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「琴音……」
少し前までは話せていたのに。
顔に布をかけられて眠っている彼女は、もう動くことはない。
幼い頃、鏡に映る自分の姿はやつれた男だった。
大人になると、鏡にはまだ元気が有り余る子供の自分が映った。
鏡に男が映るようになったのは、幼稚園に入ったばかりの頃だった。自分の姿はどこにもなく男が映るから、何度か母親に聞いてみたことがある。
「ねぇ、あそこにいるのはだれ?」
母親は困ったように、鏡には自分が映ることを何度も教えてくれた。相当、気味の悪い子供だと思われたに違いない。
それでも納得することはできなかった。あれが自分だなんて思いたくはなかった。子供の頃はヒーローになることしか夢に見ていなかったから、こんなに弱々しいモブキャラみたいな男が自分のはずはないと信じていた。
男と自分とを切り離して考えている時、男が口を動かすのが見えた。声は聞こえないが、話しかけられていることはわかった。だから、こちらからも話しかけてあげることにした。
「あのね、僕、片桐 綾人。なかよし幼稚園の年少さんで、えっと、五歳!」
男はやつれた顔でも、少しだけ笑ってくれた。
「あのね、あのね。今日、ことねちゃんって子とお友だちになったんだよ。」
すると、男は手で目を覆い、泣き始めてしまった。
「どうしたの?」
鏡に向かって一人で話しかけていると、母親がやってきた。鏡の中の男が泣いている、と言うと、水滴がついたのよ、と鏡をゴシゴシと拭いた。
男は必ず映るわけではなく、このように第三者が入ってくると今の自分が鏡に映る。
男はどうして泣いていたのか。きっとどこかを痛めたのだろう。弱いやつ。
「僕が守ってあげないと。なんて言ったって、ヒーローになる男なんだから!」
「じゃあヒーローさん、早くお風呂に入ってください。ヒーローなら、母さんとの約束、守れるよね?」
「は、はぁい。」
僕はヒーローだが、唯一、母親には敵わない。
僕が成長するにつれて、鏡の中の男も成長、というか、老けていった。
「今日は僕の七歳のお誕生日だよ。」
男は優しい顔で拍手をしてくれた。
「でね、カズくんから新しい呼び方を教えてもらったんだ。自分のことは俺って言うんだって。これから僕も、じゃなかった、俺もカズくんみたいにカッコよくなるんだ。それで、琴音をゲットだぜ!」
アニメのような決めポーズをしたら、男は腹を抱えて大笑いした。こんなに笑う男を初めて見た。
「おじさんも笑うんだね。なんか、安心した。」
居間から母親の声が聞こえてきた。
「綾人、何やってるの。早くお風呂入りなさい。」
「はぁい。おじさん、またね。」
俺はお風呂に入ることにした。
鏡の中の男とは毎日話した。あちらからの声は聞こえないから一方的に喋るだけだった。
俺はどんどん身長が伸びて、男とほぼ同じ目線になった。まだ俺の方が少し低い。
そして、どことなく顔が似ていることに今更ながら気がついた。十六歳の春だった。
「おじさんと俺って顔似てるよな。俺、おじさんみたいには老けたくないんだよな。」
男は笑っていたが、ショックを受けていることは誰が見てもわかるだろう。
「そんなことより、おじさん。俺、今日の入学式が終わったら、琴音に告白するつもりなんだ。」
幼稚園からずっと一緒に育ってきた幼馴染は、今じゃすっかり美人になった。中学ではなんとか守り抜いたが、高校ではクラスも増えるし、同じクラスになるとは限らないから守りきれないだろう。
「絶対、誰にも渡さない。琴音は俺が守るんだ。」
男はきっと引いていた。
無事に告白は成功し、俺は琴音と念願のカップルになった。その日は嬉しすぎてずっと鏡に向かって喋っていた。両親がとても青ざめた顔で頭の心配をしてきた時に初めて冷静になった。
ともかく、この日から琴音とは友達の一歩先へ進めたのだ。
だが、そんな幸せを壊す事件が起こる。
十八歳の秋。高校三年生、みんながピリピリしている頃、琴音は俺の家で進路が決まらないと嘆いていた。特にやりたいこともなく、だが高卒での就職は嫌だということもあり進学することになったのだが、やりたいことがないのにその先なんて考えられない。琴音はずっと悩んでいた。
対して俺はヒーローになることが決まった。決して、ファンタジーとかではない。特撮やアクションシーンのある映画やドラマなどで活躍するアクション俳優になることが決まったのだ。
琴音はそんな俺と自分を比べて劣等感を抱いていた。どんな時でも琴音は俺よりずっと器用な人だったからだ。
そこで言ってしまった一言が原因で、俺たちは喧嘩をした。琴音は家を飛び出し、俺は追いかけもしなかった。
そんな時、鏡から聞き慣れない声が聞こえた。初めて聞くあの男の声だった。必死に何かを叫んでいる。途切れ途切れでしか聞こえない。男の手が鏡に触れた瞬間にだけ声が聞こえるのだ。そのことを伝えると、男の声がはっきりと聞こえた。
『今すぐ琴音を追いかけろ。でないと、お前は一生後悔することになる。』
男が言うには、琴音は事故でトラックに轢かれて死んでしまうらしい。だが、そんなことは信じられなかった。
『頼むから追いかけてくれ。』
だが、男が聞くに耐えない声で泣くから、仕方なく琴音を追いかけた。
琴音はまだそんなに離れてはいなかった。駆け寄ると、別れを告げられた。
「なんで。確かに酷いこと言ったけど、謝るから。」
「お願い、別れて。」
「理由くらい聞いてもいいだろ。」
「わかった。じゃあ、ゲームしよう。私とかけっこ。私に追いついたら理由を話してあげる。でも、別れて。ここから一歩も動かずに私を見送ったら理由は言わないけど、別れない。」
「じゃあ、動かない。」
琴音は振り返らずに歩き出した。どんどん遠ざかっていく。頭の中に声が響いた。
『追いかけろ。死んでしまうぞ。』
俺は動いた。理由はわからないが、今ならまだ間に合うと思った。信号は青。だけど、そこを渡ってはいけない。琴音は横断歩道に足を踏み入れた。
「琴音!」
目一杯手を伸ばす。俺に気づいた琴音はその手をするりとかわして走り出す。瞬間に目に映るのは大型トラックの車体と真っ赤な血。遅れて聞こえるクラクション、悲鳴。遠くに飛ばされた琴音はピクリとも動かない。
「琴音。」
何度呼びかけても琴音は反応しない。だんだん体の熱が冷めていく。もうすぐ冬だ。外気は冷たい。琴音の体温は戻らなかった。




