籠023 落とされる蝿
「クラインが相手なら、私もリングで戦ってあげる。“ジック・デモン・オブリング”」
クリームという女性が軽く手を上げ、呪文を紡いだ。
すると手の上に、赤黒い霧のような不吉なエネルギーが生まれた。
陽炎のように向こうの景色を歪ませる血色の靄の中から、二つの指環が落ちて、彼女の手の中に収まる。
今、あの人は魔術で指環を出したのか?
それとも、鉄魔術か何かで、指環を作ったのか。いや、けどそれにしては、詠唱に鉄属性を使っているような感じではなかったし……。
「あれは、影魔術だよ。ロッカ」
「影魔術?」
かなり距離を置いている私よりも数歩後ろに下がったヒューゴが、二人から目を逸らさずに言った。
「空間、質量、距離……様々なものを操る属性で、ああして物体を手元に出したりだとか、生き物を召喚したりもできるらしい」
「生き物まで? 怖いな」
「かなり高等な属性術の一つさ。光魔術ほどではないけど、その修得は五大属性よりもずっと難しいと言われている」
「へえ……」
「それだけに、強い」
黒い石で作られた指環を装着した女性は、両手を前に突き出した。
クラインも似たような体勢で銀色の指環を構え、彼女と向かい合っている。
「無謀ね? クライン」
「……戦ってみなければ、わからない」
「そう。わからないなら、教えてあげなきゃいけないわね」
クリームという、どうやらクラインの姉らしき女性は、余裕そうに微笑んでいる。片や学園を騒がせるほどのクラインはというと、真逆の苦しげな表情だった。
「“イアノ・ウルク・ラグネルク”」
それでも最初に動いたのは、クラインの方である。
彼が軽く上げた両手が僅かに下がると、その両手からは小さな火球が地に落ちた。
燃え過ぎた煙草の火種を捨てるような、小さな仕草だった。
「うわっ」
しかし地に落ちた火球はそのまま消えることなく、逆に赤いかさを大きく増して、辺りに広がった。
クラインの膝下まで包むほどの業火は、波となって辺りを飲み込み続け、火の海を作ってゆく。
こちらにまで熱波を吹かせる、爆発のような火炎の増殖は、じきにクリームの元まで波及するだろう。
迫る火炎の波に、クリームは不敵に笑う。
「それだけ? “ジキア・テルドガッド”」
クラインと同じように軽く下げた手は、直径十メートル近く広がろうとしていた炎の海を唐突に消滅させた。
そして落盤のような轟音と共に、炎が広がっていた石のタイルに亀裂が走る。
「ぐうっ」
中央部に立っていたクラインも背を丸め、唸った。
「もっと頭を下げて謝りなさい」
「この、誰が……貴様に!」
クラインは何かの力に耐えている。それが何なのかは、私にはわからない。
けどクラインの周囲のタイルはどれも、次々に新たな亀裂や罅を走らせ、悲鳴を上げている。
彼が今受けている重圧はきっと、その見えざる何かなのだろう。
「“スティ・リオ・カトレット”!」
クラインは伸し掛かる重圧の中、両手を振り上げ、魔術を放った。
両手から生み出される三本ずつの大振りの曲刀が、回るたびに風を切る音を鳴らして飛んでゆく。
ところが曲がった軌道で左右から襲いくるそれにも、クリームは表情を変えることはない。
「“ジキア・テラノス・ギガロハンド”」
前に出した両手は軽く持ち上がり、見えないテーブルを叩くように振り下された。
石タイルの硬い床は、巨大な二つの手を叩きつけたように陥没する。
飛来していた六本の鉄剣も謎の力によって簡単にひしゃげ、芯を圧し潰されたそれらはすぐに消滅した。
隣のボウマはその光景に、ポカンと口を開けている。
「バケモノか」
クラインの呟きは、絶句する私達の心情の全てを代弁してくれた。
「化け物呼ばわり。平手一発ね」
化け物さんはお手上げをするように、振り下ろした両手を掲げる。
その距離、その格好からどうして平手なのかと問いたくなったが、陥没し圧縮された石レンガによる手形が宙に持ち上がったのを見て、ああ、と納得した。
「反省しなさい」
その巨大な石の掌が握れるものであれば、容易に人を押し潰せるであろう。
クリームの前で浮いていたそれらは無情な速さで飛び出し、クラインに掴みかかった。
「チッ」
しかし流石はクラインか、身体強化を加えた彼の動きは掴みかかる巨大な手の速度を上回っており、的確に二つの掌握から逃れている。
重い掌は直線的な勢いこそあるが、小回りは効かないのだろう。回りこむような最小限の動きで床を何度か踏みしめると、彼はすぐに攻勢へと転ずる。
「“イアノス”」
「ふん」
岩の平手打ちを何度か躱したクラインは、手を大きく横に振り抜いた。指環から作られる大きな炎の塊は、回避しながらの動きであるにも関わらず、正確にクリームへと投擲される。
だが奇襲は無意味と、クリームは右手の指を鳴らしただけで、軽々と炎をかき消してしまった。
「攻撃を落としてくるなら、上から攻撃するまでだ」
ところが隙を突いて放った炎さえ、防がれることを前提としたただの目眩まし。
クラインは強化を込めた脚で空中に高く飛び上がり、両手の指環を紫色に輝かせていた。
火球の対処のために魔術を使ったクリームは、二つの巨大掌のコントロールを失っている。
しかし次に魔術を完成させるのは、間違いなくクラインが先手。
イニシアチブはクラインに移ったのだ。
「“イグズ・ガラ・ガンダル”!」
「うふ、“ジキア・バルマトス”」
クラインの全身が青白い雷光に包まれ、振り下ろした手からその力が放たれる。
太く眩い雷は鋭い音で気を放ち、鼓膜を破りそうなほどの爆発音と共に雷はクリームへと落ちた。
「通らなーい」
「……!」
雷は、鉄以外の万物を破壊するものだと言われている。
打たれればどのような大木であっても炎と共に真っ二つに割られ、煉瓦造りの建物の屋根ですら破壊してしまうと。
ところが、クリームはその雷を防いでみせた。
いまだ雷気の押し寄せる破壊の力の塊を、不吉で不可思議な、赤黒い魔のカーテンによって。
「破れ、相手の術を、打ち消して……!」
「足りないなぁ、まだまだ、全然」
雷を照射し続けるクラインは、重力のままに地に落ちようとしていた。
高所からは正確に押し寄せていた雷も、真横へは容易く飛ばないのだろう。その力は見る間に失われてゆく。
「“ジキア・テルドガッド”!」
「ぐぁ!」
ついに力を失い、着地のための体勢を整えていたクラインは、見えざる力によってその僅かな隙を突かれてしまった。
不可視の圧力は石タイルの床にクラインを勢い良く押し倒すと、そのままうつ伏せの背中を圧迫し続けた。
「ぐ……!」
「こら、謝る時は頭を下げる」
「がっ!」
背中だけではなく後頭部にまで及んだ見えざる力が、クラインの顔を眼鏡ごと容赦なく地面に押し付ける。
もう行われるものは、一方的なものだった。
手出しどころか一言も制止をかけられなかった私達は、クラインのうめき声を聞いたこの時、ようやく動き出すことができた。
手を出したのはクラインが先だったこともあって、何も言えないし何もできなかったけど。
それにしたって、これはもうやり過ぎの範囲内だ。
『おい! クリームさんとやら、もう決まっただろう。それ以上はよしたらどうだ』
「そうですよ。そもそもここは屋外演習場です。対人への使用は……」
「何を? これはクラインへの教育ですよ」
「教育って……」
珍しくライカンも切羽詰まった様子だが、彼の野太い声にもクリームは手を退けようとしない。
それどころかクリームは、まだまだ魔術を使い続けることを堂々と公言してみせた。
「クラインは言うことを聞かないんです。皆さん、お友達? ごめんなさいね、私の弟が不出来なあまりに、ご迷惑をおかけして……」
「殺してやる……!」
粛々と礼儀正しく謝る女性の横では、小刻みに震える男が黒い声を漏らしている。
異様。ただその言葉だけが浮かんできた。
「クライン、これから私の事はクリームお姉さまと呼ぶように。わかった?」
「悪魔……」
「わ、か、った?」
「っぐあ……!」
「ほら、もう一度、はい」
「クリー……ム……お姉さま……!」
「うん、よく出来ました! やればできるじゃない!」
クラインから強引に引きずりだした返答に満足したのか、クリームの厳しい表情は本気の笑顔へと早変わりした。
それまで魔術に力を加え続けるスパルタな姿勢も不気味なほど一転し、地に伏したクラインの身体を優しく抱き起こしている。
「ほら、こんなに汚れちゃって……あら、髪にも砂が」
「……」
心が折れたのか、力を使い果たしたのか、多分後者であろうクラインは、体中の汚れや埃を無抵抗に払われ続けた。
その姿だけを見れば、まるで外で遊びまわってきた小さな子供の身なりを整えてやる母親のような慈愛にも見えるのだが、先ほどの闘いを目にした私達にとっては、少々狂ったものにしか映らない。
「はい、綺麗になりました。でも後でお風呂に入らなきゃ駄目よ」
「……」
クラインはぐったりと俯いたまま、何も答えなかった。
「あと、お友達と遊ぶのは良いけど、門限はしっかり守るようにしなさい。帰りが遅いみたいじゃない? 夜遊びはしちゃいけないわ。いいわね?」
クラインは肩と一緒に、がっくりと頷いた。
その見るからに不満そうな返事のどこに満足したのか、クリームは“よし”と微笑む。
「お友達の皆さん。ええと、あなたは確かヒューゴさんでしたっけ」
「あ、はい」
「遊びの邪魔をしちゃってごめんなさいね。もう、この弟がほんと不出来なばっかりに……」
「あ、はい、いえ、気にしてないですよ」
「この子、わがままでしょう? もう少し厳しく言ってあげないと全然わかってくれなくて……」
「いや、はい、大丈夫です」
代表でしどろもどろな受け答えをすることになったヒューゴには心底同情する。
今私はその他の友達として、努めて存在感を消してるけど。
「それでは、私はこれで失礼します。クラインのこと、よろしくお願いしますね」
「あっはい」
酷いんじゃないか、とか。教育方針はどうなってるんだ、とか。
色々と言いたいことや聞きたいことはあったけど、結局最後まで聞くに聞けなかった。
私達は上機嫌そうに去るクリームさんの背中を、嵐が去るのをうずくまって堪えるように見送った。
「……クライン、だいじょーぶか?」
大丈夫でないとはわかっているだろうボウマが、棒立ちするクラインの裾を引っ張り、揺らす。
メガネのレンズが二枚とも欠落したクラインは、唸るように声を絞り出した。
「いつか、絶対に倒してやる……」
クラインが絶対に倒さなければならない相手。
乗り越えるために力を蓄え続けるそのワケ。
それが今日この時、ようやくわかった。
何か聞いちゃいけないような、深刻で壮大な理由があるのだろうと思っていたが、なんてことはない。
ただの姉弟喧嘩だ。
クラインはただ、妹弟喧嘩に勝つために、その執念を燃やし続けていたのだ。
「……」
いや、まあ、なんか普通の喧嘩とスケールは全然違うし。色々と事情もあるみたいだけどさ。
けど、がくりと肩を落としたくもなるだろう。
なんなんだ、その理由は、って。
私達はこてんぱんに敗北したクラインをどこか遠巻きに慰めながら、口数少なめに学園を後にした。




