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後編

 ジャンヌがエルネストの部屋を訪ねたのは、あの出来事から二時間ほど経ってからだった。


「お加減は如何でしょうか」


 恐る恐るといった様子でベッドから身を起こした彼を窺う彼女に頷いて見せる。


「問題ない。恐らく正気なはずだ」

「アレを、もう一度見たいですか?」

「二度とごめんだ」


 エルネストはあの時の自分を思い出し、慄いた。

 彼の、意志を塗り潰すような強い力。あのエメラルドを見た瞬間、そんなものにエルネストは支配された。体が自然と震え出す。今は不思議なほど頭は冴えているが、もう二度とあんな経験はしたくない。

 彼の反応を見て、ジャンヌはホッとしたようだった。


「……よかった。エルネスト様は大丈夫そうですね」

「大丈夫、とは?」

「あのエメラルドを見た人の反応は必ず二通りに分かれます。エルネスト様のように嫌悪感を覚えるか、強く傾倒しすぎてしまうか……」


 何かを思い出したのか、ジャンヌの顔から血の気が引く。その反応だけで傾倒しすぎた者の末路を想像できた。


「あれは、なんなんだ」

「……そ、れは」


 ジャンヌは胸元を押さえ、怯えるように視線を彷徨わせた。


「……私は無事だったが、これから先、我が家の人間が君の持ち込んだあれでおかしくなってしまう可能性が、ないとは言い切れない。得体の知れないものを放置はできないんだが」

「……そう、ですよね。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。責任を取るためにわたくしは修道院に参ります」

「いや、違う。落ち着くんだ。両親の留守中に君を修道院にやったら私が叱られる。

 それに、修道院に行けば我が家に迷惑はかからないが、そっちの人々がアレの被害を被る可能性があるだろう。今後のためにも一体アレがなんなのか、話して欲しい。私が役に立てることがあるかもしれない」


 かなり気が動転しているジャンヌを宥めて、エルネストは話すように促した。


「……わかりました」


 ジャンヌは小さな唇を震わせて、話し出した。


 ジャンヌがあのエメラルドを手に入れたのは、八歳の時。十年前の事件の一週間ほど前のことだった。


「祖父が病に倒れて、母とその見舞いに行ったのです。祖父は二人きりになった時を見計らって、あれをわたくしに見せました」


 とても、綺麗な宝石だと、幼いジャンヌは喜んだそうだ。

 でも、それだけだった。ジャンヌは魅入られることも、嫌悪感を覚えることもなかった。前伯爵はそれを大層喜んで、ジャンヌにエメラルドをくれた。


「君はアレを見てもなんともないのか?」

「はい。祖父が、そういう人間が持ち主でないと危ないから、と言っていました。その時は特に詳しい事情は教えてくれなくて。ただ、誰にも。母にすら見せてはならないとだけ注意されました」


 ジャンヌがあのエメラルドの曰くを知ったのは事件が起こった後のことだった。今もタルッカ鉱山を管理している使用人夫婦の夫が、彼女を訪ねてきたのだ。


「彼は信じられない話を始めました。あの事件の犯人は強盗ではなく、伯父だと……。そんなことをしたのはあのエメラルドのせいだと言うのです」

「な、何?」

「祖父が病に倒れて、伯父は爵位を継承する準備を進めていました。その最中でアレが無くなっていることに気づいたのです。伯父は誰かが盗んだのだと家の人間を殺して回り、邸を荒らして探した……みたいです。

 ただ、アレはわたくしへ渡されたあとですから、見つかるはずもなく……。彼が邸に着いた時、何があったかわかりませんが、伯父はいなくて……ずっと、行方不明です」


 エルネストは言葉もなく、以前に読んだ事件現場の記録を思い出していた。

 凶器は刃物。ほとんどの被害者は寝込みを襲われたのか抵抗した形跡がなかった。ただ、伯爵家所有の剣が血まみれの状態で落ちていたそうだ。


 資料ではジャンヌの伯父が犯人に抵抗する際に使用したのでは、と考察されていた。しかし、ジャンヌの話が正しいなら、家族を殺害した返り血ということだ。信じ難いことではあったが、矛盾はなかった。

 それだけに伯父をそんな犯行に駆り立てただろうエメラルドへの恐怖が増す。


「……あの、エメラルドはタルッカ鉱山で採れたものだそうです。アレのせいで鉱山を閉鎖せざるを得なくなったと、聞きました」

「鉱山が閉鎖したのは、崩落事故のせいではなかったのか」

「違います。そもそもそんな事故は存在しません」


 タルッカ鉱山はジャンヌの祖父、サルヴェール前伯爵が幼少期に発見したものらしい。山に入っては石を集め、コレクションするのが趣味だった少年は、勉強するうちにタルッカ山で見つけた石が高確率でエメラルドを含んでいることに気がついた。

 もしかしたら鉱脈があるかもしれないと思った彼は、鉱山について学び、大人になって本当にエメラルドの鉱脈を発見した。


「鉱山の開発はすべて祖父に任されたそうです。祖父は頼れる部下たちとともに働きやすい環境を整えるように尽力しました」

「鉱山労働は、犯罪者の苦役のひとつだが……」

「ええ、そうですね。そういう人がたくさん送られてきたそうです。でも、祖父は坑夫たちの労働時間の上限を決め、休日もちゃんと取らせました。人を喜ばせる美しいエメラルドが、人の苦しみの上に生まれてはならないと……」


 サルヴェール前伯爵の高い志の元、運営されたタルッカ鉱山は繁栄を極めた。

 絶頂期には一抱えもある巨大な原石が発見し、それを王室に献上したこともあるそうだ。前伯爵は勲章を授り、坑夫たちにも少なくはない報償金が配られた。

 その後、ずっと助けてくれていた部下にすべてを任せ、前伯爵は爵位を継ぐため現場から離れた。


「領地経営に奔走する祖父は、タルッカ鉱山に関して時々視察をしたり、報告書を読むだけになりました。それから何年か過ぎて、祖父は恐ろしい噂を耳にしたそうです」


 タルッカ鉱山に行った者が、誰も帰って来ない。探しに行った者もすべて消えている。そんな馬鹿な、と前伯爵は思ったそうだが、そういえば最近報告書が届いていない。

 前伯爵は部下を連れてタルッカ鉱山へ視察へ出向いた。そこで待っていたのは、彼がかつて築いた活気溢れる鉱山、ではなく地獄だった。


「鉱山の、出入り口の前には人の屍と、エメラルドの原石が積み上がっていました。何か事故でもあったのか、と入った鉱山の内部にも乱雑にエメラルドの原石が散らばっていたそうです」

「価値のない屑石だったのか?」

「いいえ……。いずれも商品価値の高い石ばかりです。鉱山の内部に人の死体はなかったらしいですが、恐ろしい事故があったことは確かです。鉱山から出ようとした祖父は部下に声をかけました。でも、それに返事をしたのはただ一人だけだったそうです」

「は……?」

「たった一人を除いて、部下が居なくなっていました」


 前伯爵は護衛を含め十人近く人を連れて来ていた。そのほとんどが突然行方不明になり、彼は泡を食って部下たちを探した。


 部下たちはすぐに見つかった。全員が坑道の奥深くで金槌とミノを持ち、壁を掘っていたのだ。その表情は虚ろで、うわ言のように「エメラルド……」「もっと、あるはずだ……」と呟いていたそうだ。


 前伯爵と無事だった部下は何とか彼らを連れ出そうとしたが、梃子でも動かず一旦諦めた。部下の異変の原因があるだろうゴーストタウンと化した町を調べてみることにしたのだ。


「祖父が一番信頼していた現場監督が、日誌を残していました。そこに、すべての真実が書かれていたのです」


 ことの起こりは一ヶ月前。ある坑夫がひとつの原石を掘り出した。未加工の状態でも今までにない品質のそれを、現場監督は魔法で研磨したそうだ。


「その結果できたのが、エルネスト様もご覧になったアレです」


 現場監督も、坑夫もたちまちあのエメラルドの虜になった。夜は全員でアレを囲んで見つめ続け、朝が来れば同じ石を求めてひたすら掘り続ける。アレを見た者はすべてそうなった。

 現場監督は辛うじて正気を保っていが、日を追うごとに周りの狂気に呑まれていった。それでも最後の良心で、アレを部屋に隠したそうだ。


「祖父は部屋を探して、アレを見つけました。わたくしと同じく、祖父はアレに魅入られることはなかった。部下の方はエルネスト様のように一時的に魅入られたものの、正気に戻った時に強い嫌悪感を覚えたそうです」


 前伯爵はとりあえずそのエメラルドを隠すことを決めた。ただ、エメラルドを見てもいないのに魅入られたような行動をする部下たちが残っている。彼らを正気に戻すために前伯爵は近所の教会にいた司祭に相談した。

 司祭は快く相談に応じ、現場にも出向いてくれたそうだ。


「司祭様は鉱山を見て、たくさんいる、とおっしゃったそうです」

「たくさんいる? それは、まさか……」

「そうです。エメラルドに魅入られ、ひたすら掘り続けた末に亡くなった人々はまだそこにいたのです。祖父の部下のみなさんは、彼らに取り憑かれていました」


 司祭の尽力で死霊を一旦祓うことはできた。しかし、完全に助かったとは言い難かった。死人の強力な想念に晒された彼らはすでに正気を失っていた。


 前伯爵はどうすることもできず、司祭の助言に従い、この事件を隠滅した。表向きには崩落事故が起こったことにし、亡骸を弔い、故人の肉親には賠償金を渡したそうだ。

 そして、鉱山の出入り口は人ひとりの力では開けられない、重く分厚い鉄の扉で封じられた。

 問題のエメラルドは、前伯爵には害を及ぼさなかったから、そのうち処分するつもりだったそうだ。


「君が持っているということは、処分できなかったということだな」

「はい……。魔法も、単純な物理攻撃も効かなかったそうです」

「研磨の魔法は効いたのに、おかしなものだな」


 どうも、ジャンヌの伯父は前伯爵が処分しようと試行錯誤しているところを見て、魅入られたようだ。

 まるで自我でも持っていそうな、魔性のエメラルド。そんな恐ろしいものを受け継ぐしかなかったジャンヌは震えていた。


 なんとかしてやりたいとエルネストは思った。

 彼女はこれからずっとこんな恐ろしいものを管理していかなければいけないのだ。もし失敗すれば、サルヴェール伯爵家のような事件が起こる。心が休まる暇がないだろう。


「ジャンヌ。明日にでも教会に行かないか。そのエメラルドをどうにかできないか、相談しよう」

「えっ……。でも、昔祖父に協力して下さった司祭様が手に負えないと……」

「それは、その司祭の手に負えないということだろう? もしかしたら何とかできる者がいるかもしれない。私の友人が教会にいるから、相談してみよう」


 ジャンヌは不安そうに胸元を押さえる。聞けば、そこにエメラルドを隠していると教えてくれた。

 実家の強欲な継母と異母妹の目から隠すには、そこしかなかったそうだ。


 彼の家に嫁いでからは使用人に世話をされるようになってしまって、隠し場所に困っていたらしい。

 今までの苦労が偲ばれる。エルネストは渋るジャンヌを説得し、一度だけでもと教会に行く約束を取り付けた。



 ◇◇◇



 数日後、友人へ手紙を送ってからジャンヌを連れて教会へ出向いた。


 そこで二人を待っていたのは、エルネストの同級生で司祭になったアルバンと、彼に腕を掴まれた魔道士らしい黒いローブを纏った少女だった。

 二人は教会の廊下で何やら押し問答をしていた。アルバンは彼に気づくと快活に笑う。


「やあ、エルネスト。久しぶり。ちょっと待ってね。この怪しい女性から色々聞かなきゃいけないことがあって……。ちょっと閉じ込めてくるよ」

「ちょっと離してよ! あたしどっこも怪しくないし! 行き倒れを埋葬してくれって頼みに来た善意の塊じゃん!」

「君、馬鹿にしてるの? あの行き倒れ、サルヴェール伯爵でしょう。僕は元貴族だから、いくら平民みたいな格好しててもわかるよ。貴族の彼がガリガリのボロボロになって行き倒れてたなんて事件性しかないじゃない」

「……サルヴェール伯爵?」

「レベッカ?」


 二人の言い争いに聞き捨てならない名前が出る。

 隣のジャンヌも知らない名前を呟いて、ローブの少女が勢いよく振り返った。


「あー!! ジャンヌさま! ジャンヌさま助けて! このおーぼー司祭があたしに言いがかりつけてくるんです!」

「誰か横暴だ」

「レベッカ、一体何が……。あの、司祭様。彼女を離してあげてくださいませんか……?」


 どうやら二人は知り合いらしい。アルバンはジャンヌとレベッカを見比べてから、掴んでいた腕を離した。

 レベッカは解き放たれた犬のようにジャンヌに駆け寄る。


「ジャンヌさまぁー!!」


 まだ十四、五くらいの仔犬のような少女は躊躇いなくジャンヌに抱きつきその胸元に懐く。


「レベッカ、事情を……」

「お久しぶりですぅ! どっかの貴族にお金で買われて結婚したって聞いて、あたし心配してたんですよぉ!」

「レベッカ、待って」

「どうしても会いたくて母さんに無理言ってお使いにきたんですぅ!」

「お使い?」

「そうです! 内緒なんですけどぉ。タルッカ鉱山に勝手に入って死ぬ迷惑な人たちがいるんですよぉ。

 そういう人は父さんが行き倒れって言ってこっそり教会に持ってくんですけどぉ。あたし、ジャンヌさまに会いたかったから代わって貰ったんです! めちゃくちゃ渋られましたけど、粘って良かった!」

「あの、レベッカ……」

「あっ、聞いてくださいよ。この司祭、なんかやたら怪しい怪しいって言ってあたしを捕まえようとするんですよ! あたしは迷惑な人をここまで運んできた善良な市民なのに! ひどくないですか!」

「レベッカ……」

「あれ、どうかしました?」


 ひとしきり話したレベッカはやっと落ち着いたのか、険しい表情をするジャンヌに気づいたようだ。不思議そうにしている。

 エルネストも怒涛の事実に処理が追いつかず、ポカンとしていた。なんとも言えない空気の中、アルバンが噴き出す。


「ぷっふふっ! それ、本気でやってる? 事情はよくわかんないけど、内緒ってことはそこのお嬢さんにも言っちゃいけないことなんじゃないの?」

「えっ……? あっ、そうだった!!」


 アルバンの指摘にレベッカは慌てて口を押さえた。今更遅い。アルバンがケラケラと笑い出す。

 笑っていられないのはジャンヌとエルネストだ。


 彼女の話から推測すると、タルッカ鉱山にはたびたび迷い込む人間がいて、死体になって発見される。レベッカとその家族はその事実を隠蔽し、死体は行き倒れと詐称して教会へ運んでいた。しかも今回の犠牲者はサルヴェール伯爵だ。

 ジャンヌは鬼気迫る表情でレベッカの肩を掴んだ。


「レベッカ、どういうことか説明して」

「ひょえっ! だめですあたし母さんに半殺しにされちゃう!」

「君、下手に隠しだてするともっと大変なことになるぞ。現役の伯爵が死んだんだ。家族諸共捕まることになりかねん」

「ひょえぇ!! ぜんぜん知らないかっこいい人まですっごい脅してくる! こわいっ!」


 三人のやり取りを見て、アルバンは腹を抱えて笑っている。ひいひいと苦しげな息をしながら、エルネストの肩に手を置いた。


「と、とりあえず、こんなとこではなんだから、移動しない?」


 エルネストは周囲を見回した。いつの間にやらできていた人集りを見て、確かにそうだな、と思った。



 ◇◇◇



 アルバンに提供された部屋に入った彼らがまずしたのは自己紹介だ。


 だいたい予想がついていたが、レベッカはタルッカ鉱山を管理している夫婦の娘だった。ジャンヌからエルネストを紹介された彼女は「これが、ジャンヌさまを金で買った男……」と言って、怒られていた。どうにも正直すぎる性格なようだ。


 そして、アルバンは友人のエルネストが紹介した。

 彼はかつて、伯爵家の次男で、王太子とエルネストとは幼馴染だった。ただ、エマのことで仲が拗れた結果、彼は出家してしまったのだ。

 彼の兄は傲慢な男なので、あのまま仲が拗れなければ、アルバンは兄から継承権を奪い、王太子の側近として働いていただろう。


 正直に言うと、アルバンに会うのは気まずかった。

 今思い返せば、エマについて申し立てをするアルバンの主張は正しかった。それを数の暴力で封殺したのだ。後ろめたい気持ちがあった。


「レベッカ。サルヴェール伯爵はどこで、どのようにお亡くなりになったの?」

「あう〜」

「わたくしに本当のことを教えて?」

「あうあうあう〜。でもでも、言ったらあたし母さんに〜」

「もうほとんど言っちゃったようなもんじゃない。今更でしょ?」


 しかし、レベッカのおかげで特にぎこちなくなることはなかった。そこは感謝するが、尋問に手を抜くつもりはない。


「サルヴェール伯爵についてはともかく、君たち家族が時々タルッカエメラルドを馴染みの商人に売っていることは調べがついている」

「えっ……。本当ですか……?」

「ジャンヌは知らなかったのか。なるほど。君に秘密で採掘をし、売った資金は着服してたのかもしれないな」

「ひぇ! そ、そんな悪いことしてないです!

 そもそもあたしも母さんもエメラルドを掘ってません!」

「じゃあ、サルヴェール伯爵がどうして死んだのか、話してくれない?」

 

 レベッカが渋々説明を始めた。

 タルッカ鉱山は現在、鍵を持たない者では開けられない扉で閉じられている。なのに、数年に一度、どこからか人が迷い込むそうだ。


「あたしも母さんも土の魔法が使えるんで、山をくまなく調べたんです。でも抜け道みたいなのはないし。どこから入ってるかわかんないです。

 扉は男の人が三人がかりじゃないと開かないくらい重たいし、鍵もちゃんと閉まってるんですよ。通風口? 空気穴みたいなのがあるらしいですけど、それだって蓋して開かないようになってますし……」

「ねぇ、なんで鉱山の中に入ったってわかるの?」

「死体がたくさんエメラルドの原石を持ってるんだもん。中に入らないとあんな大きい石、ないよ」


 レベッカとその母は土属性の魔法が使えるそうだ。熟練の土属性の魔道士は、地形の把握や地中に埋まったものを掘り出すといったこともできる。

 レベッカはともかく、元は前伯爵が鉱山を調べるために雇ったという彼女の母がないと言うならタルッカ鉱山に進入口はないのだ。


 死体は必ず出入り口の、重い扉の前に倒れている。大粒のエメラルドの原石と一緒に。

 大きな原石は山の周辺を探してもまず見つかるものではないため、死体の主は鉱山内部に侵入したということで間違いなさそうだ。


「あたしたちだって迷惑してるんですよ。知らないうちに来て、知らないうちに死んでるんですから。

 そもそも結界張って部外者は山に入れないようにしてるのに勝手に入ってくるの、フホーシンニューってやつでしょ? 鉱山のエメラルドはジャンヌさまのものだし、泥棒じゃん! 犯罪者をちゃんと弔ってあげるんだからあたしたち優しいと思います!」


 力強く無罪を主張するレベッカをよそに、聞いているエルネストたちはどんどん真顔になっていた。


 閉ざされた鉱山の中に、彼らはどうやって入ったのか。そして、どうやってエメラルドを持って出たのか。鉱山に張られた結界を破壊せずに突破した件も道理に合わない。


 今回死体で見つかったサルヴェール伯爵は彼と別れたあと、どう行動したのだろうか。ジャンヌを避け、管理人夫婦に直接交渉に出向いたのかもしれない。

 彼の身に何が起きたかはわからないが、事前にジャンヌの話を聞いていたエルネストは、前伯爵の部下たちのように亡者に招き寄せられる彼の姿を想像し、ゾッとしてしまった。


「……それはともかく、君たちが時々売りに出してるエメラルドはどっから出たの?」

「さっき言ったじゃん! 死体がエメラルド持ってるって。あれ」

「し、死体が持ってたエメラルドを売ってたのか!?」

「だって〜。手元に置いとくの、気持ち悪くないですか? それに売ったらジャンヌさまの財産になるし!」

「ジャ、ジャンヌー!!」


 能天気に衝撃的なことを告白するレベッカの横でジャンヌが音もなく卒倒した。エルネストが慌てて助け起こす。


「いや、買った人だって気味悪いだろ」

「買った人は死体が持ってたなんて知らないから綺麗だと思うだけでしょ?」


 そうだけども。

 それは、そうだけども。エルネストはなんと言っていいかわからず、もやもやした。


「まあ、いいや。とりあえず、特に不正はしてないし、サルヴェール伯爵の死にも関係してないんだね?」

「だからそうだってずっと言ってるし!」


 アルバンはレベッカの発言をさらりと流してしまった。そこは流さないで欲しかった。しかし、青褪めて、今にも気を失いそうなジャンヌを介抱するのに忙しく、口を挟めなかった。


「疑いが晴れたならもう帰っていいでしょ?」

「いや、もうしばらくいてもらう。多分これからする話に無関係ではなさそうだからな。そうだろう、エルネスト」

「ああ」


 衝撃の事実に言葉が出ないジャンヌに代わり、彼が経緯を説明した。死者が蠢く鉱山に、人を狂わせる魔性のエメラルド。なんとかできないかと相談する。


「そのエメラルド、実物は?」

「ジャンヌが持っている」

「僕が見てもいいですか?」


 アルバンがジャンヌに向けて頼むと、彼女の瞳が不安そうに揺れた。潤んだ目でエルネストを見上げてくる。


「アルバン。一度見た私から忠告してもいいか」

「うん。聞こう」

「あのエメラルドは精神に干渉する状態異常魔法がかかっていると感じた。覚悟を持って見てくれ」


 それは、混乱や魅了といった状態異常を起こす魔法だ。

 彼は一年ほど前、エマの件の罰の一環で、長期に渡り魔物の討伐に従事したことがある。その時、魔物からかけられた混乱魔法と、エメラルドを見た後の感触が良く似ていたのだ。


 混乱魔法は彼の魔力の高さが幸いして、簡単に破ることができたが、その後の彼は強い嫌悪感を覚えた。冷静さを欠き、魔法を使った魔物を衝動のままに切り捨てていた。

 長年魔物討伐に携わる戦士たちが言うには、混乱や魅了の魔法を打ち破ると必ずそうなるらしい。精神を操られそうになった。その事実が強い嫌悪を生むのだ。


 あのエメラルドにかかっているのは魅了魔法で、多分、かつて彼にかけられた混乱魔法の比ではないほど強力だ。アルバンの魔力は高いが、耐えられるかはわからなかった。


「わかった。しっかり覚悟するよ。見せてくれる?」

「エルネスト様……」

「ジャンヌ、気が進まないのはわかるが、見せてやってくれ。アルバンは一度言い出すときかない。もしもの時は私がぶん殴るから」

「暴力的だなぁ」


 アルバンはヘラヘラ笑っている。

 ジャンヌはいかにも不安そうだが、結局見せることにしたらしい。レベッカに絶対見ないように目隠しをさせて、後ろを向いた。胸の谷間から例の小袋を取り出すのが見えて、彼は紳士的に視線を逸らす。


「あの、これです……」

「私が見せよう」


 振り返ってエメラルドを渡そうとしたジャンヌの手から袋を抜き取る。流石に妻の胸に挟まっていたものを他の男に触れさせるのは抵抗があった。

 彼はなるべく自分には見えないように袋の中身を手のひらに出し、アルバンに向かって見せた。


 ころり、と冷たい感触がして、鳥肌が立つ。あの、この世のものとは思えない緑が手の内にあった。しかし、その印象は以前とは正反対だ。

 あの時感じた多幸感は一切なく、逆に得体の知れないものに触れている不快感にぞわぞわする。


 ジャンヌが不安そうに二人を見比べているが、この様子ならエルネストは大丈夫そうだ。

 アルバンは食い入るようにエメラルドを見つめ、暫くすると満足そうにため息をついて微笑んだ。


「もういいよ。ありがとう。エルネストの言う通り、魅了魔法がかかってるね。珍しい」


 先程と変わった様子のないアルバンに安心し、エルネストは袋にエメラルドを戻してからジャンヌに返した。


「もしかして、壊そうとしても壊せないんじゃない?」

「よくわかったな。その通りだ」

「あの、もしかして似たようなものが存在するのですか?」

「ええ、魅了魔法ではありませんが、同じような宝石は存在します」


 アルバンが言うには、極々稀に強い魔力が篭った宝石が見つかるのだそうだ。

 水の魔力を持ったサファイア、火の魔力を持ったルビー、雷の魔力を持ったトパーズ。長い年月を経て自然が生み出したそれらは、人間では制御不能だ。


「水のサファイアはほっとくとどんどん雨を降らせるし、火のルビーは周囲にあるものを手当たり次第燃やすし、雷のトパーズは持ってると雷が落ちてくるし、厄介この上ない代物だよ」

「それは……。国が滅びかねないな」

「そうなんだ。だから教会で長いこと研究して安全に保管する方法が確立されてる」


 その方法はごく単純で、教会の総本山がある聖地の土に埋めて保管するというものだ。元々石の中にあったものだから、近い土の中が安定するのかもしれない。


「そうか! よかったな、ジャンヌ。教会に預ければもう犠牲者は出ない」

「ほんとうに……?」


 ジャンヌは信じられないとでも言うように、目を見開いた。宝石のような瞳からころりと涙が溢れる。


「本当ですよ。引き取りましょうか?」

「はい……はい! 教会のご迷惑にならないのなら……」


 肩の荷が降りたといった様子でエメラルドを差し出すジャンヌ。

 アルバンがそれを受け取る前に、エルネストはさっとそれを回収し、自分のハンカチでエメラルドを包み直すと、彼の手に載せた。エメラルドが入っていた袋はエルネストの懐に収まる。


「え? なんで?」

「気にするな」

「気になるんだけど」


 アルバンに突っ込まれたが、黙殺する。


「それで、タルッカ鉱山の件だが」

「露骨に話題変えてくるじゃん。まあ、いいか」


 エメラルドを懐に仕舞ったアルバンはジャンヌに向き直った。


「お話しからすると、タルッカ鉱山は悪霊の巣窟になってしまっているようです。現世を彷徨う魂を昇天させるには定期的な浄化が必要となります」

「浄化で、あそこに囚われた方々は救われますか?」

「実際に現場を見てみないことにはなんとも……。絶対とは保証できません」

「それでも、可能性があるなら……」

「わかりました。努力してみます」


 浄化というのは、修行した司祭だけが使える奇跡の力だ。魔物としての亡霊(ゴースト)は魔法で倒せるが、しばらく経つと復活してしまう。この世への執着から解放し、昇天させるには司祭の根気強い説得と浄化が必要になる。

 タルッカ鉱山の死者の数は多い。完全な浄化ができるかはわからないが、これ以上の犠牲者を増やさないためにも、できることはやっておくべきだろう。


「それじゃあ、今後について打ち合わせがしたいんですが……」


 アルバンはそう言って、レベッカを見た。彼女は先程ジャンヌに見るなと命じられてから、素直に目隠しを続けている。喋るなとは言われてないのだが、静かだ。


「そうですね! こちらの彼女にお願いしますから、奥様は今日のところお帰りになって結構ですよ!」

「はっ!? 何言ってんのお前!」


 アルバンに肩を叩かれ、レベッカが反射的に反抗した。それでも目隠しをやめないあたりジャンヌには忠実である。


「レベッカ、目隠しはもういいのよ。あの、司祭様、鉱山の件は、わたくしが……」

「でも、奥様はタルッカ鉱山に行ったことすらないんじゃないですか?」

「うっ……! はい……。その通りです……」


 アルバンの指摘にジャンヌは項垂れる。子爵家で育ち、幼い頃しかサルヴェール伯爵領に行ったことのないジャンヌである。タルッカ鉱山どころか土地勘なんてものも、これっぽっちもないに違いない。

 それなら、現在もそこに暮らしているレベッカに聞いた方が早いと考えるのは当たり前のことだった。


「という訳で、協力よろしくね。レベッカちゃん」

「やだー!! あたしもジャンヌさまと一緒に帰るー! 今まであんまりお話しできなかったからこれからいっぱいするんだもんー!」

「レ、レベッカ! これからはいつでも会えるから……」


 やだやだと駄々を捏ねるレベッカをジャンヌが宥めている。ジャンヌは子爵家で使用人扱いされていたし、レベッカは遠く離れた場所で暮らしていた。会うことすらままならなかったのだろう。

 終いにはえぐえぐと泣き出したレベッカをジャンヌはオロオロと慰めている。

 その原因となった男は素知らぬ顔で彼の隣に立った。


「アルバン」

「なーに?」

「お前は気づいていたのか?」

「何が?」

「エマが、魅了魔法を使っていることを」


 アルバンは微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。だが、それだけで十分だった。


 エメラルドに魅了されたエルネストだったが、その効果は一時的なものとなった。それは、彼の魔力が高いせいでも、運がよかったからでもない。

 元からかかっていた魅了魔法と効果を打ち消しあっただけだ。


 それに気づいたのは、使用人たちにベッドへ押し込まれたあとだった。エメラルドにもエマにも例えようもない嫌悪感が湧いてきたからに他ならない。

 精神に干渉する魔法に抵抗し、打ち勝つと術者に嫌悪感を抱く。

 彼は自力で打ち勝った訳ではないが、効果が切れたことで感情が反転した。今ではエマのことはなんとも思ってはいない。ただ、アルバンに申し訳なかった。


「アルバン」

「何かな?」

「本当にすまなかった。あの時お前が言っていたことは正しかった」


 エマが「男に襲われそうになった」と王太子に助けを求めた時、アルバンは真っ先に「何故教師に相談しないのか」と指摘した。

 学園には女性教師もいる。確かにまず助けを求めるなら大人である彼女らだろうと、今になって思う。


 当時はエマが彼らを頼ってくれたことと、「女教師に嫌われている」という言葉を鵜呑みにして、アルバンの訴えを退けてしまった。

 アルバンはなんでもないとでも言うように笑い、首を振った。


「いや、あの時は僕もやり方がまずかったから。馬鹿正直に真っ直ぐ訴えたってうまくいくはずがないと、わかってたのに」

「アルバンは悪くない。そもそも、魅了魔法にかかった私たちが悪いんだ」

「それこそ仕方ないよ。彼女の魅了魔法の練度はかなり高かった。大抵の人間は抵抗できなかったはずだ」

「魅了魔法とは、なんなんだ」


 エルネストは思わず尋ねていた。

 何故か神聖属性に分類される魅了魔法は、人間で使う者はほとんどいない。

 適性持ちが少ないという理由以外にも、魔物がたまに使う魅了魔法の成功率の低さ故に、あまり役に立たない魔法という認識されていることも原因に挙げられる。


「魅了魔法は、研究の進んでない分野だからね。わからないことだらけだ。

 まぁ、仕方ないよ。神聖属性の持ち主は素質があっても魅了より回復魔法を優先してしまうから使い手なんてほとんどいないし、魔物の使う魅了魔法はちゃっちいし。対策ができなくて当然なのさ」


 アルバンの言葉にエルネストは頷いた。神聖属性を持つものに求められるのは、各種回復魔法だ。珍しい魅了魔法だが、その需要はほとんどない。そのことが魅了魔法の理解を遅らせている。


「魅了魔法の使い手の母数が少ないことは確かだけど、自分が魅了魔法を使えるという自覚ができてない場合も多いんだ。

 あの女のように自分の能力を理解して、積極的に練度を上げる魔道士は滅多にいない。人間関係をぐちゃぐちゃにする可能性のある魔法だからね。

 それに、彼女が魔力の鑑定を受けて属性を知ったのは、学園に入学する少し前だ。それにしては練度が高すぎる気がするよ」

「まさか、以前から自分に魅了魔法の適性があると、知っていた?」

「……さあねえ。ま、胡散臭いことは確かかな」


 エマに得体の知れないものを感じて、未だに彼女の魔法に囚われたままの主君と仲間たちが心配になる。


「……殿下たちの魔法は、解けないのだろうか」

「状態異常解除の魔法が使える神聖属性の魔法使いなら多分……。今探してるよ」

「そのエメラルドを見せるのは駄目か?」

「難しいんじゃないかな。エルネストの場合は色々偶然が重なってうまくいっただけで。もし殿下たちがエメラルド狂いになったらどうするの? エマより厄介だよ」


 確かにそうだと諦める。彼らを助けるためにはもうしばらく時間がかかりそうだ。


 ふと、学生時代、エマを襲った生徒たちのことを思い出した。彼らは、自分の意志でエマを襲ったのだろうか。

 彼女が魅了魔法の使い手である以上、操られた可能性を否定できない。エルネストは一刻も早く状態異常を解除できる魔法使いを見つけようと心に決めた。


 やっとレベッカを落ち着かせたジャンヌが苦笑しながら彼の隣に戻ってきた。今日は色々あったせいか疲労の色が濃い。まずは彼女を休ませねばと、手を取る。


「アルバン。相談に乗ってくれてありがとう。また話が纏まったら連絡をくれ。今日のところは帰る」

「りょーかい。二、三日中にはなんか報告できると思うよ」

「よろしくお願いします、司祭様。レベッカ、また今度会いましょう。司祭様にあまり我儘を言っては駄目よ」

「むぅ〜」


 別れの挨拶を交わし、エルネストとジャンヌは朗らかなアルバンとむくれているレベッカに見送られて部屋を出る。

 緩く振っていた手を下ろしたアルバンはボソリと呟く。


「まあ、術者が死ねば魔法は解けるんだけどね」

「なんか言った?」

「なーんでも! さて、打ち合わせを始めようか。君のご両親も紹介してほしいな!」

「捕まえたりしない?」


 警戒するレベッカにアルバンは「もちろん!」と言いつつ、見惚れるような満面の笑みを浮かべた。


「うさんくさい」


 その極上の微笑みを、レベッカはばっさり切り捨てた。



 ◇◇◇



 その日の夜、エルネストはジャンヌの寝室を訪ねた。彼女はベッドに座り、膝に載せた宝石箱の中を覗いていた。


「こんばんは」

「えっ、エルネスト様!?」


 一応ノックはしたのだが、ジャンヌには聞こえていなかったらしい。驚いて立ち上がる。


「少し話したいのだが、いいか」

「はい、構いませんが……」


 不思議そうに首を傾げるジャンヌは、無防備な寝巻き姿だ。エルネストは視線のやり場に困った。二人はベッドに並んで座る。


「その、ちゃんと話しておかねば、と思ってな」

「はい、なんでしょう」

「私たちの今後についてだ」


 彼にかかっていた魅了魔法は解けた。

 エマへの恋は消え去ったが、ではジャンヌが好きかと聞かれると、そうでもない。結局彼女は両親によって強制的に娶らせられた妻であることに変わりはなく、二人の関係は同居人程度だ。


「私は、まだ君のことを妻だとは思えない。君も私のことは夫とは思えないんじゃないか?」

「……そう、ですね。そうかもしれません。わたくし、その、健全な夫婦というものを見て育ってはいないので。余計に想像できないというか……」

「そうだろうな」


 ジャンヌの育成環境を思って頷いた。

 彼女の場合、母親が早くに亡くなって、継母に虐待されただけではなく、あのエメラルドを所有していたということもある。ジャンヌに周りを見る余裕がなかっただろうことは想像に難くない。


「だから、夫婦を一旦辞めないか?」

「辞められるのですか?」

「いや、書類は提出してしまったからそう簡単にはやめられないが……。それは一旦忘れて、お互いのことを知るために、ただのエルネストとジャンヌとして過さないか、という提案だ」


 契約に伴う義務や責任を忘れて、ジャンヌのひととなりを知りたいとエルネストは思ったのだ。そして、彼女にも自然な彼を知って欲しい。


 その後どうするのかは考えていないが、互いに悪くないと思うなら、ちゃんと夫婦になればいいし、どうにも合わないとなったら、ジャンヌを自由にする手続きをするだけだ。

 エルネストには彼女を実家に戻さずに新たな生活を始められるよう、支援するくらいの甲斐性はある。


 そんなことを考えているが、彼は多分手続きをすることはないだろうという予感があった。


 ただただ不気味だったリュシエンヌ。


 一滴の甘露と、胸に棒でも突っ込まれてかき混ぜられているような苦しみばかりを感じたエマ。


 今までエルネストの前に現れた女性と比べると、ジャンヌに感じる気持ちは穏やかなものだ。その安らかさがとても心地いい。

 波乱や激動とは無縁だろうが、長く一緒にいるならジャンヌがいいと思うのだ。


「……素敵な提案ですね。でも、そんなにゆっくりしていていいのでしょうか? お義父様に叱られませんか?」

「父上の説教は長いだけだから、右から左に聞き流せばいいさ」

「うふふ……。はい、そうします。

 では、改めてエルネスト様。これから、よろしくお願いします」

「ああ。よろしく頼む、ジャンヌ」


 互いに頭を下げて、顔を見合わせる。自然におっとりとジャンヌが笑った。

 彼女の手は無意識に胸元を撫でている。少し前までそこにあったものを確かめるような動きだ。エルネストはジャンヌの膝に載ったままの宝石箱を見た。


「それの中を見せてもらえないだろうか」

「はい、構いませんが……」


 唐突に宝石箱を指差したエルネストに不思議そうな顔をしながら、ジャンヌはそれを差し出した。その表情にかつての恐怖はない。

 エルネストは丁寧に受け取って、それの蓋を開けた。

 宝石箱の中はスカスカだ。昨日今日で増える訳がないし、ひとつ減ったのだから中身が寂しくて当然である。


「手始めに、この中へ入れるものを贈らせてほしい。近日中に宝石商を呼ぼう」

「えっ!? そんな、結構です!」

「遠慮しないでくれ。君が、あのエメラルドから解放された記念に、君が好きになれるものを贈りたいんだ」


 ジャンヌは小さく息を呑むと、泣きそうな表情になった。

 母が贈った宝石箱の中に、あの呪わしいエメラルドは必要ない。もう二度と入るところがないくらい、ジャンヌの好きなものを詰めたらいいと思う。


「……ありがとう、ございます。エメラルド以外ならなんでも好きになれそうです」


 ジャンヌはぽろりと一粒涙を零しながらも笑って見せた。

 涙に潤む瞳を見て、エルネストは確かにエメラルドはいらないな、と思った。

 ジャンヌの瞳以上に美しいエメラルドは、この世にないだろうから。



 ◇◇◇



 エルネストとジャンヌが共に新たな一歩を踏み出した数日後、王宮は騒然としていた。


 王太子の婚約者が煙のように姿を消したのだ。


 彼女に与えられた部屋の周辺には常に兵士たちが哨戒しており、いくつもの門を抜けなければ、王宮からは出られない。

 なのに、誰も彼女が出て行くところを見た者はいなかった。


 その後の捜査の結果、彼女は平民に変装し、王都を出たことがわかった。ただしそれからの足取りは杳として知れない。

 彼女は周囲に王妃教育の辛さを零していたことから、逃げ出したと判断され、捜査は打ち切られた。




 それから、さらに幾日か経った頃。王都で一番大きな教会に一人の女性の亡骸が持ち込まれた。


 どうやら行き倒れらしいその遺体は、相当荒れた生活をしていたのか、ガリガリに痩せ細り、身なりもボロボロであった。悲しいことに貧困故に亡くなる人は少なくはなく、彼女のような死に様はありふれたものだった。


 この小さな出来事は、誰も彼女に興味を持たなかったので、王都の墓地に無名の墓標がひとつ増えて片付けられた。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。次の話はややホラー風味の最後の部分の補足になります。


〈登場人物〉


・エルネスト


 主人公。魅了魔法にかかっていた。くそ真面目な性格。今後は一年くらいジャンヌと清い交際をしてからちゃんと夫婦になる予定。ちょっとむらむらした時はあの袋をはすはすして我慢している。


・ジャンヌ


 この度呪いのエメラルドと鉱山から解放された。割と不運。実家はジャンヌを売って得たお金ですっかり金銭感覚が狂い、贅沢しまくって没落する予定。ただしエルネストが情報を遮断するため、彼女の耳には入らない。


・アルバン


 呪いのエメラルドを引き取った。今後はタルッカ鉱山の管理も引き継ぐ予定。エルネストとの友情は復活したが、今のところ還俗して王太子の側近に戻るつもりはない。


・レベッカとその両親


 ホラースポットの隣で楽しく暮らしていた。父は前伯爵がタルッカ鉱山に来た時唯一助かった部下の息子で、母はタルッカ鉱山に誰も入らないようにと前伯爵が雇った魔道士。

 レベッカはもうすぐ魔法学園に入学する予定。ジャンヌの近くで暮らせると大喜びで王都へ移り住むが、何故だかアルバンの手伝いばかりやらされて、あんまりジャンヌに会えない。


・リュシエンヌ


 転生者。推しの婚約者に生まれ変わってテンションが上がり、はしゃぎすぎて大失敗した。婚約破棄を申し出たのは推しにドン引きされていると知ったせい。推しを怖がらせてしまったと罪悪感MAX。

 他の婚約者たちに婚約破棄を勧めたのはエマに囲い込まれているのがわかっていたから。結局自分以外の婚約破棄は失敗し、かなり落ち込む。

 婚約破棄後は逃げるように他国へ留学している。

 帰国したら「推しから貰った慰謝料で老後は推しの未亡人ごっこをして過ごす」という計画が台無しになっており、涙目。

 原因となった家族たちは彼女のことを思ってやった。家族仲はとてもいい。ただし意思疎通はできていない。とても不憫。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 後書きwww
[一言] 〉魔法も、単純な物理攻撃も効かなかったそうです エメラルドは取り出したばかりのあずきバー並みにメッチャ硬いらしい。 因みにかつて英軍が立案した巨大氷山空母と同じ原理で硬いんだとか。 しかし…
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