第十二話 英雄譚の紡ぎ手 ②
青い草の匂いに僕の意識は引き戻された。
陶器同士がぶつかり合うカチャカチャという音と共に、僕の目の前には緑色のお茶と花の砂糖漬けが置かれていた。花の砂糖漬けはリゼが買っていたものだ。
「打ち身に効くのは茎の方だが、花にも気休め程度の効果がある。茶請けにもちょうどいいだろう」
顔を上げると、すでにハーヴィーさんもリゼも席についていた。
リゼは僕の正面に、ハーヴィーさんはそんなリゼの隣。いつもの定位置だ。よくこの並びで、僕が家から持たされた煮物を一緒に食べたり、旅に出る前にお互いの服をどんなものにするか話し合ったりしていた。リゼが『武闘家たるもの』とか一丁前に口にしながらとんでもない服を選ぼうとしてて、それをハーヴィーさんも止めないものだから、僕は必死に止めたりしていたっけ。
「ありがとうございます」
まだあれから1年も経っていない。けれど鮮明に思い出すのは、僕がこの家が好きだったからなのだろう。
口をつけたお茶はフィン先生の家で飲んだ紅茶よりも苦くて、けれどその苦味が甘ったるい花の砂糖漬けにはちょうどよかった。心なしか頬の痛みも和らいだ気がする。
対面のリゼもハーヴィーさんもお茶を啜った。
「で? リゼのことについて、話すことがあるんだろ」
天気の話をするように、ハーヴィーさんの声はいつも通りだった。
僕はここで毎日のように目にしていた二人のやりとりを忠実に再現したつもりだった。リゼがこう言葉を投げ掛ければ、ハーヴィーさんならきっとこう返すだろうと、他の誰にも負けない理解度で書き起こしていたはずだ。
けれど僕の見ているリゼと、ハーヴィーさんの見ているリゼは根本的に違う。きっとハーヴィーさんは最初からリゼのことに気づいていた。
「……はい」
いつまでも黙っているべきものではない。わざわざ場を用意してくれたハーヴィーさんに向き直ると、僕は一つひとつ全部話し始めた。
挫けそうになっても、リゼがいつものように微笑んでくれるから、僕は最後までちゃんと話して伝えることができた。
リゼの勇姿と、その最後の覚悟の話を。
***
冷めた緑茶は結構渋みが出る、と僕は思う。けれどハーヴィーさんは銀色のカップに残ったそれを一息で飲み干して、深いため息をついた。
話すことをずっと前から決めていたとはいえ流石に僕も消耗して、緩くなったお茶を少しだけ飲んで口を潤した。リゼのカップはいつの間にか空になっていた。
「そうか」
ハーヴィーさんの声に感情は読み取れなかった。この人はいつもそうだ。元々軍人だったとかをこの村に来た時に聞いたことがある気がするが、そう噂されても不思議じゃないぐらいにハーヴィーさんは動揺しない。
大きな魔獣が裏の森に現れたという話を聞いても、行商人が干し肉を売りにきても、一年前に夫を亡くした村一番の美人に声をかけられても、ハーヴィーさんの表情はのっぺりとしていた。今も何を考えているのか分からない。
ハーヴィーさんはいつもの怒っているのか困っているのか面白いと思っているのか分からない表情で、リゼの頭に手を伸ばした。
「?」
リゼはされるがまま、ハーヴィーさんの大きな手に頭を撫でられ目を細めた。
「そうか。……お前、死んじまったのか」
旅に出る時にハーヴィーさんだけが、リゼに「死ぬかもしれない」ということを話していたと聞いたことがある。村の人に比べて直接魔獣と渡り合ったことがあるからこそ、魔法が万能ではないこと、魔法使いでも魔獣と戦って負けることがあることを身に沁みて理解していたのだろう。
「死んじまっても戦ってるのか、リゼ。……そうかあ」
感情が読めないと思っていたハーヴィーさんの声に、わずかに諦念のような、けれどどこかリゼを誉めているような乾いた笑いが混じっている気がした。
「育ての親として、俺はノアを怒鳴りつけるだとか、そういう親の務めを果たすべきなんだろうな」
ハーヴィーさんは不思議な言い回しをした。僕は今から親としての激情をぶつけられると予告されているようなものなのに、どうしてかハーヴィーさんの声に怒りを見出せない。
ハーヴィーさんはリゼの頭を撫でて、その頬の形を指の腹で確かめるようになぞった。傾いた日の光がハーヴィーさんの瞳を青く透かしていた。
「リゼを拾ったのは、ほんの気まぐれだった」
「……へ?」
ハーヴィーさんの声はまるで天気の話をしているかのようで、あまりにいつも通りの声でとんでもないことを口にするので僕はその言葉を理解するのに時間がかかった。
確かにリゼとハーヴィーさんは見た目はあまり似ていない。目の色も髪の色も異なるが、僕はそれをずっとリゼが母親似だからだろうと勝手に思っていた。二人とも母親の話はしなかったから、触れない方がいいのだろうと、あえて確かめることもしなかった。
「この髪色だったから魔獣に襲われたんだろう。あの頃は魔獣への対抗手段もほとんどなかったからな。随分と質の良い服と良い武器を積んでいた馬車だったが、両親とも顔が確認し難いほど食い荒らされていた」
「そんな」
「リゼは赤ん坊の頃から偉くてな。折り重なった両親の下で泣くこともなく大人しく指を咥えていた。だから魔獣もリゼには気づかずに両親だけ食ったんだろう」
知らなかった。リゼがそんな生い立ちだったなんて。あまりリゼはそう言ったことを話す人ではなかったし、そんなことを感じさせることもなかった。
「俺は拾った赤子を育ててみることにした。これがなかなか難しくてな。一人で十人を殺す術も、水だけで十日生き延びる方法も知っていたが、片腕だけで抱えられる生き物の育て方を俺は知らなかった。けれど、そんな俺にリゼは懐いて、いつも笑ってくれていたんだ」
光で薄く透ける青い瞳をハーヴィーさんはわずかに緩めてリゼを撫でた。
野良作業をする時には手袋をしているせいか、ハーヴィーさんの手は顔よりも色が白い。リゼはしょっちゅうその腕に絡んでは手合わせをねだったり、抱え上げてもらっては普段の自分より高い視点に喜んでいた気がする。
「……僕には、自然な親子に見えてました」
血のつながりがないことなんて、今気づいたぐらいだ。
ハーヴィーさんは相変わらずのっぺりとした顔で、けれど少しだけ瞳を潤ませている、気がした。
「そうか……そう見えていたのか」
「はい」
「俺の独りよがりじゃなかったのなら、俺でも誰かを慈しんで愛せていたのなら、それはきっと良いことだったんだ」
ハーヴィーさんは相変わらずリゼの頭を撫でていた。
けれど、急に部屋の温度が下がった気がした。
「だからきっと、この怒りも……俺の愛娘を、俺の可愛い娘を、俺の命より大事な娘をよくも、って怒りもその良いことの延長線にあるんだよな。俺がリゼの父親であったからこそ、この怒りがあるんだ」
ハーヴィーさんの声も表情も変わらない。けれど言葉以上に、ハーヴィーさんの怒りがひしひしと伝わってくる。
でも、だけど。
多分これが分かるのは、僕がずっとリゼに付き纏ってハーヴィーさんもそれなりに長い時間見ていたからかもしれないけれど。
その中に怒り以外の感情もある気がした。悲しいだとか、そう言った感情じゃなくて、本来は怒りと相反するようなそんな感情が。
「なのになあ……ごめんな、リゼ」
ふ、とハーヴィーさんの緊張が解けた。ハーヴィーさんはリゼの頭に手を回して自分の方に抱き寄せる。
身長が高いリゼが、さらに大きな身体のハーヴィーさんの胸の中にすっぽりと収まる。ハーヴィーさんは自分の腕の中にあるリゼを確かめるように、その髪を慈しむように顔を伏せた。
その肩は震えていた。
「お前のことをノアから聞いた時、真っ先に俺は『誇らしい』って思っちまった。……ろくでなしの父親で、すまない。本当は俺は怒ってノアをぶん殴って、2度と村に足を踏み入れるなと叩き出して、お前をこんな冒涜から救ってやるべきなんだ。俺はお前の、親なんだから」
ハーヴィーさんの手は魔獣を追い払ったり野良仕事をしている割には傷一つなかった。身体強化を得意とするリゼならいざ知らず、魔法が使えるロルフであっても日常で負った小さな怪我が手や腕に残っている。武術に長けたハーヴィーさんといえど、普段の働きから考えて全くの無傷の手というのは随分と違和感があった。
少しの間顔を伏せていたハーヴィーさんが顔を上げる。その顔は泣いているように見えた。
けれどそこにあるのは悲しさというよりも、どうしようもなく嬉しいという、隠すべき感情が滲み出ている罪悪感も纏った複雑な感情だった。
「わかるんだ、ノア。俺もお前と同じだから」
「同じ……? 僕と、ハーヴィーさんがですか?」
ハーヴィーさんは静かに頷いて、自分の腕に目を落とした。
「俺にも、親友がいた」
その声は青空のように澄み渡っていた。
「どうしようもないろくでなしの俺にもできることがあると、それを信じていると託してくれた親友がいた。俺のために意地を張って、俺の背中を蹴ってくれた親友がいたんだ」
今、分かったことがある。
ハーヴィーさんの腕は傷がないんじゃない。傷がつかないのだ。日にも焼けない、その辺のありふれた武器では傷一つつかないもの。
ハーヴィーさんが魔法を使えないのは確かだ。そんなところで嘘をつく人ではない。じゃあなぜ、身体強化ができないはずのハーヴィーさんの腕に傷がないのかといえば、その腕が義手だからだ。
多分それを作ったのも、ハーヴィーさんに与えたのも、ハーヴィーさんの言う親友だ。
「俺は親友に、『お前なら真っ当に生きられる』『私がそうしたから』と言われた。だから俺は、そう生きる義務があった」
「……そうしないと、託してくれた親友の信頼を裏切ることになるから?」
ハーヴィーさんは笑って首を横に振った。笑うと、目尻に深い皺が入る人だった。
「信頼なんてそんな綺麗なもんか。ただの意地、あいつの強がりだ」
腕をぽん、と叩く。毛皮とも布とも僕らの普通の皮膚とも違う、不思議な素材に覆われたそれは随分と軽い音を立てた。
あの腕はきっと精巧に、今の技術では再現ができないほどハーヴィーさんの意思に沿って精密に動くのだろう。けれど多分、精神干渉するだとか人の生き方そのものを変えるだとかそんな魔法は備わっていない。
でもハーヴィーさんは親友が言ったという意地を信じている。全部嘘だと分かっていても、ハーヴィーさん自身がそうなることで、親友の意地が無駄ではなかったと証明し続けている。
「あいつのことをリゼに話したことはなかったのにな。俺が育てたリゼがあいつと同じ道を進んだと聞いて、俺は真っ先に『あいつの意地がここまで通ったんだ』と……誇らしく思っちまった」
父親失格だな、と笑うハーヴィーさんの頬に一筋の涙が落ちる。
「そんなことないはずです」
小説家を志すならばいついかなる時でも冷静に、情景を描くべきだ。切り取るべきだ。
「リゼはいっつもハーヴィーさんのことを自慢の父親だって言ってて、『ああなりたい』って話してて。ハーヴィーさんが親友の意地を貫き通してリゼを育てたからこそきっと、リゼはああやって……」
けれど今の僕は上手く言葉が出ない。それでもリゼがいつもハーヴィーさんのことを慕っていたことをどうしても知って欲しかった。僕から見たって二人は本当に親子だったから。
ハーヴィーさんはまた笑って、リゼの頭を撫でた。
「……ノア、お前の先達として、忠告しておく」
「はい」
自然と背筋が伸びた。
「いないやつの、もう言葉を聞けないやつの最後を勝手に意味づけるのは辛いぞ」
「はい」
「自分は何一つそいつを理解できていなかったんじゃないかと……本当は、自分を心底恨んでいたんじゃないかと確信してしまう日が来る」
「……はい」
「自分さえいなければ、自分の代わりに死んだ友にもっと他の良い人生が、幸せがあったんじゃないかと一人で布団の中で後悔する日々がいつまでも続く」
それは推測でもない、ハーヴィーさん自身が通ってきた道なのだろう。いつもののっぺりとした表情の裏で、ハーヴィーさんは毎日苦悩に苛まれていた。
「僕は、リゼの意地を信じます」
魔法を解いてリゼを解放して、僕が昔のように家に閉じ籠る道の方がきっと人としては正しい。
けれどそれでは、あの日命を懸けてまで証明してくれた英雄としてのリゼの意地が無駄になってしまう。
『カッコいい』姿を、僕が信じた『緋色の騎士』の勇姿をリゼが最後に残してくれたのなら。僕だけはどんな誹りを受けても、それがリゼだと喧伝する必要がある。
ポケットにしまっている使い古したペンを握る。幸い僕にはその力が、まだ未熟だけど、ちゃんとある。
「僕は信じます。僕の親友は……リゼは最強なんだって」
リゼは赤い瞳を緩めて笑った。いつものように、快活に、溌剌と、勝ち気に。




