2, ベガの正体
「え? ベガ……?」
震える声で呼ぶ。
返事はない。
ベガの小さな身体を包む光だけが、鼓動のように脈打っていた。
白く、銀色に……そして目を開けていられないほどの眩い輝きへ。
「……っ」
息を呑む。
光は渦を巻き、毛並みをなぞるように流れ、ふわりと宙へ舞い上がる。
車内いっぱいに銀の粒が散った。
次の瞬間――ぱんっ、と空気が弾けるような音がした。
光が消え、静寂に包まれる。
恐る恐る目を開く。
「……え」
助手席にいたのは。
もう、胸の中に収まるほど小さなベガじゃなかった。
成犬ほどの大きさ。
月明かりを溶かし込んだような銀色の毛並みが、淡く光をまとって揺れている。
まっすぐ私を見つめるのは金色の瞳。
知らない目の色だけど、知っている。
ずっとそばにいた目だ。
「……ベガ?」
声が掠れる。
私のことをじっと見つめるその瞳は、犬のはずなのにはっきりと理性が宿っているように見えた。
すると、ベガの口元がわずかに動いた。
『アマネ』
低く、落ち着いた声。
車内に、はっきりと響いた。
「……え?」
肩がびくりと跳ねる。
反射的に辺りを見回した。
運転席、助手席、後部座席……誰もいない。
聞き間違い……?
耳がおかしくなった?
それとも……目の前の銀色の柴犬に視線を向ける。
「まさか……ねぇ?」
銀色の柴犬は微動だにせず、私だけを見つめていた。
そして、もう一度。
『アマネ、でかしたぞ……』
「……また聞こえた?」
私は再び聞こえた言葉に思考が停止した。
さっきまで、そこにいたのは助手席へちょこんと座る、小さなベガだった。
抱き上げれば胸の中へすっぽり収まる体。
指を埋めたくなる、やわらかな白い毛並み。
嬉しいときは、ふわふわの尻尾をぶんぶん振って、いつだって私の隣にいた。
なのに……今、目の前にいるのは。
銀色の毛並みをまとった、成犬ほどの大きさの柴犬。
息をするたび、さらりと揺れる毛先が淡く光を返す。
まっすぐ私を見つめるのは金色の瞳。
知らない目の色だけど、知っている。
ずっとそばにいた目だ。
「……ベガ、だよね?」
喉がひどく乾く。
「今……喋った?」
私の問いかけが車内に小さく響く。
頭の中が混乱しているのに心臓だけがドキドキとうるさい。
視線を逸らせない。
すると、不意にさっきと同じ声がはっきり聞こえた。
耳からじゃない。
頭の奥へ直接響いてくるような、不思議な声だ。
『この世界へ戻ってこられたおかげだな。多少、力も戻ったようだ』
ベガはどこか満足そうに目を細める。
口元まで少し笑っているように見えた。
『……だが、まだまだだ。本来の力には及ばない』
言い終えると、小さく鼻を鳴らす。
「……」
口が開いたまま閉じられない。
犬が……喋ってる。
しかも、こんなに自然に……こんなに流暢に……
「……そんなわけ……」
乾いた笑いが漏れる。
幻聴?
それとも、私がおかしくなった?
一人でいる時間が長すぎて気づかないうちに、頭のどこかが壊れてしまったとか……
震える指先をぎゅっと握りしめても、その声は消えてくれなかった。
『ん? アマネ。さっきから何を呆けておるのだ?』
まただ……あの落ち着いた声が、頭の奥へすっと流れ込んでくる。
「や、やっぱり……」
額を押さえる。
「私の耳、おかしくなっちゃった? いや、耳じゃない……頭の中に聞こえてるし。ってことは脳? え、待って。ほんとにまずいんじゃ……」
両手で頭を抱える。
現実逃避――そうでもしないと、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
『アマネ』
今度は少し呆れたような声。
『おぬしの耳も脳も正常だ。声の主は隣におる吾輩――ベガだぞ』
恐る恐る顔を上げる。
助手席では、銀色の柴犬が胸を張って座っていた。
――どうだ、とでも言いたげに。
その姿を見つめたまま、瞬きすら忘れる。
……そうか。
今まで成長が止まっていて、やっと成犬になったから喋れるように――
――って、なるわけないでしょ!
犬は喋らない。
大きくなったら喋れるなんて、そんな動物どこにもいない。
たとえここが異世界だと言われても。
納得できるわけがない。
乱れた呼吸を整えようと、大きく息を吐く。
熱くなった頬に乾いた空気が触れた。
私は逃げるようにフロントガラスの向こうへ視線を向ける。
……やっぱり。
どこまでも続く荒野。
乾ききった大地。
風が砂をさらい、細かな砂粒が地面を転がっていく。
見えるものは、それだけ。
家も、道路も、電柱一本すらない。
そして隣には突然大きくなって、人の言葉を話し始めたベガ。
もう何が普通で、何がおかしいのかさえわからなくなってくる。
私はゆっくりとベガへ向き直った。
銀色の毛並みが、陽の光を受けて柔らかく輝いている。
一本一本が絹糸みたいになめらかで。
見れば見るほど、普通の犬とは違う。
「えっと……こんな柴犬、見たことないんだけど」
『犬などと一緒にするな』
ぴしゃり、と頭の中へ響く声。
「ひゃっ!」
肩が跳ねた。
怒られた……そう思った瞬間、ベガはふん、と鼻を鳴らし、さらに胸を張る。
『吾輩は聖霊獣である!』
その言葉には妙な誇らしさが滲んでいた。
「……せいれいじゅう?」
聞いたこともない単語に、思わず聞き返す。
『この世界でも、最も上位の存在だ』
どこか得意げだ。
上位の存在――その言葉が胸の中に引っかかる。
精霊。
神獣。
異世界の物語で見たことがあるような存在。
もし、本当にそんなものだとしたら……
喉が小さく鳴る。
もしかして、すごい力を持っていたりする?
だとしたら、元の世界へ帰る方法も……
私の中に少しだけ希望が見えたのだった。




