百十三話 鮮血
「赤旗軍の様子がおかしいな」
一ツ目馬に乗るイルムが背を伸ばし額に手をやって庇を作る。
細くした瞳で前方をじっと見詰めるが、ゴブリン達が何か違和感を覚える程度に蠢いているのが見えるだけで、何が起きているかまでは分からなかった。
指揮官が常々騎乗するのは高い視点を得る事で戦場を見渡せるからだが、それでも高台などに居なければ戦況を把握するのは中々難しい。
今回の戦場は起伏がほぼ無い麦畑である為、兵の海原に囲まれては遠くまで詳細に見通す事は困難だった。トロールを含むザリャン氏族軍の伏兵やカルス率いる増援の察知が遅れたのもその為だ。
加えてザリャン氏族本領内、しかも彼らの最大主要都市の郊外ともなれば最早ザリャンの庭同然であり、地の利は完全に向こう側が握っている。
前もって土塁陣地から密かに出撃し、目立たない様に迂回した上で奇襲を掛けるなど造作もなかっただろう。
それでも予備軍によって、その奇襲は何とか受け止められつつあった。
カルスが陣頭指揮を取る一千の敵増援が出現した事で、ゲガルクニク勢が挟撃されてしまったものの、クムバト率いる赤旗軍本隊が万全の態勢で敵を迎撃している。
イルムも直轄部隊をいつでもクムバトの支援に投入出来る様、即応態勢を整えさせていた。
だが、ザリャン氏族軍を迎撃中の赤旗軍本隊に突然異変が起こる。突如響めいたかと思えば、中央がかなり押され始めたのだ。
「トロールは赤旗軍左翼のゲガルクニク勢へ集中していて中央に居ない……騎兵を止め切れなかったのかな?」
そう解釈したイルムは、半数が虎の子の騎兵である四百の直轄部隊と共に赤旗軍への支援に向かおうとする。
黒々としたナリカラ軍旗の隣に、ナリカラ軍旗と酷似した黒旗が並んで掲げられた。その見た目はナリカラ軍旗とほぼ同じだが、唯一違うのは斜め十字の色が白である事だ。
これはティラズムの王冠旗を制定する際に合わせて作られた総督旗、つまりイルムの所在を示す旗である。
黒と白のコントラストを頭上に置いたイルムが、一ツ目の愛馬を進ませようと鐙に掛けている両足を開いた時、エルガの声が待ったを掛けた。
「私の紅冠隊も連れて行け。反撃に出るなら全力の方が良いだろう」
「それは駄目だよ。まだ敵の伏兵が隠れている可能性もある中で、本陣を文字通り空っぽにはしたくない」
兵力補強というエルガの進言をイルムはきっぱりと退ける。六百以上の青旗軍が更なる伏兵を警戒して備えているとはいえ、本陣の守りを疎かには出来なかった。
本陣に彼女が残るという事も大きいが、他にも軍の主計や制圧下にある地域の統治業務などにあたる官吏も大勢居る。
まさにナリカラ軍の脳とも言うべき人材が集中している本陣を、最強の部隊に守らせておくのは至極当然の事であった。
いつもより少し目の形を険しくさせ、左肩を睨んでくるエルガに、イルムは馬上から微笑を振り撒く。
「大丈夫。矢傷もほぼ癒えたし、手綱を握る分には問題無いよ」
彼は左手をひらひら振った後、急に顔を赤らめ始めた。心配されていると感じたのは勝手な思い込みである可能性に気付き、自分が彼女に微笑んで見せた事に恥じらいを覚えたらしい。
笑みが気持ち悪くなかっただろうか、酷い自惚れと見られたんじゃないかと羞恥心が彼の顔面を駆け回る。
「アミネ! エルガを任せた!」
照れ隠しの大声でアミネに言い付けると、イルムが老いた一ツ目馬を赤旗軍本隊の方向へ向けさせた。鼻と頬に紅を点した彼が配下の兵士らへ前進命令を飛ばす。
その背中をエルガは目を丸くして見た。
自分の言動や雰囲気が心配しているものだったのかと、自らに驚く。遠ざかるイルムの背にはっとして、思わず声を掛けようとするが、言葉が喉でつかえてしまう。
結局、詰まった息だけが吐き出された。
立ち尽くす彼女は、再び己が取った行動に困惑したのか、自分の喉に手を当てて呆然とする。やがて自分の喉へ下ろしていた視線をあげたが、そこにイルムの姿は既に無かった。
ゴブリンの兵士に囲まれながら一ツ目馬を進ませるイルムは、目前の赤旗軍に顔を顰める。どう見ても赤旗を掲げる軍勢は崩壊寸前だった。
イルムの下へ赤旗軍の兵が一人駆け付ける。跪くなり必死の形相で口を開いた。
「総督閣下に御報告! クムバト将軍が敵総大将カルスとの一騎打ちの末に御落馬! 御命無事なれど意識は無く、先程後方へ移送されました。今は各将の奮戦で何とか抑えております!」
「クムバトが!? 何てこったい、崩れるぎりぎりなわけだ」
イルムは頭を抱えそうになるところを堪える。だが赤旗軍は耐えられなかった様だ。目と鼻の先でゴブリンの軍勢が真っ二つに割られ、その間から獣の頭骨を実らせた林が雪崩れ込んでくる。
「抑えられてないじゃん……騎兵、我に続け! 歩兵は騎兵を援護せよ!」
剣を鞘から抜き放ち、見せ付ける様に掲げた。一ツ目馬が前脚を振り上げて嘶きを上げる。
「突撃!」
敵勢へ向けて剣を振り下ろし、愛馬の横腹を蹴った。ゆっくり騎馬の群れが進み出すと徐々に馬脚の動きが速まっていく。
周囲の景色を置き去りにする速度がどんどん増す中で、前方の敵も真っ直ぐこちらへ突き進んで来た。
敵方も騎兵を前に出している。その騎兵集団中央に、黄金色の鎧と金の冠という出で立ちの大柄なゴブリンが見えた。やがて騎兵の集団を掻き分けるかの如く、金色で固めたゴブリンが先頭に出る。
「我こそは真のナリカラ王カルス! ナリカラを魔族と僭称の王子から取り戻さん!」
剣を片手に馬を駆けさせるザリャン氏族長カルスが、堂々と宣言した。
今まで軍をぶつけ合う事はあっても、カルスの姿を見るのはイルムも初めてである。
影武者かどうかは判然としないが、カルスと名乗ったゴブリンが放つ気迫は決して凡百のものではない。寧ろ傑物と言った方が適当な気すらしてくる。
間違いなくカルス本人であるとイルムは確信した。
「ナリカラ総督のイルムだ! 王を騙るは貴様の方である。魔王軍とナリカラ王族への二重の反逆、許されると思うな!」
彼の怒鳴り声が響き渡り、それが耳に入ったらしいカルスはぎらっとした両目を向ける。口を不敵な形に歪め、跨る一ツ目馬の馬首の方向をイルムの真正面へ修正した。
イルムもそれに倣う様に愛馬をカルスの正面へ向かわせる。
もう既に互いの距離は石どころか野菜を投げ合える程にまで縮まっていた。無言で剣を握る手の位置を高くすれば、向こうも刃先を上向きにする。ほとんど同時に両軍の大将が叫んだ。
「聖ニヌアは我らと共に!」
「魔族の忌まわしき鎖を引きちぎれ!」
黒旗を掲げし二百騎と部隊杖を揺らす百五十強の騎兵集団が正面から衝突する。金属と肉が激しくぶつかり合い、悲鳴と怒号が木霊した。
騎兵達はすれ違い様に剣や手斧を相手に叩き付け、先に刃を受けた方が仰け反って馬体から転げ落ちる。
双方の勢いが収まり敵味方入り乱れる乱戦に移ると、どちらも滅茶苦茶に刃で叩き合う。そこには武芸だとか剣術などは存在せず、ただ純然たる殺意と暴力のみがあった。
鬼の殺し合いといった様相を呈する中、その中央では剣先を突き付け合う睨み合いが続いている。
イルムとカルスは突撃時に剣を合わせた後、剣戟ではなく周囲と対照的な隙を探る静かな戦いを繰り広げていた。
ゴブリンとしては立派な体格であるカルスだが、それでも人間の平均身長に届くかどうかという程度。
跨る一ツ目馬の小柄さも相まって、イルムとの目線の高さにそこそこの違いがある。その為、イルムは見下ろす形でカルスに剣を向けていた。
まるで魔王軍とナリカラの上下関係の様でもある。
一方のカルスは突撃前に浮かべていた不敵な笑みを消して、音もなく鼻から息を吸い小さく口から吐くという事を繰り返していた。
互いに身動ぎもせず、どこを突いてどの様に相手の攻撃を躱しつつ一撃を加えるかを脳内で練り続ける。
やがて刃が交わる音色も喊声も遠くなり、二人だけの静寂な世界となった。
だがしかし、それは長く続かない。その沈黙を最初に破ったのは二人の内のどちらでもなかった。
殺気が満ちるばかりで動きがない事に痺れを切らしたのか、カルスの単眼馬が突然ひゅぅぅんと威嚇の嘶きを上げたのだ。同時に前脚を軽く蹴り上げる。
これが始まりとなった。
イルムの剣が空気を切り裂き、嘶いた馬の首へ向かう。
即座に反応したカルスが左へ身体を傾けて乗り出し、剣を地面に伸ばす形で受け止めた。そのまま体を戻す勢いを乗せてイルムの剣を弾く。
そして手首を回転させ剣を正の向きにすると同時に、袈裟斬りの一撃を振り下ろした。
金属音が響き、カルスの舌が鳴る。
斬撃を防いだイルムは、敢えて押し返さずに剣を傾けてカルスの剣を滑らせた。耳障りな音を意にも介さず、刃を触れ合わせたままイルムが剣を押し上げ、カルスの右腕に鋒が迫る。
咄嗟にカルスが身を引いた。
ここでイルムは勝負に出る。離れるカルスの上半身を追いかけ、渾身の突きを放った。
真っ直ぐカルスの喉元へ突貫する剣先は、ほんの数秒後赤い点を散らす。
「なっ……!」
皮膚を裂いた鋒は、ほぼ空を貫くに終わった。
首に赤い線を作ったカルスが目と口の端を痛みに歪めつつも、右手の下に頭を出す柄へ左手を加えた全力で剣を振り下ろす。
慌てて剣を両手で引き戻したイルムの目前で火花が散った。衝撃が彼の身体を襲う。そして、包帯に覆われている左肩が悲鳴を上げた。
赤黒い瞳が震え、開かれた唇の間より噛み締められた歯が覗く。
「貰ったあ!」
カルスが剣を押し込んでイルムを突き飛ばし、続け様に上段から斜めに斬り下ろした。
痛覚が暴れて動かせない左腕を捨て置き、イルムは剣を身体の前に掲げる。
ばきん。
硬い何かが折れる音と、鮮血の飛沫が上がった。




