廃都編 25章
ミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出し、俺はソファーに横たわる。誰もいなくなった共有スペースに、ボトルの中で揺れる真水の僅かな音だけが響く。テントの外からはどこか遠くを走るジープの僅かなエンジン音が聞こえた。
とりたてやる事の無いまま、テーブルの上に置かれた数枚の書類を手に取る。今日F二五が持ってきたボスト国内の新聞記事。見てどうなるという物でもないが、眠れない夜の暇つぶしにはなるだろう。
何枚かの資料を読み終わった頃、テントの外にジープが止まる音がした。誰かが降りる足音がして、また、ジープが遠ざかっていく。大尉だろうか。ソファーから身を起こし、椅子に腰掛けた俺は、ミネラルウォーターを飲み干し、テーブルの上のコーヒ−メーカーのスイッチを入れた。
「まだ、起きてたのか?」
肩についた雪を払いながら、帰ってきた大尉がそう呟く。
「なかなか眠れません」
俺の答えに大尉は苦笑いを浮かべ、ちょうどいい、と呟くと、俺の前の椅子に腰掛けた。ずいぶんと疲れているようで、目の下の隈と、伸びた無精髭が目立つ。このままでは戦争が終わる前に大尉の身体の方が壊れるのではないだろうかと俺は思う。
「三日後にセルディスへの異動辞令が発令されることになった。まあ、全員揃って、元の別室に勤務になる」
「また戦況の分析、ですか?」
「いや、今度は違う。新しい作戦立案の為の調査活動だ」
大尉は俺が煎れたコーヒーを口に含むと、そう言って俺の目をまっすぐに見た。新しい作戦というのは、当然軍事行動を伴うものだろう。とすれば、状況から考えるにボスト国内で展開される作戦に違いなかった。
「明日、ボストクーデター一派の外交、軍事委員会の連中がセルディスに到着する。エイジアからも参謀本部の連中が来るらしい。こちらからは外務省と参謀府の人間が出席する。会合の目的は、ボストのロシュビッチ政権の排除についての検討、と言った所だな」
「……ボスト国内への侵攻が検討されるのですか?」
俺の問いに大尉は首を振る。
「エイジアにしても、セルーラにしても、まだそこまでは踏み切れない。下手をすれば露骨な内政干渉に取られかねん。態度を保留しているアーベル、ラルカスがロシュビッチを支援するなんて言いだせば、とんでもないことになる」
大尉はテーブルの上に置かれた新聞記事を手に取り、俺の前にそれを差し出す。
「これ、読んだか?」
「一応、目は通しています」
「ロシュビッチの発言で、外交チャンネルの強化だとか書いてあっただろう? ロシュビッチは、おそらく持っている全ての人脈や利権を駆使して、アーベルとラルカスに工作をしている。連邦を二つに割る気だろう。それしか、彼らの生き残る術はない」
エイジア、セルーラ、クーデター一派の三勢力と、アーベル、ラルカス、ロシュビッチ政権の三勢力との対立。そうなっても、おそらくセルーラ側の方が若干優位ではあるだろう。ただし、そのような形での軍事衝突が起これば、連邦を二つに割る大掛かりな戦争になる。戦力的に若干の優位があると言っても、おそらくその差は小さい。戦略の工夫次第で、どうにでもなるレベルの差でしか無いだろう。
「長期戦になる、と」
「このままほっとけば、そうなる」
大尉は腕を組み、目を細く尖らせる。残っていたコーヒーを飲み干し、大尉はため息を一つついた。
「だからこそ、だろうな。明日セルーラに来るボストの連中の一部から、個人的にコンタクトを受けている」
「コンタクト?」
「クーデター政権、外交委員会第二外交部部長、グスタフ・ラザフォード。知ってるだろ」
知っているも何も、と言う感じだった。かつて俺にボストの内部情報を流し続けていた、あのボスト外務省の男。ピンストライプのスーツの柄まで思い出せる。
「あいつが?」
「そう。正式な面会ではない。エイジア、セルーラとの会談が終わった後、非公式に会いたいとの事だ」
「あいつ、クーデター政府にいるんですね……」
俺がそう呟くと、大尉は、コーヒーの紙カップを握りつぶし、ゴミ箱に放り込む。
「いろいろ世話になったお礼を言いたい、って事らしい」
「礼をわざわざ言いにくるような奴には見えませんでしたけどね」
俺の答えに、大尉は小さく笑みを浮かべる。
「会った事はないからな。俺は。面識があるのはお前とF二五くらいだろ」
「で、会うんですか? 大尉は」
大尉は、背伸びをしながら、会うよ、と短く答えた。
「多分また何か企んでるんだろう。よくも悪くもボストの中枢にいる奴だ。話くらいは聞いておきたい」
その言葉を最後に、大尉は椅子から立ち上がり、まあそう言う事だ、と俺の肩を叩きながら呟いた。
「……もうお休みですか? 今日は」
俺がそう聞くと、大尉は、休ませてくれよ、と小さな声で呟く。
「今日はとりあえずもう寝れる。久しぶりだよ、ベッドで寝るのはさ」
眠たげに目を擦りながら、大尉はそう言って笑った。
共有スペースの電気を落とし、自分のスペースに戻って小さなベッドに寝転ぶと、テントに隙間でもあるのだろうか、酷く冷たい空気が頬を撫でていくのを感じた。早い所、テントではなくて、ちゃんとした建物で生活したいものだと俺は思う。
翌朝、いつものように共有スペースに向かうと、アキが一人で掃除をしていた。午前五時四十分。そろそろ皆が起きてくる時間だ。
「いっつも一番だよな。アキは」
俺がそう声をかけると、アキは、俺に無感動な眼差しを向け、手に持っていたモップを俺に渡した。
「……手伝って」
アキはそう言うと、俺の答えを確認せずに、バケツに水を汲み、手際よく棚やテーブルを雑巾で拭いていく。
「大尉が帰ってきてるぞ」
「知っている」
さも当然という風にアキが答える。モップ掛けをしながら、俺はアキの表情を伺うが、これといって変化は無かった。おそらく嬉しい筈だとは思うのだが。
「……セルディスに戻るってさ。全員」
「そう」
不機嫌な返答という訳ではないのだが、それでも必要最低限の返答である事には違いない。かといって、満面の笑みで喜びを表されたりすれば、それはそれで驚いてしまうだろう。アキの無表情というのも、慣れてみればそう悪いものではない。とかく情報に過剰に踊らされがちな軍隊生活に於いて、アキの冷静さは一種の安定剤のようなものだと思う。
「いつ?」
視線を俺に合わせずに、几帳面に雑巾掛けをしながらアキがそう呟く。
「三日後。また別室で勤務だってさ」
俺がそう答えると、アキは、雑巾を動かす手を止め、振り返った。
「大尉は、元気だった?」
「疲れてたな。凄く」
俺を非難している訳でもないのだろうが、ほんの少しアキの目に力が込められたように思えた。
「隈も酷かったし、頬はこけてたし」
昨日の大尉の憔悴しきった様子を、どこまで話したものだろうかと俺は迷う。
「……向こうに着いたら、すぐに休んでもらう」
はっきりとアキがそう断言する。否が応でも休ませるつもりだろう。俺もそれには反対ではない。むしろ積極的に賛成したいくらいだった。戦争が終わる前に身体を壊されたりすれば、それこそ大変なことになる。
掃除を終えた俺たちは、テーブルの側に腰掛けて、グリアム、ルパード、大尉が起きてくるのを待つ。アキの入れてくれた熱いコーヒーが、身体を暖めていくのを感じながら、俺は静かに目を閉じる。そのまま朝の日差しの暖かさを天幕越しに感じていると、その日差しの向こうにある青空まで見えるような気がした。