針003 愛撫する冷気
レモンの香りがする。
ぼんやりとした意識の中で、クラインはまずそれだけを知覚した。
爽やかで、優しい香りだ。
馴染みがあるかといえば、そこまででもない。しかし、悪い気はしなかった。
「まだ寝てるの……?」
ひんやりとしたものが、額に当たる。
何だろうかと視線を上げてみる。するとそこには、すっかり親しんだ相手がクラインの顔を覗き込んでいるのが見えた。
ロッカ=ウィルコークス。
彼女が心配そうな上目遣いでこちらを見ている。ひんやりとしたものは、彼女の右腕だったらしい。
「汗、かいてる」
「……!」
そのひんやりとした手が、額から頬を撫ぜる。優しげなその手付きに、思わず体が強張ってしまった。
目の前のロッカはその動きを見て、可笑しそうに微笑んでいる。
「くすぐったい? ……ほら、クライン。動かないで」
ロッカが身を乗り出して、すぐ傍までやってきた。レモンの香りが、より一層強くなる。
冷たい手がゆっくりと、擽るように首筋を通り、鎖骨をなぞった。
「……冷たい?」
「つめ、たいな……」
「でもひんやりしてて、気持ちいいでしょ?」
「うっ」
至近距離で微笑みながら、今度は冷たい右手を服の裾から滑り込ませ、腹を撫でてきた。
あまりにも普段と違った行動に、さすがのクラインも言葉を失ってしまう。
混乱する間にも、冷たい腕は肋骨や胸を擦り、体を冷ましてゆく。しかし同時に不可解な気恥ずかしさで、それ以上に熱くなってしまいそうだった。
「ほら、もっと服を捲り上げて……」
これは一体、何なのか。
どうしてこんな状況になっているのか。何故ロッカがこんなことをしているのか。
クラインが茹だるような思考の中で、懸命に答えを導こうと頭を回し……。
「はっ?」
そこで、彼は眠りから目覚めたのだった。
「あら、起きたのね。クライン」
クラインはベッドに寝かされていた。
呆然と辺りを見回すと、窓の外からは朝陽が射し込んでいる。
そして自分のベッドのすぐ傍らには、濡れたタオルを右手に持ったクリームがにこやかに彼を見ているのだった。
「昨晩は慣れないことをしていたみたいね。駄目よ、クライン。貴方はまだ成人になったばかりなんだから。もう、こんなに汗をかいて……」
「……ここは地獄か?」
「……まだ何か夢を見ているのかしらね?」
姉からの世話を心無い罵倒で打ち返したクラインは、当然のことながら手痛い重力魔術をその身に受けて悶絶することになった。
しかし今に限って、クラインは魔術によって頭を打ち付けた痛みよりも、夢と現実を最悪に近いパターンで取り違えた事のほうがショックだったのかもしれない。
「タイムティーよ。喉や胃が荒れているかもしれないから、飲んでおきなさい」
ベッドから起き出して、最初に供されたものはハーブティーだった。
ティーカップの中には濃い色の茶で満たされており、それがレモンに近い独特な香りを部屋に振りまいていたらしい。
クラインはそれを一口啜り、爽やかな辛さをしばらく口内に留めて、眠気覚ましとした。しかし意識をはっきりさせたは良いが、それゆえに欠落した記憶が厄介だった。
「……オレは、昨日……」
クラインの記憶は、昨日の途中で途切れている。きっかけはよく覚えていた。酒を飲んだのである。それは確かだった。
グログ。ラムを水で割り、果汁と苦味を付け加えた異国の酒だ。しかし、それを呷ってからの記憶が無い。美味かったような記憶はあったのだが、クラインはそれ以上を思い出すことができなかった。
「レティーさんが別邸まで運んでくれたのよ。これも仕事のうちだと言ってね?」
「……背負われたのか」
「眠っていたようだったから。紳士にあるまじき失態ね。しっかりフードを被せて、配慮はしてくれたみたいだけどね」
クラインは己の愚かさに、思わず顔を手で覆った。
護衛として雇っているとはいえ、自分と同じくらいの歳の女子に背負われて家まで運ばれるなど、旧貴族でなくともそれは恥に違いなかった。
「反省しなさい」
「する」
さすがのクラインも、これにはクリームの言葉を全面的に受け入れざるを得ない。
酒は過ちに直結する飲み物だと常々言われていたが、まさか自分がこうも容易くやらかすとは思ってもいなかったのだ。
ここはクラインが時々利用しているユノボイド家の別邸。中央部に存在する、彼の別荘のようなものだ。
家柄、ユノボイドの人々は何かと首都に滞在する機会も多いため、別邸とはいえどもかなり大きな屋敷である。
クラインは特異科なので男子寮の部屋も有しているが、たまに薬草の類を採取する際などはこの屋敷を使うこともあった。今回彼が運ばれてきたのは、酩酊状態を介抱をする人間を頼ってのことだったらしい。
「リゲルさんの護衛はスズメがいればどうにでもなるし、今は頼りがいのある監督者の方々も近くにいらっしゃるわ。だから私は、貴方の世話をしていたわけ」
「……家令は?」
「私が世話をすると言ったから、今はいないわよ。ベルベット母さまがいらっしゃるから、色々と忙しそうだしね」
クラインは小さく“そうか”とだけ呟き、タイムティーを飲み干した。
そして外の明るさと陽の角度を見て、億劫そうにため息をついた。
「着替える」
「昼まで時間がないわ。恥をかかないよう、しっかり身支度を済ませなさい」
「言われなくともわかっている」
「手伝うわ。クラインはいつも地味な格好なんだから、私が選んであげる。せっかくの式典だし……」
「うるさい。出ていけ」
「口のききかた」
「淑女たるもの紳士の着替えを覗くべきではない。さっさと出ていけ」
そう言われてはクリームも強く言ってやることはできなかったので、不満はあったが大人しく部屋を出ることにした。
今日の正午には、マルタ杯本戦の始まりを彩る大々的な式典が催されるのだ。
今はまだ午前七時を回ったところだろうが、クラスメイトの待ち合わせの時間はかなり余裕をもって設定されていた。それまで悠長にサラダを食んでいる時間は、残念ながらもう残されてはいないだろう。
「酒とは、恐ろしいな……」
時間に追われる感覚は久々だった。その点、酒を恐ろしく思う。
しかしクラインは、酩酊状態の高揚はともかくとして、昨晩飲んだグログの酸味と苦味は、また味わってみたいとも思っていた。
遠く離れた異国にある、他人の故郷の味。
あれを口に含んでよく味わえば、あるいは彼女の気持ちを一つ理解できるようになるかもしれない。
そんな興味と意欲が失われることはなかった。
「……またそんな野暮ったい格好をして。たまには正装に着替えたらどうなの?」
「オレはこれでいい」
結局、クラインはいつものよれた服で式典に臨むことにした。
クリームはその姿に顔を顰めて何度も着替えを促したが、クラインは頑なに頷くことはなかった。
きっと自分のクラスメイトだって、いつも通りの姿でいるのだろうから。




