4-1:致命的な猛毒
加瀬が軽い承認欲求からタイムラインに放流したあの黒い本の断片写真は、ネットという広大な神経網に注ぎ込まれた一滴の、しかし致命的な猛毒だった。
投稿からわずか数日で、その拡散の勢いは燎原の火のごとく世界中へ広がっていった。
リポストのカウントは数万、数十万を容易く突破し、スマートフォンの画面を開くたびに、見たこともない言語のコメントが秒単位で数千件も書き込まれていく。
最初は大学の地下倉庫で珍しい古書を見つけたという身内の暇つぶし、あるいはネット特有の未解読文字チャレンジとして消費されていたはずの画像は、瞬く間に制御不能の解釈戦争へと発展していた。
ネットの向こうの無数の人間たちが、たった1枚の不気味な文字列の画像に対して、異常なまでの熱量と殺意を滾らせていた。
『この文字の並び、明らかな危険思想のコードだ。
特定の民族や宗教を激しく侮蔑し、扇動するためのプロパガンダに他ならない。ネットのポリコレ基準に完全に違反している。
こんな有害なものを大学の倉庫に隠匿していたこと自体が犯罪だ。一刻も早く実物を燃やすべきだ』
あるアカウントがそう叫べば、対立するクラスタからは全く異なる、しかし同等以上に過激な罵詈雑言が投げ返される。
『何を言っているんだ。
これは過去に不当に弾圧された少数派の神聖な記録であり、現代の権力構造に対する強烈な差別表現を含んだ告発書だ。
この価値を認めない奴らは全員、歴史の隠蔽に加担する薄汚い豚どもだ。今すぐ大学へ行って本を開示させろ』
さらにオカルト系のスレッドや陰謀論者の間では、呪いの書としての解釈が急速に浸透していった。
『画像を見た瞬間から激しい頭痛と吐き気が止まらない。画面のスクロールを止められない。
これは人間の脳を内側から破壊するための呪詛の配列だ。見たらすぐにタイムラインから消せ。
拡散した元のアカウントの主の身元を特定して、この災厄の責任を取らせろ』
誰もが、自分の脳裏に浮かんだ解釈こそが唯一無二の、絶対的な真理であると盲信していた。
そして、それにほんの少しでも反する意見を持つ者を、親の仇であるかのように激しく罵倒し、人格を否定し、容赦なく社会的な抹殺を試みている。
ネットの向こうの何百万人、何千万人もの人間が、たった一枚の写真を通じて、脳の奥底にある他者を徹底的に叩きのめしたいという破壊衝動を爆発させていた。
画面の向こうから、人間の生々しい悪意の熱が、物理的な熱量となって伝わってくるようだった。
三嶋は自室のベッドの上で、画面が異様な熱を帯びたスマートフォンを凝視しながら、全身の血が引いていくのを感じていた。
この本は、人間の心の奥底にある醜い執着や怒りを効率的に増幅させるための増幅器なのだ。
ネット上に渦巻く天文学的な怒りは、単なるデータのやり取りではなかった。
それは目に見えないパイプを伝い、現実にあるあの本そのものへと逆流しているのではないか――。
そんな得体の知れない予感が、三嶋の胸を黒いタールのように満たしていった。
タイムラインをいくらスクロールしても、あの不気味な記号を引用した投稿が途切れることはない。
危険思想、差別表現、呪いの書――無数の言葉のラベルが貼り付けられ、それぞれが勝手な正義感と憎悪を燃料にして炎を大きくしていく。
この炎上そのものが、何らかの巨大な儀式として機能しているかのような、おぞましい錯覚すら覚える。
ネットの海全体が、あの本という怪異の苗床となり、世界を汚染していくプロセスが、今まさに三嶋の目の前でリアルタイムに進行していた。




