前編
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きっかけはその一言だった。
「その慰謝料、よかったらわたくしが支払いましょうか?」
◇◇◇
エルネスト・ジスカール。
侯爵家の嫡男という恵まれた環境に生まれた彼の、運命の転機は十八の時だった。一定以上の魔力を持つ者なら必ず通う魔法学園の最終学年に、エマという女性と出会ったのだ。
エマは希少な回復魔法が使える神聖属性の魔力を持つ平民の生徒である。珍しいことに十七歳になったあとから唐突に魔力量が増え始め、この度学園の基準に達したため編入とあいなった。滅多にいない編入生。容姿は愛らしく、魔力の属性は珍しい上に、量も増え続けている。たちまちエマは学園の注目の的になった。
それはどちらかというと悪いことであった。
優秀な次世代の魔道士を生み出すためには、親の素質の高さが重要視される。
だから、昔から魔力の高い女性は危険に身を晒されてきた。昔は強い子供を欲して、そうした女性が攫われるなんてことも日常茶飯事だったそうだ。
悲しいことに、学園にもそうした思想を持つ不届き者がいたらしい。エマが彼らに狙われるようになったのだ。
身の危険を察したエマが助けを求めたのはエルネストが仕える王太子だった。それから彼らはエマを狙う不届き者たちを特定しては学園から退学させたり、時には牢屋送りにした。
最後には王太子の婚約者がエマを妬み、男子生徒を唆して襲わせるなんて事件を解決して、彼らは無事に学園を卒業した。
空席になった王太子の婚約者の座にエマが選ばれ、彼女へ淡い恋心を抱いていたエルネストの気持ち以外はめでたしめでたし、で終わるはずだった。
学園を卒業した彼らを待っていたのは親からの叱責だ。
「何故まず大人に相談しない!」
一番問題とされたのはその点だった。
学園は身分関係なく、なおかつ生徒の自主性を尊重して運営されている。しかし、心身の危険が迫っている生徒がいたら保護するのは大人の役目だ。
それにエマを襲った生徒たちを彼らの判断で処断したのもよくなかった。
「其方たちは学園では特に身分が高い。そんな者たちが自分の勝手な判断で他の生徒を断罪する。周りの生徒たちにどう見られるか想像もつかんのか。
お前たちが一人の女子生徒を贔屓して、彼女が気に食わん者を排除している、権力を笠にきて横暴に振る舞っていると映っていてもおかしくはないぞ」
国王陛下直々に説教をされて、初めて今までの自分を客観的に見れた。
エマに対する犯行は、当然人気のない場所で行われる。目撃者は少なく、時には未然に防ぐこともあった。関係のない生徒たちはほとんど彼らの事情を知らなかったに違いない。
犯人たちも、わかりやすく問題のある生徒ばかりではなかった。何も知らない生徒からしたら「友人、または同級生が突然王太子たちに難癖をつけられ、学園からいなくなった」と映っていてもおかしくはない。
再調査で冤罪がなかったことが確認されたから良かったものの、いずれ国を背負って立つ彼らがあまりにも視野が狭いことが露呈してしまった。
彼らにはいくつかのペナルティが課された。大人しく受け入れ、半年ばかりで許されたあとも、一連の騒動は終わっていなかった。
エルネストを含めた王太子の側近三名全員が婚約者から婚約破棄を求められたのだ。理由は「エマとあまりにも親密だから」。その「親密」さを証明する証拠も同時に提出された。
これはあっさり一蹴された。
確かにエマの護衛のため、必要以上に距離が近しくなっていたのは認める。しかし、彼らは誰も彼女たちが邪推するような「親密」な関係にはなっていないし、そもそもエマは王太子の婚約者になったのだ。主人の想い人に手を出す愚か者はいない。
提出された証拠も破棄するには弱く、婚約は継続に決定した。
ただ、エルネストだけは慰謝料を払っての婚約破棄に了承した。
別にエマに恋したことに罪悪感を覚えたからではない。前々から、できるなら婚約をなかったことにしたいと思っていたのだ。渡りに船だった。
色々あってエルネストの評判は下がってしまった。慰謝料の支払いもあるし、これから暫く男女のあれこれからは距離を取ろう。反省とともに彼はそう決意した。
それから一年後。エルネストは何故か妻を娶っていた。
◇◇◇
結婚式の翌日は、驚くほどいつもと変わらなかった。ひとつの変化は朝食の席に一人増えていることだ。
昨日彼の妻になったジャンヌはおっとりと朝の挨拶をした。彼女は真っ直ぐなプラチナブロンドにエメラルド色の瞳、百合のように清廉な雰囲気の美人だ。
ただ、自身も含め周囲が軒並み美形揃いのエルネストにとって、これといった特別な印象はない。美点と言えるのは貴族令嬢特有の気位の高さがまったくないくらいだ。
朝食の席についたエルネストはまず父から昨晩初夜を無視し、自室で休んだことを責められた。さらに流れるように長い説教が始まる。
エルネストはそれを甘んじて受け入れる、ふりをしてすべて聞き流していた。
父の話は無駄に長いのだ。世間では「女性はおしゃべり」だと言われているが、彼の家では逆である。
父はとにかくよく喋る。そして無口な母と彼はひたすら聞き役に徹していた。
聞き流しているうちに説教が愚痴に変わっていく。ここ最近父を悩ませているのは元婚約者の家だ。
婚約を破棄するにあたって両家は慰謝料について様々な取り決めをしていた。そのひとつが慰謝料の支払い方法だ。
一口に慰謝料と言ってもその内訳は家への賠償金なども含んでいる。そのうちの一部が元婚約者のものになるのだが、彼女の手に渡る分はエルネストの稼いだ金から支払われることになった。
分割でもいいから、彼が苦労して得た金から払ってくれと元婚約者が望んだのだ。構わないと了承し、それ以外は父が一括で払い切った。
なのに、例の家ときたら「慰謝料をなかなか払ってくれない」と周囲に零している。
家に対する賠償はもうしたし、慰謝料の支払い方法は本人からの提案である。それを我が家がさも悪いとでもいうような風評を流している。嫌がらせにしても悪質だった。
しかし、抗議をしてもまたこそこそ何か言われるばかりだ。
エルネストは縁を切るために、父に金を借りることを決めた。相手がさっさと払って欲しがっているのだから、約束も無視していいと判断したのだ。
ただ、彼らの資産は常に事業や土地の姿をしていて、まとまった現金を用意するとなるとそこそこ時間がかかってしまう。手は打っているが、その間にも噂は広まっている。それが父は不満なのだろう。
「その慰謝料、よろしかったらわたくしが支払いましょうか?」
止まらない父の愚痴の間隙をついて涼やかな声が割り込んだ。ジャンヌである。静かに朝食を味わっていたはずの彼女は、食器を操る手を止めて父とエルネストを見ていた。
「……。失礼だが、ジャンヌさん。あなたはそんな財産を持っていただろうか?」
話の腰を折られた父が空咳をひとつしてからそう質問した。
本当に失礼であるが、事実であった。ジャンヌの生家は子爵だ。目立った功績はないが借金はなく、それなりにまとまった財産も持っている。
しかし、子爵家においてジャンヌは、病で亡くなった前妻の子という微妙な立場だった。二人は政略結婚で、互いに愛がなく、子爵は自分の子供であるジャンヌにも関心が薄かった。
その上、かねてからの愛人を後妻に迎えたのだから、家に彼女の居場所があるはずもない。
後妻はかなり根性が悪く、ジャンヌは無給で使用人として働かされていた。十分な魔力を持っているのに、誰もが受ける鑑定すらして貰えなかったそうだ。
つまり彼女はよく聞く継子いじめを受けて育った。
嫁ぐにあたり持参金もなく、むしろこちらが金を払って彼女を買ったと言っていい。わざわざ金を払ってまで彼女を迎え入れたのは、彼ではなく両親である。
唯一の味方である母親とは死別、実家に帰れないジャンヌ。瑕疵ありで未だにエマへの恋心を引き摺るエルネストの妻に、逃げ出せない彼女はピッタリだと思ったのだろう。最低だ。
どこまでも他人にいいように扱われる人生を送る彼女に、財産など持つ余地はないはずであった。
「今まで管財人が管理してくれていた、祖父の残したものがございます。それほど多くはありませんが、侯爵様のおっしゃった額なら恐らく三日ほどで全額ご用意できます」
「祖父というと……サルヴェール前伯爵か」
「はい」
サルヴェール伯爵家は彼女の母親の実家だ。それなりに歴史があり、かつては領内でエメラルドの鉱脈が発見されて、羽振りの良い時期もあったと聞いている。
その鉱山の名前からタルッカと呼ばれるエメラルドは、色は濃く、鮮やかにして内包物は少なく、透明度も高い。大粒のものがよく採れ、最上級品として有名である。しかし、二十年ほどですべて掘り尽くしてしまったと聞いている。
サルヴェール家についてエルネストが一番印象深いのは、強盗に入られ、一家全員殺害されたという恐ろしい事件だ。十年も前の出来事だが、未だに犯人は捕まっていない。
その直後にジャンヌの母親も病没しているので、彼女は立て続けに身内を失っているのだ。
その後のサルヴェール家の爵位と領地は、ジャンヌとは縁の薄い遠縁の男に継承されている。彼女は本当に逃げ場所がないのだ。
ジャンヌの祖父は当時のサルヴェール伯爵。つまり事件の時に亡くなっている。その前に財産の一部を孫に与えたということらしい。
エルネストは僅かに引っかかりを覚えた。直系ではなく外孫に優先して資産を相続させるとはどういうことだ。しかもジャンヌの立場上、財産があるとわかれば父親に使い込まれる危険もある。
管財人がいるならその心配もないように思えるが、自分で管理していた方が確実だ。サルヴェール前伯爵の采配は、自分ではできないとわかっていたかのようだ。
「その……。父は持参金も用意しませんでしたし」
「それはこちらも了承していたことだから気にしなくてもいい。しかし、三日か……」
エルネストがそんなことを考えているうちに父とジャンヌの会話は進む。父は迷っているようだ。慰謝料を払うあてはあるが、三日で全額揃うという迅速さは魅力的だった。
父はエルネストに視線を寄越した。それに軽く頷く。
「……申し訳ないが、用意して貰ってもいいだろうか。時間はかかるが、同額お返ししよう」
「かしこまりました。返金はあまり気にされないでください。わたくしがまとまった財産を持っていると知ったら父が何を言ってくるか……」
「ジャンヌさん。もしあなたの実家の者がうるさく言ってきたらわたくしに言いなさい。あなたはもうジスカール家の人間。他家の人間があなたの資産にとやかく言う謂れはないのですから」
「ありがとうございます。お義母様」
煩わしい問題が片付く目処が立ち、食卓の空気が和らぐ。珍しく母が表情を和らげて長く喋った。エルネストも気が楽になる。
これでやっと縁が切れる。
元婚約者のリュシエンヌは彼にとって不気味な存在だった。彼女は何故か彼の趣味嗜好をすべて把握しているのだ。
人を使って調べた形跡はなく、魔法を使った痕跡もない。それなのに、彼の好物を、好きな色を、よく行く気に入りの場所を絶対に外さない。その上、彼が隠している悩みまでピタリと言い当てた。
気味が悪い。そう思っても仕方ないと思う。
両親もそのことを知っていたから婚約破棄を許してくれたが、やはり負担をかけてしまったと後ろめたかったのだ。
彼の気持ちを軽くしてくれたジャンヌも何故だがホッとしている。やはりそれがどこか引っかかった。
◇◇◇
慰謝料を払い終えたエルネストがまずしたのはジャンヌに礼を言うことだった。手ぶらは流石に不味かろうと花束を添える。
「ありがとうございます。男性に花束をいただくのは初めてです」
そんなことをはにかみながら言われ、悪い気がしなかった。
相変わらず閨は別だが、本人に気にした様子はない。むしろ母より女主人の仕事を教わっているので忙しく、気にする余裕がないようだ。彼女はどちらかというと母を慕っており、彼に対しては同居人程度の親しみしか持っていない。
彼も同じくらいの気持ちだから、心地よい距離感である。
なかなか夫婦らしくならない二人の関係に物申してくるのは専ら父だ。
「ジャンヌは真面目で貞淑だ。男に囲まれて喜ぶような浮ついたところもないし、とても良い妻になるぞ」
「勉強の方も着々と進んでいるそうだ。どこかの誰かと違って弱音ばかり周囲に漏らしたり、男に泣きついて逃げ出すこともない。いつまで経ってもお披露目さえできず、お前に恥をかかせることは絶対にないぞ」
そんなことを言って何とかジャンヌへ関心を持たせようとしてくる。父がジャンヌと比較して当てこすっているのはエマだ。
一年前に王太子の婚約者になったエマだったが、未だに正式には発表されていない。王妃教育が終わらないのだ。
彼女は平民として育ったのだし、生まれついて教育をされてきた貴族のようにできないのは仕方がない。父を始め、貴族たちは厳しすぎるのだ。
父の説得のようなものは正直エルネストに反発心しか抱かせなかった。代わりに母の一言が彼に重くのしかかった。
「いい加減吹っ切らないと、忠誠も、恋も、美しい思い出もすべて失うわよ」
これは流石に軽く流せなかった。王太子とエマは相思相愛で、彼の片恋は不毛の極みだ。もし無理を通そうとしたら、母の言う通りエルネストはすべてを失うだろう。
よくわかっている。理解していれば自律できるなら古今東西人は恋に悩んでいない。
せめて一縷の望みにかけ、独身でいようと思っていた。それを強制的に結婚という強引な手段で彼の希望を潰してきたのは両親だ。まったくもって息子に優しくない。
しかも、見つけてきた花嫁が恵まれない育ちのジャンヌである。あまり優しさに触れて来なかっただろう彼女は、それを感じさせない善良で朗らかな人柄だ。冷たい態度が取りにくい。
悩んだ末にエルネストは仕事に逃げた。
王妃教育が進まず、エマが苦しんでいるということを口実に、王太子の仕事を少しばかり多目に肩代わりするようになったのだ。
朝は誰よりも早く家を出て、夜は誰よりも遅く帰る。そんな生活は肉体的には辛かったが、精神的に楽だった。
だが、それを一ヶ月を続ければ、流石に悪影響が出始める。
ある日、帰ろうとしていたエルネストは彼を待っていたという初対面の男に誘われて、止める従者たちを宥めて何の躊躇いもなくついて行ってしまった。
帰宅時間が遅くできるなら、もうなんでもいいと思ったのだ。
男は彼をパブへと連れ出した。庶民的な店で、そもそも飲み屋自体初めてのエルネストはおおいに興味をそそられた。
勧められるまま酒を呑み、一杯を干す頃には頭がふわふわとしていた。まだ冷静な自分が「どうやら私は酒に弱い。これ以上呑むと人に迷惑をかけるぞ」と警告を発している。
その通りだと思った彼は来たばかりだったが、帰ろうとした。
「えっ! いや、まだ一杯じゃないですか。もう少し飲みましょうよ!」
「申し訳ない。酔ってしまったらしい。他の方の迷惑になってはいけないので失礼する」
引き止める男に断りを入れ、席を立つと僅かにふらついた。それをついてきた従者が支えてくれる。ずっとじりじりとした表情だったのに、明らかにホッとしていた。
「ま、待ってください! あの、俺は貴方の奥様の親戚でしてね! それでちょっとお話があって……」
従者に彼と男の分の代金を支払う指示をしようとしていたエルネストはピタリと止まった。改めて男の姿を確かめる。
中肉中背、三十代後半といった年頃で、一見平民のような服装をしているが、小物は気が利いたものを身につけている。
ジャンヌの親戚の中で、彼の年頃に当てはまる人物は一人しかいない。
「なんの御用ですか。サルヴェール伯爵」
「えっ……? き、気づいて……?」
「妻の親類くらい把握しています」
ジャンヌの祖父の跡目を継いだ遠縁の男だ。
何故エルネストに接触してきたのか、目的がわからない。
気持ちの良い酩酊が少しずつ覚めて、まだ働く頭が自然と彼の警戒心を上げた。
「そ、そうですか。……あ、あの、あの、ですね、お聞きしたいんですが……。奥様が前伯爵からタルッカ鉱山を含んだ土地の権利を相続したこと、ご存じですか?」
「いいえ」
エルネストは驚いたが、それを表情に出すことはしなかった。以前ジャンヌが言っていた「祖父から譲られた財産」とはタルッカ鉱山だったのだ。前に感じた違和感が強くなる。
「あの鉱山は領の財源のひとつで、個人が独占していいものではないんです。なので、奥様に返して貰えないかと……」
「何故ですか」
「えっ?」
「何故それを私に言うのですか。鉱山の権利が欲しいなら、弁護士を雇ってジャンヌと交渉すればいい。何故こんな酒の席で、そんな大事な交渉を持ちだすのですか?
しかも、私は彼女の夫ではありますが、それだけだ。鉱山の権利にはまったく関係がないというのに」
「いや、その、それは……」
サルヴェール伯爵は言葉につまり、意味のないことを呟いている。エルネストはさらに不審に思っている点を指摘する。
「それに、タルッカ鉱山は三十年ほど前に閉山しているでしょう。領の財源になるほど価値がある土地とは思えません」
「そ、それもご存じで……」
「当然です。ああ、もしかして鉱山の新しい活用法を思いついたから権利を欲しておられるのですか? それなら是非ご教授いただきたい。掘り尽くしてしまった鉱山の扱いに頭を悩ませている領は、多いのですよ」
「え、あ、いや……。えーっと……。す、すみません! 失礼します!!」
サルヴェール伯爵は慌てて一礼すると店から飛び出していった。
支払いをしていかなかったと怒る従者を宥め、店の主人に口論になってしまったことを詫びてから迷惑料を含んだ多目の料金を渡す。
店の前で待機していた馬車に乗ると、すぐに眠気が襲ってきた。とろとろと心地よい眠りに誘われる。しかし、まだ眠れなかった。
タルッカ鉱山の権利を求め、ジャンヌではなくエルネストに接触してきたサルヴェール伯爵。
ここのところ、すれ違い生活をしていたが、彼女のところに交渉の文書が届けば、彼に報告があるはずだ。伯爵は初めからジャンヌとの交渉を放棄し、夫であるエルネストを利用しようとした。
短い付き合いだが、ジャンヌの性格からすると「領の財源にする」という口実を使えば、すんなり権利を譲渡するはずである。
そもそも、無価値なはずのタルッカ鉱山を、何故前伯爵はわざわざジャンヌに相続させ、現伯爵もその権利を求めたのか。
何か不正の気配をビンビンと感じる。エルネストは眠りの波に呑み込まれながらも、明日からタルッカ鉱山について調べることを決めた。
◇◇◇
タルッカ鉱山の調査に関してはパブについてきてくれた従者にすべて一任した。彼は真面目で、わざわざ現地まで赴いてくれたそうだ。
エルネストはその間に生活を健全な状態に戻し、ジャンヌとの僅かな交流を復活させた。
先日のサルヴェール伯爵の件はまだ本人には言っていない。先に込み入った話を聞き出せる関係になっておく必要があると思ったのだ。
ジャンヌは素直な性格で、そんな下心のある彼に気づくことはなく、たまに話す友人程度の仲にはなれた。
帰ってきた従者は調査結果をいくつかの文書を添えて報告した。
それによると、ジャンヌは確かにタルッカ鉱山の土地の権利者だった。しかも権利の譲渡が行われたのは、十年前の事件が起こる数日前である。
現在、鉱山を管理をしているのは前伯爵に仕えていた使用人夫婦らしい。
夫婦は子供と一緒に鉱山にある小屋で暮らしているが、周囲には崩落の可能性があり危険と、立ち入りを禁じている。結界まで張ってあるらしく、あまりの厳重さに不信感が募った。
従者は気をきかせて、十年前のサルヴェール家全員殺害事件の資料も集めてくれていた。
当時伯爵家にいたのは前伯爵とその息子夫婦、前伯爵の孫にあたる小さな兄弟もいた。一家だけでなく、邸で暮らす十数名の使用人たちもすべて亡くなっている。
ただ、前伯爵の息子で、ジャンヌの伯父にあたる男だけは誘拐されたのか、行方不明と記されていた。
気分が悪くなる凄惨な現場の様子に混じって、「窓が壊され、玄関扉が開け放たれていたが、外部から侵入した痕跡、強盗らしき人物の情報が掴めなかった」という一文があり、気にかかった。
そして、一番エルネストの興味をそそったのはタルッカ鉱山の資産的な価値だ。
タルッカ鉱山は三十年前に閉山しているが、その頃に大規模な崩落事故が起きている。元々採掘量は減っていたそうだが、その事故で数多の坑夫たちが生き埋めになり、危険と判断されて閉山したのだ。
つまり、完全に掘り尽くした訳ではなく、危険故に閉鎖された。
そのせいか、数年に一度、間違いなくタルッカエメラルドと思われる宝石が、ごく少数流通することがあるらしい。
それは複数の人の手を介しているが、出所は前伯爵が懇意にしていた商人である。
タルッカ鉱山はまだ少しはエメラルドが採れるのだ。それを使用人夫婦が採掘し、懇意だった商人に売っているのだろう。
タルッカエメラルドは採掘量が少なかったため、エメラルドの中でも特に高値がつく。原石であっても、ひとつ売ればかなり纏まった金額が手に入るだろう。孫に相続させるだけの資産価値はありそうだ。
ただ、それは個人にとっての話である。
一回に流通するタルッカエメラルドの数は十にも満たない。それも毎年ではないのだ。領地の財源にするにはいささか心許ない。
大量に人員を投入すればもっと採れるかもしれないが、一度崩落事故を起こしている。また大規模な崩落を起こす危険性があるし、資金を投入して元が取れるほどエメラルドが出るかもわからない。分の悪い賭けだ。
サルヴェール伯爵の領地経営は堅実で、そんな賭けにでなければいけないほど困窮はしていない。
彼は何故タルッカ鉱山を求めるのか。謎は深まり、エルネストの疑惑も深まるばかりだった。
だから、ここでひとつ仕掛けてみることにした。まず、うるさい両親が領地に出かけて留守にしている隙にジャンヌを外出に誘う。
作戦は特にない。ごく単純に、本人を問い詰めてみようという試みだ。ただ、外出して気分が高揚していれば口が軽くなるのでは、という目算があった。
当日は、メイドたちが妙に張り切って、ジャンヌの支度は朝から始まっているようだった。彼はすべて従者任せだ。
そろそろ出かける時間だとエルネストがジャンヌの部屋へ向かうと、耳を疑うような声が聞こえてきた。
「それに触らないで!!」
ジャンヌの声だ。使用人相手にも敬語で話して注意されていたジャンヌが、怒鳴っている。エルネストはノックもせずに部屋へ乗り込んでいた。
まず彼の目に飛び込んできたのは、宝石箱に手を伸ばし、固まるメイドだった。その宝石箱は母が彼女に譲ったものだ。碌に私物がなかったジャンヌの持ち物は、ほとんど母から貰ったものばかりである。
ジャンヌは目を見張るほど美しく装っていた。ただ、その顔は青褪め、恐怖に引き攣っている。
エルネストは素早く状況を分析した。ジャンヌは素晴らしく仕上がっているが、装飾品の類をまだ身につけていない。メイドは装飾品を取り出すために宝石箱を開こうとしたのだろう。
ジャンヌが戸惑うメイドから宝石箱を取り戻そうと動く。エルネストは目の前でそれを奪い取った。
「あっ……!!」
今度はジャンヌが彼を見て硬直する。驚愕に見開いた瞳はエルネストの手にある宝石箱へ視線を移すと恐怖に染まった。
「か、返してください!」
「何故?」
「お義母様にいただいた大切なものです!」
エルネストは宝石箱をジャンヌの届かない高さまで掲げた。彼女は必死になって手を伸ばしている。動きづらいドレスを着ているのに、ぴょんぴょんと飛び跳ねてさえいた。
彼はそれをじっくり観察した。ジャンヌはエルネストのことなど見てもいない。宝石箱を取り戻そうと躍起になっている。
彼女が嫁ぐにあたり持ち込んだものは本当に少ない。母親の遺品は継母に取り上げられ、私物も大半は異母妹に壊されたという。宝飾品など持っているはずがないのだ。
「この中に何が入っている?」
「そ、それは……」
ジャンヌが言葉に詰まる。言いたくないと表情で訴えていた。
エルネストはおもむろに背を向けると、宝石箱の蓋を開けた。
「やめて! 見ないで!!」
ジャンヌの悲痛な叫びを無視して箱の中を改める。
中に装飾品は三つほどしかなかったから、問題のものはすぐに目に入った。
それは灰色の、草臥れた小袋だった。恐らく高価な品を入れる時に使う、ベルベット製のものなのだろう。かなり使い込まれていたが、元の素材がよいからか、とろりと肌に馴染む手触りだった。
エルネストは躊躇いなく袋の口を開き、宝石箱の中へ入っているものを出した。
瞬間、目の中に光が飛び込んできた。
それは、世にも美しい大粒のエメラルドだった。正方形にカットされているが、台座はつけられていない。だが、そんなものは必要ないほど完成されていた。
その緑は瞬きもしていないのに一刻毎に色を変える。雪を被る常盤緑か、清流に洗われる水苔、あるいは芽吹いたばかりの若葉。
緑、という一括りには収まらない色に、不純物ひとつない透明度。呑み込まれるような錯覚を覚える。
乱反射する光を見ているだけで心が満たされた。彼は今、世界で一番美しいものと対面している。そう、確かに思ったのだ。
「エルネスト様! しっかりしてください!!」
バタン、と力任せに蓋が閉まる。強制的に視界からエメラルドが消え、エルネストは跳び上がるほど驚いた。目のほんの少し先で蓋が閉まったからだ。
いつの間にか、かなり顔を近づけてエメラルドを見つめていたらしい。
代わりに目の前に現れたのは泣きそうな顔のジャンヌだった。
「大丈夫ですか!? ご自分が誰だか、わかりますよね?」
「あ、ああ……」
ぼんやりとそう答えたか、視線は問題の宝石箱へ自然と吸い寄せられる。流れるように手が蓋を開けようとしていた。
「もう見ては駄目」
ジャンヌは彼の手から宝石箱を抜き取る。返して欲しいという衝動が湧き、一歩足を前に踏み出していた。
ジャンヌはそれに合わせるように後退る。
「エルネスト様はお加減が悪いみたいです。今日のお出かけは取りやめにしましょう」
「ああ……。君がそれでいいなら構わない。ところで、そのエメラルド……」
「これについては後ほど説明に伺います」
二人は睨み合いながら、じりじりと間合いを取り合う。
結局、エルネストは不思議そうな顔をする使用人たちに捕まり、ベッドへ押し込められた。