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森の癒し手  作者: S.U.Y
グレイ
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第六話 悪鬼と伝承

 囀る鳥の音に、プロストはうっすらと目を開いた。見知らぬ天井の梁が、視界に入ってくる。

「ここは……そっか。昨日、鬼に連れて来られたんだっけ」

 横たわっていた寝台から身を起こし、プロストは床へ足を下ろす。右足首の痛みは、ほとんど無い。立ち上がろうとした足元に、柔らかく温かいものが触れてくる。

「ヴァイス、だったっけ? おはよう」

 ふくらぎに身体を擦り付けてくる白狼へ、プロストは挨拶をする。プロストの見ている前で、ヴァイスは大きな伸びをして椅子の上に器用に座った。

「朝ご飯にしようって? それよりヴァイス、グレイはどうしたの?」

 プロストの問いかけに、ヴァイスは応えない。とん、と足元の椅子を前足で叩き、くい、と首をもう一つの椅子へ向ける。

「わかった。まず、食事からだね」

 催促するようなヴァイスの動きに苦笑をして、プロストはベッドから立ち上がり椅子に座る。ゆっくりと歩くぐらいならば、何でもない。グレイの整体に心中で感謝をしつつ、プロストはテーブルの上に積み上げられた木の実を二つ手に取った。

「はい、ヴァイスのぶん」

 手のひらに木の実を載せて、プロストはヴァイスに差し出した。ヴァイスは口を開けて、木の実を咥え、顔を上に向ける。鋭い牙に噛み砕かれ、木の実は果汁を散らしながらヴァイスの口に中へと消える。

「お行儀悪いよ、ヴァイス」

 しゃく、と木の実を齧りながら、プロストは笑いかける。さらに催促をしてくるヴァイスに、プロストは木の実を二回、差し出した。

 木の実を食べ終えたヴァイスが、椅子から飛び降りる。そのまま部屋の隅へ行って、プロストの元へ何かを咥えて戻ってきた。

「食べたから、綺麗にしろって? それ、俺の仕事?」

 どさりと投げ出された雑巾に、プロストは端正な顔を歪める。当然、とばかりにヴァイスは果汁の散った床を前足で指し示し、プロストの顔を見上げてくる。

「……わかった。これも、足の治療の一環だって言いたいんだな」

 小さく息を吐いて、プロストは雑巾を拾い上げる。四つん這いになって床を拭けば、怪我は気にならない。木目に沿って、プロストは雑巾を動かした。

「グレイは、どこかに行ってるの?」

 手を動かしながら、プロストが問いかける。ヴァイスは黙ったまま、床を這って雑巾がけをするプロストを見下ろしていた。

「……ねえ、ヴァイス。シェラって、誰?」

 床を拭き終えたプロストがそう訊くと、ヴァイスの耳がぴくりと動いた。

「グレイがいない時に聞くのはダメなんだろうけど……」

 そう言いながら、プロストはじっとヴァイスの眼を見つめる。見返してくる金色の瞳は、何かを語り掛けようと真摯な意思を感じさせてくる。

「ヴァイス?」

 ふっとヴァイスが目をそらし、部屋の本棚の前へと移動する。昨日の奇妙な男が調べていった、幾冊の本が詰まった古びたものだ。椅子に手をかけて立ち上がり、プロストも本棚の前へ行った。

「これを、読めばいいの?」

 左端の本を手に取り、プロストが問いかける。ヴァイスは、その場に身を伏せて目を閉じた。プロストは手に取った本を、しげしげと眺める。表紙には何も書かれておらず、古く黄ばんだ紙がぼろぼろの紐で綴じられている。

 ぱらり、とプロストの手が、表紙をめくる。その瞬間、ヴァイスが立ち上がった。部屋の壁を睨み据え、唸り声を上げる。

「ヴァイス、どうしたの!」

 ヴァイスの急変に、プロストは持っていた本を取り落としそうになり、慌てて手元へと視線を戻す。そのわずかな時間に、ヴァイスは小屋の入口へと駆け出した。

「あっ、待って、ヴァイス!」

 立ち上がろうとしたプロストの足首に、痛みが走った。うずくまるプロストの前で、小屋の戸が軋んで揺れる。

「何か、あったのかな……」

 呟いて、プロストは本を棚へと戻しゆっくりと立ち上がる。急がなければ、歩くことはできそうだった。


 森の中に、茂みを踏みつける音が続く。どすん、どすんと重い足音は連続して、森の奥へと移動していた。

 足音を追うように、一頭の大きな灰色熊が駆け抜けていく。荒々しく踏み荒らされた、森にできた痕跡を灰色熊は追い続ける。行く先で、大きな咆哮が轟いた。

 森の木立が円形になり、そこは天然の広場になっていた。木々の間から、灰色熊は顔を出し広場を見据える。その中心に、褐色の肌に白衣を着た人食い鬼の姿があった。

 灰色熊の口が開き、大きく吠えたてる。灰色熊は立ち上がり、鬼に肉薄して腕を振るう。鬼は両腕で熊の腕を受け止め、組み合った。

 ぎりぎりと、白衣を裂いて鬼の筋肉に熊の爪が食い込んでゆく。鬼の指が熊の腕に食い込み、みしみしと音を立てる。拮抗する力比べの一方で、両者の表情には決定的な違いがあった。

 灰色熊は憎悪と怒りの表情で、鬼に牙を剥いている。それは、敵対者に対する容赦の無いものだ。対する鬼にあるのは、困惑と苦悶だ。

 鬼は呼びかけるように、何度も灰色熊に吠えかけた。だが、灰色熊は何の反応も示さず、ただただ殺気を叩きつける。鬼は熊の後ろ足へ足払いをかけ、腕を取って投げ飛ばす。背中から地面に落ちた灰色熊が、短い悲鳴を上げた。

 のしり、と鬼の足が熊に近づく。その背後で、茂みが揺れた。振り向いた鬼の視線の先に姿を現したのは、白狼である。驚き、動きを止めた鬼の前で、白狼は高らかに吠えた。ざわり、と森の気配が動く。茂みが揺れ、枯れ木が踏み砕かれ、音と気配は鬼を包み込むように近づいてくる。

 鬼が、白狼に向かって抗するように吠えた。だが、白狼は遠吠えの姿勢のまま、動かない。やがて、鬼の周りに様々な獣たちが姿を見せ始めた。血塗られた毛色の狼の群れが、黒く大きな熊が、空からは猛禽類の群れが、鬼を取り囲む。姿は違えど、彼らの眼は鬼に対する害意のみに染められている。

 ゆっくりと、長く尾を引く白狼の遠吠えが止んでいく。顔を下ろした白狼が、冷淡ないろの瞳で鬼を見据えた。

 鬼は、天を仰いで吠えた。それはまさしく慟哭であり、鬼の両目からは涙が流れている。鬼の周囲の獣の輪が、じりじりと縮まっていく。

 咆哮をやめた鬼が、白狼に背を向けて前方へと跳んだ。黒い熊の頭を踏みつけ、猿のように木々の枝を伝って逃走する。白狼はその背に向かって、一声吠えた。集まっていた獣たちが、一斉に鬼を追い立てる。

 木の上から着地した鬼は、一直線に走り続けた。すぐ後ろから、追いすがる獣の足音がする。木々の間をぬって、鬼はひたすらに足を動かした。木の根を、大地を踏みしめる足裏の感触が、突然に消える。

 拓けた視界に、岩肌が見えた。同時に鬼の身体は、勢いを失い落下を始めた。尖った岩肌に叩きつけられ、鬼は苦痛に顔を歪めてさらに落ちてゆく。底の見えない谷の中へ、断末魔の絶叫が轟いた。


 小屋を出たプロストは、金属を打ち合わせるような、高く澄んだ音を耳にした。

「あれは……白い、杖?」

 小屋の傍らに、墓標のように置かれた石と、そこへ寄り添うように白い杖が立てかけられている。音は、その杖の先端の鈴から聞こえてきていた。

「杖を、手に……」

 ふらり、とプロストの足が杖に向かって動く。その眼は焦点が定まらず、病人のような佇まいでプロストは杖の前に立った。鈴の音が大きくなり、それは、プロストに杖を取るように促す。手を伸ばし、プロストは杖の先端の鈴に触れた。

「は、ぐぅっ!」

 プロストの左手が、頭に押し付けられる。同時に、右手は杖を鈴ごと握りしめる。プロストは苦痛に呻き、跪きながらも杖を手放さない。

 固く目を閉じたプロストの瞼の裏側に、薄暗い人間の村が映った。武装をした人間が次々に、剣を、ブーツの底を、拳を叩きつけてくる。頭を抱え、身を小さくして暴虐の中を耐える。腹が、空いていた。大勢の人間が、集まる場所がある。囲いの中を歩いていた鶏を、頭から貪り食った。頭を、後ろから殴られた。痛みと怒りで、心が満ちてゆく。反撃の拳が、人間の頭を砕いた。血を浴びて、吠える。耳の長い、美しい顔がこちらを見やる。耳の長い者の操る剣が、手足を動かなくしていく。暗い場所へ閉じ込められ、どこかへ、捨てられた。

 このひとが、シェラ、なんだ……。白衣を着た、眼鏡の女性が側に立っていた。寂しそうなシェラの顔が、次第に笑顔になってゆく。満ち足りた気持ちが、プロストの中に訪れる。だが、それは唐突に怒りへと変わる。シェラは、人間に殺された。また、奪うのか。人間が、また、大事なものを。許せない。だが、癒し手の使命は、命を救うもの。怒りは、憎しみは、禁忌。破るその身は悪鬼となり果て、森の裁きを受ける。

 熱いグレイの記憶に混じり、冷徹な何かがプロストの脳裏に伝えられる。同時に、瞼の裏の光景が移り変わる。

 森の木々の隙間を、悪鬼が駆け抜ける。背後から追う獣の足が、止まった。悪鬼の姿が、消える。森の外へ、出て行ったのだ。奥深い渓谷から吹き上げてくる風が、木々を揺らしていた。

「……どうして」

 杖を頼りに、プロストは立ち上がる。その背後に、音もなくヴァイスが歩み寄っていた。

「どうして、グレイを!」

 振り向いたプロストが、ヴァイスに向かって叫んだ。頭の中に、禁忌、という言葉が返ってくる。

「違う、グレイは、悪鬼なんかじゃない!」

 プロストの叫びを、ヴァイスはじっと耳を立てて聞いた。

「怒りと憎しみを、必死に抑えていたんだ! だから、俺の足も治した!」

 ヴァイスは、プロストの言葉に静かに首を横へ振る。そのままヴァイスは、小屋の戸を押し開け中へと入って行った。

「ヴァイス! くそっ!」

 踏み出そうとしたプロストの足が、鈍い痛みとともに動きを止めた。

「グレイ……!」

 うずくまって、プロストは足を押さえた。森の濃厚な気配が、プロストを包むように見守っている。手にした杖から、それが伝わってくる。

「……わかったよ。俺が、次の癒し手だ。グレイの想いは、踏みにじることになるけど」

 杖を立てて、プロストが諦めた表情で言う。森の気配が、恭しくプロストに跪いていく。

「だけど、俺で、終わりにするから。もう、これ以上は……」

 決然とした顔で、プロストは白の杖に言葉をかける。りん、と鈴の音が、その声に応えるように鳴った。

 誰も、苦しませない。プロストの小さな呟きは、声に出ることなく心の中だけに留められた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

これで、グレイのお話は終わりになります。

次話投稿は来週以降となりますので、それまでお待ちいただければ、幸いです。

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