廃都編 29章
ヘッドライトの向こうに、ライトアップされた水路が微かに見えて、それはやがて少しずつ俺の周りを覆っていく。柔らかな明かりが、霧の出始めた光景の中で滲んで、見慣れた懐かしい景色を幻想的な色合いに染めていった。
ジープを、細い水路沿いの道に走らせ、家の少し手前の空き地に止める。家までの数百メートルを俺は歩いてみようと思った。エンジンの音をあてにしているであろうリーフを少し驚かせたかった。
家までの僅かな道を早足で歩いて、玄関の前に立ち、インターフォンに手を伸ばそうとした時、不意に細い笛の音が聞こえて俺は手を止めた。カエタナの人間なら、誰でも聴いた事のあるその音色は、おそらく、リーフが吹いている笛の音色に違いなかった。カエタナの母親から、娘に受け継がれる笛。国境でアキの踊りを見たとき以来のその音色は、なんだか酷く物悲しい音色に聴こえた。
音色が止むまでの僅かな時間を、俺は玄関の前に立って過ごした。笛が止むと、俺の周りに痛い程の静寂が広がっていく。インターフォンに伸ばした指がボタンに触れると、ベルの音が小さく響き、階段を駆け下り、廊下を走る足音が玄関に近づいてくる。
ドアが勢いよく開き、パジャマの上にカーディガンを羽織ったリーフが、まっすぐに俺の胸に飛び込んで、そこに強く顔を埋めた。よろめきかけた姿勢を戻して、そっとリーフの肩に手を触れると、僅かに震えているその肩から暖かな体温が伝わってくる。
「ただいま」
月並みな挨拶ではあったけれど、それ以外に何も思いつかなかった。リーフは顔を俺の胸に埋めたまま、お帰りなさい、と呟く。たったそれだけのやりとりが、なんだか愛おしかった。リーフが嗚咽する微かな声だけが響く中で、不意に吹いたブルーム特有の冷たい風が、リーフの銀色の髪を揺らしていく。
ストーブに火が入ったリビングのソファーに身を沈めると、猛烈な眠気と脱力感が身体を覆っていくのが解った。目を閉じて深く息を吸い込むと、そのまま泥のように寝てしまえそうな気がした。
「そこで寝たらだめだよ? ちゃんとお風呂に入って、ベッドで寝ないと疲れが取れないから」
リーフがテーブルに紅茶を置いて、俺の横に腰掛ける。
「……だな。なんかぼーっとしてたら本当に寝ちゃいそうだ」
俺がそう答えて紅茶のカップを手に取ると、リーフが僅かに目を細めて、呆れたような、それでいてほっとしたような笑顔を浮かべているのが目に入った。
「なんか、いろいろ話したい事があったんだけど……」
いざ会ってみると、どこからなにを話せば良いのか俺は戸惑っていた。
「いいよ。ゆっくりで」
リーフはそう呟いて、俺の手のひらにそっと自分の手を重ねる。
「私も、そうだから」
俺から目を逸らしたリーフは、自分の膝に視線を落として、俯いたままそう呟いた。
「そっか」
俺がそう答えてカップに残った紅茶を飲み干すと、リーフが俺の軍服の袖にそっと触れる。
「どうした?」
「……怪我、してたんでしょ?」
「ああ、もう全然大丈夫だけど」
エイジア空軍基地でのあの戦闘を俺は思い出す。敵をナイフで刺したあの感触が、カップを持っている右手に、まるでいつまでも消えない痺れのように蘇ってくる。
「……心配、してたんだよ? みんな」
咎めるような響きは無い。ただ、ほっとしたような安堵だけがその言葉からは感じられた。
「ごめんな。連絡もできなくてさ」
俺がそう言って、袖に触れたままのリーフの手のひらにそっと自分の手のひらを重ねると、リーフは、なにも言わずに僅かに首を振る。
「ちゃんと帰ってきてくれたから……」
俺はリーフのその言葉になんと答えればいいのか、解らないでいた。ただ無事に帰ってくるだけで、安堵してくれる人間がいるということを、なんだかずいぶん長い間忘れていたような気がする。
眠かったら待ってなくていいから、とリーフに短く告げて、俺は風呂場でシャワーを浴び、パジャマに着替え、軍服を洗濯籠に放り込む。胸に固定されたナイフや、腰のホルスター、肩に背負ったライフルが無いだけで、俺の身体はずいぶん軽くなったように思えた。戦場で、寝るとき以外は殆ど外す事の無かったそれらの道具を抱え、俺はリビングに戻る。
リーフは、まだ起きていた。リビングのドアを開けた俺に、優しく微笑んだリーフは、空になったカップにポットから紅茶を注ぎ、お腹は空いてない?、と小さな声で尋ねる。
「空いてるっていえば、空いてるような……」
曖昧な返事を返すと、リーフは、どっち?、と可笑しそうに笑う。俺が、空いてる、と言い直すと、なんだか嬉しそうにリーフはキッチンに向かっていく。
十数分が経って、リーフはトレイを抱えてリビングに戻ってきた。テーブルの上に置かれたトレイには、香ばしいスコーンと、軽く焼いたハムが乗っていた。スコーンを少し齧ると、何だか急に空腹が増していく。
「足りる?」
リーフがそう呟いて俺の顔を覗き込む。
「十分だよ」
俺はそう答えて、皿の上に置かれたスコーンに目を向ける。父さんがいつも作るものより、少し径が小さい。母さんの作るやつは、どちらかと言えば大きめだ。と、すると、これはリーフが作ったものだろうか。
「これ、リーフが作ったのか?」
「うん。最近は結構作らせてもらってるんだよ」
香ばしさや、味は、父さんが作るものと大差ない。筋がいいのだろうと思う。昔俺が見よう見まねで作った代物と比べれば雲泥の差があった。
「……おいしい」
俺が思わずそう呟くと、リーフが目を細めて、恥ずかしそうに笑った。
食事を食べ終わると、眠気と脱力感は確実に俺の身体を蝕んでいった。気を抜くと眠ってしまいそうな俺の様子を察したのだろう、リーフは、二階から毛布を何枚か持ってくると俺の身体にそれを掛ける。
「いいよ。ちゃんとベッドで寝るから」
俺がそう言うと、リーフは、準備してくるから、と言って立ち上がる。
「準備?」
「屋根裏部屋。カイルの部屋ストーブ入ってないから寒いよ? ストーブだけ入れてくる」
「いい。寝る時はどうせ消してるし。布団に入れば一緒だよ」
リーフは少し微笑むと、呆れ顔で俺の横に腰掛けた。俺の身体に掛けられた毛布の端を持ち上げて、リーフも膝の上にその毛布を掛ける。
「……本当は、カイルが帰ってきたら、ちょっとだけ怒ってやろうかって思ってた」
「怒ってるだろうなって、俺も思ってたよ」
俺がそう答えると、リーフは少し拗ねたような表情で、どうして?、と問いかける。
「連絡、入れてなかったしさ。怪我もしたし……」
リーフは頭を俺の肩に乗せて、でも、と口を開いた。
「帰ってくるまでは、あんなに頭に来てたのに……どうしてだろ?」
小首をかしげるような仕草をしたリーフは、そのまま、俺の首に腕を回して、頬に唇を軽く触れさせた。ひんやりとした感触がストーブで火照った頬を心地よく冷ましていくような気がする。
「私、嬉しいよ。本当に」
首に回した腕に少し力が込められて、俺の耳元でリーフがそう囁くのが聴こえた。
「……ありがとう」
その言葉しか、俺には思いつかない。
毛布に二人でくるまって、耳元からリーフが囁く小さな声を聞いていると、冷たく強ばっていた身体の芯が、暖かくほぐれていくような気がした。右手に残るあのナイフの感触も、鼻腔に残る硝煙の匂いも、肩にわずかに残るライフルの重みも、少しずつ消えていくような気がする。
ただ、ほぐされていくそれらの感触の中で、少しも変わる事無く、俺の中で留まり続けているものが一つだけあった。エイジア空軍基地で殺したあの兵士。彼が自分に託した手紙の重さだけが、まるで、古いワインの澱のように心の底に残っていた。彼も、家に帰れば、こうして、俺とリーフのように、あの手紙の恋人と言葉を交わしただろうか。例え、殺すしかなかったとしても、それが、政治や、国の命令でやった事だったとしても、俺はなんの贖罪もなしに、幸せを感じる事が許されるのだろうか。
「どうしたの?」
表情に、考えていた事が出ていたのだろうか、リーフが心配そうに俺を覗き込んでいた。
「なんでもないよ」
あまり表情を見られないように、俺はリーフを抱き寄せて、リーフの小さな肩に顎を軽くのせた。
「いろいろ、考え事だよ」
「いろいろ?」
「そう、次はリーフを何処に連れてこうかなあ、とかさ」
わざとおどけて、俺はそう呟く。
「……嘘」
リーフが静かな声で俺の耳元に囁く。
「また、一人で悩んでるでしょ」
「違うよ」
勘の鋭い所は、カエタナの女性に共通する特徴、だろうか。昔、母さんがそんな事を言っていた事を思い出す。
「……明日は、何時から仕事?」
「こっちを三時には出ないといけない」
「じゃあ、朝は早くなくていいんだ」
「まあ、そう言うこと」
俺がそう答えると、リーフは俺から身体を離して、両手の手のひらを俺の頬にそっと触れさせた。そして、優しさと、ある種の強さが垣間見える透き通った目をまっすぐに俺に向ける。
「また、どこかに行くんだよね?」
「たぶん、次はボストだと思う」
ボスト、という言葉にリーフの目が少しだけ揺れたような気がした。
なんだか、俺もリーフも自分の部屋に戻るタイミングを外してしまったようだった。俺は、隣で動こうとしないリーフの肩に毛布をかけ、二人で毛布にくるまっている。時折、リーフが、近況や、ラシュディさんやディルのことを思い出したように呟き、俺はそれに一つ一つ返事を返す。何気ない会話のやり取りは、戦場でささくれ立っていた気持ちを少しずつ暖めていく。
「……でね、私、やっとピロシキとか、ハムパンとか作れるようになって……」
父さんから教えてもらった手順を一つ一つ身振りを交えて楽しそうに話すリーフは、時折俺の顔を覗き込んで、目が合うと、ほんの少し微笑みを浮かべる。
「絶対、俺よりパン作るの上手くなってそうだよな。リーフは」
俺がそう相づちを打つと、リーフは、だね、と少し自慢げに呟いた。
「このまま、パン屋さんになれたらいいな……」
「なれるよ。戦争が終わったらさ」
「……いつ、終わるんだろうね」
さっきまでの、明るい笑顔に、ほんの少し不安の色が混じる。いつ終わるんだろう、と俺も思う。ボスト国内での内戦騒ぎが片付けば、戦争は終わると大尉は言っていた。でも、と俺は今更ながら思う。そのときまで生きていられる保証も、内戦騒ぎがちゃんとこっちの思惑通りに終わる保証も、確実なものなんて何も無い。
「毎日、楽しいんだよ。今も。朝起きてパンを作って、夕方に片付けをして、夜になったら眠って……。でも、カイルが……」
「俺が?」
「……帰ってこないのだけが嫌」
リーフは、我が儘を言っている訳でもなくて、贅沢な願いを口にしている訳でもない。平和な世界であれば、祈るまでもないあたりまえの願いを呟いているだけだ。家族や、大事な人が、ちゃんと毎日帰ってくる生活が、どうして、なかなか叶わない贅沢な願いになってしまうんだろう。
「絶対、帰ってくるからさ。だから……」
「だから?」
俺が、その言葉に何かを繋がなければと思いつつ、それに続く言葉をなかなか思いつけずにいると、リーフは俺の顔を覗き込んで、そう聞いた。
「……待っててほしい」
口をついたのは、そんな言葉だった。待たせて帰って来れなかったらどうするんだと弱気な考えがすぐに浮かんでは消えた。でも、リーフがここで待っていてくれたら、俺は、いつかここに帰って来れるような気がした。何の根拠も、保証も無いのだけれど。
「……待ってるよ。ちゃんと」
しばらくの沈黙の後、リーフがまっすぐに俺を見て呟いたその言葉が、痛い程嬉しかった。