1 ネルとケンタウロス
「みいぃいつぅううけたぁぁあああっ!」
ネルはそう叫びながら、茂みから突き出す立派な栗毛の尻に飛びついた。
彼女としては「ヒヒヒィン」みたいな反応を期待していたが、耳に届いたのは冷静な低い声だった。
「お前、何をする」
「……へ?」
尻から顔を離して声のした方を向くと、裸のおじさんがネルを見下ろしていた。体を捻ってネルの方を見ているが、捻れたお腹はしっかりと引き締まっていて、余分なお肉がぽよんしていたりはしない。
「お前は何だ」
引き締まったおじさんは言った。
間違いなくこっちのセリフだ、とネルは思った。
「そっちこそ、何?」
立派な尻から手を離しながら問い返した。
「私はケンタウロスだ」
おじさんは言った。
ケンタウロスといえば、半人半馬のちょっと中途半端な存在だ。
たしかにその言葉通り、馬の体におじさんの上半身がくっついている。そういえば、ネルが今いるこの森の俗称は「ケンタウロスの森」だった。大昔にケンタウロスが棲みついていたとか何とかいう与太話を耳にしたこともあった。
鬱蒼と茂った木々のせいで昼間でも薄暗く、夜ともなれば月明かりも差し込まない。迷い込んだが最後、魔物に喰われてしまうという。だから普通の人は近寄らないが、ネルはときどきこの森を通っていた。仕事のためだ。
今日も仕事で馬に積み荷を載せてえっちらおっちらと歩いていて、途中で水場に立ち寄った。乾いた喉を潤すためだった。馬に水を飲ませ、自分も飲み、道中のためにと袋に水を汲んでいるわずかな隙に、何かの物音に驚いた馬が駆け出した。慌てて後を追ったが、人間の足で馬に追いつくのはどだい無理な話だった。まんまと逃げられ、森の中をもう数時間も彷徨って探していたのだ。
そうしてようやく見つけたと思ったら、馬ではなくケンタウロス。思わずため息がこぼれるのも無理はない。
「お前は人間だな」
ケンタウロスの問いにネルはうなずいた。
「それで? 私の尻にしがみついてきた理由は」
彼の上半身は筋骨隆々としていて、街の肥えた金持ちとも飢えた貧乏人とも違っている。
「間違えた」
「何と間違えたのだ」
「馬」
ケンタウロスに睨まれた。どうやらあまり愉快な答えではなかったらしい。彼は彫りの深い顔立ちをしていて、眉が太く眼光が鋭い。怒らせるとまずそうな気がしないでもない。
「だって、よく似てるから」
「……どこが似ているというのだ」
ネルは答えず、ケンタウロスの下半身を凝視した。ケンタウロスも自分の下半身を凝視した。つやつやした栗毛の短い毛におおわれた下半身は、その細い脚も、少し膨らんだ関節も、蹄も、ぷりっとしたお尻も、ふぁさふぁさの尾も、まごうことなく馬のそれだ。馬の首がくっついているべき場所に、無遠慮に人間の体が突き刺さっている以外は。
茂みから突きだしたケンタウロスと馬の尻を見てどちらがどちらか判別できる人間はそう多くないだろう。
「それほど似てはいないぞ。我々ケンタウロスはこの立派な上半身を支えるため、馬と比べてはるかに前脚が発達している。それに馬の尾の形は――」
長くなりそうなケンタウロスの言葉を遮り、ネルはぺこりと頭を下げた。
「ごめん、急いでるんだ。だからもう行くね。お尻に飛びついたりして本当にごめん」
「私が馬ならお前は今頃蹴り殺されている。馬に後ろからとびかかったりしてはならんぞ」
「おぼえとく。それじゃあね」
ネルは歩き出した。はだしの足で草の柔らかな感触をとらえながら数歩進んだところで呼び止められた。
「おい、待て」
ぶに。
あからさまに何かまずいものを踏み潰した感触に鳥肌をたてながら、ネルは振り向いた。感触の原因をたしかめようと自分の足の裏を引き寄せてじっと見た。見なければよかった、と思った。どうやら葉っぱの下にあった小さな生命を踏み潰してしまったようだった。
ケンタウロスが数歩ネルの方へと近づいた。すくと伸びた上半身も、たしかに馬よりも少し逞しい前脚も、とても堂々としている。薄暗い森のなかで、そこだけ少し輝いて見えるほどだ。たぶん彼にかかれば、ネルなんて草の下の小さな生き物と変わらない。簡単に踏み潰してしまえるだろう。
「そっちは森の奥へ向かう道だぞ」
「わかってる。でも、馬を探さなくちゃいけないから」
「馬はもう諦めろ」
「諦めるなんて、できっこないよ。今日中にその馬と積み荷を雇い主のところへ届けなくちゃならないのに」
「じきに夜が来る。この森の夜は危険だ。馬を見つけるどころか、お前では朝まで生き抜くことすらできないだろう」
そう言ったケンタウロスの表情は真剣そのものだった。これは単なる脅しではないな、とネルは思った。正直言うと、ものすごく恐ろしかった。噂通り魔物にとって喰われるんだろうかとか、そうじゃなくとも森にすむ肉食獣に食べられてしまうんだろうかとか、考えただけで身が震えた。
けれどネルは、森の魔物や肉食獣と同じくらい恐ろしいものをほかにも知っていた。
「だけど、荷物を届けないと仕事をクビになっちゃう」
「仕事と命のどちらが大切か、よく考えるんだな」
「荷物を失くしたらその分のお金を弁償しなくちゃいけないって約束になってるの。一生かかっても返せない額を吹っ掛けられる。きっとひどく鞭でうたれるし。少なくとも、私の雇い主は私の命よりも荷物の方が大事だと思ってるから」
ネルの雇い主は魔物でなくて人間だけど、恐ろしいのだ。
ガサガサガサ。森の木々を揺らして夕方の風が吹き抜ける。
ケンタウロスは風の吹いてきた方向へ顔を向け、鼻をスンと鳴らした。そして忌々しそうに言った。
「くそ。この季節は日が落ちるのが早い。すぐに夜になる。やむを得まい、乗れ」
蹄が草を踏みしめる音とともに、ケンタウロスが近づいて来る。
「乗れって、どこに?」
「私の背中だ。森のはずれまで送る。急げ。さすがの私でも、夜の森でお前を守るのは簡単じゃない」
「でも、荷物が……」
「明日の朝までに見つけて届けてやる。それでいいだろう」
「本当に?」
目の前にせまったケンタウロスを見上げた。馬よりも高い位置に顔がある。ネルが思い切り顔を反らして、ようやく目が合うくらいだ。
「ケンタウロスは嘘をつかない」
「本当の本当に?」
「本当だ。早く乗れ」
ネルがうなずくが早いか、すぐに手が伸びてきて後ろの襟をつかまれた。ぐい、と持ち上げられ、悲鳴を上げる間もなくケンタウロスの背中に落とされる。
ドス。
尻に受けた鈍い衝撃に「う」と声を漏らしながら、背中の毛に触れた。馬と同じ、固い毛だ。毛の流れと逆向きに撫でると逆立ってチクチクする。
「走るぞ。つかまれ」
「どこにつかまるの?」
「胴だ」
ネルは馬の背に張り付くような形で腹ばいになり、胴に腕を回した。
「こう?」
「そっちじゃない。上半身の胴だ」
背中に伸びて来た腕がネルの手を掴み、人間の形をした胴へと誘導する。
「え、それはちょっと」
「なんだ」
「だって、裸じゃん」
「我慢しろ。だいたい、服を着ているケンタウロスに会ったことがあるか?」
「そもそもケンタウロスに会ったことがない」
「そうか」
「そんなにウジャウジャいるもの?」
「ときどき会うくらいにはな」
「ときどきって?」
「数年に一度」
「……ごめんだけど、私の基準からするとそれは『ときどき』じゃない、『たまに』ですらない」
「そうか。人間は薄命だったな」
「人間基準で言えば、ケンタウロスが長生きなんだと思うけどね」
「おしゃべりは終わりだ。つかまれ」
ちょっとだけドキドキしながら、ネルはケンタウロスの胴――上半身の方――に腕を回した。お腹はごつごつしていて固い。そしてちょっと湿っぽい。
「うへぇ、ケンタウロスの汗」
「汗くらい誰でもかく」
「髪の毛に捕まっちゃダメ?」
背中まで垂らされた長くて黒い髪の毛を見ながら言った。こちらも固そうな毛で、頭の後ろで一つに編み込まれている。三つ編みかと思ったが、よく見るとネルの知らないもっと複雑な編み方だった。
ネルの提案は即座に否定された。
「ダメだ。振り落とされたくなければケンタウロスの汗に耐えるんだな」
「はぁい」
生返事をしてゆるく抱きついたが、ケンタウロスが走り出すとすぐに、しがみつかざるを得なくなった。彼の体の前にある腕が風を受けてひりつくほどの速さだ。耳元で風のびゅんびゅんという音がする。その音に混じって、ケンタウロスの声がした。
「この森に棲んで長いが、これまでに一度も人間と出くわしたことはない。夜ほどではないが昼間だって決して安全とはいえない。物を運ぶ仕事なら森の外の街道を行けばいい。人間は皆そうしているだろう」
「雇い主に森を行けって言われてるんだ。街道を通っては運べないものなんだと思う。よく知らないけど!」
ネルは叫ぶように言った。そうしないと風の音にかき消されそうだと思ったからだ。
「違法なものを運んでいるのか」
木々の間を器用に抜けて駆けていく。でも、ケンタウロスの息はちっとも乱れていない。
「たぶんねっ!」
「そんなに危ない仕事をなぜ引き受けた」
「お金たくさんもらえるし、他にできる仕事がないから。親はいない、学もない、美貌もない、力もない!」
「親がいないのか」
「そう。死んじゃった!」
「他に家族は」
「いない!」
ケンタウロスはもう何も言わなかった。ネルを背中に乗せたまま、森で迷うこともなく走り続けた。
森を出たときには、もうほとんど日は沈んでしまっていた。背後の森からは不気味な遠吠えのようなものがいくつもいくつも聞こえてきていた。
ズザ、と止まり、また後ろの襟をつまみ上げてネルを下ろしながらケンタウロスが言った。
「間に合ってよかった。気をつけて帰れ」
「うん。ありがと」
「明日の朝にここでな」
「ちゃんと馬、見つかるかな?」
「まかせろ。森のことは知り尽くしている」
「ありがと。本当に」
「もう行け。街まではまだ少しある。気をつけろよ」
「わかった」
ケンタウロスに手をふり、ネルは街へと歩き出した。遠い灯りが近づいて来る。しばらく歩いてから振り返ったけど、もうケンタウロスの姿はどこにもなかった。
翌朝、ネルは約束通り森のはずれに向かった。ケンタウロスはもうそこで待っていて、傍らにはちゃんと馬がいた。
「馬! よかった! ありがとう!」
彼らの姿を見つけるなり、ネルは駆け寄って礼を言った。
でも、ケンタウロスは険しい顔でネルを見下ろした。
「何があった」
太い腕を組んで、ケンタウロスが言う。
「ん? 『何が』って、何が?」
「足を引きずっている」
ネルはああ、と答えた。
「よくわかったね」
「長く生きていると、色々とわかるようになる」
「長くって、どれくらい?」
「たぶんお前の二十倍くらいだ」
ネルは十四歳だ。その二十倍が何歳か、学のないネルには計算できなかった。とりあえず、一つだけわかったことがあった。
「お年寄りなんだね」
「ケンタウロスの中では若い方だ」
「そうなんだ」
「それで? 誰にやられた」
険しい顔は相変わらずだ。ネルは少しためらった。なんだかみじめな自分のことを、ケンタウロスにあまり詳しく知られたくはなかった。
「……雇い主」
「今日ちゃんと届けると言わなかったのか」
「それでも期日には遅れちゃったし。見つかる保証はないだろうって。ケンタウロスに会ったって言ったら迷惑がかかるかもしれないと思ったから、言わないでおいたんだ。だからかな」
「殴られたのか」
「ほとんどは鞭で打たれただけ。あと、ほんのちょっと蹴られた。でも平気だよ、慣れてる。今日のはいつもよりちょっと酷かっただけ」
慣れているのは本当だった。仕事で失敗をすると、よく鞭うたれた。馬用の鞭でピシピシされることもあったし、もっと痛い大きいので打たれることもあった。
「そうか」
気まずい沈黙を振り払うように、ネルは小脇に抱えた布のかたまりを差し出した。
「そうだ、これ」
「なんだ」
「お礼。シャツなの」
「……私に着ろと?」
ケンタウロスは太い眉を寄せた。
「そう。裸よりも、やっぱり何か着てる方がいいかなって」
「どこで手に入れた」
「盗んでないよ。ちゃんと買った。包んでもらえたらよかったんだけど、それにもお金がかかるって言われたから。だからそのまま。ごめんね」
ケンタウロスはネルの手から布のかたまりを受け取り、ばさりと広げた。
そして黙って袖を通した。
淡い桃色のシャツだ。ずっと森の中にいるはずなのにネルよりも色黒なケンタウロスだから、淡い色は似合わないんじゃないかと心配していたが、杞憂だった。
「あー、普通のは高くて買えないから、新人お針子の失敗作を安く譲ってもらったんだ。襟がちょっと歪んでるの。あと、袖の長さが左右で違うって」
「襟は髪で隠れるし、袖をまくればわからん」
そう言いながらケンタウロスは襟元を整え、袖をまくって腰に手を当てた。
「どうだ」
「似合ってるよ。やっぱり、着てた方がいいよ」
ネルはケンタウロスの姿に満足して言った。本当によく似合っている。
「気を遣わせたなら、悪かったな」
「ううん、助けてもらったから。本当にありがとう。そろそろ行かなきゃ。早く届けないと、また叩かれちゃうから」
ネルはそう言って、そばの木につながれていた馬の手綱をほどいた。馬はブヒヒヒヒィンと鳴いた。ケンタウロスの前脚を見慣れたせいか、馬の前脚が少し華奢に見えた。
「そんな雇い主のとこ、辞めちまえばいい」
ケンタウロスの声に、ネルは振り向かなかった。馬の積み荷を確認し、数が合うことに安堵してゆっくりと歩き出した。足が痛い。蹴られた背中も痛い。
「その必要はないんだ。昨日でクビになったから。次はもう少しマシな仕事が見つかるといいんだけど。本当ありがと。じゃあね」
「なぁ、ネル」
ネルは振り向いた。
「…………私、名前教えたっけ?」
「長く生きていると、色々とわかるようになる」
ネルは微笑んだ。
「そうだったね」
誰かに名を呼ばれたのは久しぶりだった。貴様、とか、グズ、とか、馬鹿野郎とか、そんな風に呼ばれてばかりだったから。
「ケンタウロスの身の回りの世話をする仕事にひとつ空きがあるんだが、興味はあるか?」
やっぱり随分と高い位置にあるケンタウロスの顔が、ネルを見下ろしている。
「三食と宿つき。給料は月に五デイン。それに、決して鞭では打たない」
信じられないほどの好条件だ。五デインなんて、ネルは見たこともない金額だった。
驚いて声が出なかったけど、ケンタウロスにはネルの返事がお見通しだったらしい。
「早く街へ行って、その馬を届けて来い。ここで待っててやる」
ネルはうなずき、馬の手綱を握って駆け出した。
「ありがとう! ありがとう!」
ネルはあんまり嬉しくて、ケンタウロスだけじゃなく、街ですれ違った人みんなに、乱暴な雇い主にまでお礼を言いたい気分だった。




