前編
屋敷に響く曲に不快感を覚えるのは、私だけであろうか。
皆は、狂ったように踊り続けている。
「こんなに五月蠅かったら夜も満足に眠れやしないわ!」
華は、布団を畳むと先程まで着ていた“どれす”に着替えて広間に向かう。
大理石の床にもビンビン響く音楽。
少しは近所迷惑も考えて欲しい。
世の中には、お金持ちと一般人、貧乏人と三つに分けられている。
いくら四民平等だと言ったところで本質的には不平等なのが明治の世だと華は感じていた。
しかし、幸せなことに華は近衛という名門中の公家の一族に産まれた為、苦労という苦労をしたことがない。
これが幸せなのか、と常日頃思ってしまう私は贅沢なのだろうか。
そんなことを考えながら広間に行くとお気楽な華族達が踊っている。
「こういう人達がいるから世の中は何も変わらないんだわ…。」
呆れたように華が呟くと母がやってきた。
「華?寝たんじゃなかったの…?やはり舞踏会に参加したかったのね。」
「お母様、眠るも何も眠れない状況を作っているのは何処のどなただと思っていらっしゃるんですか。」
「え…一体、誰?愛娘の神聖な眠りを妨げる不届き者は。」
「それは…まぁ良いわ。兎に角、音量を下げて頂きたいだけなので。」
「あら、駄目よ。今日は特別なお客様がお見えになっているのよ。」
特別なお客様―――
娘の睡眠より大切なお客様など総理大臣か陛下くらいしか思い当たらない。
先祖は藤原氏なのだから敬われて当然の立場だと自負していると言えば、それまでなのかもしれない。
「こんばんは、近衛の奥方様。」
母と華に近付いて来たのは、見目麗しい同い年ほどの青年だった。
例えるならそう、西洋の彫刻に似ている。
「あら、零斗殿。」
母は親しげに零斗という青年に話しかけると、互いに握手し合う。
互いに仲睦まじく会話した後、零斗は母の隣で退屈そうに立ち尽くしている私を見て驚いたように目を見張った。
「華様もダンスを踊りにいらしたんですか?何時もは不在が多いと聞いていましたが。」
「私は…どうにも西洋の踊りというものに慣れないんです。」
「では、私がお教えしましょうか。」
「まぁ…良いじゃない!折角の機会ですもの、行ってらっしゃい。」
「…お母様がそう仰るなら。」
零斗は華の手を握るとゆっくりとしたテンポで踊り始めた。
初めてのダンスの筈なのに我ながら踊れることに驚きを隠せない。
「華様はお上手ではありませんか。」
「きっと零斗さんのエスコートが上手いからだと思います。」
「謙遜しないで下さい、華様自身の実力なのですから。」
零斗は穏やかに微笑むと華の指先に口付けした。
「え…ちょ、零斗さん?」
「あぁ…もしかして初めてですか?こういうことをされるのは。」
からかわれた、そう思った華は急いで手を放した。
「西洋の真似事など私にはどうでも良いことです。」
「あはは…要するに初めてなんですね。」
キッと睨み付けると零斗はまた穏やかに微笑みを浮かべた。
「失礼致しました、では華様。また会える日を…楽しみにしていますよ。」
「え、えぇ…こちらこそ。」
まるで嵐が去っていくかのように、零斗は人混みに紛れるように華の前から消えて行った。
その後ろ姿を茫然と見ていた華はふと手の甲を見ると、微かに赤い痕が残っていることに今更ながら気付く。
「何て失礼な方なの…。」
先程、口付けされた手の甲がほんのり熱い。
私はただ彼に軽くからかわれただけだというのに、どうしてこんなに胸が高鳴っているのだろう。
『華様?どうしたのですか…顔が赤いようですが…。』
「っ何でもないわ、私は部屋に戻ります。」
華は突然、声を掛けて来た使用人から顔を見られないように扇を開くと急いで背を向けた。
『それなら宜しいのですが…お休みなさいませ、華様。』
「え、えぇ…お休みなさい。」
そそくさと広間から逃げるように去っていくその姿を二人の男が見つめていた。
次の日――
舞踏会に参加など自らした試しがない華だったが、今日は寝室に行かないでずっと広間にいた。
母や周囲の使用人達は、明日は季節外れの雪が降るのでは、と口々に囁いている。しかし、そんなことは気にも留めずに零斗の姿だけを探した。
この感情が今まで抱いてきたどんな感情よりも特別だということには既に気付いていたと思う。
やっとの思いで零斗の姿を見つけた時は、訳も分からず歓喜の声が洩れた。
「零斗さん!」
華が駆け寄ると零斗は冷めた眼差しを向けてきた。
「あぁ…華族のお嬢様か。」
昨日は確か"華様"と呼んでいた筈なのに、何故だか今日は見下されているような気がしたのは気のせいだろうか。
『零斗ー?この娘が例の奴?』
『へぇ…随分と世間離れした顔の女だな。』
「だろ?世間の荒波に揉まれてないから最高の餌だよ。」
『ははは…お前、色男の風貌のくせに考えることはえげつないよな。』
「それは褒め言葉として受け取っておこう。」
「…っ」
零斗とその友人達は、何やら不穏な話をしている。
事情は読めないが、此処は大人しく消えた方が良さそうだ。
そう思い、逃げようと図ったが男性に囲まれ、呆気なく広間から連れ出された。
「さて、温室育ちのお嬢様。俺に何か御用かい?」
「先程までは確かにありましたが、今は特にないわ。私は広間に戻らせて頂きます。」
『おいおい…初恋の奴がわざわざ逢引に乗ってくれてんだ、逃げることはないだろう?』
「誰が初恋の相手だって言うの?こんな人と話したくなんてないわ、今すぐ帰らせて。」
「おや?自分が恋していたことにまで気付かない程、女って生き物は馬鹿なのか。あんた、俺と会った時、顔を真っ赤にしてたじゃないか?すっかり脈ありだと思っていたんだが。」
「目の錯覚よ。」
「そうか…じゃあ、無理矢理壊すのは酷な話だが致し方ない。あんたみたいに森の奥で大事に育てられた花を手折ることほど、楽しいことはないよ。」
意地の悪い笑みを浮かべる零斗に華は返す言葉を失った。
その時、初めて気が付く。
この青年は所詮財産目的で近付いてきた人間だったのだ。
今まで出会ってきた人間と何の大差もない人間。
財産に群がるまるで小蠅のような男。
こんな男に一時とは言え、心を奪われた自分が情けなかった。
一方でこの男の言う通り、私は世間知らずだったのだろう。
世間の人達のように表情を見ただけで、その人間の心の底まで見える訳ではない。
私は愚かだ…悔しさのあまり涙が零れかけた時、静かな声が夜の闇に響きわたった。
『何をなされているんですか。』
ふと振り返ると、使用人が立っていた。
名前は何と言っただろうか。
「使用人の分際で俺のことを止めるとは…良い身分だな。」
『はい?私は零斗様ではなく、我が主に聞いているのです。突然、お姿を見えなくなって旦那様も奥方様も大層、心配なされていました。』
「っ…少し夜風に当たりに。お父様とお母様が心配なされていたのなら、直ぐに戻るわ。」
華は助かったとばかりに、急いで零斗の元から離れると、使用人と擦れ違いざまに小声で「ありがとう。」と囁くと駆け足でその場を去って行った。
後であの使用人には改めて礼を言わなくては、と心に誓った。
華が立ち去ったのを確認すると、悔しそうに舌打ちする零斗に男は言った。
『近衛家の一人娘を穢した相手が西洋の人間と娼婦の間に生まれた子だと分かったら…どちらの方が良い身分なのか、そのようなことまで分からない程、愚かではないでしょう?』
「…っお前、何処でその情報を…。」
『さぁ?ただの風の噂ですよ。』
男はにこりと零斗を見て微笑んだ。
零斗達が立ち去った後、男はふと空を見上げた。
今夜の空は雲に覆われて、星一つ見えない。
お嬢様は何を思われて、あの男のところに行ったのだろう…わざわざ自分の身も顧みずに何がしたかったのだろうか。
奥方様はあの男を"若いながらも将来、有望な方"と讃えておられたが、どうにも自分には裏があるようにしか考えられない。
先程、語った生い立ちも所詮出任せだ。
詳しいことを聞かれたら、口を噤んでしまうだろう。
しかし、妙に反応した当たり真実に限りなく近いのだろう。
今後も何事も起らずにいけば良いのだが…男は思った。
華は"ひーる"でボロボロになった足を半ば引き摺るように客のいなくなった広間を歩いていた。
やはり普段から慣れないものを扱うというのは難しい。
それに今夜は生まれて初めて失恋した。
私自身は零斗に対して恋愛感情は抱いていたつもりはなかったが、広間に戻ってきた私の顔を見た母は「まるで失恋したような顔ね。」と言って笑ったので、失恋…なのだろう。
『先程は大丈夫でしたか。』
声のした先を見ると、先程の使用人が窺うように見ていた。
「えぇ、大丈夫よ。それより貴方こそ大丈夫だった…さん?」
『もしかして、私の名前をご存知ではあられませんか。』
「…。」
図星だった。
『水樹 楓と申します、お忘れですか。』
言われてみれば、そんな人が最近入ってきたような気がする。
使用人と言っても数多いるのだから一々、名前など覚えている訳がない。
用があったら、呼び止めるのだから何の問題もないだろう。
そう考えていて気付いた。
「あぁ…こんなに腫れてしまって…。」
楓は華の前に跪くと、真っ赤に腫れた足に触れた。
普段なら“無礼者”と叫びたいところだが、今はそんな気持ちになれない。
「私は…世間知らずのお嬢様だから、利用されかけたのかしら。」
「正直に申し上げますと、そうでしょう。近衛家の一人娘である華様を利用しようと考えておられるのは零斗様だけではないと思います。」
「やはり…。」
「しかし、男性に取り囲まれても気丈に振る舞っていらっしゃったお姿は素晴らしかったと思います。」
楓はそう言って、華の足に包帯を巻き始めた。
「え…待って頂戴、それくらい自分で出来るわ。」
「…そうは仰りますが、巻いた経験はお有りで?」
「うっ…確かにないけれど、巻くだけでしょ?それくらいなら、出来るはずよ。」
華は楓の持っていた包帯を奪うと、自らの足に巻いていくが、何故だか解けていってしまう。
このままでは埒が明かない気もしたが、彼に頼むのはどうしてか嫌だった。
「華様、出来ないとお認め頂けましたか。」
「そうね、出来ないわ。」
「でしたら、貸して下さい。腫れた足のままですと奥方様に言われてしまいます。旦那様にも申し訳が立ちません。」
「じゃあ…。」
意識するだけ馬鹿馬鹿しい、華は思い改め頷いた。
男性に足を触られた経験などない為、妙にくすぐったい。
「お嬢様はダンスが苦手なのですね。もしかしたら、それで零斗殿にからかわれたのでしょう。」
「違うわ!あの人は私を憎んでいるのよ…。」
「心配なら私がお教えしましょうか?勿論、華様がお望みならですけれど。」
「え…。」
「ダンスなんてものは慣れですよ。」
楓の優しい言葉にすっかり意気消沈していた気持ちが晴れた。
「是非、教えて下さい!」
躊躇いなく、華は楓に頭を下げた。
それ以来、華は時間さえあれば楓にダンスの特訓を受けた。
最初は、ダンスが上手くなることが目的だったが、現在は少し違う。
楓と一緒にいられる時間が増えるのだ。
今では名前で呼び合う関係で周囲からは、恋仲なのでは、と噂されている。
絶対に違うとは言い切れないが、この噂は聞いていて嬉しかった。
「華、大丈夫?」
「…っ御免ね…続けましょうか。」
「それなら良いんだけれど。」
実際には私から強要した呼び捨て、お嬢様扱い禁止だったが、最近は楓の目がお嬢様から一人の女に変わった気がした。
それは、後になってとても幸せな時間だと気付くことなど露知らず…。
「……。」
零斗は、陰から華と楓の様子を見て歯軋りした。
まさか、こんなにも早く心変わりするとは誤算だ。
女の心とはそんなにも揺れ動くものなのだろうか。
突き放せば、また追って来ると考えた自分が愚かだったのだろうか。
少し自惚れていたかもしれない。
「まぁ…良い。もう手は打っているからな、華の心を手に入れるのもそう遅くない。」
零斗は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、その場を立ち去った。
ある日ーー
華は自室に置いてあった文を片手に屋敷の近くにある湖に向かっていた。
「湖で待っている。 楓より」とだけ書かれた文に何故だか胸が高鳴る。
もしかしたら、告白かもしれない。
そう思うと、自然と足取りは軽かった。
湖に行くと紅色の睡蓮が咲いていた。
睡蓮は、確か池に咲いている姿は何度か見たことがあったが、まさか湖にまで咲くとは寡聞だ。
透き通るように美しい湖に紅色の睡蓮、そして柔らかい陽射しでキラキラと光る水面はこの世のものとは思えない程、美しかった。
「楓…何処にいるの。」
「何だ…あの使用人を探しているのか?」
湖の畔を歩いてきたのは、零斗だった。
最後に会った時と同じ冷やかな笑みを称えている。
「零斗さん…楓を知りませんか。」
「あぁ…知っている、先程湖に身を投げたよ。」
「っ何で?」
どうして、その場を見ていたのに助けてくれなかったのだろうか。
楓を最後に見たというのに…華は零斗を睨み付けた。
しかし、そんな華の気持ちなど意に介さない。
「恐らく自殺だな。今から助けに行けば助かるかもしれない。此処は意外と浅いからな。」
自殺ーーーその言葉が虚しく響く。
楓は、自分の最期を見届けて欲しくて私を呼んだのだろうか。
しかし、到着が遅れてしまった為に最期を見届けることも出来なかった。
華の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「まぁ…そんなに深刻に考えなくても良いんじゃないか。報われない恋を嘆いて死んだのだから。」
「報われないですって…どうして?」
「残念ながら俺とお前は婚約したからだ。」
「嘘よ!先程は誰もそのようなことは言わなかったわ。」
「真実を知りたかったら屋敷に戻れば良い。ただ帰った時には手遅れで死んでいるけれどな。」
「…っ」
「自分の命が惜しかったら屋敷に戻るんだな、そして俺と結婚すると誓え。」
「命なんて今更、惜しくないわ。」
華は靴を脱ぐと湖の中に入って行った。
「ば、馬鹿な真似は止めろ!下手をすれば死ぬんだぞ?」
「死ぬなんて本望よ。楓と同じ場所に行けるなんてこの上なく幸せなことだもの。」
そう言うと、睡蓮が咲く場所を更に進んで行った。
本当のことを言って助けてやったら、自分が死んでしまうかもしれない。
それが怖くて零斗は身動きを取ることさえ、出来なかった。
ただ華の後ろ姿を見つめながら、後悔の念に捕らえられた…。
「楓…何処なの?」
華は必死になって叫んだが、しかし誰もその声には答えてくれない。
「楓…酷いわ、私はまだ貴方に何も伝えていないのよ?貴方が好きだって、愛していると…ッ」
そう言いかけようとすると、一つの睡蓮の花の茎が足に巻き付いてきた。
巻き付いた足は、もがく度に深く沈んでいく。
気付けば、光のない世界にいた。
零斗は途中から目を開けることが出来なかった。
華がもがいて沈んでいく一部始終を見ていたはずなのに、身体は一向に動こうとしない。
罪悪感と恐怖の余り、急いで屋敷に逃げるように駆け戻った。
屋敷に戻ると、案の定使用人たちが華を探し回っていた。
昼間から行方不明なのだと言う。
しかし、どんなに尋ねられても真実を伝えることが出来なかった。
暫くすると、遣いを頼まれていた楓が戻り、事の真実を知った。
「華様が…?」
『楓さんを探しに行くと言って、それきり…。』
「どうして誰も遣いでいないと言わなかったんですか!知ってたらこんなことには…。」
「華…。」
楓は自室に戻ると、膝から崩れ落ちた。
真夜中になっても帰って来ない華。
もうこの世にはいないのかもしれない。
屋敷中の誰もが諦めきっていた。
「華…何処にいるんだ?いるなら帰って来て…。」
無駄だと分かっている。
こんな所から呼んだところで届く訳がない。
それでも、楓は華の名前を呼び続けた…ーーー。




