第4話 撮られていない空
写真は、同じものを写しているはずだった。
出土時の記録、撮影台帳、監査ログ。
番号を追い、条件を疑い、手順通りに照合するほど、遥たちは「写っているもの」と「残っている記録」の隙間へ踏み込んでいく。
写真は、同じものを写しているはずだった。
その前提が崩れると、人間はまず画面ではなく、自分の手元を見る。
遥は、県庁の小会議室の机に両手を置いた。指先は乾いている。手袋もしていない。端末の画面に触れていない。だから、いま目の前で写真の一画が違って見えるのは、指の汗でも、拡大操作の失敗でもない。
九月二十一日、午前八時五十六分。
昨夜の神代の配信から、まだ半日も経っていない。会議室には、消されていないモニターの残光と、飲み残しのペットボトルと、充電器の細い線が残っていた。窓の外は曇っている。雨は降っていないが、ガラスの向こうの青森市街は、水を吸った紙のように光を鈍くしていた。
「もう一度、原本から」
遥が言うと、葛西は小さく頷いた。
「F1系列のRAW、取り上げ前。閲覧用の書き出しを介さずに開きます」
葛西の声は眠気でかすれている。それでも指は正確だった。フォルダ名、ファイル名、撮影時刻、カメラのシリアル、ハッシュ値。画面上に番号が並ぶたび、遥はそれを声に出さずに追った。
F1-012からF1-035。取り上げ前。
F1-036以降。下面。
F2系列。県庁一時保管室での再撮影。
報道公開画像。外部流通画像。神代配信キャプチャ。
今追うべきものは多くない。取り上げ前に固定したはずの写真と、再撮影や複写のたびに揺れる一画。その二つだけを、遥は自分の中で残した。
番号は杭だ、と遥は昨日思った。だが杭は、水を含んだ土へ打てば傾く。傾いた杭を、まっすぐだと言い張ることはできない。
「昨日の配信の件は、画像処理だけでは切れません」
葛西が言った。
「原本、複写、配信画面で、同じ一画だけが別の崩れ方をしています。照明角、圧縮率、ブラウザ、端末、再エンコード、全部を疑って、まだ残ります」
「残る、という言い方は慎重に」
遥は反射で言った。
葛西は「はい」と返した。返してから、ほんの少しだけ目元を下げた。
「残ってしまいます」
その言い直しを、遥は叱らなかった。
会議室のドアが開いた。佐伯が、紙の束と端末を抱えて入ってきた。昨日までより、髪が少し乱れている。彼は遥の正面へ座らず、机の角に立った。
「昨夜のうちに整理しました」
佐伯は紙の束を机へ置いた。
「箱内ロガーの自動アラート原文。設備監視システムの判定。一次受けメール。私が開封した時刻。転送していなかったことが分かるサーバーログ。あと、床面異常の確認動画と、床下点検の一次報告です」
遥は紙の束を見た。
佐伯に不利な資料だった。
彼が一晩抱えたことを、手続き上の遅れとして示す資料。設備業者が軽微扱いしたことも、彼がそこで止めたことも、誰の目にも分かる。
「全部ですか」
「私が把握している範囲では」
「把握していない範囲は」
「設備会社の詳細ログは、今日中に正式に取り寄せます。県側の文書受付に乗せます」
成田が、壁際から短く補った。
「受付は私が出します。佐伯さん個人の説明で終わらせません」
遥は佐伯を見た。
昨日なら、彼の言葉のどこかに逃げを探した。遺跡を晒したくなかった。外の物語にされたくなかった。そういう言葉を、隠蔽のための柔らかい布として剥がそうとした。
いま机の上に置かれているのは、布ではなかった。
「これを渡すのは、あなたにとって都合が悪い」
遥が言うと、佐伯は少しだけ笑った。疲れた笑いだった。
「都合で選ぶと、また間違えます」
その言葉は、彼自身を切るために出されたように聞こえた。
遥は紙の一枚を持ち上げた。発見当日を示すD1の夜。二十二時三十八分。箱内湿度上昇。二分四十秒。二十三時十六分。二分十一秒。二十三時二十九分。三分四秒。六回。
数字の列は、淡々としている。淡々としているから、不気味だった。
「佐伯さん」
遥は紙から目を離さずに言った。
「許したわけではありません」
「分かっています」
「ただ、この資料は使います」
「そのために持ってきました」
佐伯の声は低かった。
「疑われないためではなく、疑えるように」
その言い方に、遥は返事をしなかった。返事をすると、何かが少し許されてしまう気がした。まだ早い。けれど、机の上の資料を遠ざける理由もなかった。
玖村は、会議室の隅で紙の報告書を開いていた。
昨夜、到着したばかりだというのに、彼はすでに数冊の注釈書と、古い報告書のコピーと、手書きのメモを机に広げている。鞄の中身がそのまま机へ崩れたように見えたが、本人だけはどの紙がどこにあるか分かっているらしい。
「水野さん」
玖村が顔を上げた。
「古事記を答えの本として扱うつもりはありません。先に言っておきます」
「扱われたら止めます」
「でしょうね」
玖村は、薄く笑った。
「ただ、神代さんの『天を迎える』という読みを退けるには、こちらも何を退けているのかを見なければならない。彼は、円盤を鏡にしたがっている。天浮船を迎える道具にしたがっている。けれど、昨夜の画像の欠け方は、迎えるというより、閉じる機能の方に寄っているように見えます」
「文献でそこまで言えるんですか」
「言えません」
玖村は即答した。
「言えないから、補助線です。天之御柱と千引石だけ見ます。古事記で国土が生まれる場に立つ柱と、黄泉への坂を塞ぐ石。国譲りや根の国まで広げると、今は濁ります」
遥は少し黙った。
天之御柱。千引石。
神話の言葉は、実験室の器具よりも柔らかい。柔らかいぶん、何にでも触れてしまう。父が晩年にその柔らかさへ足を踏み入れ、戻れなくなったのだと、遥は思ってきた。
「まず、天之御柱です」
玖村は、紙の余白に線を引きながら言った。
「国生みの場で、神々がその周りを巡る柱。ここで借りたいのは神話の場面そのものではありません。立っている木ではなく、そこに柱が立つと決められた場所。土地を人間の側へ固定する語彙として、柱が使われている可能性を見る価値がある、というだけです。三内丸山の六本柱へ直結させる根拠にはなりません」
「価値」
「危険と言い換えてもいい」
玖村は線の横に、小さく丸を描いた。
「こういう読みを危ういと言った人もいました。水野せん――」
玖村はそこで言葉を切った。
「誰の話ですか」
遥が聞くと、玖村は目を伏せた。
「今は、文献の話です」
その逃げ方を、遥は見逃さなかった。だが、追えば議論が父の方へ流れる。円盤の一画はまだ、画面の中で形を決めていない。
「もう一つ。千引石は、黄泉への坂を塞いだ大岩です。呼び込む鏡ではなく、来るものを反す石。円盤が招迎具ではなく、六つの点を留めて閉じるためのものだとしたら、こちらの方が読み筋としてはまだ自然です」
「自然」
遥はその言葉を嫌った。
「この状況で自然という言葉は使いたくありません」
「では、手続き上マシ、と言います」
玖村の皮肉は薄い。薄いが、場を壊さないぎりぎりの温度で残る。
佐伯が口を開いた。
「円盤を閉じるものと読むなら、取り上げたことが」
「そこまで言わないでください」
遥の声が早かった。
会議室が静かになった。
遥は自分の声の速さに気づいた。父の件を否定するときと同じ速さだ。
「発掘行為を、原因として単純化しないでください。豪雨、湧水位、保存環境、出土状況、移動、保管。まだ切り分けている途中です」
「はい」
佐伯は素直に引いた。
「すみません」
その謝罪もまた、彼の変化として机の上に残った。遥はそれを見ないふりをした。
* * *
午前中は、記録の照合に費やされた。
出土時写真。取り上げ前動画。下面写真。接触土S1-B、S1-Cのラベル。保管箱B-03の状態調書。箱内ロガーと室内ロガー。床面異常の写真。過去の発掘日誌。三内丸山の大型掘立柱建物跡に関する古い報告書。
紙と画面の間を、視線が往復する。
机の上は、次第に発掘現場に似てきた。紙が層を作り、端末が断面になり、誰かの手が余白へ新しい番号を書き込む。違うのは、土の匂いがしないことだった。
しないはずだった。
「また、匂いませんか」
葛西が言った。
遥は顔を上げた。
冷えた腐葉土と鉄を混ぜたような匂い。覆屋で嗅いだ匂い。一時保管室で嗅いだ匂い。会議室の床は乾いている。窓は閉じている。机の上には土を含む袋はない。
「換気」
成田が壁のパネルを見た。
「通常運転です」
「一時保管室から」
「ドアは閉めています」
佐伯が答えた。
遥は匂いを追わないことにした。匂いは記録しにくい。記録しにくいものほど、人間の不安に都合よく形を変える。
「日誌を続けます」
彼女は言った。
古い報告書の紙面には、几帳面な脚注が並んでいた。大型掘立柱建物跡の位置、調査区、柱穴の規模、炭化材、保存処置、展示上の表現。本文そのものは変わらない。少なくとも、遥が今読める範囲では。
だが、資料番号の枝番だけが、時々合わなかった。
「第十二図の脚注、ここ」
佐伯が指した。
「紙版では『第十二図-3』です。PDFは『第十二図-3b』になっている。展示用の参照表は『3』のまま。昨日、私が出した内部メモでは『3a』になっています」
「改訂履歴は」
「展示用参照表にはあります。報告書PDFの方は、公開時から変えていないはずです」
「はず、ではなく」
「サーバーの更新履歴を取り寄せています」
佐伯の返事は早かった。遅れを一度犯した人間が、遅れを許さないための速さだった。
遥は紙版とPDFを見比べた。
本文には何も起きていない。柱穴の規模も、方位も、解説も同じ。変わっているのは脚注の枝番だけだ。そんなものは、版の違い、入力ミス、OCR、資料整理上の修正でいくらでも起きる。
いくらでも起きる。
その言葉が、もう足場にならない。
「枝番だけが増えるのは、気持ち悪いですね」
葛西が言った。
遥は画面から目を離さずに聞いた。
「なぜ」
「本体じゃなくて、端っこの番号だけが勝手に根を出しているみたいです」
言ってから、葛西は顔をしかめた。
「すみません。変な言い方でした」
誰も否定しなかった。
玖村が、古い報告書のコピーの束をめくっていた手を止めた。
「これは、どなたの資料ですか」
その声の温度が、少し変わった。
遥は顔を上げた。
玖村が持っているのは、大学図書館から取り寄せた古い研究会資料のコピーだった。大型掘立柱建物跡を直接扱ったものではなく、縄文の柱列や祭祀遺構に関する発表資料の束。その上に、黄ばんだ付箋が一枚貼られている。
付箋の端だけが、湿気を吸ったように波打っていた。だが、文字は流れていない。
《水野宗一郎氏資料。解釈、危うい。柱を人格へ寄せすぎる危険。後日確認》
遥の指先が冷えた。
「父の名前ですね」
会議室の空気が、わずかに沈んだ。
玖村は付箋を見ていた。見ているだけで、すぐには何も言わない。その沈黙が、知っている沈黙だった。
「玖村先生」
遥は言った。
「これは、あなたの字ですか」
玖村の喉が、一度だけ動いた。
「若い頃の字です」
「父と会ったことがあるんですか」
「研究会で、一度」
「なぜ黙っていたんですか」
「今、円盤の確認に必要な情報ではないと判断しました」
「必要かどうかを、あなたが決めるんですか」
玖村は答えなかった。答えない沈黙の中で、さきほど言いかけた「水野先生」の半分だけが、まだ机の上に残っていた。
遥は立ち上がりそうになり、机の縁を握った。父の名が出ると、判断が早くなる。自分の欠点を、知っている。知っていても、止められない時がある。
「父を、危ういと書いた」
「書きました」
「何を見て」
「その時点で見た資料では、証明より連想が先に立っていた」
「今のあなたの天之御柱と千引石は、連想ではないんですか」
玖村は目を伏せた。
「連想です。だから補助線と言っています」
「便利な言い方ですね」
佐伯が何か言いかけたが、成田が視線で止めた。
玖村は怒らなかった。怒らないことが、遥にはさらに腹立たしかった。怒らない人間は、いつも少し上から見ているように見える。父のことも、遥のことも、偽書を信じる人間のことも。
「水野さん」
玖村は静かに言った。
「僕は当時、あなたのお父さんの資料を切り捨てました。切り捨てた判断が、完全に間違っていたとは今でも言えません。あの資料は危うかった。けれど」
そこで言葉を切った。
「けれど、何ですか」
「あなたのお父さんは、信じたい人の目をしていなかった」
遥は息を止めた。
「何かを怖がっている人の目でした」
その言葉が、会議室の床へ落ちた。
父を怖がっていたのは、自分だと思っていた。父が壊れていくこと。父の名前が学界で笑われること。父と同じ血を持つ自分まで、手続きの外側へ押し出されること。
父自身が、何かを怖がっていた。
そんなことは、考えないようにしていた。
「付箋の裏」
葛西が小さく言った。
全員が彼女を見た。
「すみません。さっき、光が透けて見えました。裏にも字があります」
玖村は付箋を剥がそうとして、指を止めた。
「写真を先に」
遥が言った。
声はまだ硬い。だが、手順は戻っていた。
葛西が撮影する。表。斜光。付箋の位置。資料名。ページ。台紙。剥離前の状態。撮影番号。
それから、付箋は細いピンセットで持ち上げられた。
裏には、さらに小さな字があった。
《大学側に残らず。旧同僚が一箱預かったとの噂。箱の所在、未確認》
遥はその一文を読んだ。
父の資料箱。
大学側に残っていない一箱。
旧同僚が預かったかもしれない一箱。
それは突然、会議室の外へ続く細い通路のように見えた。今はまだ開けない。だが、確かにどこかへ続いている。
「誰ですか、その旧同僚は」
「記憶が曖昧です」
玖村は言った。
遥の目が細くなる。
「曖昧」
「逃げているわけではありません。十二年以上前の研究会で聞いた話です。名前を確認します。僕が持っている古いメールと、研究会名簿を当たります」
「今日中に」
「できる限り」
「できる限りではなく」
「今日中に」
玖村は言い直した。
遥は頷かなかった。頷けば、彼の曖昧さを一時的にでも許したことになる。代わりに、付箋を入れる保存袋のラベルだけを見た。父の名前は、そこでは黒いインクの数文字にすぎなかった。そう思おうとして、失敗した。
その時、隣の作業机で葛西の端末が短く鳴った。
誰も動かない一拍があった。
葛西が画面を見る。
「すみません。画像照合のバッチが終わりました」
その声が、途中で細くなった。
「一枚、増えています」
「増える?」
遥は席を離れた。
葛西の画面には、F1系列のサムネイルが並んでいた。発見時、露出状態、取り上げ前、下面。昨日から何度も見た並びだ。枚数も、ファイル名も、ハッシュも、控えと合っているはずだった。
一枚だけ、見覚えのないサムネイルがあった。
F1-027b。
小文字のbが、そこに貼りついている。
「この枝番、さっきの脚注と」
佐伯が言いかけて、黙った。
遥はサムネイルを見た。
暗い輪郭。丸い縁。中央に、空。
「開いてください」
葛西は動かなかった。
「葛西さん」
「私、これ撮っていません」
声が震えていた。
「撮った覚えがない、ではなく、撮っていません。F1-027の時、私は上から斜光の位置を変えていました。カメラは三脚。レンズは円盤の斜位。こんな角度、ありえません」
「開いて」
遥の声は低かった。
葛西がクリックした。
画面いっぱいに、写真が開いた。
それは、穴の底から空を見上げた写真だった。
周囲は黒い土の壁に見える。湿った層が幾重にも重なり、細い根のようなものが暗い縁から垂れている。上部には、円い開口部がある。そこから空が見えている。
青い空だった。
乾いて、高く、白い光が混じる空。
その日、青森の空は低い雲に塞がれていた。雨は弱まっていたが、昼までドームの屋根を叩いていた。そもそも、柱穴跡は覆屋内にある。底から見上げたとしても、見えるのは屋根と照明と養生材のはずだった。
空ではない。
「これは」
佐伯の声がかすれた。
「誰の視点ですか」
誰も答えなかった。
写真の下部に、黒緑色のものがわずかに写っていた。円盤ではない。円盤を見上げているようにも、円盤の影が底に落ちているようにも見える。判断できない。判断できないが、写真全体が、地面の下からこちらを見返しているようだった。
遥は口の中が乾くのを感じた。
「メタデータ」
葛西がすぐに表示した。
カーソルが一度、違う項目を選びかけた。葛西は息を吸い、両手を机の端へ押し当ててから、もう一度キーを打った。
撮影時刻。発見当日を示すD1、十二時二十三分四十一秒。
カメラシリアル。葛西のカメラ。
レンズ情報。F1-027と同じ。
GPSなし。撮影者欄、空欄。
「撮影台帳」
葛西は紙の台帳を開いた。
F1-026。十二時二十三分二十秒。斜位、北東から。
F1-027。十二時二十三分三十六秒。斜光、刻線右下。
F1-028。十二時二十三分五十秒。全体俯瞰。
F1-027bは、ない。
「RAWは」
「あります」
「サムネイルだけではなく」
「RAWも、閲覧用も、クラウド同期版にもあります。クラウドは昨日、同期を切る前の履歴に、なぜかこの一枚だけ差分として残っています」
「印刷物は」
葛西は机の横のクリアファイルを見た。
「昨日の時点で出したコンタクトシートには、ありません」
「もう一度出力」
「はい」
プリンターが動き出した。機械の音が、会議室の沈黙に不自然に明るく混じった。紙が一枚吐き出される。葛西が手に取る。そこには、F1-027bが印刷されていた。
「昨日のコンタクトシートと比べて」
遥が言うと、葛西はファイルを開いた。
昨日の紙には、F1-027の次にF1-028がある。今日の紙には、その間にF1-027bがある。紙の白さが違う。インクの匂いも違う。だが、並びだけが、過去の方を裏切っていた。
「削除しますか」
葛西が言った。
言った瞬間、自分で唇を噛んだ。
「すみません。違います。削除しません」
遥は葛西を見た。
葛西の目に、涙はない。だが、泣くより先に仕事へしがみついている顔だった。
「この仕事、好きなんです」
葛西は唐突に言った。
「土器片でも、写真でも、番号でも。誰が見ても同じように残せるようにするのが、好きなんです。私の字が汚くても、私が緊張していても、番号だけは残る。だから、これがあるのが怖い。私が撮っていないのに、私のカメラで、私の番号の間に入っているのが、怖い」
「削除しません」
遥は言った。
「今、消したら、消したという記録だけが残ります。消えたものの方が強くなる」
葛西は頷いた。
「RAW、サムネイル、クラウド同期版、印刷物、撮影台帳、監査ログ、全部を別媒体に確保します」
「監査ログのハッシュも」
「はい」
「この写真を、誰がいつ見たかも」
「記録します」
佐伯が机を回り込み、プリントされた写真を見た。触れないよう、両手を机の縁に置いている。
「この空」
彼は言った。
「D1の十二時二十三分ではありません」
「天候記録を見ないと断定できません」
遥は言った。
「ドーム内なら、そもそも空は見えません」
佐伯の声は震えていなかった。震えないように、現場の言葉へ戻している。
「見えるはずがないものが写っている」
玖村が写真へ近づいた。
彼はしばらく黙っていた。文献の言葉をすぐに出さない。その沈黙を、遥は初めて少しだけ信じた。
「水野さん」
「何ですか」
「これを、神話で説明したくなる人間は多いと思います」
「あなたも」
「僕もです」
玖村は認めた。
「穴の底から空を見る。天と地の境界が逆になる。柱が立つ場所で、空が地面の下へ入る。そういう読みは、いくらでもできます」
「では、しないでください」
「今は、しません」
その「今は」は、少しだけ誠実に聞こえた。
成田が電話を手に取った。
「警察へは、現時点では証拠保全上の相談に留めます。データ改変の可能性もある。県の情報管理にも連絡します。佐伯さん、センター側の夜間警備記録と、防犯カメラの該当時刻を」
「出します」
「葛西さん、あなたのカメラの使用履歴、メモリーカード、交換記録。責めるためではありません。守るためです」
成田はそこで一度、言葉を切った。
「ここで誰か一人のミスにしたら、次の公開判断も、証拠保全も、人も守れません」
葛西は頷いた。
「出します」
遥は写真を見ていた。
空が青い。
その青さが、ひどく無責任に見えた。豪雨の翌日の現場で、湿った土の底から、そんな空が見えるはずがない。乾いた光が、黒い縁を照らしている。縁の内側には、六つの細い影が落ちていた。
一度目に見た時、その影は左へ傾いていた。
二度目に見た時、少しだけ右へ傾いたように見えた。
「開いたままにしないで」
遥は言った。
葛西が画面を閉じる。
閉じた瞬間、遥は自分が息を止めていたことに気づいた。
「閉じても、なくなりません」
佐伯が言った。
「分かっています」
「では、何を」
「こちらが見続ける姿勢を、相手に合わせないためです」
自分で言って、遥はその言葉の奇妙さに気づいた。
相手。
写真に相手などいない。カメラの異常、データの混入、記録の錯誤、人為的な改ざん。疑うものはいくらでもある。
けれど、あの写真は、見られることを待っていたように見えた。
* * *
午後になって、佐伯が取り寄せた夜間警備記録に、手書きの付記が一つ混じっていた。
佐伯が確認に行き、戻ってきた時、顔色が悪かった。
「夜警の成瀬さんが、昨夜、夢を見たと」
「夢」
遥は眉を寄せた。
「記録に入れる対象ですか」
「普段なら入れません」
佐伯は言った。
「でも、今朝、葛西さんも同じものを見たような顔をしていました」
葛西が椅子から立ちかけた。
「夢を見たとは言ってません。まだ、誰にも」
会議室の空気が止まった。
佐伯は葛西を見た。
「すみません。成瀬さんから聞いた内容と、今の写真が似ていたので。葛西さんも、画面を開く前に顔色が変わった」
葛西は口元に手を当てた。
「穴の底にいる夢でした」
小さな声だった。
「暗くて、上に空があって。でも、空が遠いのに近くて。誰かが上から覗いている気がして、見上げたら、誰もいなくて」
「成瀬さんも」
「穴の底から、青い空を見たそうです。覆屋の天井ではなく」
遥は佐伯を見た。
「あなたは」
佐伯は少しだけ視線を落とした。
「見ました」
「いつ」
「昨夜です。配信後、夜間警備記録と展示室の状態を確認するためにセンターへ戻りました。展示室のベンチで、少しだけ眠ってしまって」
「なぜ言わなかったんですか」
佐伯は顔を上げた。
「夢だったからです」
言ったあとで、佐伯は唇を結んだ。
「また、私のところで止めたことになりますね」
「それは……佐伯さんだけじゃありません」
葛西が、口元に当てた手を下ろさないまま言った。
「私も、夢まで記録に入れるなんて思えませんでした」
二人の言葉を、遥は責められなかった。
夢は記録にならない。少なくとも、これまでの彼女の仕事ではそうだった。だが、同じ夢のあとに未撮影の写真が出てくるなら、資料の外へ捨てることもできない。
「聞き取りをします」
遥は言った。
「誘導しない形で。各自、別々に。見た順、見たもの、言葉、色、匂い、時刻。神代のフォームに夢を書いた人間がいないかは別に切り分けます。今この写真を見たあとでは、もう混ざっています。だから、混ざったという記録も残します」
成田が頷いた。
「夢まで文書にする日が来るとは思いませんでした」
「私もです」
遥は答えた。
「でも、文書にしないと、あとで夢だったことにされます」
その言い方に、自分で少しだけ怯えた。
父の言葉が、遠くでまた浮かんだ。
穴の形を見るな。
穴が何を止めているかを見ろ。
今なら、その先を思い出せそうだった。だが、思い出した瞬間に、何かを認めてしまう気がした。
* * *
夕方、気象解析の専門家へ照会することになった。
相手は真壁廉。民間気象解析会社の研究者で、以前、三内丸山の展示企画にも関わった人物だった。佐伯の端末に残っていた連絡先を見て、遥は学会の災害保存セッションで交わした短いやり取りを思い出した。怖い話にする前に、怖い数字を見てください。そう言った男だ。
「気象の専門家へ、何と送るんですか」
玖村が聞いた。
「写真の空が、当日の青森の空と一致するかどうか」
遥は言った。
「あくまでそこです。未撮影写真だとか、穴の底だとか、夢だとか、最初から送らない」
「写真だけで」
「撮影時刻、撮影場所として記録されている地点、当日の天候、雲量、日射、施設周辺のカメラ時刻、可能なら公的データと民間メッシュ。照会項目を分けます」
佐伯が、葛西の確保した時刻情報を添付した。
発見当日D1、十二時二十三分四十一秒。
F1-027b。
撮影者欄、空欄。
カメラシリアル、葛西機。
撮影台帳、該当なし。
「件名は」
成田が聞いた。
佐伯は少し考えた。
「写真内天候と記録時刻の照合依頼」
その事務的な件名が、かろうじて現実の側にあるように見えた。
メールが送信される直前、遥はもう一度写真を開いた。
短く確認するだけのつもりだった。
穴の底から、青い空が見えている。
黒い縁。湿った土。細い根。遠いはずの空。白い光。縁の内側に落ちた六つの影。
影の向きが、また違っていた。左へ倒れていたはずの二本が、今は開口部の縁へ沿うように寝ている。一本だけ、土の壁を這い上がる根と重なり、どこからが影で、どこからが根なのか分からない。
遥は画面を閉じなかった。
閉じられなかった。
「佐伯さん」
彼女は言った。
「はい」
「D1のその時刻、青森は」
「低い雲。弱い雨。少なくとも、青空ではありません」
「覆屋の中なら」
「空は見えません」
「柱穴の底なら」
佐伯はしばらく黙った。
「人は、そこにいません」
その答えで十分だった。
写真の空は、青森の空ではない。
その時刻の空でもない。
その場所から見える空でもない。
では、何の空なのか。
誰が、どこから、こちらを見上げていたのか。
会議室の外で、誰かの足音が廊下を通り過ぎた。普通の足音だった。靴底が床を叩く、乾いた音。その普通さが、写真の青さと同じくらい遠く感じられた。
送信ボタンが押された。
真壁への照会は、事務的な文面で送られた。
その直後、画面の中の空が、ほんの一瞬だけ明るくなった。
蛍光灯の反射かもしれない。
モニターの自動輝度調整かもしれない。
遥はそう考えた。
考えたまま、写真の黒い縁の向こうに、何かが手をかけているような気がして、しばらく目を離せなかった。




