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あの人の静止を振り切り、階段を駆け上った。
後になって冷静になり、ザックが追いかけてきていたら。そしてソフィア様……ソフィアと鉢合わせしていれば、取り返しのつかないことになっただろうと思い至って、全身が震えあがった。
だが、それでも。
『オーウェンに、会いたい……』
初めて聞いたあの人の悲しい声は、俺の体を突き動かした。
大怪我を負ってまで、友人を助けてくれたスペードの10から受けた恩に、少しでも報いたい。
必ず、恋人を連れて戻る。
「グレン? 何を慌てているの?」
決意して、急ぎ足で一歩踏み出した俺の背中へかかった声に、全身から汗が吹き出した。
聞こえないふりをして、そのまま通り過ぎてしまえば良かった。
だが、もう無理だ。体が声に反応して、硬直してしまった。
むしろ早く振り向かなければ怪しまれると、頭の中の冷静な部分が叫んでいる。
「ソフィア、様……」
辛うじて表情を取り繕い、振り返る。
男に媚びたような、一見すればこちらを心配する綺麗な人に見える表情が、俺へとまっすぐに向けられていた。
「慌ててなど……ただ、友人と会う約束がありまして」
「そうなの。友人って、ザックかな?」
心臓がグサリと槍で突かれたように痛んだ。
この女は、ザックが自らの凶行を俺に話す可能性を危惧しているんだ。
落ち着け。俺があの場にいたことは、バレていない。さっさと逃げてしまえば大丈夫だ。
「いいえ。兵士ではなく侍従の友人です。アカデミーの学生の頃から仲の良いやつで」
牢の中から、この恐ろしい狂人に立ち向かったスペードの10の強さを思い出せ。声を震わせるな。
「すみません、時間に遅れそうで。失礼します」
頭を下げて、返事を待たずに背を向けた。吐いた息が熱く、震えたように感じて──止まった。
「グレンってよく見ると結構、可愛い顔をしてるわよね。良かったらお友達とはまたにして……わたしの部屋にお茶でも飲みに来ない?」
手を取られ、甘えた声で囁かれた言葉に、鳥肌が立つ。
振り払いたくなる衝動を必死に押さえ込んだ。
あの人のいう可愛いと、この女のいう可愛いには天と地ほどの差があるな、などという馬鹿なことを、まるで逃避のように考えた。
どうして急にこんなことを言い出したのか。
俺は、この言葉の意味が分からないほど子供じゃない。
だがこの女は言っていた。
『ただのモブに好かれても、どうでもいいんだけど』と。
モブとはよく分からないが、コニーのことを指すなら俺も当てはまるはずだ。キングやクイーンなどの位を持つ者ではない、という意味ならば。
言われたことの意味を、言葉通りに受け取ってはいけない。
なら、俺を部屋に呼んで何がしたい? この女の目的は──。
「申し訳、ございませんが……今日はどうしても、外せない用があります、ので……失礼、します」
この女の目的は、コニー殺害の罪をスペードの10に押し付けること。そのためにザックを殺そうとして、失敗した。
そして今、俺を見つけた、のか。
──部屋に行けば、間違いなく殺される。
「だって、お友達となんでしょ? 別に、延期してもらえばいいじゃない」
「祝いの席なんです。友人として欠席するわけには……」
「それならたくさん人が来ているんじゃない? あなたが行かなくても誰も困らないわよ。私は今晩、あなたと過ごしたいの。ね、いいでしょ?」
腕を抱きしめられ、奥歯を食いしばって悲鳴が漏れるのを堪えた。
「お、俺、彼女がいるんです。だから、ソフィア様みたいに綺麗な人と一緒にいたら、怒られてしまいますよ」
なんとか腕を取り返して、一歩ずつ距離を取る。
俺は知らなかった。彼女がいるという断り文句が、逆効果になる女がいるなんて。
目の媚びた様が、まるで獲物を前にした肉食獣の獰猛さへと変わり、血の気が引いた。
「へぇ……彼女がいるの。その話もぜひ聞かせてほしいわ。ほら、行きましょ。上官命令よ」
下ろされた剣を素手で受け止めた、あの人の言葉が頭によぎる。
自分勝手なことばかり言うな、という言葉が。
本当にその通りだ。こんな女だとわかっていれば、ザックと二人でコニーを説得して、引き剥がしてやったのに。
そうすれば、今頃また三人で、酒でも飲んでいたのかな。
こんな身勝手なクソ女に……コニーは。
右手を、腰に挿した剣へとゆっくり伸ばす。
付いて行ったって殺されるだけだ。背を向けた、今なら。
「あら、ルーファス! ゼン!」
先ほど俺に向けた声とは比べ物にならないほどの猫なで声が、濃紺色の二人の男性へと向けられた。慌てて手を元の位置へと戻す。
「約束していないのに会えるなんて、嬉しい! ねぇ、時間はある? あなたたちとお話したいわ」
「ああ、会えて嬉しいよ。ソフィア嬢。話すのは構わないが……そちらの部下殿と連れ立って、どこかへ行くつもりだったのではないのか?」
「違うわよ。いやね。もしかして妬いてるの? この子はこれから友達と用事があるんですって。それじゃあまた明日ね、グレン」
ソフィアが、赤い髪の精悍な顔付きをした男性の腕にしがみつく。
その光景を呆然と眺めていた。
四つの国にはそれぞれ象徴となる色がある。ダイヤは黄色、お隣のクローバーは緑だ。ハートは赤で……スペードは紺。
赤い髪に紺の騎士服。後ろに控えるのは濃い藍色の髪の紺のローブ姿の男性。
間違いない。この二人は、あの人を迎えに来た、スペードのキングとクイーンだ。
それがどうして、ソフィアに会えて嬉しいなんて声をかけるんだと、去っていく背中を見ながら、思った。
あなた方の大切な10が、地下でひどい怪我をしているんですと、大声で叫びたかった。
「二人に会えない時間がとっても寂しかったわ。もうずっと一緒にいたいくらい」
「俺もだよ。……君に会えない時間は味のない食事をしているような、色のない風景を見ているような、そんな物悲しさが募るばかりだった」
これを言われたソフィアは手を叩いてはしゃぎ、スペードのクイーンが白けた目を自国のキングへと向けている。
ああ、同じだ。ダイヤのキングやクイーン、ジャックも、こうなった。
一人の女を奪い合って仲違いし、まともな判断ができなくなって。
この人達は、スペードの10を迎えに来たはずだった。なのに、あの女に入れ込む姿には、足元が崩れていくように感じた。
スペードの10は言っていた。
スペードのキング方も来られているのだから、すぐに出られる、と。
自国のキング達を信じているから、食事が出なくても耐えられるのだろう。
だが、頼みの綱があの女に陥落していると知ったら。
…………恋人を探そう。スペードのキングやクイーンが落ちた今、あの人だけが頼りだ。
暗がりであまり顔は覚えていないが、紺のローブにあの鋭いグリーンの瞳。そして『オーウェン』という名前。
必ず見つけよう。恋人を連れて行けば、スペードの10を励ませるはずだ。
そうして探し回ったのに、恋人は城のどこにもいなかった。
まさか、キング達がソフィアに寝返ったから逃げたのか? 俺では、あの人を救えないというのに。
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