれた仔犬みたいだ。
ため息を苦笑に換え、私は自分の隣を指差した。
「もう怒ってないってば。ほら、座りたいなら座んなさい」
「う……うん」
少女は、少し遠慮がちに草地に腰かける。
すっかり乾いたワンピースの裾は、湖岸の風に揺れていた。
「あ、あの。私、紫苑・アスタリスって言います。えっと……」
「イリスよ」
苗字を名乗らず、名前だけを短く答える。
草地に寝っ転がっている私を覗き込むようにして、紫苑は首を傾げた。
「イリス……ちゃん。イリスちゃんは、この学院の学徒なの?」
「違うわよ。で、あんたは来年度入学の学徒補かしら」
「な、なんで分かったの」
「身分証バッジ見りゃ分かるわよ。朔弥人の学徒ってのは初めて見たけどね。学院都市には御両親と来たの?」
「……ううん」
単なる世間話のつもりだった。しかし、紫苑は途端に寂しそうな表情になり首を振った。
「私の両親、少し前に死んじゃったの。
私を引き取ってくれたのがここの先生だったから……それでね」
「そう。嫌な事聞いちゃったわよね、ごめんなさい」
「ううん。イリスちゃんの疑問、当然の事だもん。私は帝国籍だから、学院にいても問題はないみたいなんだけど……」
容姿が原因でいじめられる事が多いから不安だ、と。
膝を抱えた紫苑の言葉に私はため息をついた。
「……あんた気弱そうだから、言っとくけど。変な理屈付けて絡んでくる貴族連中みたいなのは、いちいち気にしなくて良いんだからね?」
先刻、紫苑や私に絡んできた社交科──貴族学徒のカンに触る表情を思い出して、私は鼻にしわを寄せた。
「あぁいうのはね、常に下になるモノを見てないと、自分の存在意義が保てないのよ。『高みを目指して上を見る』努力ができない可哀想な人達なのよね。だから、何でもかんでも理由を付けて相手を引きずり降ろそうとしてるだけ。あんたが、そんな奴らの満足度を上げてやる必要はどこにもないでしょ?」
「う、うん……」
「あんた、原因が自分の生まれにあるって考えるのはやめなさいよ。実際の原因がそうなんだとしても、変えられない差にうじうじ悩んで、嘆く時間は無意味だわ。そんな事をしたって、結果は何も変わらない」
そう。変えられない差を嘆いたところで、何も変わらない。
口の中で自分の言葉を反響させながら、私は空を仰いだ。
高地特有の透明感を持つ空に、一羽の鷹が舞っている。
優雅に空を舞う鷹は誇り高く、堂々としていて──けれど広すぎる空の下では、孤独な存在であるかのように映った。
「あぁ、そうだわ」
私はポケットを漁って、ヘアピンを取り出した。
ちょっと派手な飾りが付いているけれど、まぁ問題はないだろう。
「あんた、せっかく綺麗な目の色してるんだから、隠さないで出しときなさいよ。というかその髪型、根暗っぽい」
「ね、ねくら……って、悪いよイリスちゃん、このヘアピン、見るからに高そうだし」
「使ってないから良いわよ、別に」
ふにゃふにゃと抵抗する紫苑の頬っぺたを強制的に固定、目を隠さんばかりに伸びている前髪をかき上げてヘアピンを差す。
もちろん彼女の表皮には傷ひとつ付けてない。うん、完璧だ。
「よし。私、そろそろ帰るわね。機会があったらまた会いましょう」
「え、あ、ありがとう! 今度会ったら、その、お礼をさせて!」
湖面の光が反射して、紫苑の翡翠色の目がきらきら輝いて見える。
最初は分からなかったけど、かなり可愛いと言っていい部類の容姿だろう。
頭突きしそうな勢いで迫って来る少女の肩を軽くたたいて、私は踵を返した。
「はいはい、期待しないで待ってるわ。じゃあね。次はいじめられるんじゃないわよ」
「う、うん! ありがとう、本当にっ! ありがとうーっ!」
いつまでも手を振って来る少女。何度か振り返って手を振り返してあげつつも、私は丘を登り、学院の敷地外へと足を踏み出した。
(変わった子だったわね)
そんな事を考えながら、少しだけ振り返る。
校門内の広場に設置された噴水の輝きが、あの子があげた水しぶきと同期して見えてつい一人で笑ってしまう。
またひとしきり笑ってから、私は帰ろうとした……が。
「むっ……」
ふと思い出す。
自分の唇が柔らかいものに密着し、心臓が張り裂けそうに脈打った、あの瞬間を。
「いや事故だから。接触事故だから。つーか、私にそういう系の趣味ないしっていうか向こうが原因の事故だし……」
誰も聞いていない言い訳をぶつくさとかましながら、少女はひとり悶絶するのだった。
◇◇◇
「──それで教授は、紫苑ちゃんを引き取る事になったというワケですねぇ」
チチェリット学院、研究室棟の一角。
〈術式文化学研究室〉と記された部屋の中でガラス器具を操作するのは、桃色がかった茶髪の若い女性だ。
着ている白衣は薄汚れて、ポケットからは擦り切れたメモ帳が飛び出ている。
それは実験に没頭する科学者と言うよりかは、白衣のまま野外を走り回って来た探索者のような姿だった。
「あぁ。あの子の両親は、私の友人だったんだ。手紙を受け取った直後に村に向かったんだが、私が着いた時には孤児院に送られてしまっていて……引き取るまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった」
「孤児院って、教会の孤児院ですか?……あんまり良い噂は聞かないですけど」
「あぁ。混血児専用の施設だったからね、支援も少なく劣悪と言っていい環境だったよ……。
孤児院長もその環境に思うところはあったようでね、私の立場から来る細かい手続きに関しては、目をつむってくれた」
女性の声に応じて、窓際に佇んでいた男性が疲れきったため息をついた。
〈術式文化学研究室〉の主人にして、とある孤児院から紫苑を引き取ったエリック・オードラン教授だ。
伸びた茶髪を無造作に束ね、眼鏡の奥から気だるげに部屋を見渡す様は、まるで疲れきった浮浪者のようだった。
「外見の差はあれど、あの子は帝国籍のイウロ人だ。星沁干渉力は帝国人の水準を大きく上回るし、覚えも早い。
頭脳の点でも意欲の点でも、学徒として帝国人に劣る事はない……そのはずなんだがね」
ためらいながらも、エリック教授は確かな言葉を落とす。その言葉を聞いたジェシカは、強く頷いた。
多くの異民族を飲み込んで拡大してきたイウロ帝国は、しかし純血のイウロ人至上主義を捨てきれていない。
その事が吸収された異民族との軋轢を生み、各地で小規模ながら内乱も起きている。
また『能力あるものは人種に関わらず招き入れたい』学院都市の本音と、教会に実権を握られた帝国上層部からの『異教徒は排斥すべき』という圧力が釣り合っていないという現状の事もある。
……拡大しすぎた帝国は、混血の民にとって芳しい情勢とは言えないのだ。
「私はね、ジェシカくん。それが最善の策だと分かっていても、紫苑くんを学院に入学させる事が不安で仕方がないんだ」
天井を仰いで、教授は目を細めた。
「この学都はただの虚像。理想郷を模しただけの箱庭の街だ。
『誰もが自由な学びを得られる学問の街』、そう掲げていても世界の情勢から逃れる事など到底できやしない。
……我々は、偽りと知っている箱庭の壁を守る事だけで、精いっぱいだ」
「先生がたは、よくやっておられますよぉ」
疲れ切った教授を労わるように、ジェシカは穏やかに声をかけた。
「それにあの子、絶対に見た目より芯が強いですよぉ……きっと、大丈夫ですって」
「そうだと良いんだが……」
憔悴しきったエリック教授は、確信を得る事ができないのだろう。
色濃い隈が浮かんだ顔をうなだれさせる恩師を見て、ジェシカは静かに肩を落とす。
(……まぁ、教授が憔悴なさるのも、無理はないんだよねぇ)
親友夫婦が亡くなった上に、その子供が行方不明。
劣悪な環境の孤児院からようやく見つけてきたは良いけれど、問題はこっちでも研究でも山積みの崩壊寸前。
自分だったら耐えられるか分からないという感想を抱いたジェシカは、廊下から聴こえてくるチリン、チリンという音に耳を留めた。
「あぁ、紫苑ちゃんが帰ってきたみたいですよぉ」
言いながら、ジェシカが扉に近付いた瞬間だった。
「た、ただいま戻りましたぁー!」
頬を紅潮させた紫苑が、研究室に飛び込んできた。
「お……おおっ⁈」
行きは『あの……図書館に本、返してきます……』と沈痛そうな面持ちをしていたのに。
研究室に飛び込んできた紫苑は、どこか嬉しそうだった。
「遅かったねぇ。なんだか機嫌がよさそうだけど、良い事でもあった? そのヘアピンは?」
「も、貰ったんです! あの、さっきですね……」
目をまん丸くしているエリック教授を視界の隅に捉えながら、ジェシカは訊ねる。
走って息が上がっている紫苑が言うには、廊下で会った子に貰ったという事らしい。聞けばその子は、純粋のイウロ人だったようだ。
「へぇ、じゃあ歳が近い子と知り合えたんだねぇ!あ、でもこの時間に外にいたって事は、学科の少ない三年位とかかな?」
「え、えっと。違うと思います。学徒のバッジを、付けてなかったから……」
「へぇ。それじゃあ、冒険者の連れ子さんとかかしらぁ。その子、名前とか聞いてないのぉ?」
「イリスちゃんです!苗字は、その……聞きそびれちゃって」
「ありゃりゃ。珍しい名前じゃないし、名前だけで探すのは大変かもだね。会おうとしたら、向こうから見つけてもらわないとぉ」
「ふりゅっ⁈」
指摘されて初めて気付いたのか、紫苑は目に見えて落胆する。
そんな養い子の様子に微笑みながら、エリックは肩を竦めた。
「なに、この街は狭い。会う機会はまた来るだろうさ。
そういえば、ふたりで夕飯を食べに行くと言っていたね。食堂が混む前に行っておいで」
「はい!」「はぁーい」
同時に返事をして、ふたりの少女は連れ立って研究室を後にする。
姉妹のようなその後ろ姿を見送り、エリック教授は呟いた。
「まさか紫苑くんが会った『イリス』というのは……っと、まずい。もう会議の時間か」
この学院は、チチェリットの自治権を獲得している自治都市だ。街の指針を決める為に、教授の位にある者は定期的な会議を行っている。
「……。やれやれ、何事もなく終われば良いがな」
ため息をついて、エリックは立ち上がった。




