百八話 羊肉
退却の角笛が吹き鳴らされてから四半刻。夜襲を敢行していたザリャン氏族軍一千は、完全に撤退へと移った。ナリカラ軍の本隊は混乱が静まらず、追撃してくる様子は無い。
しかし、左右それぞれ六百以上の軍勢が向かって来ており、急いでその間を抜けなければ、立て直したナリカラ軍に囲まれて逃げ場を失い壊滅する恐れがある。
小柄な一ツ目馬の上からザリャン氏族長のカルスが叫ぶ駆け足の号令が下った。
「一気に駆け抜けろ! 相手にするな、今回の勝ちを台無しにするんじゃねぇぞ!」
内心ではイルムの首を取れなかった事に臍を噛みそうになっていたが、それを隠して勝ち誇る笑みを浮かべ続ける。
事実、少ない犠牲で大きな損害を与えた今回の夜襲は、ナリカラ軍の出鼻を十分に挫いたと言えるだろう。
だが、カルスにとっては不十分だった。
――出鼻を挫くどころか、ちぎり取るつもりだったんだがな。
イルムを討てばナリカラ軍、更にはナリカラ総督府自体が崩壊する。ただの大将ではなく魔族の総督でもあるイルムを討つ事は、総督府への完全勝利に直接繋がるが故に、カルスは何としても彼を亡き者としたかった。
それが果たされる事なくこの戦闘を切り上げるのは、大変不本意ではある。
が、南から大敵キーイ大公国が迫っている以上、ここで意地を張って兵を消耗させるわけにはいかなかった。
「騎兵、敵の足を鈍らせろ! 歩兵共はただ走れ!」
カルスの怒声に、槍を持つゴブリンの騎兵隊が進路を変えて速度を上げる。槍を掲げて蛮声を叫ぶ彼らの突撃に、退路を断とうとする二手のナリカラ軍が足を止めて迎撃の構えを取った。
小回りが効かない騎兵は、野営陣地への襲撃に参加せず予備戦力として待機しており、彼らはその待機分ここで暴れてやろうという気迫を纏ってナリカラ軍目掛けて突っ込む。
しかし、槍を並べて待ち構える分厚い歩兵の壁の前で、彼らは突如として方向を転換。同時に握っていた手槍を投げ放った。
ぶぉんと空気を切り裂く音を立てて宙を突き進んだ槍が、ナリカラ軍歩兵に突き刺さりばたばたと討ち倒す。騎兵は悠々とその場を離れてザリャン氏族軍の下へ戻った。
左右それぞれのナリカラ軍の動きを一度止めた事で、退路が堂々と彼らの前に広がっている。
「駆けろ駆けろ! 騎兵は殿軍としてもう一度敵勢を止めてこい!」
ザリャン氏族軍は白み始めた空を右手に見ながらひた走り、本隊に戻った騎兵は新たな槍を手にして再度の突撃を開始した。
投槍を逆手で振り上げる彼らは、左右からザリャン氏族軍の行手を阻もうと隊列と槍先を揃えて前進する敵勢へ、敵に合わせて二隊に分かれ急速に接近していく。先程の一方的な展開を繰り返すべく、槍を投げ掛かろうとしたその時。
左右それぞれに異変が起こる。
大地からまだ朝陽が頭を見せてはいないものの、既に景色が色付き始めた事で、右手側のナリカラ軍部隊は青い旗を掲げているのが分かった。その青旗を騎兵隊が認識した途端、槍を並べていた敵歩兵隊が隊列を捨てて突貫して来る。
騎兵に歩兵が突撃するという通常とは真逆の出来事にゴブリンの騎兵達は思わず怯むが、右腕は素直に動いて槍を投げ飛ばした。
放たれた投槍はある程度の被害を与えるも、槍を向けて突っ込んで来る敵兵を止めるまでには至らない。離脱する為の方向転換で速度が落ちたところを、敵歩兵に狙い打たれた。
跨るロバや小型馬、或いは自身の無防備な横腹を突かれ、どさっという重量のある落下音と悲痛な嘶きが続々と上がる。
「くそっ、離脱を優先しろ! 今は己が生き残る事こそ全ての為と思え! ……左翼側はどうなってる……っ!」
思わぬ攻撃に悪態を吐いた右翼側の騎兵指揮官が、反対側の味方へ目を向けると、そこでもゴブリンの騎兵が大勢倒れていた。弓矢の集中砲火を受けたらしく、槍を握り締めたゴブリンや馬らが無念の形相で矢達磨となっている。
投槍騎兵の攻撃に短時間で対応する辺りを見るに、退路を断ちに動いていた二手の敵勢は中々の精鋭らしい。投槍騎兵を率いるゴブリンの将が、ぎりっと歯を鳴らす。
「だが、血路は開けた。ここは痛み分けとしてやる!」
そう言い捨て、挟み討ちとなるのを逃れた本隊の後に続いた。
騎兵の妨害で足止めされた左右のナリカラ軍の間を既にザリャン氏族軍の大半が駆け抜け、包囲の危機を脱している。包囲から抜ければ次は追撃から逃れなければならないが、その点を憂う者は少ない。
ナリカラ軍が纏まった騎兵戦力を保有しているとの情報は確認出来ておらず、最後に見た敵陣の混乱振りからも十分な追撃部隊を送り出すのは難しい筈だ。
カルスですらそう考えていた。そこへ配下の一人がカルスに口を寄せる。
「カルス様、先程気になる報せが入りまして」
「言え」
配下の戦士ゴブリンは一度ちらっと背後に視線をやった。
「我らの退路を断ちに来た軍勢の片割れが狼の旗を掲げていたそうで……」
「狼……奴か!」
はっとしたカルスが全軍に警報を発する。
「警戒を厳とせよ! “黒狼”の罠があるかもしれねぇぞ!」
だがそれは僅かに遅かった。一騎の騎兵がカルスの下へ駆け寄る。
「左手より敵の伏兵! 弩兵です!」
自軍左翼を見れば、確かに隊列が乱れ混乱が窺えた。初撃で部隊長か誰かをやられたのだろう。
「騎兵隊に伝令。最後の踏ん張りどころだ、伏兵を蹴散らせ!」
カルスの命令を受けて、ゴブリンの騎兵達は汗粒を浮かばせた愛馬を走らせる。今度は槍を逆手ではなく、鋒を下向きにした騎馬突撃の構えだ。
前方の背丈がある草の中に弩を構えた百人前後のゴブリンを視認すると、彼らは自身を乗せる馬を襲歩に入らせる。
「突撃!」
握り込む槍を脇に挟んで固定し、騎馬一体となって敵へ突っ込む。騎兵槍突撃だ。
これに対して、顎を真っ直ぐ騎兵隊に向けた弩が太矢を吐き出す。強力な射撃が騎馬の群れを襲った。
何騎もの騎兵が一撃で射倒される。しかし、騎兵隊は恐れを知らぬかの如く構わず突撃を続行した。
「弩は連射が出来ん。敵は丸腰同然だ。突っ込めぇ!」
指揮官の怒鳴り声を叫び返された雄叫びが掻き消した。
もう十秒もなく槍の穂先を突き立てられるという近距離まで敵に接近した時、弩を持つ敵方のゴブリンらが背中を見せる。
そして草むらの中から突然、百頭にも上るかなり小柄な馬がにょきにょきと生え、それらに弩を革紐で背負ったゴブリンが騎乗していく。
「逃げる気か! 者共逃すな!」
槍を突き上げて吠える騎兵指揮官の目の前で、逃走を図る敵兵が一斉に身を捻って振り返った。
その手には弩が握られている。次の瞬間には、太矢の暴風が次々とザリャン氏族軍の騎兵の命を刈り取っていった。
「な……しまった! 装填済みの予備を馬に吊っていたのか――」
騎兵隊を統率していたゴブリンの身体にも太矢が深々と突き刺さる。馬から崩れ落ちたその身は、地面に叩き付けられて少し転がると、それきり動かなくなった。
騎兵隊がほぼ壊滅してしまった光景を、親の仇か何かの様に睨み付けたカルスの口が歪む。
「畜生めが。最後の最後で」
ザリャン騎兵がこの世から消えてしまうと、弩を携えた敵騎兵の姿も何処かへ消えてしまったが、気を抜く事は出来ない。また襲撃されれば、今度は騎兵抜きで対抗しなければならないのだ。
それからは、いつまた敵が現れるのかと神経を擦り減らす時間が長く続いた。が、結局のところ最初の伏兵以降は何事もなく戦場から離脱する。
ナリカラ軍に少なくない打撃を加えた一方で、ザリャン氏族軍は貴重な騎兵戦力を最後にほとんど使い潰してしまう形で、此度の夜戦は終わった。
翌日の昼頃。
夜襲の現場から南東に離れた小城に、カルス直率の軍九百が屯っている。丘の上に築かれた城の周囲を天幕が埋め尽くし、城壁の内側も四隅の細い柱に支えられた布の屋根が壁沿いにずらりと並んでいた。
城壁内の中心では城館を背にしてカルスや彼の親衛隊の戦士などが、勝利の宴を開いている。
敷布の上に座る戦士ゴブリンらの前には、羊が文字通り丸ごと使われた料理が陣取っていた。
まず目立つのは焼かれた羊の頭である。黒ずんだ歯牙を剥き出しにした、ほとんど頭蓋骨と言うべき不気味な頭に残る肉を、ゴブリンらが指で摘む。
更に存在感を主張しているのは茹でられた羊の脳だ。赤紫の線がぐにゃぐにゃ走るそれはかなりの臭気を発しているが、この場に居る者は誰も意に介さず手で摘み、うまそうに舌鼓を打っている。
これらとは別に、釜で煮込まれている物があり、一見はまともそうに見えた。
しかし、小鉢へ掬い出される中身はやはり素人には気味が良くない。羊の腸詰に加えて、皮どころか爪もそのままな脚が、添えられた香辛料も意味が為さない程の獣臭さを放つ。
これらはナリカラ南東部やその周囲の地域で食されるものの一つだが、決して上流の者が口にする高級料理ではない。寧ろ都市外に住む素朴な民草の料理だ。
実の所、カルスは貴賤にあまり頓着する事が無く、民との距離も割りかし近い性質の人物なのである。
だからこそ、ナリカラを搾取して苦しめてきた魔族からの独立を本気で目指しているのだ。
「総督府の軍に痛撃を与えましたが、次は大公国軍を叩くので?」
食事の最中、一人の将がカルスに尋ねる。カルスは噛み切った腸詰を飲み込んでから答えた。
「いや、兵を集めて総督府の連中と決戦だ。あの魔族の総督は討てなかったが、指揮に復帰しなかったのを見るに、手負いなのは間違いない。ここで一気にケリをつける」
「では大公国は?」
「総督府軍を撃破した事を材料に交渉する。奴らにとっても魔族は敵、敵の敵は味方だ。対魔族の共同戦線に持っていく。俺がナリカラ王であると認めさせてな」
そう言って彼は土焼きの酒器ピアラを呷る。乱雑に空のピアラが敷布の上へ置かれた。
「強力な軍勢を退けて後背の憂いを取り除いたともなれば、正面切って剣でも言葉でも戦える。大公国の連中もこっちの話を聞かざるを得んだろう。決裂したら一撃喰らわして、より有利な交渉に持ち込めばいい。総督府といい大公国といい、背中を突いて調子付いてる奴らにザリャンの本気を見せ付けてやらにゃならん」
なぁ? と周囲に問い掛けると、戦士達は拳を振り上げて咆哮を放つ。ザリャンの氏族長は満足気な笑みを浮かべ、羊の脚に齧り付いた。




