3, 叔父家族との生活
神林さんは父が亡くなった後、財産相続の手続きでお世話になった弁護士である。父が亡くなったばかりの頃は、父の友人だったこともあり母と私を何かと親身になって助けてくれた。
警察官が来た後、まだ未成年の私は一時的に養護施設に身を寄せることになった。母が失踪した後の捜査が一通り終わると警察の計らいで彼と再び会うことになったのだ。
「天音ちゃんには父方の叔父さんがいるんだ。君のお父さんとはずっと疎遠になっていたけど、君のことを話したら引き取ってくれることになったよ。君はまだ未成年だから保護者が必要なんだ。呉羽さん……君のお母さんが見つかるまで叔父さん家族の元でお世話になるといいよ」
「叔父さん……?」
神林さんの言葉を頭の中でかみ砕き、父は生前叔父の存在を一度も私に話してくれなかったことを思い出し、少しの不安を抱いた。
「そう、天音ちゃんの亡くなったお父さんの弟、つまり君の叔父さんだ。君と同じ年の娘さんと君よりも三つ下の息子さんがいるからきっと温かく受け入れてくれるだろう。大丈夫、呉羽さんはきっと見つかるよ。天音ちゃんを置いて自ら失踪するとは思えないからね」
神林さんは人の良さそうな笑みを浮かべて私の不安を払拭する様に優しい瞳で微笑んだ。
「あの、ベガも連れて行って大丈夫ですか?」
「ああ、その事も話してある。君が面倒を見る条件で了承して貰えたよ」
私はホッと胸をなで下ろした。母の行方が分からないのに私の前からベガまでいなくなったら寂しくて生きていけないだろう。
人の良い神林さんは身内でしかも自分の兄の娘なら優しく受け入れてくれる事を疑いもしていない。ベガを受け入れてくれたこともあり叔父家族には好印象を持っている様だった。
だから私の中で渦巻く絵も言われぬ不安を子供心にも告げることは出来なかった。
私は古びたスーツケースに身の回りの物を詰め、叔父家族の元に行くことになった。
叔父の家までは神林さんが運転する車で約二時間弱かかった。都会にある住宅街の一角に佇む大きくて立派な家の前で車を止めると彼は「ここだよ」と私に教えてくれた。
どうやら叔父は裕福な生活をしているらしい。神林さんが私を何の戸惑いもなく叔父に託すのもそれが大きな原因かも知れない。
玄関まで続く広々とした石畳のアプローチが、丁寧に剪定された鮮やかな紅色の花が咲く生け垣で彩られていた。
椿に似ているけど椿より花びらが平面的に見える。きっとサザンカだろう。
木々の間から覗く大きな屋根は堂々とした存在感を放ち、その下には風格ある重厚なドアが待ち受けていた。
冷たい空気の中にも太陽の柔らかな光が降り注ぎ、時折頬を撫でる風の冷たさを和らげていると感じた。
なのに目の前の家はどこか冷たい雰囲気を漂わせているように思ってしまうのは気のせいだろうか。
それが叔父の家を目の前にした最初の印象だった。
神林さんが門の前にあるチャイムを鳴らすと、女性の声がインターホンから聞こえた。二人のやり取りを聞いているとどうやらその女性はお手伝いさんのようだった。
「来たのか」
叔父の声を聞いた瞬間、私の中に在った不安ははっきりと形を成していった。
無愛想な声。私に向ける瞳は冷たく何の愛情も窺い知ることは出来ない。彼の後ろには、ぎこちなく微笑む叔母と、興味なさそうにスマホをいじるいとこ達が見えた。
ああ、この人達は私を歓迎していない……
一瞬で私の今後の生活が危ぶまれた。
そんな私の心情をよそに神林さんは叔父に挨拶をすると私を紹介した。
「天音です。お世話になります。よろしくお願いします」
私は心の内を隠して何とか挨拶の言葉を告げ、小さく頭を下げた。その様子を見届けて神林さんは叔父の家を後にした。
「うむ、君が兄さんの娘か。成人までは衣食住の面倒はみてやる」
初めて向けられる言葉は母の失踪に不安を抱える私の中に更に暗い影を落とした。
ふーん、じゃあそれまではここにいていいのね。
「成人したらすぐに出て行け」という気持ちが含まれている叔父の言葉を振り払う様に前向きに考える。
私に用意された部屋は物置のように物が詰め込まれた狭い一室だった。隅に古い布団が置かれているだけで他に特筆すべきものは何もない。
「まあ、家の中に部屋が用意されているだけいいかぁ」
一人になると思わす声が溢れた。
外にある物置じゃなかっただけマシだ。成人まであと五年。それまでの辛抱だ。
叔父の家に来てからの食事の席では、家族の会話が弾んでいるのに、私はその輪の中に入ることはできなかった。本当の家族ではないのだから仕方がないと思いながらも寂しさが込み上げた。
皿の上の食べ物をつつきながら、頭の片隅では、父と母と過ごした幸せだった記憶が頭に浮かんできた。
けれど、いくらあの頃を思い出しても現実が変わるわけではない。
今だけ……今だけよ。成人するまで頑張ればあの家に戻ろう。神林さんはあの家はお父さんが残してくれたものだから保護者が必要ない年になれば戻っても大丈夫だと言っていた。それに必ずお母さんは私の元に帰ってくるはず……だからそれまで頑張ればいい。
寂しさが込み上げる度に、私は溢れそうになる涙を必死で堪えた。
なのにそんな辛い日々は永遠に続くのではないかと思えるほど長く感じた。どこにも居場所がない中で過ごすのは次第に心が削られていくようだった。
叔父の子供達……私にとってのいとこ達……ともいつまでたっても仲良くなる事が出来なかったのも私の居場所を無くす要因の一つだった。
私よりも三つ年下の従兄は仕方ないにしても同じ年の従姉妹とさえも上手く馴染めなかったのは自分にも原因があるような気がする。
彼女は勉強にしろ、運動にしろ何でもそつなくこなし、学校ではリーダーシップを発揮し教師達からも信頼が厚かった。
それに比べて私は何も出来ない。
本当に何も出来ない……勉強も運動も。
でも、だからなんだと言うんだ。
それでも私には価値がある。母が失踪する前に私の心に落とした言葉を思い出す。
「天音、頑張ってもできない事はあなたに向いていないだけ。苦しくなるほど頑張る必要はないわ。やりたくない事も無理してする必要はないの。何もできなくてもあなたはここにいるだけで価値があるのよ。必要ない人を神様は誕生させたりしないんだから」
私が何もできないのは叔父の家に来てからではない。もっと小さな頃からだ。
小学校に入る前に字の勉強をしても中々覚えられなかったし、簡単な授業にもついて行けなかった。
私の心をいつも掬い上げてくれたのは母の言葉だった。私の心を護り、私の存在を認めてくれた母を求める度に瞳が潤んだ。
「あなた、倉橋家の血を引いているくせに何にもできないのね」
私と同じ叔父さんの娘、七瀬さんが最初に私に言い放った言葉だ。
「だから何? 確かに私は何も出来ないかもしれないけど、それで七瀬さんに何か迷惑かけた?」
私が言い返すと七瀬さんは悔しそうな顔をして私の前から去って行った。
七瀬さんの言葉に傷つかなかったわけじゃない。そんな時はなんとか母の言葉を思い出し、私は自分に「何もできなくても大丈夫。きっと私にはこの世界に必要だから生まれてきたんだ」と自分自身を励ました。
時々、七瀬さんは思い出した様に容赦なく私を貶める言葉を言い放った。
「お父さん、天音さんってばまた赤点を取ったみたいよ。何でそんなに簡単な問題で間違えられるのか理解できないわ。本当にちゃんと勉強しているのかしら?」
叔父に言いつける言葉は辛辣で口元には微笑が浮かんでいた。
「ふう、兄さんだって勉強も運動も出来たのに……君は本当に兄さんの子供なのかね。私達の親戚にこんな出来の悪い者がいるなんてなんて恥さらしな」
溜息混じりに叔父が放った鋭い言葉が私の心に突き刺さった。
冷淡な彼らの態度は母が私の心に施してくれた防護壁を破壊しようとしているようだった。
父のことを出されるとどんなに楽観的な考えをしようとしても哀しみが心を覆った。
私は父の子供であることは間違いない。でも、何で私がこんなに何も出来ないのか分からない。
でも負けない。
勉強や運動が出来たからってそれが何になると言うの? それで人の価値は決まらないわ。
叔父や七瀬さんの言葉に心の中で反論する。
本当は言い返してやりたかったけど、そうすれば何倍にもなって返事が返ってくる。そのせいで自分の時間が削れるのは避けたかった。
次第に自分が周りと比べてかなり劣っていると感じる瞬間が増え、学校でも私に蔑みの目を向ける者が増えた。油断すると虐められそうになるので、休み時間になると一人でいる場所を探した。
学校の裏庭に大きな樫の木を見つけその場所で過ごすことが多くなった。
ある日、いつもの様に樫の木の下に腰をかけると、「クゥン」という鳴き声と共にベガが木の上から降って来た。
「あれ? ベガ……何でそんな場所に? それよりもどうやって木の上に登ったの? そもそも犬って木に登れたかしら?」
疑問に思ったが、もふもふの体を抱きしめると心が癒されていくのを感じた。
それからベガはいつも木の上で私を待っていてくれる様になった。
昼休みになる度にベガは木の上から降って来て私の孤独を癒してくれた。
まるで私の心を読んでいるかの様に振る舞うベガは不思議な犬だとこの時思った。
孤独な日々も母の残してくれた言葉といつも側にいるベガのおかげで何とか乗り越えていけそうだった。




