蟹討伐(1)
次の日はとても良いお天気で、絶好の海日和だった。
海まで遊びに行くと言ったら宿のお姉さんがお弁当を用意してくれて、あたしたちは海まで歩いていくことになった。夕刻までの時間を考えるとあまり長居は出来ないかもだけど。
「帰りが遅くなっても、まあ何とかなるよ」
いつもより少しだけ楽観的なガーシャ。
都から離れたところで黄昏時を迎えたらまずい気がするけど、ガーシャがいうなら大丈夫か、とあたしもアギもすんなり納得してしまった。
最悪、神徒が出たら倒せばいい。師匠には怒られるかもしれないけれど。
テラスが尻尾をふりふりしながら先導してくれる。
「ランカお姉ちゃんがいたら、海でもお魚釣ってくれたかなあ」
「ああいいね。ジンさんも誘って、いつかみんなで来てみたいね」
まだ見ぬ海に期待が膨らむ。
とってもしょっぱいらしいから、あまり泳ぐのには向いていないらしいけど、川と比べ物にならないくらい大きくて、広くて、たくさんの種類の生き物がいるらしい。
都の繁華街から外れると建物はまばらになってくる。防風用と思われる木が家を守るように立っている。
海沿いは風が強いのだろう。
「ここの港は氷見って呼ばれてるらしいね。他の都と結ぶ船も時々来るけど、基本的にここは都の中だし、そもそも内海だから漁船がほとんどだよ。水深が深くていろんな海産物が獲れるらしい」
ガーシャがすらすらと答えてくれた。
「特にね、夏前の時期になると光る生き物が波打ち際いっぱいに出るそうなんだけど、それがとっても綺麗だって話だよ」
「へえー」
いつの間にそんな情報を仕入れてくるんだろう。
ほとんどの時間を一緒に過ごしているはずなのに、不思議だ。
そしてようやく到着したあたしの目の前には、瑠璃紺色の海がいっぱいに広がった。
瑠璃に近い紺碧は深い水の証。もし覗いても深淵のように光を拒む色に恐怖を覚えてしまうかもしれない。この畏怖すら覚える深い水の中に、たくさんの生命が息づいているというのは不思議でならない。
晴れ渡る天色の空と瑠璃紺の海の境がくっきりと目に焼き付いた。
本当に、当たり前だが、見果てる先まで海なのだ。
感動に打ち震えるあたしを追い越し、アギは躊躇なく草履を脱いで海に足を踏み入れていた。テラスが追いついて、ばしゃんと海に飛び込んでしまう。
あたしも足袋を脱いでみると、足元のサラサラの砂が気持ちよかった。
おそるおそる海の水に足を入れてみる。
寄せては返す波で、足の下の砂がぞわっと動き、くすぐったくて思わず引いた。
もう一度、今度はくるぶしがつかるくらいまで足を進める。
ひんやりした水が迎えてくれて、なぜだかとてもほっとした。
「ナユちゃん」
近くまで来ていたガーシャが、海の水をつけた指をあたしの口に突っ込んだ。
舌がぴりりとしてびっくりして飛び上がった。
「何これ?!」
しょっぱいと聞いていたけど想像以上だ。
隣で、思い切りテラスに海水を駆けられたアギもぶへーっと吐き出していた。
「こんなところに魚が住んでるの?」
「うん、でも、川の魚とは全然違う種類だろうね。形は似てるけど……味はどうかなあ」
今日の夜は、町まで戻れたら海のお魚が食べたいな。
しばらく、波と、足の裏に感じる砂の流れを堪能した。
知らない色、知らない味、知らない感触、知らない風……初めて見る、知らない景色。
初めて山を下りて見果てる先まで続く平原を見たときから、心はずっと遠くに行きたがっていた。
ああ、そうか。
あたしはきっと、これからもこんな風にいろんな景色を見ていたいんだ。
「もっと、いろんな場所に行きたいな。いろんな景色が見てみたい」
「行けるよ。きっと行ける。一緒に行こう。どこまでも連れて行ってあげるから」
ガーシャのその言葉で、不意に未来を夢見てしまった。
どこまでもどこまでも、ずっと一緒に旅をする夢。
いったいどんな景色を見るだろう。見たことのない生き物に会えるだろうか。大きな都に、誰もいない深い森、暗い崖、洞窟、視界いっぱいの花畑。寒い地域で氷雪も見られるだろうか。舞い散る桜に紅葉、夕陽、満天の星空、まんまる浮かぶ大きな満月。
叶うはずのない未来が淡い夢として脳裏に鮮明に焼き付いた。
前にジンさんが言っていたっけ――この人の隣なら、きっと楽しいことが待ってると思ったから。一緒に未来を見たいと思えるような、そんな人に出会ったら。
理屈でなく、心だけは先に理解していた。
ガーシャの顔を見たら、胸がきゅうっと締まって苦しくなった。
どうしようもなく切ないこの気持ちに、みんななんという名前を付けるのだろう。
白く砕ける波が砂を覆い、消えていく。
「……行けるかなあ」
目的だった都に来たけれど、あたしの体質を何とかする方法が見つかったわけじゃない。
この先どうすべきかもわからなくて、どうしたら望むように平穏な暮らしが手に入るのかもわからなくて。
あたしの目の前には途方もない道が伸びていて、しかもどこへ進んだら正解なのかもわからない、真っ暗闇を進んでいるかのようだ。
アギとガーシャがいてくれるのは心の底から嬉しいけれど、優しい彼らの枷になるのは本意ではない。
だからと言って、別れてしまえるわけもない。
どうしようもない葛藤で体がばらばらになってしまいそうだ。
「大丈夫だよ、このままでも、オレとアギと一緒なら、神徒を狩りながらどこまでだって行けばいい。疲れたらお社の近くで休んで、都まで来たみたいにちょっとずつ進めばいい。師匠がいないとちょっと大変かもしれないけどね」
海を出て砂浜を走り回っていたテラスとアギが、あたしたちを呼んでいる。
「そろそろお昼にしよう」
胸の痛みを抱えたまま、差し出されたガーシャの手を取って砂浜に戻っていった。
砂浜から少し離れたところ、木陰に座っておにぎりを食べていると、女性が誰かを呼びながらきょろきょろとしているのが見えた。
どうしたんだろう。誰か探しているのかな。
ガーシャが立ち上がって女性のところに行くと、アギとあたしを手招きした。
手についていたごはんつぶを最後まで食べながら腰をあげる。
「この方の息子さんがいなくなったみたいなんだよ。さっきまでこの辺で遊んでいたみたいだけど……オレたち暇だし、一緒に探してあげよう」
その子の名前はコウキくん、橙のかすりの着物を着ている7歳の男の子だという。
もともとやんちゃな子でいつもそのあたりを駆けまわっているが、すぐそこの家から見える砂浜を離れることはあまりなかったそうだ。
確かに砂浜を見渡しても姿が見えない。
「オレはあっちの岩場見てくるね」
「俺は反対側行く」
「あたしはじゃあ、念のため海の方」
テラスはわふんと鳴いて、陸に近いところに駆けていった。
あたしは真言を唱えて、光玉を浮かべた。
考えたくはないけれど、海でおぼれている可能性もある。波打ち際を離れ、少し水深が深いところまで見に行くことにする。
橙色を探しながら、海の中を覗き込んだ。
深淵に触れるとこんな感覚だろうか。
底も見えない紺色に吸い込まれそうになる。
ただ、橙色が見つからないことに何処かほっとしながら、少しずつ移動していった。
―― ノウマク サ マン ダ
その声が聞こえて、ぞわりと背筋が粟立った。
海岸線から離れすぎた?
はっと見ると、陸地がかなり遠い。
まずい、戻らないと――
次の瞬間、海の中から白く発光する鞭のようなものが伸びてきて、あたしの腕に巻き付いた。
神徒だ。
足場は光玉しかない海の上、動きが封じられたらどうすることもできなくなってしまう。
逃れようとしたが、腕に絡みついた力が強くて振りほどけない。
じきに海からはその本体が姿を現した。
長い触手のようなものを何本もくねらせ、先のとがった細長い胴体が姿を現した。
こんなに大きいわけもないが、この生き物は本で見たから知っている。
「烏賊だ!」
逃れる前に二本目の足があたしの腹部に絡みついてくる。
あたしの記憶が確かなら、足は十本あるはず。
一本でこれほど強いのに、完全に絡みつかれたら、いや、それ以前にこのまま海に引きずり込まれたら……
「アギ! ガーシャ!」
陸に向かって助けを呼びながら、早口で真言を唱える。
腕に絡みついている烏賊の足に指を添えて。
「『撃て』」
腕に衝撃があって、絡みついていた足を切り落とすことができた。
残った部分も人型の紙に戻り、はらはらと落ちる。
あとはお腹に絡みついている方も。
指で狙いを定めようとしたとき、別の足が絡みついてきた。掌を包むように握られ、動かせない。
次の足に絡みついて体勢が崩れる。
そのまま足を引っ張り上げられ、宙づりになってしまった。
胴体と足の間にある赤黒い巨大な眼球がこちらを見ている。
烏賊の口ってどこにあるんだっけ。
神徒に喰われることを想像した刹那、目の前に猩々緋色の衣が翻った。
そして、目の前の烏賊は盛大にはじけ飛んだ。
目の前が真っ白な人型の紙で埋まり、一瞬の浮遊感。
光玉の発動も間に合わず、次の瞬間には水面に叩きつけられていた。
水音と泡の弾ける音、ごぼごぼごぼと息が漏れていく。
周囲は瑠璃紺色で、先ほど恐怖を覚えた深淵そのものの色をしている。
塩の水が目に染みて、思わず目を閉じてしまった。
どちらが上かわからない。
泳げないわけではないのに、恐怖で体が動かない。
助けて。
怖い。怖い。
誰か――
「ナユタ!」
力強く引っ張り上げてくれたのは、アギだった。
勢いよく息を吸って、思い切りせき込んだ。
「無事か?!」
「……だいじょう、ぶ」
生きてはいる。
でも、目が痛い。鼻が痛い。口の中も塩味で痛い。痛みで涙も止まらないし、気持ち悪いし、最悪。
海なんてキライ。
アギに抱えられて海岸へ戻る。
「……今日、ちょっとガーシャが変だな」
「え?」
「神徒が出る可能性あったのに楽観的だったし、神徒が出るかもしれないのにナユタと別行動するし、神徒が出たのにすぐ来ない」
言われてみれば。
うぬぼれでなく、ガーシャの過保護を浴びている自信があるので、確かにそれはおかしいと思う。
でも、アギはそれ以上言及せず、海岸線までたどり着いた。
砂浜に着地した頃にようやくガーシャが駆けてきた。
「ごめん、間に合わなかった。二人とも大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ。目が痛くて涙止まらないし、鼻の奥が痛すぎるし、口の中もしょっぱい」
ブーブー文句を言ったが、元気そうでよかった、と流された。
理不尽。
近くの川の水で顔を洗って、ようやく少し落ち着いた。
でも、顔がぴりぴりする。そもそも川も海に近いからちょっと海水が混ざってる気がする。
ガーシャは手ぬぐいであたしの頭を拭きながら、岩場の方を指さした。
「あっちに洞窟があったんだけど、奥が広そうで……もしかしたら中にいるかもしれないから一緒にきてくれない?」
「いいよ」
あたしはすぐに頷いたけど、アギはちょっと怪訝な顔だ。
さっきからガーシャが変だって言ってるし、何か気になっているのかなあ。
それでも3人連れ立ってガーシャが見つけた洞窟の方へ向かった。
「今は半分隠れちゃってるけど、干潮の時だけ入れそうなんだよね。もしかして、中に入ったら水かさが増えて出られなくなってるのかなあと思って」
「じゃあ、あたしが見てくるよ。どうせ濡れちゃったから、潜っても気にならないし」
海水は大嫌いなんだけど、仕方ない。
「俺も行く」
アギもどうせ、びしょ濡れのあたしを抱えてたから濡れている。
「じゃあ、オレも行こうかな」
結局みんなで行くことになり、あたしの肩くらいまである深さの溝に入った。確かにこの先、洞窟になっているようだ。
途中で頭まで沈みそうになりながらもなんとか中にたどり着いた。
これは確かに、小さい子が満潮で外に出るのは難しそう。
細い溝を抜けると、その先は少し広い空洞になっていた。
さらに奥へ続いていそうだ。
ガーシャを先頭に、あたしとアギが後ろに続く。
「……なあ、ガーシャ」
「なあに? アギ」
アギの声に、ガーシャは足を止めずに返事した。
どこへ道が続いているか確認しているようだ。
上に割れ目か隙間があるようで、真っ暗ではなくかすかに辺りが観察できる。
「今日、なんかお前、変だぞ?」
あ、本人に直接聞くんだ。
「神徒が出るとわかってて放置したし、神徒がきてもすぐにナユタのところに来なかったし、それに、この洞窟に入ったわけでもないのに、奥まで続いてることを知ってただろ」
だって、着物が濡れてなかったもんな。
アギの言葉でガーシャは足を止めた。
確かにそうだ。ここに入るには海につからなきゃいけないけど、ガーシャは入った形跡がなかった。
「何か隠してないか? お前たまに、一人で抱え込むだろ。またややこしいことを考えて、俺たちに負担をかけないように無理してないか――?」
アギが問う。
「俺はお前ほど賢くないけど、何か困ってるなら助けてやるから、ちゃんと話せよ」




