惑いの幸福
長い間を私は大巫女と名乗って、この国の頂点にいた。
二十年が過ぎ去り、ラッセルの子が王位を継ぐことがほぼ確定している。
このころ、他の国では産業に関しての発展が目覚ましく、神畏は損なわれつつあった。
私は骰子を振りながら時間を待っていた。
シェスが裏切った。
彼女はトゥーリアの弓を持ち出した。望めば我が手に即座に返って来る私の弓だ。盗みだしても意味はない。そのことを彼女はしらないのだ。
「トゥーリアは私たちを見捨てるのですか?」
最後の信徒たちがこの部屋に集まっている。
「シェスさまが言われたように、トゥーリアがいてはこの国は他国に遅れをとるのでしょうか?」
「そうね」
最後の『振出しに戻る』を越えてしまった太陽の駒。
この国はここに達してしまった。
もう戻ることはできないの。
「私の愛しき子らに。怖いなら目を閉じて。光の先、進まない時の世界に連れていってあげるから」
太陽の駒は砕けて、目映く光った。
「さあ、この向こうにおゆきなさい」
神殿に無遠慮に兵士たちが駆け込んで来る足音。
「大巫女様は?」
「私もすぐに」
二十年も前の血塗れの大粛正。あれは神殿の力を削ぎ落してしまった。巫女と神官の数も激減した。トゥーリアの残酷さが浮き彫りになってしまった。
光の輪の中に最後の信徒たちは消えて言った。
扉が蹴り破られた。
「セザー、ラッセル、クリムはどうしているの?」
ラッセルの息子は私の前に立って言った。
「巫女風情が呼び捨てにしないでいただこうか。父上も伯父上たちも城の一室で寛いでいただいている」
「幽閉したのね」
「言葉が悪い。古い考えを改めて貰うだけだ」
ベールを通して私は王子を見ている。
「さあ。そのもったいぶったベールを外し、醜く老いた姿を民衆にさらしてこのトゥーリアというまじない言葉を打ち消してくれ」
問答無用で、言うなり彼は私からベールを剥ぎ取って、硬直した。
私の時間は止まっている。
トゥーリアとはそういう神なのだ。
「しらず代替わりしていたのか」
「いいえ。あなたが、生まれたときに母君の名前を取ってヒューイと名を贈りましたよ。あなたが五つのときに、トゥーリアの加護を与える儀式をしたのも私。覚えていますか?小さな鼠を怖がって、みなは気づきませんでしたけれど、半泣きになっていましたよね?」 彼はぎくりと手を止めた。
だが、怒りをあらわにして吐き捨てるように私に向かって言った。
「すべてはペテンだ。信徒すべてに見限られ、一人でここに残ったおまえは神というありえないものを騙って民に寄生する毒虫だ」
「そうよ。あなたがうまくたぶらかしたシェスに伝えてちょうだい。あなたが裏切ることはわかってた」
兵隊たちがヒューイの耳になにかを言づけた。
「まさかっ。減ったとはいえ、まだ五十人からの信徒は残っていたはずだ。どこにもいないわけがない」
「あの子たちはみな振出しに戻ったの。あなたたちは上がってしまいなさい。もう、『振出しに戻る』はないんだから」
私は立ち上がった。
「あなたのお父さまも伯父さまたちも、トゥーリアを否定できないわ。だから、連れていってあげる。そのほうが、あなたは楽でしょう?」
光が渦巻いた。
トゥーリアの最後の奇跡。
彼らが閉じ込められているのは皮肉にも、あのとき双六をした部屋だった。
「元気?」
「巫女姫。こたびは息子がとんだ御無礼を」
「いいのよ。わかってたことだから」
唐突に現われてみたんだけど、三人ともあまり気にしてないみたい。まあ、ヒューイたちはいきなり消えちゃった私に腰を抜かしているかもしれないけれど。
「私はもう時間の流れない世界にやっと帰れるけど、一緒にいかない?」
「それは上がりですか?」
セザーが苦笑いしながら問う。
「振出しよ」
クリムが私の手をとった。
「もはや、私たちにやれることはないようす。連れていってください、巫女姫」
セザーも私の手を取った。
「向こうに、彼女たちはいるのだろうか?」
「いなかったら呼び寄せてあげるわ。私も会いたいし」
「ならば、俺も」
セザーの妾たちもすでに他界してしまった。
私はラッセルを見た。
彼は花瓶に生けられたやや萎れてしまった花と、自分のつけていた指輪を私に差し出した。
「ずいぶん昔に差し上げ損ねました。より良いものを差し上げようと、欲を張っていたので、精一杯の気持ちをこめても、こんなものになってしまった。つぎはもっと良いものを」「つぎ?」
残るのね。
「私はこれから神を切り離した息子を見守らなくてはならない。育て方を間違ってしまった私の最後の仕事です。我が侭な願いで恐縮です、巫女姫。私がこの世を去る日に、再び迎えにきていただけますか?」
「わかった。そのときにとびきり上等の、私に似合う花と宝石をくれるというのね?」
「ええ」
「また会いましょうね、ラッセル」
私はセザーとクリムを連れ去った。
ほんの気紛れに立ち寄ってトゥーリアの神殿が壊されているのを見た。
「つまんないものね。急いで、どうするのかしら? 上がってしまったらおしまいなのに。ゲームは中途が楽しいのよ」
「あの双六のようにですか?」
クリムが笑う。
「確かに、やっている最中は地獄のごときだったが、振り返って見ると楽しい思い出だった」
「今度はもう少し上がりやすい双六を作ることにするわ。そうでなければ、私でも上がれない双六か」
運び出されようとしている双六盤を私は砕いた。
兵士たちはぎょっとしている。
シェスが持っている弓も光に戻して私の手に。
私の匂いは残さなくていい。
黄金色の旅人がそばにいた。
「遅いお帰りでしたね。姫君。これに懲りたら安易に流れに身を投じないように」
「まったくよね」
私はもう、惑わしたりはしてあげない。生き急いで、終わりまで突き進むといい。もしかしたら、終わりと始めは似たような世界かもしれないから。
どちらが正しいか、決めるのは自分たちだもの。




