前編
「成功したのね! これでやっと……」
ミミコは腰まで伸ばした桃色の髪をふるふると揺らした。その髪は桜吹雪のように宙を舞い、彼女の喜びがいかに大きなものであるかを表していた。
目の前にある白木のテーブルの上には新聞が広げられている。
古新聞の一面には大統領暗殺の記事と、天才投資家の特集記事が載っていた。
その記事を読んで騒いでいる少女の手元には、お気に入りの猫柄シュシュと冷たく無機質な精密機械。
ミミコは涙でぼやける視界を閉じ、ある青年のことを思い出した。
冬の公園。子供すら遊ぶことを諦める寂れた空間で、一人死んだように寝そべる男がいた。無精髭が頬まで覆い尽くしているが、皺はなく血色も悪くない。
おそらくまだ二十代だろう。
男の腕には青い薔薇のタトゥ―が彫られている。ミミコはそのタトゥ―を気に入り、通りすがりの挨拶でもする気分で男に話しかけた。
「ねえ、君。そんなところで寝ていて寒くないの?」
「……ああ?」
男はミミコを一瞥し、興味なさげに視線を逸らした。胡散臭い慈善宗教団体の勧誘とでも思っているのかもしれない。失職率が五割越えの現代ではその手の詐欺が横行している。誰もがみな生存競争を生き延びるのに必死なのだ。
「ごめんなさい、急に話しかけて。なんとなく暇そうだったから」
ミミコがあまりにも鷹揚とした表情をしているので、男はつい苦笑した。一目で浮浪者だとわかる人間に暇そうだと指摘する人間も珍しい。
「そりゃあ暇さ。ホームレスだからな。無職だし。格好いいだろ」
「全然格好よくないよ。無職なんて別に珍しくないもの」
「ふん。さてはあんたも無職か?」
男の言葉をミミコは黙殺した。
「図星かい。まあ、恥ずかしがることはねえよ。仕方ないよな? 職がないんだから」
度重なる戦争は人工知能の発達を促し、それによって人類の暮らしを便利にした。しかし、それは人工知能の黎明期だけの話で、彼らは徐々に人間から職を奪っていった。職を奪われた人間は当然貧困に陥る。
結局、人工知能の発達による恩恵を受けたのは上流階級の人間だけだった。この男も大勢いる哀れな犠牲者の内の一人にすぎない。
ミミコはポケットから灰色の札束を取り出し、男に差し出した。
「なんだ、金持ちの娘か。俺は施しなんて受けないぞ」
「私だって施す相手くらい選ぶよ。これは依頼料」
「依頼?」
「そう。君の力が必要なの」
ミミコは小さな胸の前で両手を絡ませ、祈るポーズをした。
男は目を見開き、しげしげと起き上がった。大口を開いて呆然としている。光が失われたその瞳にキラキラと明かりが灯るのを、ミミコは見逃さなかった。
誰にも必要とされていない人間など、この世の中大勢いる。そんな人間の心を掴むためには、ミミコの放った言葉はまさにキラーセンテンスだった。
「なんだよ、依頼って」
「今の惨めでいつ死ぬかわからない暮らしから脱却したいと思わない? 私は脱却したい。もっともっと豊かで愛のある世界に生きたいの。君にその手伝いをして欲しい」
ミミコは手を翼のように広げ、空を見上げた。
その華奢な姿はさながら理想を語る宗教家のようでもあり、将来に夢見る無垢な少女のようだった。男は逡巡したような顔で俯き、
「……んなことが可能なら、俺がとっくにやってるさ」と言った。
「そうよね。それができないからホームレスなのよね」
「なんだ。喧嘩売ってんのか」
男は舌打ちした。
しかし、ミミコは人を恐れる心など持ち合わせていない。押し売りセールスマンのように張りついた笑顔で、男の鋭い瞳を凝視した。
「喧嘩なんて売らないわ。私が売るのは夢」
「ふん、夢だって? 笑わせんなよ。こんな腐った時代に」
男は空を見上げた。毒々しい排気ガスの塊が空に溜まり、もはや青空の欠片すら見当たらない。夢なんて言葉は幻想だ。この空と同じで、人の心を曇らせるだけだ。
「君の言う通りね。この時代は腐ってる。夢も愛も居場所もないわ。だからね、私は気付いたの。自分が移動してしまえばいいんだって」
「自分が、移動?」
男はきょとんとした顔でミミコを見た。桃色の派手な髪が口に入ってしまっている。
「そう。夢のない世界から、夢のある世界へ。自分自身で手に入れてみせるの」
ミミコの大きく見開かれた瞳は男の心を捉えて離さない。ふっくらと艶やかな唇の右口角が不自然に吊り上がり、何とも歪な笑顔を演出している。
内心、男は戦慄を覚えていた。
「どうしたの? 凄い顔をしているけど。ムンクの叫びみたい」
「あんたが意味のわからないこと言うからだろ。自分こそ薬中みたいな顔してるぞ」
男は品定めをするような眼差しで、改めてミミコを眺めた。
腰まで伸ばしたピンクの髪、秘密結社を思わせる全身黒ずくめの服、そして眼が飛び出しそうなくらい見開かれた瞳。
この少女は恐らくイカれている。可愛らしい見た目に騙されてつい乗せられてしまったが、久々にやばい奴に絡まれたかもしれない。男は後悔した。
それでも、不思議な魅力を持つこの少女に男は無意識に魅入られていた。
「私は正気よ。もし君がこのまま野垂れ死にしたくないのなら、私を信じて」
ミミコは真剣な眼差しで男を見つめ、細い腕を差しのべた。
人形のように無機質なその腕には、無数の苦悩の痕跡が刻み込まれていた。
「……」
なんだか哀れに思えて、男はついその手を握ってしまった。
握ったその手は綿のような肌触りだった。
「依頼成立ね」
少女は顔を綻ばせた。
花が咲いたようなその笑顔は、どこか切なさを感じさせる。
「私はミミコ。君の名前、聞いてもいいかな」
「ジュリアンだ。よろしく」
ジュリアンは気恥ずかしそうに俯いた。子供の頃、この名前のせいで随分と苛められた。古くさいセンスの名前だ、という下らない理由だけで。
しかし予想とは裏腹に目の前の少女は目を輝かせていた。
「ジュリアン? 素敵な名前じゃない! よろしく、ジュリアン」
ミミコは再び右口角を吊り上げ、怪しい笑みを浮かべた。
☆
「ようこそ、私のお城へ。男の人をあげたのは一応初めてなの」
「……ええ」
ジュリアンは閉口した。
少女の部屋とは到底思えないくらい、部屋がカオスに満ち溢れている。部屋にでかでかと展示された黄色い潜水艦の模型、茶髪眼鏡の男性マネキン、真っ赤な長絨毯。そして、極めつけは弦が張られていないエレキギター。それらが無秩序に配置されている。
(これは家と呼べるのか?) ジュリアンは呆気にとられた。
少女らしいものはせいぜい片隅においてある猫の縫ぐるみくらいだ。
「こんな家で暮らすなんて正気じゃない」
「公園で寝てる人に言われたくないよ」
ミミコは桃色の髪をさらさらと揺らして笑った。一応少しは人間らしい表情もできるらしい。ジュリアンはちょっと安心した。
「それで、この趣味の悪い部屋で俺に何をしろと? まさか逆さ吊りにするとか言わないだろうな」
「それもいいけど今日は残念。君に見せたいのはこっちの部屋よ。来て」
そう言うとミミコは古びた扉に手をかけ、
「……ここから先へ入ったらもう戻れないよ」と言った。
その声は恐ろしく冷たいものだった。血の通っていない、合成音声のような声。振り向きもしないロングヘアの後頭部から覗くうなじは雪のように青白い。
「不気味なこと言うなよ。ホラー映画じゃあるまいし」
「そうね。じゃあ開けるよ」
「ああ」
もう少しで終わる――。
「ん?」
何か不気味な台詞が聞こえてきたが、ジュリアンは無視することにした。それよりも、ドアノブを回すときに少女の手がぶるぶる震えていたことが気になった。今の不穏な一言といい、この部屋の先に一体何があるというのか。
ががが……と大仰な音を立てて扉が開いた。
「これは?」
壊れかけの古びた扉の奥に広がるのは一面が鉄に覆われたメタリックな銀世界だった。
機械仕掛けの部屋にはキッチンやトイレすらなく、二人掛けのソファーと白木のテーブルがただポツンと置いてあるだけだった。
「うわ!」
ジュリアンは叫んだ。
その部屋の中心で真黒な怪物が腕を広げていたのだ。怪物は高さが五メートルくらいで、足が何本も生えている。だが、命の鼓動は感じられない。
「蜘蛛?」
「フフフ、君って意外と剽軽ね。そう、これは新種のアシダカグモよ。イメージはね」
ミミコは一人微笑み、ソファーに深々と腰かけた。
そして白木のテーブルの上に置いてある茶封筒を手に取り、ジュリアンに勧めた。手渡された封筒の封を切ると、中に分厚い書類の束がみえた。
取り出して一枚一枚捲ると、膨大な数の会社名と数字が書かれている。
「これは為替か? とんでもない量だな」
「そうよ。過去百年分の為替の動向記録」
「百年!? クレイジーだ。ただの紙切れじゃないか」
現在の為替ならともかく、過去のものではほとんど意味がない。投資家が分析に使うならまだわかるが、それでも百年前のものを集める意味はない。
「お前、やっぱ薬中だろう」
「違うよ。私は素面。ジュリアン、君は今からそこにある蜘蛛に乗って過去へ行くの」
「え?」
ミミコはそう言うと、いつの間に用意していたのか、アンテナのついたリモコンを誇らしげに掲げた。そして慣れた手つきでボタンを操作しはじめる。
白い蝋のような指が目にも留まらぬ速さで指板を跳躍し、カチカチと音を立てた。無機質な部屋でただひたすら鳴り響くその音は狂気に満ちていて、どこか寂しげにも聞こえた。
ミミコがボタンを操作し終えると、何やら異様な匂いが部屋に漂いはじめた。やがて、蜘蛛がフシューと噴出音を吹かし、虹色の靄が発生した。
「さあ、乗ってジュリアン。いざ、百年前の世界へ」
「ちょ、ちょっと待て。色々急すぎて訳がわからない。どういうことだ? まさかこの怪物みたいなのが本物のタイムマシンだとか言うんじゃないだろうな」
「飲み込みが早くて助かるよ。そう、これはタイムマシン。私は時空超越機って呼んでいるけどね。祖父の代から開発が続けられてきた年季物なのよ。これに乗れば過去や未来に行ける」
まあ、未来なんかに意味はないけどね。
ミミコは呟き、恍惚とした表情で時空超越機を撫で、頬ずりをした。その間にも異様な匂いのガス噴出は収まらず、ついには火花まで宙に咲きはじめた。
「君は人類史上初めてのタイムトラベラーになるのよ」
「悪いが他を当たってくれ!」
ジュリアンは逃げ出そうとした。こんな訳のわからない機械に乗るなど、逆さ吊りにされるよりも恐ろしい。下手したら死ぬのではないか?
しかし、扉の前では猫型のロボットが屹然と立ちはだかっていた。
「人工知能……? お前、やっぱり金持ちか」
「うん。お金はあるよ。でもね、お金なんてあっても私の心は満たされない。だって私はひとりぼっちだから。君に想像できる? どんなに美味しいものを食べても、どんなに楽しい映画をみても、心が満たされない苦しみが」
「わかんないね。俺はそんな経験をしたことがない。むしろ、世の中金だとすら思ってるよ。金さえあれば俺だって今頃は――」
ジュリアンは俯き、記憶を巡らせた。
物心ついた時から家がなかった。やせ細った弟と一緒に孤児院や教会をたらい回しにされ、満足に学校に行くこともできなかった。友達もできず、恋人もできず、それどころかずっと誰かと対立してばかりの人生だった。
弟は十五になったその日に自殺した。オーバードーズだった。
遺書は残されていた。しかし、ひしゃげたミミズのような文字はもはや識別不能だった。
金があるのに心が満たされないと宣うこの少女に、弟の気持ちがわかるだろうか。
「そう。じゃあ尚更過去へ向かうべきだわ。人はそれぞれ心に欠落を抱えている。でも、こんな世界じゃそれを埋めることはできない。だから過去へ行くの。世界がまだ素敵だったころに戻るの」
ミミコはジュリアンの葛藤など気付いていないかのように淡々と演説を続けた。ジュリアンには彼女の美しい顔が一瞬だけおぞましいピエロのように思えた。
「……」
ジュリアンは冷静さを取り戻し、自分の将来について考えた。ミミコの言う通り、このまま生きていても自分の暮らしが向上する見込みはない。
虫けらのように傍若無人に淘汰されるだけだろう。
「過去に行って、この為替の記録通りにお金を動かせば、俺は本当に幸せになれるのか?」
「もちろんよ。君にとってはお金が全て何でしょう? 過去へ行って私の言う通りにやれば、必ずお金持ちになれるはずよ。最も、そこからは君次第だけど」
ミミコは嫣然と笑い、飄々と手招きをした。相変わらず手の自傷痕が痛々しい。しかしその痛みの痕跡こそ、彼女の想いの真剣さを証明している気がした。
ジュリアンは頭を抱えて逡巡した。
「いや、やっぱり俺は――」
「ここで乗らなかったら昨日と同じ明日しか来ないよ。死ぬまでずっと、昨日のコピーを生き続けるの。負け犬のようにね」
ミミコの言葉はジュリアンの心を深く貫いた。
(そうだ……どうせ俺は負け犬だ。このままおめおめ野垂れ死ぬくらいなら、馬鹿の戯言に賭けてみてもいいかもしれない)
ジュリアンは逃げだそうと逸る足を抑え、ミミコの方へ向き直った。
「……どうせ死んだような人生だ。弟が死んだあの日から、俺は終わっている」
やってやるよ。ジュリアンは頷いた。
「ありがとう。後悔はさせない」
ミミコは鈴鳴りのような声で礼を言い、ぺこりと頭を下げた。桃色の前髪の隙間からのぞく表情は、泣き笑いしているようだった。
ジュリアンは今になって初めて、少女の本当の声を聞いた気がした。
☆
ジュリアンは時空超越機に乗り、深呼吸をした。
荷物は数日分の食糧と、心ばかりの宝石類。これを売って元手を作れということらしい。ジュリアンは手の中で宝石を転がした。ジャラジャラと音を立てて踊るそれは、想像していたよりも案外軽かった。
「じゃあ、発進するよー!」
「ああ」
ミミコいわく、圧で体調が悪くなる可能性があるらしい。最悪それで死ぬ可能性もなくはないだとか、不安になるようなことを言っていた。しかしさっきも思ったように自分はもうこの世界では死人同然だ。
もし本当に死んだとしても弟に会える。それでいいじゃないか。自分たちを見捨てたこの世に未練などない。ジュリアンは目を瞑って十字を切った。
「行ってらっしゃい。ジュリアン、過去で幸せにね」
窓越しに見える少女は道化師のように張り付いた笑みを浮かべている。
「……」
そう、未来にも、そして現代にも未練など無い。
だが、だからといって過去に行けば幸せになれるのだろうか。そんな捻くれた倒錯の先に待っているのは、幸福などではなく暗鬱な結末のような気がする。
疑念を抱くジュリアンを乗せたまま、時空超越機は忽然と姿を消した。
カラン、コロン――。
何かが床に落ちる音が部屋に響いた。
後編へ続く




