擦001 回る火の手
坑道での火災は、しばしば重篤な結果を招く。
穴道自体が空気の通る煙突となり炎は巨大化する。そして炎より生まれる有毒なガスは低きに流れ、奥深くの作業者を殺すのだ。
数年前の出来事である。
鉄国を象徴する魔金の宝庫、鉱山連なるデムハムド地方。その連峰のとある坑道で、大規模な火災が発生した。
出火の元は、坑道奥深くで発見されたひとつの油ランプ。
その新米鉱夫が、火を出さない石灯ランプを使っていれば。
その新米鉱夫が、よく燃える赤陳の柱にランプを据えなければ。
その新米鉱夫が、柱に打ち付けられたランプ掛け用の釘が、腐り抜けかかっていることに気付けていれば。
あるいは、その悲劇は起こらなかったのかもしれない。
今や、全ては過ぎた事である。
「ん!?」
出火から二十分後。
岩に囲まれた暗窟の奥深くで、採掘中のヘイブル=ウィルコークスは大きな音を耳にした。
音には、聞き覚えがある。どのような喩えを浮かべようとも、経験が打ち出した残酷な答えからは逃げ切れない。轟いたそれは、最も不吉であろう落盤の音に間違いなかった。
彼は何十年間もツルハシを振るってきた自分の腕が強張り、柄を握る手は逆に力を失った奇妙な感覚を、今でも鮮明に覚えていることだろう。
腹わたを震わすほどの巨大な落盤の音に、ヘイブルはかつてない危機を悟る。
七年前にも落盤事故を経験した事はあったが、その時彼は、巨大な轟音を聞いても不安半分といった具合で、その場からなかなか動けずにいたものだった。
あの時には何もできぬまま愛する妻を失ってしまったが、今のヘイブルは違う。今の彼には、油断など一片もありはしない。
彼はただひたすらに、迷路のような坑道のどこかにいるはずの、娘の安否だけが気がかりだった。
「ロッカ!」
ヘイブルはツルハシを握り直し、坑道を駆けた。
腰に掛けたランプの仄かな光だけを頼りに、けたたましく反響する足音などは気にせず、一心不乱に走ってゆく。
すぐ先にある分岐路に出てみれば、数多の鉱夫たちの悲鳴がここまで聞こえてきた。
どうやら落盤の手前から、既に被害は大きいらしい。
デムハムドの坑道は長く、深く、広い。
風の吹き抜け道を含めても、大小様々な分岐がある。
ヘイブルは、この中からたった一人の娘を探し出す正道を引き当てなくてはならなかった。
火元は、どこだかわからない。
焦るまま分岐で立ち尽くす彼の背に、煤けた男がぶつかってきた。
男は目を半分やられているようだった。
「げほっ、げほっ」
「火元はどこだ!」
ヘイブルは全身煤に塗れた男の容態など後回しに、肩を掴んで乱暴に叫んだ。
娘の居所がわからないのであれば、今既に危険な場所に立ち入って、そこを探すのみである。ヘイブルは考えなしだが、その捨て身な考えも、今だけは偶然にも、合理的に働いていた。
「わがっ、わがらねえ。だが、俺が居たところは落盤で、もう駄目だ。決して近寄れるもんじゃねえ、ロヒトも死んじまった」
「崩れているのか!」
「柱が燃えたに違いねえ、煙の香もした。火事だ。早く、逃げねえと!」
煤まみれの男は咳混じりに叫ぶと、よろよろと走りながら入り口を目指して行った。
「あっちだな」
それに対して、ヘイブルは腹の中に決死の覚悟を決め、火の手と落盤の二重苦に苛まれているという修羅の道へと駆けだした。
再び大切な家族を失うなど、あってはならないことだ。
ましてそれが娘であるなど、そのようなことがあっては、ヘイブルはもう二度と立ち直れないだろう。
だから彼は火の元へでも、崩落間近の穴だろうとも、向かってゆかなければならなかった。
手に握ったツルハシは後悔の証。毎晩苛まれ続けた落盤の悪夢では手にすることができなかった、家族を救う手立てである。
しばらく坑道を下ってゆくと、次第に空気が熱を帯びてきた。
坑道が暑いのはしょっちゅうあること。しかし、肌を焼くようなこの熱は明らかな異常事態である。
「ロッカ!」
ヘイブルは叫んだ。
これ以上先に進めば、空気が薄いかもしれない。肺を焼かれるかもしれない。だからここで叫ぶのだ。
しかし、返事はない。ならば進むのみである。
「ロッカァッ!」
火の手に気付いた者は既に逃げ出している。
気付けなかった者は、既に死んでいるだろう。
ここに娘が残っている可能性などは無に等しかった。
それでもヘイブルの胸騒ぎは収まらず、熱風噴きつける中でも冷や汗が滝のように流れ、止まらなかった。
馬鹿なロッカが生きているとすれば、自分の身を案じて、声をかけてくるはずなのだ。
なのに未だロッカを目にしていない。ならば、ロッカに何かが起こっていると考えておかしくはないのだ。
ヘイブルは熱い空気の中で、叫び続ける。
「ロッ……」
「父さん……」
「ロッカ!?」
か細い声は聞こえてきた。
声のする方へと、ヘイブルは走る。
ヘイブルは喜びと共に、娘の姿を見る前から、既に安堵に包まれていた。
娘がまだ生きている。
ならば、何が起ころうとも、自分が捨て石になろうとも、死なせやしない。彼にはその覚悟があったのだから。
「ロッカ! 無事……!」
声のした坑道へ走り、熱さを増すその先の、仄かに赤く照らされた場所に出て、ヘイブルはようやく娘を見つけ出した。
「父、さん……」
最初は毒ガスにやられ、立てないものかと思った。
だが違う。娘は汗まみれの顔で力なくうなだれているものの、息はしっかり通っている。
娘のロッカは、左手に採掘用のピックを握り、倒れている。
「母さんの、形見の、デムピック……無事、だよ」
「ばか、馬鹿野郎っ!」
娘は、ロッカは右腕からおびただしい量の血を流していた。
ただ腕に怪我を負っているだけではない。肘の少し先からが、その一切が千切れ、無くなっていたのだ。
「馬鹿野郎、馬鹿野郎!」
少女を圧迫する岩を素早く砕き、解放する。
そのままツルハシを放り投げ、左手に長い灰色のピックを握って離さない少女を背負った。
姿勢を低く腰を落とし、切り落とされた娘の右腕を強く握り締める。
傷口は岩でやられたか、ひどく粗い、痛々しいものであった。
「馬鹿しやがって馬鹿野郎、馬鹿が、顔なんざちっとも似てねえくせに、馬鹿、そんな馬鹿なところだけ俺に似てんじゃねえ!」
柱がへし折れ、崩落を続ける火の元から離れるように、ヘイブルは中腰のまま出口を目指した。
右腕を失った娘が、医療の整っていない山で助かる見込みは低い。
それでも全力で走らなければならない。
力の限りに、妻を失った時の後悔に苛まれないように、肺を破ってでも走る覚悟で、ヘイブルは出口を目指し、駆けた。
やがて、慌ただしく鐘を撞く音が聞こえてくる。
もうじき、外だ。
痛みに意識を失いかけたロッカは、父の大きな背の中で、緊迫した甲高い音が子守唄のように安らかであった。
少女の記憶に刻み込まれた、忘れることのできない鮮烈な出来事である。




