楔021 見果てる白昼夢
光の中を歩いていると、低く震えるような異音が聞こえてきた。
ひりつくような肌の感覚と、急激な温度差。そして先程まではほとんど感じることのなかった“香り”。
何か特徴らしい特徴があるわけでもないけれど、私はその香りを最近まで嗅いでいたので覚えている。
……競技場の匂いだ。間違いない。
次第に輝きで塗りつぶされていた視界にも輪郭や風景の色が戻り……。
「あれっ」
競技場に戻ってきたはずの私が目にしたのは、鈍色の金属で埋め尽くされた砦のような空間であった。
……おかしい。私は元の世界に戻ってきたんじゃないのか。
あれは嘘だったのか。ブライオンあの野郎、私にこんな、上げて落とすような嘘を……。
『動くな』
「ッ!」
低い電子音声が直上から鳴り響いた。
ドスの効いた、鋭く無骨な刃物のような声だ。思わず肌が粟立つような、とても心地良いとは言えない声である。
けれど今の私にとって、それが何であっても聞き覚えのある声というだけでも救いだった。
「か、風の将軍の……アックスさん?」
『! お前、ロッカ=ウィルコークスだな?』
「はい。そうです、ロッカです」
鉄柱の梁が縦横無尽に架けられている砦の上には、アックス将軍がいた。赤い眼光ランプがまるで猛禽のように輝いている。
『そこを動くな』
彼は私の姿を認めると高い梁からヒュッと降りてきて、私の目の前にズドンと着地した。
アックス将軍の機体は見るからに重々しい金属で造られている。着地の衝撃はそのまま地面に巨大な罅割れを生み出した。
なるほど、もし私が変なところに動いていたらあの罅割れみたいになっていたかもしれないわけか……咄嗟に飛び退くほどの気力も残っていなくて良かったかもしれない。
『ふん……』
赤い眼光が至近距離から私を射抜く。
値踏みするような、観察するような眼光の揺れ方だ。
『お前は術によって洗脳されている可能性がある』
「えっ……そうなんですか」
『お前を殺しお前を洗脳している者を殺す。悪く思うな』
「えっ」
その一瞬、ひゅっと音がして、気がつけば目の前に黒鉄の拳が止まっていた。
「うわっぶねぇ!?」
当然、腰が抜けた。随分とズレたタイミングで。
しかも尻餅ついて横倒しになるような間抜けた崩れ落ち方である。さすがの私もこんな無様な転び方をしたのは生まれて初めてだった。
『避けず反撃も無しか。少なくとも単純な洗脳にはかかっていないと見える』
「なっ……あ、危ないだろ! でしょう!」
『悪く思うな。こちらも今は臨戦態勢を崩すわけにはいかんのでな。……おい! 行方不明のメッセンジャーが戻ってきたぞ! 保護し治療させてやれ!』
突然よくわからない事態に包まれて何が何やらだったけど、アックス将軍の号令によって砦の中に駆け込んできた救護スタッフを見て、私はここでようやく“ああ、ここは安全なんだな”と実感することができた。
「大丈夫でしたか!? よく耐えましたね」
「我々は君からの手紙を把握している。何があったのかは大体わかっているつもりだ。さあ、行こう。君の友人たちが皆待ってるぞ」
「お、おう……いや、はい。あ、でもそんな肩とか貸さなくても大丈夫です。歩けるんでっ……」
慣れないくらい親身に対応してくれる救護スタッフの人達に左右を固められながら、私はそろそろと鈍色の砦を後にした。
砦に扉はなく、アーチ状の大きな入口があるだけだ。そこを潜って出てみると、今度こそ見覚えのある景色だった。
「うわ……ここ、競技場の中だったのか」
巨大な観客席がある。ただし人はほとんどおらず、警官らしき機人がいるだけの、寒々しい光景だ。
……どうやらここはラリマ競技場のど真ん中だったらしい。それも、観客が皆どこかへ行った後の。
振り向いてみれば、フィールドの中央にドンと鎮座している巨大な金属造りの砦がある。
高さは“砦のクレア”が最終局面で作り上げたものよりもずっと高く、三階建て以上はありそうだけど……あんな全部鉄でできた砦、どうやって建てたんだろう。
……まさか。
あんなものが経つくらいの時間を、私はあの世界で過ごしていたんじゃ……。
「あ、あのっ。今あれからどれくらい経ってるんですか。いや、あれっていうのは前の試合の時からで……」
「落ち着いて、まずは救護室へ行きましょう。まずはそこでチェックを受けてください」
「……はい」
過保護だと思いもしたが、さすがにそうなるか。
よくわからない空間に長時間閉じ込められてたんだもんな。もちろん色々聞きたくはあるけど、自分の健康状態は気になるところだ。
たかが半日とかそのくらいだし、水と食料はそれなりに摂取してあるから全然平気だとは思うけど……ブライオンの異空間? の魔術の影響とかが残ってるかもしれないしな。
専門家に診てもらうのが一番か。
競技場の人は、全員退場させられたらしい。
観客席がガラガラで警官や警備の魔道士しかいなかったのは、スキラー・ブライオンがフィールドに現れ、大騒ぎを起こしたせいだった。
大観衆の強制退場という名の避難にはそこそこ長い時間と労力が必要だったが、どうにか運営側はこれを乗り切ってみせたそうだ。
白昼の忙しい時に大通りに人が溢れ返ったせいで色々と小さないざこざも起きたそうだけど、当のマルタ杯で発生した事件に比べてばそれも些細過ぎる出来事だろう。
「特に異常は見受けられません。しかし、今日や明日は大事をとって静養されるべきでしょうな」
「はい」
ラリマ競技場の救護室で一通りの手厚い診察を受け、二人の医者から“健康に問題はない”のお墨付きをもらった。
清潔な蒸しタオルで顔や身体も綺麗にできたし、ひとまず最低限の不快感は拭えたといったところか。
けどこのままベッドに飛び込んで横になることはできないらしい。ブライオンの作り出した異空間、“横たわる永遠の聖櫃”でのことを偉い人達から根掘り葉掘り訊かれるんだと。
……一時間で終わればいいけど、無理かもしれない。
「ロッカ!」
「うおっ」
廊下に出ると、巡回する警備魔道士の他によく見知った友人たちの姿があった。
ライカン、ヒューゴ、ボウマ。会いたかった面々のホッとしたような顔がそこに並んでいる。
そしてソーニャは私を見つけるなり泣きそうな顔をして、勢いよく抱きついてきたのだった。
「よかった、無事で……!」
「……うん、大丈夫。心配かけてごめんね、ソーニャ」
「すっごい心配して待ってたんだから……」
「うん、待っててくれてありがとう。嬉しいよ」
ソーニャの華奢な肩をぽんと叩き、あやしてやる。
全く、私だってちょっと涙ぐみたいくらい嬉しいのに……こうしてソーニャに泣きつかれちゃ、参っちゃうよ。
「おかえりロッカ。フィールドの真ん中から間隔を開けて手紙が送られてきたから、状況は僕たちの方にも伝わってたよ。そっちではずいぶん長い時間だったみたいだね……おつかれさま」
「ううぅ、ロッカぁー……ソーニャ、次私にぇ」
『無事で良かった。恐ろしい思いをして、大変だったのだろう。それによく立ち向かったものだ。後はゆっくり休むといい』
ああ、良かった。やっぱり皆待っててくれたんだ。
……いや、疑う必要なんてないよな。皆、こんなことがあれば心配しないはずがない。そういう奴らだ。
「うわぁあーロッカ戻ってきたぁー」
「重い重い」
前からはソーニャが、後ろからは我慢のできなかったボウマが泣きついてきて、二人分の体重が疲れた身体にのしかかってくる。
いや、嬉しいよ。会えたのはすげー嬉しいけど、もうちょっとお手柔らかに頼むわ。本当に嬉しいけどさ。
「ロッカ。君は半日ほど……異空間に閉じ込められていたと。そう手紙に書いていたね」
「え、あ、うん。そうだけど」
「実はこっちの方ではまだ二時間も経っていないんだ」
「……えっ、そうなの」
半日、およそ十二時間を“聖櫃”で過ごした。それがこっちでは二時間しか経っていないってことで、えーっとつまり……。
十二分の二ってことか。
……ん? どういうことだ? なんか違うか? わかんねえ。
「観客の避難誘導、優秀な人達による犯人の押さえ込み作戦……まぁ色々と複雑だったり物騒なゴタゴタが多くてね。それも含めて、ロッカはこれから偉い人達から話を聞かされると思う。僕らも同席していいってことだから、一緒に行こう」
「……つまりええと、長くなるんだ」
「そうね。ロッカも大変だったでしょうけど、ロッカの話は偉い人たちが……特に監督席の人達が心待ちにしているでしょうから。もう少しだけ、頑張って」
ああ、眠いんだけど……しょうがない。大事な取り調べだ。やりきってしまおう。
……あれ、待てよ。そういえば足りないぞ。
「あの、ソーニャ。クラインはどこにいったの?」
「クラインは……先に避難したから、私達もよくわかってないの。もしかすると、これから行く部屋にいるかもしれないわ」
「そっか……」
ブライオンが引きずり込んできた時、最も間近にいたのはクラインだったはずだ。
けどあいつが無事でちゃんとここにいるなら、良かった。あいつだけ先に避難してたのはちょっと寂しい気もするけど。




