四話 ゴブリン
「イルム様ー最初の目的地、ソハエムスに着いたみたいですけど、あれどうします?」
アミネが指差す先には、岩山の合間にある高い盆地に築かれた都市があった。
それを囲む岩壁をくり抜いて作られた城壁と、盆地への道が通る山の隙間を塞いだ木造の門楼が、威圧感を放っている。
そして――
「攻城戦の真っ最中だ……ゴブリン同士で戦争やっているのか……」
イルム達が遠目に眺めるソハエムスの街は、至る所から黒煙が立ち昇り、ゴブリン達が互いに武器を振るって血を流していた。
よく見れば、城門を突破して攻めかかっている方のゴブリンの軍勢が、圧倒的に押している様で、時折為す術無く命を奪われていく、防衛側と思しき非武装のゴブリンも見受けられる。
「ナリカラに駐屯していた魔王軍は何してるんだ、内戦状態じゃないか」
イルムは怒りを混ぜた呆れ声を出すが、それに間延びした声の答えが、目の前の御者台から返ってくる。
「そりゃここで軍政敷いてた魔王軍は、昨年に人間の軍とやり合って壊滅してますからね、ゴブリンも好き勝手やりますよ」
「……初耳なんだけど」
「私も急にそう伝えられただけで、イルム様に知らせろとは言われてませんでしたし、まさかここまでとは思ってなかったですねー」
イルムは大きく息を吐き出して、首をがくりと落とした。その時ソハエムスから、邪悪な歓声が響く。
町を埋め尽くす、返り血に染まったゴブリン達が、鮮血で真っ赤な武器を掲げて雄叫びを上げ、勝利を宣言する。
さらに軍旗の代わりか、羽根飾りが付けられた大型動物の頭蓋骨を棒の先に縛り付けた物が、盛んに振り上げられていた。
「今日はソハエムスに滞在して現状報告を受けて、明日はリオニの総督府に向かう予定だったのに、どうするよこれ……」
イルムは頭を抱えたが、すぐに無表情で背筋を正した。
「よし、ファウダーへ報告に戻ろう」
「何言ってんですかこの野郎。取り敢えず情報を得に、ソハエムスを占領したゴブリンに話を聞きましょう。堂々と名乗れば、流石に新総督を無下には出来ないでしょう」
「お、お待ち下サイ!ソレは止めた方がよろしいカト!」
イルムとアミネの会話へ突如、片言なところがある魔族共通語が飛んで来た。
主従の二人が顔を向けると、あちこちが汚れた前開きの服を着たゴブリンが立っている。
先程襲撃して来たゴブリン達とはまるで違う、日に焼けた小麦色のまあまあ整った顔は、焦燥と僅かな安堵が混じった複雑な表情をしており、後ろにも戦塵に塗れた大勢のゴブリン達が、疲れ切った様子で座り込んでいた。
「ワタシは、ソハエムスを治メル――」
『ちょっと待って、共通語じゃなくてゴブリンの言葉で構わない。こっちは言語魔法があるから』
独特なゴブリンの言葉を操るイルムに、魔族共通語で喋っていたゴブリンが目を丸くする。
独特な響き過ぎて、言葉とは認識出来ていないアミネは小さく溜息を吐き、自身の主に聞こえない様に呟いた。
「何で基本的な魔法も満足に出来ないのに、高難度の言語翻訳魔法だけは使いこなせるのかなぁ」
呆気に取られていたゴブリンは、軽く頭を振ると再び口を開く。紡がれる言葉はゴブリンの言葉だ。
「私はソハエムスを治める氏族、オルベラの長にして府主教、クムバトと申します。お待ちしておりました、ナリカラ総督閣下」
クムバトというゴブリンは、丁寧に頭を下げる。その所作からは高貴な気配を感じさせ、野蛮で知能が低いというゴブリンの風評とは掛け離れていた。
「オルベラ氏族といえば、最も魔族に従順なゴブリンの勢力と聞いている。それがどうして」
イルムは煙と雄叫びが上がるソハエムスの街並みを指差す。
「ああなっている?」
「ソハエムスを落としたのは、予てから魔族の支配に反発していた氏族ザリャンです。ご存知かも知れませんが、ナリカラを統治していた魔王軍は、ナリカラへの侵入を図る人間達を撃退後、反攻に出たところを返って逆撃され壊滅。魔王軍による統制が崩壊した結果、各々の氏族が群雄割拠する事になってしまい……」
「ナリカラは南西部の支配者スブムンド公の属領でしょ? 状況の報告や援兵は?」
「使者を度々出しておりましたが、恐らく……」
ザリャン氏族の手勢に補足されたのだろうと、クムバトは苦々しく首を振った。彼は真っ直ぐな鼻筋を持つ、やや端正な顔を歪ませて跪き、イルムに懇願する。
「御願い致します総督閣下! どうか、どうかソハエムス奪還の御助力を! ナリカラに安寧を!」
小さな頭を地面に押し付け、喉を震わせてどうか、どうかと呻き続けた。彼の背後に座り込んでいたゴブリン達も、同じ様に頭を下げて訴える。
「総督閣下!」「故郷を取り戻したいのです!」「どうか……」「ザリャンは他氏族を悉く隷属させているのです、このままではオルベラも……」「閣下!」
イルムは眦を下げて、彼らから視線を外し、下唇を軽く噛む。元々彼はナリカラ総督の任に対して殆ど意気は無かった。
母を亡くし、生前の魔王に遠ざけられて以降、好きに書を読み耽るか、人間の街にお忍びで潜り込む気ままな毎日を過ごしている所へ、情勢不透明のナリカラ統治を押し付けられたのだ。貧乏籤を引かされたという思いしかない。
現状を知った今、正直ファウダーに帰って総督職を返上したいが、こうして必死に懇願されてしまえばそうも言えなくなってしまう。
イルムの逡巡を見たアミネは、彼にとって非情な言葉を囁いた。
「……ファウダーで、ドゥルジ殿下がイルム様の御帰還を楽しみにしているそうですね?」
「うっ」
これにはイルムも呻き声を漏らす。イルムにとって異母兄であるドゥルジは大の苦手な相手である。
他の異母姉と異母兄、ピュートーンやアポピスは基本的に無関心を貫き、あまり関わって来ない分まだ気楽だったが、ドゥルジはイルムに人間の血が流れている事や、魔法も身体能力も魔王の子でありながら魔王軍幹部にも劣る事を論って、度々イルムを精神的に追い詰めていたのだ。
イルムはナリカラへ向かって、ファウダーを発つ日の出来事を思い出す。
あの日、イルムは五公会議の場で行われた、ナリカラ総督への任命式を終えて城から出るところを、城門で待ち構えていた魔族の青年に話しかけられた。
「これはこれは、庶子殿じゃあないか」
イルムはその声にびくりと肩を震わせる。
どこかぬらりとした印象を与える銀の長髪に、イルムの白肌とは対照的な黒炭の肌を持つ青年、ドゥルジはイルムとはまた違う紅い瞳を嘲笑の形に歪めた。
「大した力量も魔力も無い半端者が、僻地のナリカラとはいえ総督閣下とは出世したねぇ」
「……ドゥ、ドゥルジ殿下の御立場とは、く、比べるべくもありません」
イルムはどもりながらも、臣下としての礼で答える。
ドゥルジの地位は魔王の第一子にして、人間諸国での近衛指揮官に相当する、魔王軍ファウダー守備隊司令なのだ。
イルムにとって、ナリカラ総督になったといえども、血縁も立場も上の存在だった。
「固い固い、兄弟なんだからもっと親しく!」
そう高い声色で言って、イルムの目の前に女性になったドゥルジが立つ。
一瞬黒い霧に包まれたかと思えば、女性の身体的特徴が強調された、多くの者が魅了されるであろう魅惑的姿になったドゥルジを、イルムはこれから無理矢理虫を口に入れられるかのような、恐怖と嫌悪感に染まった顔で見る。
「弟の出世を祝いに来たんだよ、本当に総督就任おめでとう」
ドゥルジの口調は親しげだが、表情は大いにイルムを嘲っていた。音も無くイルムの横へ立つと、口を耳に寄せて囁く。
「いつでもここに逃げ帰って来ても良いんだぞ? どうせお前は何も出来やしないんだから……な?」
そう汚泥のように粘りついた凍える声が、ドゥルジが立ち去って尚も、イルムの耳にこびりついていたのだった。
忌まわしい記憶から這い出したイルムは、首を振ってそれを振り払う。そして半ば自棄になりながら、大きく声を張る。
「ええい、分かった! ナリカラ総督のイルムは、オルベラ氏族の嘆願を受け取った!」
イルムの誓約に、オルベラ氏族のゴブリン達は感極まった歓声を上げた。