4-5:インクに沈む世界
三嶋が図書館から這うようにして私生活の場に戻っても、怪異の加速が止まることはなかった。
むしろ、彼が外側にいるからこそ、その侵食のグロテスクさは際立って彼の五感を襲った。
ただ歩いているだけで、世界が急速に別の言語へと書き換わっていくのを肌で感じた。
アパートへ帰る道すがら、三嶋は街のあらゆる活字が機能を失っていくのを目の当たりにした。
コンビニの看板、電柱の広告、通り過ぎる車のナンバープレート。
それらの見慣れた日本語や数字が、三嶋が目を向けた瞬間に、まるで熱を帯びたプラスチックのようにぐにゃりと歪み、あの図書館で現れた文字の構造へと収束していく。
「あ、い、う……え……」
声に出して読もうとしても、言葉が喉に引っかかって出てこない。
自分の脳内にある言語の辞書が、あの本の持つ強力な言語の重力によって、ページごと破り取られていくような感覚だった。
日本語という記号が持っていたはずの意味が急速に剥がれ落ち、代わりに、あの夢の中で強制的に植え付けられた本の論理だけが、脳の空白を埋め尽くそうと押し寄せてくる。
自室に戻り、泥のようにベッドへ倒れ込んだ三嶋の耳に、再びあの音が聞こえ始めた。
ネットの向こうの何億もの人間が、今もなおキーボードを叩き、画面をスクロールし、怒りと憎悪の解釈を書き込み続けている、あのカタカタカタカタという無機質な打鍵音だ。
それは三嶋の部屋の壁から、床から、そして彼自身の頭蓋骨の内側から直接響いていた。
「やめろ……もう書くな……読むな……!」
三嶋は枕を頭に押し付け、耳を塞いだ。
しかし、目を閉じればまぶたの裏に、あの上下対称の幾何学模様のような文字が鮮明な赤黒い光を放って浮かび上がる。
世界中の人間がSNSで放つ怒りの熱量が、現実の物理法則を書き換えるための莫大なエネルギーとなり、あの本をこの世界に完全定着させるためのインクとなっているのだ。
白井と加瀬は、すでにそのインクの中に溺れ、自我を失った。
次に本のページに書き込まれるのは誰なのか。
読めないまま、しかし夢を通じて確実に本と同期させられている自分自身が、その最後の記述として用意されているのではないか。
そんな絶対的な絶望が、冷たい蛇のように三嶋の全身を這い回り、彼の意識を深い闇へと引きずり込んでいった。
現実と虚構、ネットと物理空間の境界線は完全に決壊した。
三嶋の孤立無援の戦いは、彼自身の認知が完全に黒い本に敗北するその瞬間へと、破滅的な速度で突き進んでいた。




