第九話 入社希望
とにかく、霧奈の「外に出ればわかる」という言葉の意味はある程度身体で理解出来た。
この街は悪い言い方で表すならば終わっている。宿から外に出たら矢で射られるだなんてまともな環境じゃない。
昨晩特に騒音などを感じなかったのは単に運が良かっただけらしい。
「一回中に戻っていい?」
霧奈が言った。少し困惑している様子なのは不思議だが、反対する理由はない。
快太が頷くやいなや彼女が扉を閉め、そして乾いた刺突音が鳴った。あまりにも自然に耳へ入り込んできたがために最初は違和感を覚えなかったそれは、本来聞こえるはずのない音だとすぐに気がついた。
よくよく扉を見てみると、僅かに何かが飛び出ている箇所がある。おそらくは扉が閉まっていく光景を見るや否や攻撃者が急遽放った矢が貫通しかけているのだ。殺意が凄いな、と快太は思った。
「本当にごめんなさい」
振り返ると、そこでは霧奈が申し訳なさそうに謝っていた。
「いや、謝らなくていいよ。言葉で知るよりもよくわかったし」
光の壁の出現以降、世界の治安は劇的に悪化した。
日本も例外ではないとはいえ、壁から最も離れている国であることが幸いしてか、地域にもよるがなんだかんだでまともな生活を送る上では実はあまり困らない。
しかし壁との距離が近い国に関しては、壁が視認出来ることによる人心の不安も相まって本当に酷い有様らしい。二十歩に一度死体が視界に入り込むだなんて話も聞いたことがある。
先程の一瞬でこの街からもそれらの国と同じような雰囲気を感じた。あの子供の現状についてもある程度は想像がつく。
「まだ予想でしかないけど、多分あの子はストリートチルドレン的な感じなんでしょ? 逃げ出すのもわからなくはないよ」
今思えばあの子供の服があちらこちら破れていたのは蓑虫の所為では無かったのかもしれない。もっと単純に、服を購入する余裕がなく使い古さざるを得なかったのだろう。
「まあ、確かにわたしが伝えたかったのはそんな感じのことなんだけど、でも矢があんな風に飛んでくるのは予想外だったから……やっぱりごめんなさい」
「別に良いのに……」
「そうもいかないわ。……あと一応言っておくと矢が飛んで来たのは単に治安が悪いことだけが原因という訳ではないの」
「あ、そうなの? じゃあ今日だけ何か特別な事情があるとか?」
「いや攻撃自体は日常茶飯事よ。ただ今日の矢は頭を狙ってきたでしょ? 普段は精々威嚇射撃だから……そういう意味では今日だけの何かってのもあったのかも」
「攻撃自体は日常茶飯事なの……?」
やはりこの街は終わっている。
「で、結局攻撃される別の原因っていうのは?」
「それはこの街の人達の余所者に対する憎悪ね。まあ攻撃されるくらいだから当然といえば当然だけど、例えばわたしはこの街で今のところ水一本たりとも売ってもらえていないわ。この宿が無ければ干からびてのたれ死んでいたと思う」
「ええ……。理由は?」
「全く教えてくれない」
「そりゃそうか」
対等な関わり合いであるはずの売買が成立しないような人間が相手ならば、こちら側が下手に出ている質問という行為が上手くいく道理はない。
「……とにかく今日は外に出ない方が良さそうね。行動するのは明日以降にしましょうか」
「え? ……ああ」
「部屋に戻る前にこれだけ渡しておくわ」
その言葉と共に霧奈が取り出したのは、久方ぶりに目にする“何か”であった。相も変わらず気味の悪い質感をしている。
「側に落ちていたし、キミのでしょ?」
「まあ、そうなるか。ありがとう」
「ちなみにそれ、何か知ってるの?」
「いや全く。なんか家に落ちてた」
「……それはファンタジウムと呼ばれる金属よ。その性質は色々あるのだけれど、簡単にまとめると『ありとあらゆる面で人間に都合の良い物質』となるかしらね」
「へぇ……これがねぇ」
快太は彼女から受け取った“何か”、ファンタジウムとやらをまじまじと見つめた。
当然ながら自分はこのファンタジウムに好印象を持っていない。帰るために必要になる可能性がなければ適当に廃棄しているところだ。
「じゃあ、また明日」
そんなことを考えているうちに、気づけば霧奈はこちらに背を向けて歩を進めていた。どこに位置しているのかは知らないが、彼女自身の部屋へ戻ろうとしているのは明らかである。
「……」
その場に残された快太は考えていた。彼女の「また明日」という言葉の意味について、だ。今の自分は全てにおいて彼女の世話になっている状態にある。日を新たにして話したとて、西半球に関して無知な自分が生産的で有用な意見を出せるはずはない。
彼女からしてみれば面倒を見ているからにはせめて何かの役に立って欲しいと考えているのかもしれない。しかし、だとしてもあまり期待はしないで欲しい。
また、単なる親切心ということも一応はありえる。短い時間ながら今まで関わってきた感覚だと、むしろこちらの方が真実に近いように思う。
まあ、いずれの場合にしても自分の感情は共通している。
出来る限り役に立ち恩を返したい。
さて、自分には何が出来るだろうか。
『人と仲良くなるのは得意だろ?』
突如声が聞こえたような気がした。
「……そうだね」
死んでもなお、心の中の貴方は指針であってくれる。
快太はパーカーの衣嚢にファンタジウムを落とすと、軽く息を吐いてからおそるおそる扉を開けた。
矢を警戒しながら少しずつ身体を外に出していく。会話さえ出来れば攻撃者との間にも一定の関係を作れる自信はあるが、それは裏を返せば問答無用の攻撃に対して自分が無力であることに他ならない。安全確認はやはり必要だ。
「……」
結論から言えば幸いにも矢は飛来しなかった。
快太は扉を開ける前のものとはまた異なる息を吐き出すと、警戒を緩めぬままに歩き出した。先程は余裕がなくあまり見えなかった街の姿が視界に入り込む。
「……うん」
正直なところ、あまり綺麗な光景ではない。忌憚なく言ってしまえばスラム街のような雰囲気をしている。ところどころある程度整備された明かりのついている建物が見当たらないでもないとはいえ、目に入る光景の大部分を占めるのは荒れに荒れた廃ビルだ。
明かりのついた建物からも周囲の状況の所為か却って寂れた印象を受けてしまう。
美しいという感想を抱けるのは、遠くに一棟だけ見える巨大な純黒色の建物のみである。
「さて……」
まずは金策から始めなければ。今現在自分の裁量下にある物品の中で最も価値の高そうなものといえばもちろんファンタジウムだろうが、これを手放す訳にはいかない。
つまり自分が金銭を手に入れる唯いいの方法は単純に労働ということになる。
「これかな」
そんな思考を踏まえた上で改めて周囲を見直した快太の目を引いたのは、一枚の黄色く日焼けした貼り紙であった。『酒場、人手募集中、すぐ隣』とだけ書かれている。実際隣の建物には他のものと比べた時あからさまな手入れされた後が残っており、人間が常日頃使用している建物独特の雰囲気がある。
もしかすると既に募集は打ち切られているかもしれないが、まずはとにかく話を聞いてみるべきだ。
快太は服の襟など細かな身なりを整えた上でその建物の扉を開けた。
「いらっしゃ……」
尻窄みに小さくなっていく出迎えの挨拶とは対照的に、声の主であるおそらくは店主だろう中年女性の目付きは見る見るうちに険しいものへと変化していった。
小太りな体型を始めとした容姿からはいわゆる『おばちゃん』という言葉を連想するが、しかし『おばちゃん』という言葉から受ける約束された人格者のような印象を、彼女はまるで持ち合わせていない。
「……なんの用だい?」
実際、その体躯からは想像も出来ないほど足早に近づいてきた彼女の放つ空気は好意とは程遠いものだった。
少し気圧されはするが、だからといって引き下がっては意味がない。快太はおそるおそる口を開いた。
「外に貼り紙があったので……働かせてもらえないかと」
「ええ!?」
威圧、ないしは威嚇。そんな返答ですらない大声だった。
なんとなく馬鹿にされている気がして、胸中を独特の不快感が満たす。苛立ちを無理矢理に抑えたが故のものだ。
「いや……外の貼り紙──」
「──ええ!?」
二度目にして確信出来た。馬鹿にされている。霧奈の言っていた余所者に冷たい風潮が表れているのだろう。
「だから、外の貼り紙に書かれている通りに」
「おい」
内心祈っていた三度目の正直とは成らず、それどころか結果としては背中を乱暴な殴打を喰らうこととなった。
苛立ちから歪んでしまった口元を整えつつ振り返ると同時に目に入ったのは、複数人の男性だった。
顔は赤く、身体は不安定に揺れており、あからさまに酔っ払っている。
「わかんねぇかよ? 邪魔ってんだどっかいけ」
「そうだそうだ」
「他所から来た奴らはどいつもこいつも……」
「そういう奴らがこの街を今みたいに」
「出て行け」
一言何か口にする度に彼らは腕を振り上げ殴打を喰らわせてきた。
気づけば自分は地面へ倒れ込んでおり、ただ殴られ、足蹴にされるがままになっていた。
次の瞬間突然頭が冷えたのも決して平静になったからではなく、上からかけられた液体の所為だった。強い匂いが液体の正体は飲み差しの酒であると教えてくれた。
「……」
痛くないと言えば嘘になる。だが歯を食い縛れば耐えられない程ではない。彼らも内心では自分達のしていることは理不尽だとわかっているのかもしれない。その上で、八つ当たりをせずにはいられないほどの事情を抱えているのかもしれない。
また、わざわざ関わろうとした自分にこそ非があるという考え方も一応頭の片隅には潜んではいる。薮の蛇に襲われたのならば、突いた者も原因を有してはいよう。
心の底からの真なる善人ならばこのような時何を思うのだろう。
「……」
思考が散漫としつつある。苛立ちが表情に浮かばぬよう物を考えて誤魔化すのにも限界が近いようだ。快太は深く息を吐いた。
ゆっくりと立ち上がり、つい先程まで自分に暴力を振るっていた者、それを止めもせずただ眺めていた者一人一人に特に意味もなく視線を向けた。
「な、なんだよ」
全員嫌いだ。目の前の人達にどんな事情があろうと、自分には全く関係ない。理不尽な暴力を振るわれたという認識が苛立ちを助長し、苛立ちがその認識を更に確かなものにする。
ひたすらの侮辱の意思と濡れて惨めな様子となった身体が不快で堪らない。
これから先どんなに親交を深めようとも自分が彼らに完全な好意を持つことは未来永劫ありえないと断言出来る。しかし、彼らと仲良くならずしては目的は達成出来ない。
こんな状況の下で自分の話を聞いてもらうためには、彼らの心の外側を包んでいる殻を壊すためには、言葉の紡ぎ方が肝要だといつからか知っている。
快太は彼らに背を向けると『眺めていた』側である中年女性へ頭を下げた。
「ここで働かせてもらえませんか?」
視界は汚れた床で埋め尽くされている。故に具体的にはわからない。
ただ、感覚はあった。