第二話 最後ですもの。思い切り装いましたのよ
夜会当日。
ドレスの選定に、エルミーナはいつもより時間をかけた。
正確には、いつもと正反対の基準でドレスを選んだ。
婚約者の隣に立つためのドレスではない。
クロワゼット公爵家の未来の夫人として、品よく控えめに見えるためのドレスでもない。
今夜、エルミーナが選ぶのは、エルミーナ・ド・ヴァルモン個人のためのドレスだった。
ドレスは深い紫紺。
夜の海に宝石を沈めたような、艶やかな色。
肩から胸元にかけて、大胆に開いたデザインでありながら、下品にはならない。
むしろ、肌の白さと首筋の長さを際立たせ、彼女の持つ気品を、いつもとは違う形で浮かび上がらせていた。
コルセットはゆるめに。
代わりに、ドレス自体の構造で体のラインを支えている。
三年間、厚い生地と補正下着で品よく隠し続けてきたものが、今夜は違う文法で表現されていた。
エルミーナは鏡の前に立って、しばらく自分の姿を眺めた。
胸が小さくないことは、知っていた。
だが、いつもきちんと押さえ、目立たないようにしてきたので、外から見てどの程度なのかを客観的に判断したことがなかった。
今、鏡を見て、初めて思った。
(……あら)
これは、確かに。
なかなかの迫力である。
侍女たちは、揃って妙に静かだった。
普段なら、髪飾りの位置や手袋の長さについて細かく意見を出す彼女たちが、今夜に限って言葉少なだ。
「お嬢様……」
「何かしら」
「いえ、その……大変、お似合いです」
「ありがとう」
「今夜は、王太子殿下もご出席されるとか」
「そうらしいわね」
「その……」
侍女が何か言いかけて、口を閉じた。
エルミーナは微笑んだ。
「心配しなくてよいわ。わたくし、最後まで侯爵令嬢らしく振る舞いますもの」
「はい」
「ただし、今夜くらいは、自分のために装わせていただくわ」
エルミーナは手袋を整えた。
そして、控えていた家令に視線を向ける。
「例の書類は?」
「先ほど、王都法務局へ使いを出しました」
「そう。ありがとう」
これでよい。
あとは、最後の夜会を楽しむだけだ。
エスコートのために侯爵邸を訪れたアルベルトは、玄関ホールに現れた彼女を見て、心臓が跳ね上がった。
「お待たせいたしました、アルベルト様」
そこにいたのは、いつもの堅苦しい彼女ではなかった。
深い紫紺のドレス。
滑らかな肩。
白い首筋。
そして、これまで晒しと補正下着と厚い生地で押し込められていた双丘は、解放を喜ぶかのように、豊かに、そして傲慢なまでにその存在を主張していた。
「な……な……っ」
アルベルトは言葉を失った。
視線を逸らそうとした。
だが、逸らした視線が、また戻る。
もう一度、理性で上へ引き上げる。
しかし、また戻る。
その動きがあまりにもわかりやすく、エルミーナは思わず笑いそうになった。
「あら、どうなさいました?」
「いや、その……今夜は、ずいぶんと印象が違う」
「最後ですもの。思い切り装いましたのよ」
「最後……」
アルベルトは、なぜかその言葉に傷ついたような顔をした。
婚約破棄を申し出たのは自分だというのに。
エルミーナは、にこやかに彼の腕に手を添えた。
「参りましょう」
王都随一の大広間は、今夜も華やかだった。
シャンデリアの光が天井から降り注ぎ、色とりどりのドレスが花のように咲き乱れる。
貴族たちが集い、音楽が流れ、会話と笑い声が混ざり合う。
その中に、エルミーナが入ってきた瞬間。
決して大げさではなく、場の空気が変わった。
男性の視線が集まる。
それだけではなく、女性たちも目を向けた。
羨望と驚きと、いくらかの「あの令嬢、誰だっけ」という困惑が混じった眼差し。
「クロワゼット公爵令息の婚約者では……?」
「エルミーナ・ド・ヴァルモン嬢?」
「いつも控えめな方だと思っていたが」
「控えめにしていただけなのでは……」
囁きが広がる。
エルミーナはアルベルトのエスコートを受けながら、優雅に会場を進んだ。
アルベルトの顔は今夜ずっと硬い。
時折、意志の力で視線をコントロールしようとしているのが、エルミーナにはわかった。
三年間、ずっとそういうものを見てきたのだ。
彼がどこを見るか。
いつ黙るか。
どの角度に反応するか。
すべて、わかっている。
(まったく、わかりやすい方)
エルミーナは内心で、少しだけ意地悪な気持ちを抱いた。
「エルミーナ」
「何でしょう」
「そのドレスは……少し、胸元が開きすぎではないか」
「あら」
エルミーナは、扇で口元を隠した。
「アルベルト様は、こういうものがお好きなのでは?」
「なっ」
「わたくし、存じておりますのよ」
「何を」
「胸元の開いたドレスのご令嬢を見るときだけ、視線が一秒ほど遅れることを」
アルベルトの顔が、みるみる赤くなった。
「それは誤解だ」
「そうですか」
「誤解だ」
「では、魔導式の自撮り姿絵も誤解ですの?」
アルベルトが固まった。
非常にわかりやすく、固まった。
エルミーナは、静かに扇を閉じる。
「そんなにデカパイ自撮り女がよいんですの?」
「エ、エルミーナ嬢!」
「声が大きいですわ」
「君がとんでもないことを言うからだ!」
「とんでもないものを隠していらしたのは、アルベルト様でしょう?」
アルベルトは、周囲を気にして顔を引きつらせた。
エルミーナはにっこりと微笑む。
「ご安心くださいませ。わたくし、口は堅い方ですの」
「ならば、なぜ今それを言う」
「最後ですから」
その一言に、アルベルトの表情が揺れた。
そのとき、一人の若い伯爵令息が近づいてきた。
「ヴァルモン嬢。今夜は一段とお美しいですね。よろしければ、のちほど一曲お相手いただけませんか」
「まあ、ありがとうございます」
エルミーナが微笑むと、アルベルトの手に力がこもった。
「エルミーナ」
「何でしょう」
「まだ私の婚約者として来ているのだ。軽々しく他の男と踊るのは」
「あら」
エルミーナは首を傾げた。
「婚約を終わらせたいと仰ったのは、アルベルト様では?」
「それは、そうだが」
「それに、書類はもう王都法務局に届いている頃ですわ」
「何だと?」
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