その3
「とうさまの知らないことって何だ、龍」
不機嫌に問いかける涼一に、龍が言う。
「紗由は紗由なりに考えてるんだよ。だから時々ここにバイトに来てる。まあ鈴音さんから見たら、おままごとみたいだとは思うけど、少しでも清流の仕事を覚えたいって気持ちは本物だと思うよ」
「ここでバイトしてるのか?」
「あら。そのことなら、半年前に伝えたわよ、涼一さん」
「ええ??」
「かあさま、学会の前だったんじゃないの。その時期のとうさまは何を言っても上の空だよ」
「じゃあ、学会前に結婚したいって言って、了承済みの念書取っておけばいいのね、紗由ねえは」
「こら、まこ! よけいなこと言わなくていいの」真琴をにらむ玲香。
「あら。グッドアイデアね、まこちゃん」くすくす笑う華織。
真琴の天然な発言で一瞬空気が緩んだ瞬間に、龍は妙な気配を感じ取った。
“窓の外…?”
目線を動かさずに気配を追う龍。
だが、気配は清流旅館の入り口付近でプツンと途切れた。
“入り方は上手だったのに、出方が下手だな…何だ?”
“龍、追わなくていいわ。“蝶”を飛ばしたから”
“おばあさま…”
華織は窓の外を舞う蝶を見て微笑んだ。
「涼一は二人のこと、反対なのか?」保が聞いた。
「べ、別に反対なわけじゃ…」
そう言いながら、胸ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭う涼一。
「だよね。反対っていうより、何でまずは自分に言わないんだってことでしょう?」龍が言う。
「そうそう。涼一さんは翔太くんのこと、大のお気に入りなんだし。でも、困惑したときの顔が全部怒った顔に見えちゃうから、話がややこしくなるのよね」周子が溜め息をつく。
「よけいなお世話だ」
「…今のは、やっぱりわかってくれるのはおまえだけだ、っていうときの顔なのよ、龍」
途端にうれしそうに言う周子。
「ふーん。…でも、かあさま。そんなヒヨコのオスメスみたいな識別に興味があるのは、たぶん、かあさまだけだから」
龍が突き放すように言うと、今度は周子のほうが怒った顔になった。
「おまえ、そのきれいな顔がなかったら、絶対に女の子にモテないと思うわ!」
「ねえ、パパ。キスされても怒らないのは、相手が大好きだからだよね?」突然、真琴が賢児に聞く。
「まこ…それは、今の話題と関係があるのか?」
「だって、紗由ねえ、“翔ちゃんにキスしちゃった。ふふふ。”って、いちいちメールで報告してくるんだもん」
「僕のところにも来る」聖人が言う。
「何だって!」立ち上がり、聖人をにらむように見る涼一。
「とうさま、聖人が紗由にキスしたわけじゃないよ」
「そんなことは、わかってる!」
「ちょっと、二人とも。何でここで、そんなこと言い出すの」困った顔で二人を見る玲香。
「だってママ、紗由ねえから、“お正月に皆で集まるけど、絶対にこのことは秘密よ。”って、年末に3回もメールあったもん。“絶対に秘密”は、早く誰かに伝えてっていう意味でしょ?」真琴が答える。
「リークだよね」続ける聖人。
「よく、わかってるね」くすりと笑う龍。
「で、おまえら、何て返事するんだ、そのメールに」恐る恐る聞く賢児。
「おじさんに怒られるから言えない」唇をきゅっと結ぶ真琴。
「僕はね、早く翔にいのほうからキスしてもらえるようになるといいね、って返す」
「それは、紗由が一方的にキスしてるってことなのか?」眉間にしわを寄せる涼一。
「うん」
「じゃあ、何か? 翔太くんは紗由じゃ不服だとでも言うのか?」聖人に詰め寄る涼一。
「えーと…」
「とうさま、落ち着いてよ。聖人に聞いてもしょうがないよ。…まあ、そのメールなら、同報で僕ももらってるけどね」
「で、龍は、何て返事するんだ、そのメールに」少しわくわくしながら聞く賢児。
「早く先に進むといいね、って返す」
「先? 先って何だ。龍!」
「先は、先だよ。とうさまが翔太の年齢の頃を想像すればわかるでしょ」
少々、うっとおしいといわんばかりに目線を落とす龍。
「龍! 何でわからないの? 人間というのは、本当のことを言われたら怒るものなのよ。涼一さんは、翔太くんみたいに真面目じゃなかったんだから、そんなことみんなの前で聞かないで!」
「…周子……おまえ、本当は俺のこと嫌いなのか?」泣きそうな顔になる涼一。
「そうねえ。好き嫌いと、涼一さんの女性関係は別問題かしら…」
「え…今、涼一さんに女性問題があるんですか? こんなに尽くしていらっしゃる周子さんがいるのに」低い声で押し殺したように聞く玲香。
「いや…そんな…」
思い当たるのは結婚前のことだけだった涼一にとっては、何でそんな昔のことを蒸し返されるのかと叫びたい気持ちだったが、たとえ昔であれ、後ろめたい案件があったのは事実、詳細を説明するわけにもいかず、口ごもった。
一方、皆の注目が涼一に集まっている間に、龍は翔太と紗由に、注意するように思念を放った。
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