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森の癒し手  作者: S.U.Y
プロスト
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第八話 森人と竜人

 どさり、とヴァイスの背から降ろされた男が眼を開けた。古びた木の床が、男の眼に映る。ごろりと身を回して、男は仰向けになった。木の板を組み合わせた天井は、年月の重みと温もりを感じさせるようにくすんでいた。

「目、覚めたんだ。凄いな、薬が効かないっていうのは、本当みたいだ」

 見下ろす少年の顔が、男の視界に現れる。男は首を横に向けて、部屋を見つめた。

「そこに寝ていられると、邪魔なんだけど?」

 少年の言葉に男は黙ったまま、丸メガネの奥の細い眼を動かす。木のテーブルの足があり、側には椅子も見える。部屋の奥にあるのは、本棚だ。背表紙の無い、紙を綴じ合わせただけの本が並んでいる。

「……模様替えを、したのかい?」

 ぽつり、と男が言った。男の側で、少年の足音が移動する。椅子の前に、少年の足がぶらりと揺れた。寝転がる男を跳び越えて、椅子に座ったのだろう。

「ここは、俺が受け継いだ場所だからな。ガタがきていたものは、作り直したんだ」

「あの、人食い鬼はどこへ行ったんだい?」

 男の言葉に、少年はハッと息を呑んだ。

「グレイは……もういない。お前、やっぱりあのときの人間なのか? 何でグレイを知ってる?」

 少年の声色に、男は鬼がいなくなった理由を聞くことはやめた。腕を首の後ろへ組んで、天井へ視線を戻す。

「答えは、そうだね。僕はあのときの、五十年前に君と会った人間だ。だから、あの人食い鬼、グレイっていうのかな。彼を、僕は知っている」

 男は横向きに姿勢を変えて、少年を見た。若草色の衣服に身を包んだ、耳の長いエルフの少年だ。五十年前と比べて、変化はあまり無いように見えた。

「君は、変わっていないように見えるね。あのときと……変わったのは、その杖を持っていることくらいかな」

 椅子に腰かけている少年は、白い杖を持ったままだった。床に突き立つような形で、杖は少年の手に収まっている。

「これは……形見のようなものだよ。グレイと……それから、シェラの」

「シェラ? ここに住んでいたのは、人食い鬼だけじゃなかったかい?」

「グレイ、だ。あいつは人食いの鬼じゃない。それに、お前は覚えていないのか? シェラの書いた本、読んでたろ」

 少年の言葉に、男は思考を巡らせる。遠い過去へと、意識は向かう。

「医学書……日誌の、ようなもの……平凡で、新しさの無い……僕の、目的には、必要の無いもの……う、うぅぅ」

 男は頭を抱えて、呻いた。あまり触れたくない記憶の一部が、男の脳内を埋め尽くしてゆく。

「お、おい、どうした?」

 少年が椅子から立ち上がり、男の側へしゃがみ込んだ。

「だ、大丈夫、だ。思い出した、から……」

 思い出してしまったから。残酷で無残な光景を、思い出してしまったから、苦しい。男はエビのように身体を丸め、きつく眼を閉じた。

 ふわり、と男の鼻孔へ、花の香りが漂ってくる。濃厚な、スイセンの花の香りだ。

「落ち着け。お前を、傷つける者はここにはいない」

 少年の高く、静かな声が男の耳に染み渡るように響いた。荒波のように乱れた男の心が、ゆっくりと凪いでゆく。

「……ありがとう。君は……そういえば、君の名前を、聞いていなかったね」

 手足を伸ばし、床に手をついてのろのろと起き上がりながら男は言った。目じりに浮かぶ涙を、指でそっと拭う。

「俺は、プロスト。森の癒し手だ。お前には、癒しが必要みたいだな」

 少年の言葉に、男は困ったような笑顔を浮かべる。

「僕は、竜安。だけど、その名はもう捨てた。今は名無しだよ」

「名前を、捨てた……? まあ、いいか。詳しいことは、おいおい聞いていくほうが良さそうだ。じゃあ、何て呼べば?」

「好きに、呼んでくれたらいいよ。僕にはもう、あんまり意味の無いことだからね」

「それなら……竜のにいさん……竜にいさん、でどうだろう?」

 男の眼を見つめて、プロストは言う。

「……由来を、聞いても?」

「お前のその瞳、まるで竜の眼みたいだからさ。それに、恰好からして、俺より年嵩だから。竜にいさん。うん、いいんじゃないかな」

 ひとりでうんうんとうなずくプロストに、男は息を吐いた。

「じゃあ、それでいい。僕を癒してくれるなら、僕は君の患者だ。患者は医師のいう事を、聞かなくちゃね。よろしく、頼むよプロスト」

 男は右手を差し出し、プロストに微笑んだ。その手を取ったプロストも、微笑を浮かべる。

「ああ。よろしく、竜にいさん。しばらく、一緒に暮らすことにしよう。あんな所にいたんだ、どうせ、行く当てなんて無いんだろう?」

 プロストの指摘に、男は頭をかいた。

「そうだ。僕は、帰る場所も、何も……」

「ストップ」

 顔をうつむかせ呟きを始める男を、プロストが手を向けて制する。

「余計なことは、考えなくていい。大丈夫だから」

「……君が、聞いたことなんだけれど」

「小さいことは気にしない。それよりも、今調べなきゃいけないのは、あんたの身体だよ、竜にいさん」

 言いながら、プロストは男に椅子を勧める。椅子に腰かけた男の前に、瓶がひとつ置かれた。

「それは?」

「酒。まずは心を楽にしなきゃね」

 ぽん、とプロストは瓶の栓を開ける。熟した木の実の濃い匂いが、瓶の中からふわりと上がる。

「僕は、お酒は嗜まないんだ。内臓を、大切にしてきたからね」

「いいから、飲む。薬草も入ってるから、大丈夫」

 プロストの強い勧めに、男は瓶に口を付けて傾ける。どろり、とした液体が咽喉に入り込み、濃縮された果実とアルコールが焼けるように胃の腑に落ちてゆく。その熱は、どこか心地よく男の内部を温めていった。

「……不思議な、味だね。だけど、美味しい」

 陶然となった男の眼の前に、木の実が差し出される。皮のついたままの、木からもぎ取ってきただけのものだ。

「食べ物も、食べたほうがいいね」

 プロストの声に従い、男は木の実に齧りついた。みずみずしい果汁が、口の中に広がる。男は今度は声も上げず、夢中になって芯まで食べた。

 男は酒を呷り、木の実を食べる。木の実が無くなれば、プロストが新しいものを渡してくれる。男は何も考えることなく、ただただ飲み食いに集中していた。

「不思議だ……いままで、どんな料理も美味しいと感じたことは無かったのに、ただの木の実がこれほど美味しいと感じるなんて」

 木の実を食べきって、空の瓶をテーブルに置いた男が感嘆の声を漏らす。対するプロストは、少し呆れたような顔だった。

「本当に、よく食べたね。勧めた俺が言うのもなんだけど、大した大食漢で大酒呑みだよ、竜にいさんは」

 プロストに言われ、男は笑った。

「お酒も、飲んでみれば悪くないね。僕の身体なら、悪酔いすることも無い」

「そうか。薬が、効かないんだったっけ。便利だね。俺だと、ひと瓶も一気に開けたら次の日は起き上がれないよ」

 屈託のない笑顔を返し、プロストが言う。ほんのりとした熱と活力に包まれながら、男は眼を細めた。

 バタン、と小屋の入口の戸が鳴ったのは、そのときだ。目をやると、駆け去って行くヴァイスの後姿がちらりと見えた。

「ヴァイス……? どうしたんだろ、急に駆け出して」

 少し驚くプロストの顔の横で、白い杖が澄んだ音を立てた。凛とした鈴の音のような、金属を打ち合わせる音がひとつ、部屋に響く。

「白の杖が……ごめん、竜にいさん。ちょっと出かけてくる! 竜にいさんは、そこにいて」

「いや、僕も……」

 立ち上がろうとした男は、ふらりと足元をよろけさせて椅子にへたり込んでしまう。

「無理せず、横にでもなっててよ。ベッド、使っていいから」

 白いシーツのかけられたベッドを指して、言い置いたプロストは勢いよく小屋の戸を開けて飛び出していった。

「これは、酩酊しているのか……適応するには、少し時間がかかりそうだね」

 男は自身の身体を診て、そう判じた。身体には活力が漲っているのだが、動くには不自由な状態だ。

「竜、にいさん……か」

 竜という言葉に、男の眼は一瞬だけ、悲哀の色を帯びる。テーブルの上に置かれた燭台の、蝋燭の火をじっと見つめる。ゆらゆらと揺れる火を見つめたまま、男はしばらく身じろぎもせず椅子に座っていた。

「……落ち着いたみたいだね。もう、動けそうだ」

 やがて立ち上がった男は、小屋の入口へと向かった。戸を押し開け外を見ると、夜の森が濃密な闇を漂わせ、空には星が瞬いていた。耳を澄ませば、虫の音が聞こえる。

 森の物音に混じり、茂みを踏み分けて来る音がした。そちらへ目をやると、真っ白い毛並みのヴァイスが悠然と歩いてくるのが見える。ヴァイスの口には、白い杖が咥えられていた。

「やあ、ヴァイス。プロストは、どうしたんだい?」

 小屋の側までやってきたヴァイスに、男は問いかける。ヴァイスは一度背後を振り返り、それから男の側を抜けて小屋の中へと入って行った。それから間もなく、木々の間からプロストが顔をのぞかせる。

「あれ、竜にいさん。寝ていなくて、いいの?」

 問いかけながら近づいて来るプロストの背には、小柄な何かが背負われているようだった。

「ああ。少し休んだら、気分も良くなったよ。ところで、それは?」

 男の問いに、プロストは振り向いて背負った何かを見せる。小柄なそれは、人間の子供のようだった。男は、驚愕に目を見開く。

「すぐそこで、倒れてたんだ。意識は無いけれど、生きてるよ。獣に襲われたのかとも思ったけれど、外傷は無いみたい」

 プロストの説明は、男の耳を通り過ぎていった。子供の着ている服は、ゆったりとした黒い布を織り込んだものだ。

「プ、プロスト。それは、その、子供は……」

 がたがたと、男の全身が震える。その様子に、プロストは怪訝な顔をして首を傾げた。

「どうしたの、竜にいさん?」

 問いかける声が、どこか遠くに聞こえる。だが、男は何も答えず、両手で頭を抱えて膝を折った。

「あ、あああ……!」

「竜にいさん!」

 プロストが声を上げて、男に駆け寄ってくる。男の眼は、プロストの背負った子供の顔に向けられさらに大きく見開いてゆく。

「あああああああ!」

 男の絶叫が、森の闇の中へと響き渡った。

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