1, 緑の石
「ねえ、ベガ。この緑色の石、なんだと思う?」
ハンドルの中央にはめ込まれた丸い石を、人差し指でそっとなぞる。
つるり、とした感触。
助手席では白いもふもふのベガが、首をくいっと傾げて私を見上げていた。
窓から差し込む陽射しがふわりと毛先を照らし、黒い瞳だけが宝石みたいにきらりと光った。
窓の隙間から流れ込む風が髪をそっと撫でていく。
「……だよね」
思わず苦笑が漏れる。
犬に聞いたって答えが返ってくるわけがない。
もう一度、石へ指を添える。
――あれ、さっきより温かい。
思わず手を引っ込めた。
車内はエンジンも切ったままなのに。
「気のせい……?」
小さく呟き、もう一度だけ触れてみる。
やっぱり温もりがある。
掌にじんわりと熱が移ってくるような、不思議な感覚。
この石……何かのスイッチ?
そんな考えが頭をよぎった。
そんなはずない。
これは八年前に亡くなった父が、生前、買ったキャンピングカーだ。
病弱だった母をあちこち連れて行こうと、パンフレットを何冊も広げながら嬉しそうに話していた父の顔が、不意に浮かぶ。
革張りのシートから漂う少し乾いた匂い。
長い年月を閉じ込めたような車内の空気。
その全部に、父の気配がまだ残っている気がした。
父が亡くなったと知らされたのは、初雪が静かに降り始めた夕暮れ時だった。
玄関のチャイムだけが、やけに長く耳に残っている。
扉を開けると、父の殉職の知らせをしに訪れた制服姿の警官が二人。
その瞬間の冷えた空気も、白く積もり始めた雪も、今でも忘れられない。
そして今――
このキャンピングカーを自分で運転したくて、十八歳で免許を取った。
ようやく運転席に座れた、その日にこんな石を見つけるなんて。
視線は自然とハンドルの中央へ戻る。
父なら、意味もなくこんなものを付けたりしない。
「……絶対、何かある」
ぽつりと漏れた声が、静かな車内へ溶けていく。
緑色……だけど、光の角度によっては、銀色の光が奥から滲む。
ピンポン球ほどの丸い石は、まるで最初からそこにあるのが当たり前だったように、ハンドルの中心へ静かに収まっていた。
「くぅん」
小さな鳴き声に顔を上げる。
「どうしたの、ベガ?」
助手席の上で、ベガはじっと私を見つめていた。
瞳が、まるで何かを訴えているみたいに揺れる。
私が生まれた日から、ずっと一緒。
柴犬そっくりの顔をしているくせに、体はチワワくらいしかない。
小学生の頃は両腕いっぱいに抱えていたのに、今では片腕にすっぽり収まってしまう。
……違う。
大きくなったのは私の方か。
スマホのアルバムを開けば、何年も前の写真にも今の写真にも、ベガは同じ大きさで写っている。
少しも変わらない白い毛並みをそっと撫でる。
ふわりと指先をくすぐる柔らかな感触。
泣いた日も、腹が立って誰にも当たれず、ベガにだけ愚痴をこぼした日も、何も言わず、いつも隣にいてくれた。
「ベガ……もしかして、何か知ってるの?」
問いかけた途端、自分で否定する。
犬がそんなこと知っているわけない。
それでも聞いてしまう。
昔からの癖だった。
「くぅん」
返事をするように、小さく鳴く。
「ふふっ」
思わず肩の力が抜ける。
何を言っているのかなんて、もちろんわからない。
それでもちゃんと聞いてくれている。
そんな気がするだけで十分だった。
私はもう一度、ハンドルの中央へ指を伸ばす。
押して、なぞって、親指で軽く叩いてみる。
……何も起きない。
「うーん……」
指先で石をくるくると撫で回す。
「エメラルド……っていうより、翡翠かな」
ひんやりしていたはずの表面が、また少しだけ熱を帯びる。
窓から差し込む陽の光とは違う。
石の内側から、じわり、じわりと白い光が滲み出してくる。
「え……」
目を凝らす。
白い筋が一本……また一本。
文字……?
違う……絡み合う蔦のような、不思議な紋様。
「さっきより……濃くなってる……?」
鼓動が一つ、大きく跳ねた。
次の瞬間……
「うわっ!」
一瞬で、光が弾けた。
白、緑、銀……色というより、奔流だった。
「っ……!」
反射的に目を閉じ、両腕で顔を庇う。
瞼の裏まで焼きつくような眩しさ。
しばらく顔を覆ったまま動けなかった。
恐る恐る指の隙間から目を開ける。
光はもう薄れていた。
淡い緑銀の粒だけが、車内をゆっくり漂い、蛍のようにひとつ、またひとつと消えていく。
「……今の、何?」
自分の声だけがやけに大きく響いた。
ぞくり、体に感じる違和感。
静かすぎる。
ガレージの換気扇が回る低い音、風に揺れる庭木の葉擦れ、遠くで鳴いていた小鳥の声……
何も……聞こえない。
耳が痛くなるほどの静寂が辺りを包む。
聞こえるのは、自分の鼓動だけ。
どくん、どくん……胸に手を当てる。
手のひらの下で、心臓が暴れるように脈打っていた。
「え……?」
ゆっくり顔を上げる。
フロントガラスの向こうへ視線を向けた、その瞬間……息が止まった。
乾ききった大地。
ひび割れた地面。
揺らめく陽炎が、遠くの景色を歪ませている。
「……え?」
瞬きをする。
もう一度、ぎゅっと目を閉じて、開く。
変わらない。
そこにあるのは、見慣れたガレージの壁じゃない。
収納ラックも、かつて父が使っていた古い工具箱も、何もかも消えていた。
「……は?」
喉から漏れた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
違う。
おかしい。
エンジンすらかけていないのに。
震える手でポケットからスマホを引っ張り出す。
画面は点いた。
時間も表示されている。
けれど……圏外。
いつもなら当たり前に並んでいるはずの通信マークだけが、ぽっかりと消えていた。
「……冗談、だよね」
サイドウィンドウを見る。
バックミラーを見る。
もう一度、前を見る。
家も道路もない。
見慣れた景色は、どこにもなかった。
どこまで見渡しても、あるのは乾いた大地だけだった。
地平線まで続く茶色い荒野。
揺れる陽炎。
焼けた土の匂いが、閉め切ったはずの車内まで入り込んできた気がする。
どくん、どくん……耳の奥で心臓が暴れる。
息がうまく吸えない。
「……ここ、どこ……?」
かすれた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
こんなのありえない。
ガレージにいたはずなのに……
エンジンだってかけていない。
なのに外は知らない景色。
頭のどこかで笑い飛ばそうとする自分がいる。
――異世界?
そんなわけ……そんなもの、小説やゲームの中だけでしょ。
なのに、何度ガラスの向こうを見ても、現実は変わらない。
「……帰れないの?」
その一言が、ぽろりと零れ落ちた。
血の気が引いて全身が震える。
「お願い……」
ぎゅっと目を閉じる。
震える手のひらを胸の前で組んで白くなるほどぎゅっと力を入れた。
夢なら……お願いだから……覚めて……
何度も繰り返し祈りを込めて、ゆっくり目を開く。
……変わらない。
どこまでも続く、知らない世界。
そのとき、視界の端がふわりと白く揺れた気がした。
「……え?」
隣を見ると助手席に座っていたはずのベガが、その小さな身体ごと、淡い光に包まれていた。




