3, 魔獣の襲来
「ねぇ、ベガ」
乾いた唇を舌で湿らせる。
一度、大きく息を吸った。
「ベガがそんな特別な存在なら……私、元の世界に帰れるんじゃない?」
胸の奥で、小さな期待が震える。
藁にもすがるような思いだった。
ベガは静かに首を横へ振る。
『アマネ。ここへ転移したのは、吾輩の力ではない。どちらかと言えば、おぬしの力だ』
「私の力……?」
思わず自分の胸へ手を当てる。
そんな力あるわけがない。
魔法なんて使えないし、特別なことなんて何一つできない。
ベガは私の戸惑いを気にも留めず、淡々と続ける。
『それよりも地球へ帰ってもよいのか?』
その一言で空気が変わる。
「え……?」
『この世界には、其方の母――クレハがおるぞ』
息が止まった。
「……お母さん?」
喉の奥がひりつく。
「どういうこと?」
声が震える。
「どうして、お母さんがこの世界にいるの?」
ベガは私の目を真っ直ぐ見返した。
『何者かによって、無理やり召喚されたのだろう』
「召喚……?」
その言葉が耳に引っかかる。
「どうして?」
『そこまではわからぬ』
ベガはゆっくりと首を振った。
『だが、この世界にいることだけは間違いない』
胸がぎゅっと締めつけられる。
信じられない。
信じられるはずがない。
思わず一歩、ベガへ身を乗り出す。
「どうして、そんなことがわかるの?」
ベガはどこか誇らしげにふっと口元を緩めた。
『当然だ』
銀色の尻尾がゆっくり揺れる。
『吾輩は、クレハが生まれた時から守っておる』
「……守って……生まれた時から?」
思考が止まる。
『クレハの気配を、この世界に感じる』
ベガは迷いなく言い切った。
『吾輩はクレハを守護する聖霊獣だからな』
頭の中が追いつかない。
母を守る聖霊獣。
生まれた時から一緒。
そんな話、今まで一度も聞いたことがない。
なのに、その金色の瞳には、嘘をついている気配が少しもなかった。
胸の奥で、消えかけていた火種みたいに何かが小さく灯る。
――お母さんが、生きている。
その可能性だけが、暗闇の中で静かに光り始めていた。
お母さんがいなくなってから、何度も自分に言い聞かせてきた。
違う。
お母さんが、私を置いていくはずがない。
何か理由があったんだって。
そう思わなければ、前を向けなかった。
胸の前で、知らないうちに拳を握り締めていた。
爪が掌へ食い込む。
痛い。
それでも力は抜けなかった。
ふいに、あの日の声が耳の奥によみがえる。
『天音が生まれてきてくれてよかった……』
優しく笑う母。
抱き締められた胸のぬくもり。
柔らかな髪から漂っていた、どこか甘い香り。
「……お母さん」
唇が震えた。
鼻の奥がつんとなる。
滲んだ涙が頬を伝い、ぽたり、と手の甲へ落ちた。
乱暴に拭っても、次から次へと溢れてくる。
でも、その涙は今までとは少し違っていた。
――生きているかもしれない。
その一つの言葉が、胸の奥へ小さな灯をともしていた。
もし、自分の意思で動けないのなら私が行く。
今度は私がお母さんを見つける。
もう待つだけじゃない。
フロントガラスの向こうへ視線を向ける。
乾いた荒野が、地平線まで続いている。
ここには草一本見当たらない。
けれど、この世界が全部こんな景色とは限らないはずだ。
町があるかもしれない。
森も、人も、何か手掛かりになるものが、きっと。
私は隣に座るベガを見る。
銀色の毛並みが陽の光を受け、静かに揺れていた。
聖霊獣――まだ何者なのかもわからない。
それでも、この世界で私が信じられるのはベガだけだった。
ゆっくり息を吸う。
胸の鼓動はまだ速い。
それでも、さっきまでの震えは少しだけ収まっていた。
「……行こう」
小さく呟いた、その瞬間。
ゴゴゴゴゴゴッ――。
腹の底を殴られるような重低音が響いた。
「っ!?」
車体がびくりと揺れる。
シート越しに鈍い振動が背中を突き上げ、ダッシュボードがかたかたと震えた。
「え? 何?」
慌ててフロントガラスの向こうをみると、景色が少しだけ変化していることに気づいた。
地面がさっきよりもひび割れている。
砂埃が舞い上がり、その隙間から黒い何かが這い出してくる。
うそ! あれって、大きい……サソリ……?
しかも真っ黒!
どう見ても一メートルくらいありそう……
『……来たか』
ベガの声が低くなる。
「な、なにあれ」
『魔獣だ』
魔獣って……さらりと言わないで。
背筋が凍る。
黒い影が一つ、二つ――いや、もっといる。
ゆっくりと車を取り囲むように動き始めた。
硬そうな殻。
巨大なギザギザした尻尾。
この車よりは小さいけど、一気に襲われたら絶対タダじゃ済まない……
ぶるりと体が震える。
「ベガ! あんたさっき聖霊獣とかって言ってたわね。なんとかしてよー!」
『無理だ。吾輩の力は完全ではない。アマネ、とにかく車を動かせ!』
「え、エンジンもかけてないのに!?」
『ハンドルの石に触れるのだ』
「え?」
一瞬、思考が止まる。
でも考える時間なんて与えてはくれなかった。
黒いサソリの尾が、車体を叩いた。
ガンッ。
「ひぇぇ、こ、壊れる!」
車体が大きく揺れる。
「どうすればいいの!?」
『石に触れ、スタートボタンを押すだけだ。あとは通常の操作と変わらぬ』
すぐに理解できなかったけど、ベガの言う通りにするしかない。
私は震える手でハンドル中央の石に触れ、そのままスタートボタンを押し込んだ。
次の瞬間、エンジンが唸りを上げる。
かかった。
早く! 早く動いて!
外では魔獣たちの低い唸り声が重なり、車体を取り囲んでいた。
『行け、アマネ』
ベガの声が車内に響く。
母は生きている。
ここは異世界。
そして今、このままでは殺される。
恐怖も混乱も振り払うように、私はアクセルを思いっきり踏み込んだ。




