砥019 溺愛する義子
ロッカ=ウィルコークスが喚び出してみせたスキラー・ブライオンについて、公式な発表はなされていない。混乱を避けるための当然の処置だ。でなければ、今日こうして大会を再開することも難しかったかもしれない。それでも、内心で不安を抱えている者は大勢いることだろう。
だが昨晩の実情を見た者たちが打ち出した予想では、心配は無用……ということになっている。
昨晩のロッカとの会話は全て記録されている。
その中で、スキラー・ブライオンは既に目的を達成したからか、さらなる犯行については消極的な姿勢を見せていた。
ゴーストの言動については一定の信憑性があるとはグリンダの言である。相手が意図的に陥れようとしているのでなければ、これ以上被害が拡大する可能性は低いだろう。専門家であるグリンダの意見に同調する者は多かった。
しかし、まだ完全に終息したわけではない。
スキラー・ブライオンの発言をまるまる全て鵜呑みにするのであれば、“あと一度だけ呼びかけに応じる”という不穏な一言もまた真実になってしまうからだ。
この世界にどれだけスキラー・ブライオンと縁のある者がいるのか。それはわからない。
もしかすると、既に誰かがどこかで喚び出したのかもしれない。あるいは、席で応援している最中のロッカが次の瞬間にも望んでしまえば、再びこの会場にスキラー・ブライオンが降臨するかもしれない。
対策本部は呼び出しを“空撃ち”させることも検討した。だがそれは速やかに却下された。不用意にスキラー・ブライオンを喚び出し即座に帰還させるということは、それは聖櫃内部に取り残された魔道士達を故意に閉じ込めることと同義であったからだ。
未来ある子供を故意に犠牲にできるのか? 立場上、その選択ができる者は少ない。
もちろん、不安定な現状については誰も歓迎していない。今も貴賓席や関係者席では、何人もの苦労人が睡魔に襲われながらも頭を捻っている。
できることならば助け出してやりたいのだが。さてどうするべきか。多くの者は人並みに悩むのだ。
しかし悩まない者も存在する。
「クライン。本当に干満街には戻らないのね……」
「当然です。ベルベット母さま」
貴賓席では、ベルベット=ユノボイドとその子であるクラインとが、今後の動きについて語り合っていた。
しかしクラインの中で既に目的が定まっている以上、説得は難しいだろう。血縁こそないが、ベルベットはクラインの自分にも似た頑固さをよく知っていた。
「前にも言いました。ここで帰った所でどうにもなりません。オレはまだ、ミネオマルタですべきことがある。……父さまであれば、きっとわかってくださるでしょう」
「……」
ラウド=ユノボイド。クラインの実父であり、概ね良き父であった。
冷淡なベルベットにもいくつか弱点がある。数少ないそれが、クラインとラウドの二人だ。
もちろんクラインはそれを解っていて名前を出している。使えるものであればなんでも使うのが彼の流儀だった。
「……そう。なら……私からは、何も言いません。嫡男としてユノボイドの名を背負う貴方の気高き姿勢は……母としてはどうであれ、誇らしく思います。……けれど、無理はしないで……?」
「もちろんです」
「……フランクスさん。クラインをよろしく頼みますよ」
「はい」
ベルベットはクリームのように力づくでの説得はしない。しかし、それ以外ではしっかりと根回しするし、万事滞り無いように整える。
以前からクラインにつけられた護衛のレティーも、ベルベットが雇ったものだ。護衛内容はクラインも詳しく聞いてはいないが、いざとなれば力づくで危険を回避させるだけのことはする契約であろうことは、彼もなんとなく察している。
高い金を払って雇い入れた凄腕の護衛だ。危険を前にして、我が身可愛さに逃げるようなことはしないだろう。
「クライン……また、クモノスに帰ってきてね……?」
「ベルベット母様。ついこの間まで居たでしょう」
「いつでも帰ってきて良いのよ。けれど……その前に手紙を出してほしいわ……お願いね……?」
「……ええ、帰る時には必ず便りを出します」
「速信でも良いのよ。旅費はどうにかするわ……」
「そこまで甘えるわけにはいきません」
「……そう……」
ベルベットはクリームの実母であり、ラウドの第二夫人だ。
大抵はそのような家族が形成された場合、少なからず家族内に不和が生じるものだろう。跡継ぎの問題もある。クラインのような立場は、少なからず脅かされるのが普通だ。
それでも家族は円満であった。ベルベットは血のつながらないクラインを心の底から心配しているし、愛している。
問題らしい問題といえば、クラインがクリームのことを壊滅的なレベルで嫌っているという一点のみ。
「ねえ、クライン……? ロッカ=ウィルコークスという、同じクラスの子のことだけれど……」
「……ロッカがなにか」
「いえ……少し、気になってね……」
クラインの背筋が少しだけ伸びた。
「シェレンスに調べさせたのよ……そうしたら、父方の情報は出たのだけれど。母方は、他所から来たのか……よくわからなくてね……」
「ベルベット母さま。なぜオレにそのような話をするのですか」
オペラグラスを覗いていた彼女が、ゆっくりと体を横に向ける。
幾つになっても美しい義母は、どこか普段よりも憂鬱そうな面持ちだった。
「……クライン。貴方には幾つも見合いの話がきているわ。……ミネオマルタの屋敷で管理しています。そこそこの量よ……一度、目を通しておきなさい……? シェレンスが手配してくれるでしょう……」
「……オレは」
「嫡男として、最低限の役目よ。クライン」
嫡男として。もちろん、クラインもその責任を投げ出すつもりはない。
「……はい」
すこぶる、気は進まなかったが。
「ユノボイド様、観戦中のところ申し訳ございません」
「あら……? 何かしら……」
「クライン=ユノボイド様。奥でご学友の方々がお待ちですが……」
男はそれを伝えるためだけに来たらしい。貴賓席は部外者の出入りを厳しく制限しているためである。
「ベルベット母さま。そういうことらしいので、オレは行きます」
「……観戦は、もう良くて?」
「はい。もう終盤で、見どころもありませんから」
「それもそうね……」
ベルベットはオペラグラスを折りたたみ、薄手のストールを巻き直した。
決して時間のかかる身支度ではなかったが、それでもせっかちなクラインの方が早かったらしい。
既に彼の猫背は足早に去っていくところだった。
「……シェレンス」
「は、奥様。なんでございましょう」
「クラインはいつのまにか……ラウド様のように逞しく、賢く、誇り高く育っていて……私は、とても嬉しいわ……」
「……そうでありますね」
「ええ……」
家令のシェレンスは基本的にイエスマンであったが、この時ばかりはさほど共感できないようだった。




