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第5話 六柱の雨雲

雨量、雲量、カメラ映像、欠測の可能性。

気象データ解析者・真壁廉は、怖い話にしないため、豪雨の記録を一つずつ数字で疑っていく。

けれど、消せない偏りが、三内丸山の周辺にだけ残り始める。

真壁廉は、最初にその写真を空として扱わなかった。


空に見えるものほど、まず空ではないと疑う。露出補正。ホワイトバランス。モニターの輝度。クラウド同期時のサムネイル差し替え。撮影時刻のずれ。画像ファイルに埋め込まれたメタデータの破損。人間の目は、見たいものを早く見つけすぎる。


九月二十二日、午前四時十七分。


解析会社のオフィスは、ほとんど夜だった。窓の外には、黒いビルの輪郭と、遠くの道路を走るヘッドライトだけがある。フロアの照明は半分落ち、真壁の席の上だけが白く浮いていた。カップの底には冷めた水が少し残っている。飲むのを忘れて、ただ透明な輪だけが机に残った。


画面には、まず二つの窓が並んでいた。


一つは、佐伯から転送されたF1-027b。


もう一つは、九月十八日の十二時二十三分四十一秒に絞った、青森市周辺の雲量、降水、日射、レーダー画像。


真壁は、写真の青を見ないようにした。


青いから空だと決めるのは、子どもの仕事だ。専門家がするのは、その青がどの条件で作られたかを潰すことだった。


「九月十八日、十二時二十三分四十一秒」


彼は声に出した。オフィスには誰もいない。声は壁に吸われ、空調の低い音だけが戻ってくる。


その時刻、青森市西部は低い雲に覆われている。弱い雨。日射はない。雲底は低く、視程も悪い。露出を上げれば空は白く飛ぶ。青くはならない。添付された情報は、撮影地点として記録された座標と時刻までだった。施設のどこで、どんな向きで、何を写したのかまでは、真壁にはまだ知らされていない。知らされていない以上、空が見えないとは書けない。


「写真だけなら、まだ壊れ方は選べる」


真壁は呟いた。


写真は壊れる。データは嘘をつかない、という言い方を彼は信用していない。データは嘘をつかない代わりに、簡単に別のことを言わされる。撮影時刻が違うだけで、同じ青はあり得る。撮影場所が違うだけで、青い空は写る。メタデータが差し替われば、どんな奇妙な写真でも事件の顔をする。


だから彼は、写真から離れた。


同じメールスレッドに、成田から三時五十二分の追送が入っていた。臨時閉館と道路規制の安全告知を出す前に、現在の雨量と施設周辺カメラの異常が、単なる露出や欠測で説明できるか見てほしい、という依頼だった。写真の照合とは別件。そう分けておかなければ、奇妙なものは何でも同じ奇妙さへ混ざってしまう。


そこで、日付を切り替えた。


F1-027bの時刻照合ではない。九月二十二日、夜明け前から現在までの豪雨監視。真壁は画面の左上に「九月十八日写真照合」、右上に「九月二十二日現況」と仮のラベルを置いた。


周辺道路の冠水情報。市の雨量計。道路管理者が公開しているカメラ。施設の公開用定点カメラ。佐伯と成田から照会資料として限定共有された、管理用カメラの該当時刻静止画。近くの河川水位。民間スマートフォン気圧ログの匿名統計。雷検知。気温。風向。湿度。


一つずつ、説明できるものを消していく。


レーダーの欠測ではない。


ビル影や地形遮蔽ではない。


雨量計の故障ではない。


カメラの露出補正だけでもない。


通行車両のライトでも、レンズの水滴でも、圧縮ノイズでもない。


消していくたび、画面上に残るものは細くなった。細くなりながら、なくならなかった。


三内丸山遺跡周辺を中心に、雨雲の色がわずかに遅れて抜ける。レーダーとメッシュだけなら、強雨域の中に小さな欠けがある、としか言えない。形とは読めない。読んではいけない。


けれど、公開定点カメラ、道路管理者の公開カメラ、限定共有された管理用静止画の雨筋を同じ時刻で重ねると、欠ける場所が六つに揃い始める。


雨がそこを避けて落ちているように見える。


真壁はその言い方をすぐに消した。


雨は意思を持って避けない。


避けて見える条件があるだけだ。


真壁はキーボードに手を置いた。欠測扱いにすれば、画面はきれいになる。局所的な異常値を外せば、モデルは滑らかに回る。気候変動による短時間強雨の一例として説明できる。ここ数年、北東北でも強い雨の頻度は増えている。大気中の水蒸気量も、海面水温も、地形性降水も、都市周辺の局地的な熱環境も、全部が現実の問題だ。


現実の問題に、変な物語をかぶせてはいけない。


そのためなら、弱い例外値を一つ捨てるくらい、むしろ倫理的に見える。


見える。


真壁は、削除キーから指を離した。


「だめだ」


喉の奥が痛かった。


以前、自分の短いコメントがテレビの見出しにされたことがある。局地豪雨の解析を、誰かを責めるための数字として使われた。想定できたはずだ、怠慢だ、逃げ遅れた側にも問題がある。そんな言葉の横に、真壁のグラフが貼られた。


それ以来、彼は断定を避けるようになった。


避けすぎるようにもなった。


画面の六つの空白は、断定を求めていない。ただ、消さないでくれと言っているように見えた。


真壁は成田と佐伯へ送る文面を開いた。


正式な気象警報ではない。公的機関の発表を置き換えるものではない。短時間強雨、冠水、視界不良には通常の災害対応として注意が必要。加えて、九月十八日の写真の天候照合と、九月二十二日の周辺公開映像・限定共有静止画の照合では、三内丸山周辺のごく局地的な観測条件に説明未了の偏りが残る。


言葉は、弱い。


弱いが、今の真壁が書けるいちばん強い言葉だった。


送信してから、彼はもう一度F1-027bを見た。


穴の底のような黒い縁の向こうに、青い空がある。湿った土の壁から細い根が垂れている。光は乾いている。そこだけ、季節も時刻も違う。


真壁は画面を閉じた。


閉じても、六つの空白は、別の画面に残っていた。


* * *


午前十時三十二分。


県庁の小会議室では、窓が白く曇っていた。外では細い雨が降っている。粒は大きくないのに、ガラス一面に薄い膜を作り、遠くの建物の輪郭を水で撫でたようにぼかしていた。


遥は、真壁の共有画面を見ていた。


画面の中の雨雲は、色で描かれている。青、緑、黄、赤。雨の強さが、数字ではなく皮膚に近い色で示される。三内丸山周辺だけ、色の進みがわずかに遅れる。雨雲画面だけでは、六つには見えない。ただ、その遅れが、公開映像の雨筋と同じ時刻に重なっていた。


昨夜始めた夢の聞き取りは、別記録として進んでいる。写真を見た後の証言は混入可能性あり、写真を見る前に話した夜警の証言だけは別紙。遥はその区分を付箋に書き、真壁の画面の横に置いていた。


「最初に言います」


真壁の声は、オンライン越しでも早かった。寝ていない声だ。


「これは気候変動の否定材料ではありません。最近の雨が強くなっていること、局地化していること、短時間に降る量が増えていることは現実です。そこへ変な原因を押し込むと、防災の方が壊れます」


「分かっています」


遥は言った。


「分かっていない人が、たぶん今日中に山ほど出ます」


真壁は、画面の表示を切り替えた。


公的雨雲レーダー。民間高頻度メッシュ。施設の公開用定点カメラ時刻。道路管理者の公開カメラ。地上雨量計。画像の明度変化、圧縮、時刻表示、雨滴付着。風向。雷検知。


「だいたいは説明できます。問題は、だいたいに入らない点です」


彼の操作で、雨域のアニメーションが戻った。


強い雨が西から流れてくる。雲は途切れない。施設周辺の道路では、舗装が黒く濡れている。駐車場の白線も光っている。センターの屋根も水をはじいている。


なのに、複数の映像を時刻で合わせた数フレームだけ、六つの場所に雨筋がない。


空気の中に細い柱が立っていて、雨だけがそこへ触れられないように落ちている。背景の木々は揺れている。カメラの時刻表示は進んでいる。通り過ぎる車のライトも濡れた路面に反射している。だから映像自体が止まっているわけではない。


「柱に見える」


葛西が、ほとんど息だけで言った。


遥は彼女を見た。


葛西はすぐに口元を押さえた。


「すみません」


「言い方は大事です」


遥は言った。


「でも、そう見えることは記録します」


真壁が小さく頷いた。


「見え方を否定すると、あとで別の言葉に取られます。雨筋が六点付近で欠落して見える。現時点では、そう書くしかない」


佐伯は腕を組み、画面を見ていた。目の下の色が濃い。


「公開用の定点カメラを止めますか」


成田が言った。


「止める理由を、どう説明しますか」


佐伯が返す。


「悪天候による安全確認のため、で通せます」


「通せます。けれど、昨夜から画面録画をしている人間がいる。止めたら、隠したと言われる」


「出し続けたら、見世物になります」


佐伯の声には、疲れよりも怒りがあった。


「ここは遺跡で、舞台装置じゃありません」


成田はすぐには言い返さなかった。


その沈黙の間に、雨雲のアニメーションが同じ場面をもう一度繰り返した。六つの薄い場所。雨が落ちない場所。画面の中で何度も起きると、異常は少しずつ映像の都合に見えてくる。人間は慣れる。慣れることで、怖いものを小さくする。


遥はそれが嫌だった。


「真壁さん」


「はい」


「これを、広域の何かだとは言えますか」


真壁は目を細めた。


「言えません」


即答だった。


「類似した水系、地形、保存環境を持つ場所で、雨量、レーダー反射強度、映像時刻のずれを見ていくと、基準から少し外れる数値が一、二点あります。でも、それは観測誤差ではない可能性を悩む材料であって、列島規模の何かの証拠ではない。そういう言い方をした瞬間、僕はデータを捨てます」


「捨てないために」


「広げない」


真壁は言った。


「狭く見ます。狭く、しつこく。怖い話にする前に、怖い数字を見てください」


その言葉は、以前より少し疲れて聞こえた。


玖村は、画面の端で雨筋を見ていた。


「文献で読める領域を、越え始めましたね」


「越えないでください」


遥は言った。


「越えたくて言ったのではありません」


玖村は苦く笑った。


「古い言葉は、こういう時に人を助けるふりをします。柱、天、降るもの、塞ぐもの。言葉が先に来ると、見えているものを言葉に合わせて削ります。神代さんは、そこを使う」


「もう使っています」


成田が端末を見ながら言った。


告知文の下書きには、最初「念のため」と入っていた。成田はその四文字を消した。弱く見せるための言葉だった。弱く見せれば人は動かない。弱く見せすぎれば、誰も守れない。


公開した言葉は、現場職員の動きも、避難者の判断も、遺跡へ向かう人の数も変える。成田はそのことを、広報文の責任ではなく、入口を開け閉めする責任として見ていた。


「安全告知を出します。局地的な冠水、視界不良、夜間の不要不急の来訪自粛。センターは臨時閉館、駐車場と覆屋周辺は立入制限。警察、市の防災担当、道路管理者にも同時に連絡します。文化財調査に関する追加情報は、確認中。異常気象との関係は、正式な検証前に断定しない」


「弱い」


真壁が言った。


成田は顔を上げた。


「弱くしか出せません。強く出したら、根拠を問われます。根拠を出せば、映像がまた切り抜かれる」


「分かっています」


真壁は目元を押さえた。


「分かっているから、腹が立つ」


その正直さに、遥は少し驚いた。真壁はもっと、数字の後ろへ隠れる人間だと思っていた。だが今、彼は自分の弱さが外へ漏れる瞬間を、画面越しに見せている。


「もう一件あります。市社協からも連絡が来ています」


成田が、次の資料へ視線を落とした。


「西側の高齢者施設へ回す水と衛生用品の一部を、三内丸山遺跡センターの駐車場で一時照合したいと。屋根のある搬入口を使える公共施設が、あの周辺では限られるそうです」


佐伯の顔が強張った。


「来館者を止めても、救援車両は止められません」


「はい。だから搬入口Aだけを災害対応に開ける案です。文化財側の出入りとは分けます」


弱い言葉で入口を閉じようとしている。その同じ場所を、別の責任が内側から押し開けようとしていた。


誰もすぐには答えなかった。画面の向こうで真壁が息を吐き、成田は搬入口Aの位置を資料に打ち込む。佐伯の端末が短く震えた。


「……綿貫さんから連絡です」


佐伯が言った。


「先日の第一報の訂正、というより補足記事を出したいそうです。公開映像の扱いに注意喚起を入れる。真壁さんに、県への技術助言者として出せる範囲のコメントを取りたいと」


真壁の顔が、分かりやすく嫌そうになった。


「僕のコメントは、切られます」


「綿貫さんは切らないと言っています」


「善意で切らない人でも、見出しで切られる」


会議室に短い沈黙が落ちた。


佐伯が、静かに言った。


「それでも、誰かが言わないと、神代だけが言葉を持ちます」


真壁は画面の向こうで、しばらく黙っていた。


やがて、低い声で言った。


「正式な警告ではありません。ですが、公開映像だけでは否定できない偏りが残っています。映像上の偏りを、現時点で大きな意味へ広げないでください。局地的な危険への備えを優先してください」


「そのまま伝えます」


佐伯が言った。


真壁はすぐには答えなかった。画面の中で、視線だけがわずかに落ちる。


「そのまま届けばいいんですが」


* * *


午後七時五十八分。


神代の配信画面は、白い背景から始まった。


派手な音楽はない。煽る字幕もない。机の上には、雨雲レーダーの公開画面を印刷した紙と、三内丸山周辺の地図と、県の安全告知を写したタブレットが置かれている。神代は白いシャツを着て、いつもの黒い紐のペンダントを胸元に垂らしていた。


《雨が強い地域の方は、まず安全を優先してください》


画面下に、そのテロップが出た。


遥は会議室の端末でそれを見ていた。見るつもりはなかった。だが、見ないままにしておくと、こちらが知らない言葉だけが増える。


「避難情報、道路冠水、停電の情報は、概要欄と固定コメントにまとめています」


神代の声は穏やかだった。


「私たちは、不安を煽るために集まっているのではありません。必要な情報を、必要な人に届ける。そのうえで、いま起きていることの意味を、静かに見ます」


コメント欄には、各地の雨の情報が流れていた。


《西側の道路、水たまってます》


《高齢の母がいるので助かります》


《避難所、ここで合ってますか》


《西・慎:母の施設が西側です。去年の避難では名簿確認で一時間止まりました。今回は置いていかないでください》


神代は、その最後のコメントを読み上げた。


「お住まいの地区名をここに書かないでください。市の公式ページの避難所一覧を見て、移動が危ない場合は無理に出ない。近所の方へ連絡できるなら、まず電話で。画面のこちらに、確認先だけを貼ります」


彼は迷わずリンクを示した。言っていることは、正しかった。


ただ、そのあと神代の目が、コメント欄の氏名非公開、安否未確認、名簿待ちという文字で一瞬だけ止まった。黒い紐に触れた指が、すぐに離れる。正しい一覧に名前が載らない人間を、彼は見過ごせなかった。


その合間に、伴野修のアカウントが何度も現れた。


《公式情報を確認してください。市のページはこちらです》


《道路冠水は無理に通らないでください。車は水深が分からないと危ないです》


《デマの画像も混ざっています。避難情報だけ見てください》


《名簿や受付を待っている間に遅れることがあります。近くの人同士で、声を掛けてください》


伴野の言葉は、まともだった。


まともな言葉が神代の画面に置かれている限り、配信そのものまでまともに見えてしまう。それが怖かった。


「この人、止められないんですか」


葛西が言った。


「伴野さんを?」


「神代です」


葛西は画面を睨んでいた。


「でも、伴野さんみたいな人がいるから、見ている人は離れないんですよね。ちゃんとした情報も流れてくるから」


「公開コメントだけでは、本人確認も接触もできません」


成田が言った。


「登録ボランティアかどうかも、こちらの権限では照会できない。市社協と警察へは、危険な誘導に巻き込まれる可能性があるアカウントとして共有します。ただ、今すぐ個人を止める根拠にはできません」


佐伯は答えなかった。


画面の中で、神代が県の安全告知を示した。


「県は、局地的な冠水と視界不良に注意と発表しました。真壁廉氏は、正式な警告ではないとしながらも、公開映像だけでは否定できない偏りがある、とコメントしています」


真壁の言葉が、神代の声で読まれた。


ほんの少し、角度が変わっていた。


別ウィンドウでつながったままの真壁が、低く言った。


「その言い方ではない」


真壁の声が、さっきまでより一段低くなった。画面の向こうで、机に置いた何かが硬く鳴る。


「否定できないと言ったのは、映像上の偏りです。意味ではない。柱でも、兆しでもない。まだ、そこへ名前を付けていい段階じゃない」


言い終えてから、真壁は自分の息が荒くなっていることに気づいたように、口を閉じた。


「……餌を渡した」


誰も返事をしなかった。返事をする間にも、神代の声は先へ進んでいた。


「偏り」


神代は繰り返した。


「皆さんは、これをただの偏りと見ますか。それとも、失われた柱の記憶が、雨の中に立ち上がりつつあると見ますか」


コメント欄が速くなった。


《柱?》


《六本?》


《映像見た、雨が避けてる》


《三内丸山の六本柱と同じ?》


《西・慎:母の施設、そっちの道路を使います》


伴野のコメントが流れる。


《まず安全確認を。現地には行かないでください》


その下に、別のアカウントが続いた。


《近いので見てきます》


《車で五分、もう向かってる》


成田が端末を持つ手を止めた。すぐに別回線で警備担当へ短い指示を送る。駐車場閉鎖。正門前の誘導。警察への追加連絡。


神代は、伴野のコメントを拾った。


「伴野さん、ありがとう。そうです。現地へ行ってはいけません。天の兆しは、近づけば見えるものではありません。むしろ、遠くから、記録として残すべきです」


その言い方に、遥は背中が冷えた。


記録として残す。


それは、こちらの言葉でもあった。


神代は三内丸山周辺の公開映像を画面に出した。施設の公開用定点カメラ、道路管理者が公開している周辺カメラ、視聴者が録画した短い動画。どれも内部資料ではない。誰でも見られるもの、誰かがすでに保存したもの、伴野が避難情報と一緒に集めたリンクだった。


「ここです」


神代は雨の映像を止めた。


止めた瞬間、雨筋の欠けた場所がはっきりした。六つ。うっすらとした縦の空白。風で揺れた雨の隙間に過ぎないと言えば、まだ言える。だが、別のカメラ、別の時刻、別の角度で、同じ配置がぼんやり残る。


「迎える、とは違う気がします」


玖村が、会議室の隅で呟いた。


遥は彼を見た。


玖村は画面から目を離さない。


「神代さんの言葉を借りれば、彼は迎えると言うでしょう。でも、映像は迎えるというより、避けているように見える。塞いでいる、と言いたくなる。まだ言ってはいけないけれど」


「文献ではなく、映像の話です」


遥は言った。


「ええ」


玖村は苦く笑った。


「だから、余計に悪い」


画面の中の神代は、声を荒げない。


「学問は慎重であるべきです。行政は安全を守るべきです。私もそれを否定しません。けれど、慎重さの名で、古い記憶がまた消されるなら、誰かが見ていなければならない」


遥の指が、机の端を押した。


消しているのは、あなたです。


声には出さなかった。


出したところで、画面には届かない。


綿貫の記事が、配信中に公開された。


見出しは控えめだった。


《三内丸山周辺の公開映像に雨筋の偏り 専門家「意味づけ急がず安全確認を」》


本文も、煽りではなかった。県の告知、真壁のコメント、公開映像の拡散に対する注意、現地へ向かわないよう呼びかけ。綿貫の署名による補足として、先日の第一報で円盤画像だけが切り抜かれた経緯にも短く触れている。


それでも、記事はまた画像で読まれた。


雨筋の欠けた六つの場所だけが、赤い丸で囲われ、神代の配信画面に貼られ、誰かの投稿で横に並べられる。


文字は遅い。


画像は速い。


その速さに、手続きはいつも少し遅れる。


* * *


午後九時四十六分。


三内丸山遺跡センターの監視室は、外より暗かった。


佐伯は雨具を着たまま、椅子の背に手を置いていた。濡れた裾から、水滴が床に落ちる。成田は電話を切ったばかりで、顔の血の気が薄い。遥、葛西、玖村は県庁から移動し、真壁だけがオンラインでつながっている。画面越しの真壁の顔は青白い。


円盤そのものは、午後の協議で、県側の一時保管から三内丸山遺跡センター内の一時保管室へ戻す判断になっていた。豪雨下で覆屋側の異常確認と現地封緘を続けるためだ。成田が移送判断の記録を読み上げ、佐伯が受入時刻と封印番号を照合し、遥は開封しないこと、異常が出た時点で即時共有すること、記録担当を一人に寄せないことを条件に加えた。


外では雨が強くなっていた。


屋根を叩く音が、言葉の隙間を埋める。低い雷が遠くで鳴り、少し遅れて窓枠が震えた。空気は冷たいのに、部屋の中には濡れた木と古い土の匂いが満ちている。換気は正常。警報も正常。正常な表示が、今は頼りにならない。


監視モニターには、六つの画面が出ていた。


展示室側廊下。


覆屋入口。


大型掘立柱建物跡の露出展示面。


屋外の復元大型掘立柱建物を斜めに見るカメラ。


駐車場。


周辺道路。


どれも施設内部の管理用映像で、公開用ではない。だが、佐伯はそのうち一つを指差した。


「公開用定点カメラは、三分前から静止画更新に切り替えました。悪天候対応として」


「画面録画はもう外に出ています」


成田が言った。


「分かっています」


佐伯の声は硬い。


「切替時刻、告知文、切替前後のアーカイブは保全しました。これ以上、内部の映像まで出さない」


「内部映像は出しません」


遥は言った。


「ただ、記録は残します。出さないことと、残さないことは別です」


佐伯は短く頷いた。


モニターの中で、雨は白い線になって落ちている。屋外復元柱の黒い輪郭が、風に揺れる雨の向こうでぼやけていた。ここで重要なのは現代の復元柱そのものではない。いま見るべきなのは、覆屋内の露出展示面と、そこに保護されている原位置の柱穴配置周辺の異常だった。


それでも、雨の中に立つ復元柱の影は、見る者の想像を簡単に奪う。


「あ」


葛西が声を漏らした。


表示面のカメラだった。


覆屋内に直接雨は落ちない。落ちるはずがない。屋根があり、排水があり、点検口も閉じている。だが、画面の奥、六つの柱穴跡を示す表示面の周辺が、ゆっくり暗くなっていく。


濡れている。


穴は小さな印ではなかった。人が身を屈めれば入れてしまいそうな、深い土の口だった。縁は丸く崩れ、底は照明の届かない影に沈んでいる。その六つの窪みの縁から、土の色が変わっていく。


だが、水の広がり方がおかしかった。


普通なら、低い場所へ落ちる。穴の底へ流れ込み、縁を伝い、土のくぼみにたまる。勾配、床材、目地、湿度。説明できる順番はある。遥はそれを頭の中で並べた。


そのどれにも、画面の中の水は従わなかった。


新しく広がってきた水は、穴を満たそうとしなかった。


六つの大きな窪みの縁まで来ると、そこで薄く震え、何かに触れたように退いた。底や境目には、すでに浅い水が残っている。だが、穴の中心だけは濡れていなかった。直径一メートルほどの乾いた芯を残して、浅い水がその周囲だけを縁取っている。


かつて柱が通っていたはずの場所だった。


土の底から天井へ向かって、見えない芯が立ち上がっているようだった。柱ではない。少なくとも、映像には何も映っていない。けれど水は、その芯のまわりだけを避けていた。


穴ではなく、点だった。


直径二メートルの土の口の、その中心にある、触れてはいけない六つの点。


雨も、水も、その場所だけには触れようとしなかった。六本の柱はもうない。けれど、柱があった位置だけが、世界の中へ書き残された印のように残っている。


「点検口」


佐伯が言った。


「閉じています」


葛西が監視盤を確認した。


「排水ポンプ」


「停止中です。自動起動条件に達していません」


「湿度」


「上がっています。でも、通常の範囲内です」


通常の範囲。


その言葉の頼りなさが、部屋を冷やした。


真壁の声がスピーカーから出た。


「外の雨量計、今ピークです。なのに、施設直近の簡易雨量だけ、三十秒遅れて落ちています。機器不良かもしれない。でも、映像の欠落と同じタイミングです」


「同じ、という言い方は」


遥が言いかけた。


真壁が遮った。


「分かっています。相関です。因果じゃない。でも今は、相関を消す方が怖い」


その言葉に、遥は黙った。


覆屋内カメラの水面が揺れた。


柱穴跡の窪みに溜まった水。表示面と保護面の境目に残った、浅い暗い水。そこに、照明の白が映っているはずだった。天井の梁が映るはずだった。点検灯の丸い反射が浮かぶはずだった。


一瞬、青が映った。


鮮やかな、乾いた青だった。


誰も声を出さなかった。


水面の中に、昼の空があった。


夜の覆屋。豪雨。濡れた床。監視室の暗いモニター。その中央の小さな水面だけが、午前でも午後でもない明るさを抱いていた。雲は高く、白く、光は強い。風に揺れる木の影のようなものが、水面の底を横切った。


「録画」


遥は言った。


声が自分のものではないように聞こえた。


「しています」


葛西が答えた。


「別媒体にも」


「はい」


「監査ログ」


「残っています」


手順の言葉が、部屋の中で細い杭になる。打っても打っても、水を含んだ土に沈む杭。それでも打つしかない。


水面の青が消えた。


戻ったのは、蛍光灯の白ではなかった。


黒い縁。


穴の底から見上げるような、丸い暗さ。


一瞬だけ、モニターの中の水面が、こちらを見返しているように見えた。


葛西が椅子の背を握った。爪が白くなる。


「これ」


彼女の声は震えていた。


「F1-027bと同じ空ですか」


遥は答えられなかった。


真壁が画面の向こうで何かを操作する音がした。


「色温度は近い。日射の角度は、九月十八日の青森とは合わない。今日の青森とも合わない。映像圧縮の可能性はあります。でも」


彼はそこで言葉を切った。


「でも、何ですか」


成田が聞いた。


真壁は、ひどく嫌そうな顔をした。


「同じ嘘に見えます」


その表現は専門家の言葉ではなかった。


だから、怖かった。


佐伯が監視室のドアへ向かった。


「現場を見ます」


「一人では行かないでください」


遥がすぐに言った。


「分かっています」


佐伯は振り返った。


「見なければ、守る範囲も決められません」


成田が雨具を取った。


「私も行きます。警備員を呼びます。漏電確認、滑り止め、床面を踏まない導線。立入範囲は表示面の外周まで」


遥も立ち上がった。


「私は記録側に入ります。作業者と記録者を分けてください。誰がどこまで入ったか、時刻を残します」


玖村は動かなかった。動かないまま、モニターの水面を見ている。


「玖村先生」


遥が呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。


「すみません」


「何を見ていたんですか」


「言葉が、先に来そうになったので」


玖村は自分の口を押さえるように、指で唇に触れた。


「今は言いません」


遥は頷いた。


今は、それでよかった。


* * *


同じ時刻、公開用定点カメラの静止画は、すでに外で切り取られていた。


更新間隔を落としたことは、隠蔽の証拠として扱われた。悪天候対応の告知は、画像の横では読まれなかった。三分前の動画、五分前の静止画、別の道路カメラ、神代の配信切り抜き、綿貫の記事のスクリーンショット。それらが横に並べられ、赤い丸と矢印が増えていく。


《見えた》


《六つある》


《雨が避けてる》


《柱がある》


《柱がある》


《柱がある》


同じ言葉が、短い間隔で流れた。


伴野は、そのコメントの間に避難所のリンクを貼り続けていた。


《現地には行かないでください。水位が上がっています》


《高齢者の方は早めに避難を。市の公式を見てください》


《映像より安全確認を優先してください》


彼のコメントは、何度も流され、何度も埋もれた。


神代は、配信画面の中で静かに目を伏せた。


祈っているようにも見えた。考えているようにも見えた。まぶたを下ろしたまま、彼は十秒近く動かなかった。


やがて彼は、顔を上げた。


「皆さん」


声は、少しも震えていなかった。


「柱は、見えるものだけではありません。雨が触れない場所に、失われた杭があります。私たちは、ようやくその位置を見始めたのです」


《じゃあ円盤もそこへ置くんですか》


《保管室じゃだめなんだ》


《誰かが戻さないと迎えられない?》


コメント欄の言葉が、映像から物へ移った。


伴野がコメントした。


《先生、現地に人が集まり始めています。止めてください》


続けて、もう一つ。


《名簿が追いつかない時に動くと、また置き去りが出ます》


神代はそれを読んだ。


読んだうえで、穏やかに微笑んだ。


「伴野さん、あなたの心配は正しい。だからこそ、誰も置き去りにしてはいけません」


その言葉に、伴野のコメントが止まった。


ほんの数秒だった。


配信画面の下では、入力中を示す小さな点が三つ、現れては消えた。伴野の次のコメントは、出てこなかった。


代わりに、さっきの「西・慎」のアカウントが流れた。


《西・慎:それなら僕も行きます。母の施設の搬入、間に合わせたい》


監視室では、佐伯と成田が警備員を連れて覆屋へ向かい、葛西が録画の複製を取り、真壁が雨量と映像時刻を重ね、玖村が言葉を飲み込み、遥が濡れた床へ近づくための記録手順を組み直していた。


外では、雨が強くなる。


映像は、もう外へ残っている。


誰かが録画した画面の端で、六つの雨の空白が、何度も再生されていた。赤い丸は、再生されるたびに少しずつ太くなる。矢印が増え、地図が重ねられ、別のカメラの静止画が横に貼られる。


そのたびにコメント欄は同じ言葉を返した。


柱がある。


善意で貼られた避難所のリンク。弱く丸められた専門家の言葉。消せなかった公開映像。


それらは画面の上で一枚に重なり、六つの位置を示す粗い図になっていく。


雨は、見えないものの輪郭を、あまりにも丁寧になぞっていた。


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