第1話 謎の巨大円盤、首都上空に現る
この作品に登場する全ての個人、組織、国家、天体、生物種は全て空想の産物である。
名前の偶然の一致があったとすれば、あいにくなことである
5/31 23:48
ヤーパン民主共和国 首都T京 総書記公邸
あと十数分で日付も変わろうという深夜。総書記公邸に設えられた前庭の綺麗に刈り揃えられた芝の隙間では虫たちがそれぞれの音色で囁き合い、中天に浮かんだ満月がそれを静かに見守っている。
その日、特に変わった事はなかった。勿論、世間にトラブルが皆無だったという訳ではない。権力に取り憑かれた亡者達が引き起こす、党内での醜い足の引き合い。肥料や農業用機械の割当を巡る、集団農場間のトラブル。反革命的勢力による無許可の集会と違法な地下出版の一斉捜索と、それによる大量の逮捕者。収容者が多すぎて定員超過で過密になった政治犯収容所での伝染病の蔓延。領海ギリギリまで接近してきた米帝の駆逐艦と、我が国の沿岸警備隊に所属する巡視船の間で繰り広げられたチキンレース。そんな事は日常茶飯事すぎて、何かあったうちには入らない。
強いて言えば、本来であれば総書記閣下の身辺警護を担当する自分が、こうして総書記公邸の施設警護に駆り出されているのが、変わった事といえば変わった事だ。
とはいっても、それは今夜当直予定だった人間の、曾祖母の従妹の旦那の弟の後妻の連れ子の内縁の妻が尻にウナギが入って亡くなったとかで、シフトに欠員が出たのが原因だ。別に何も特別な事ではない。たまにはそういう事もあるだろう。
世はなべて事もなし。ヤーパン民主共和国は本日も概ね太平であった。明日もきっと概ね平和であろう。
定められたコースに従って総書記公邸の周囲を巡回しながら、ヤーパン人民軍第1親衛警備隊に所属する森田和紀少尉はそう思っていた。
ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
突如として、なんとも名状しがたい重低音が周囲に響き渡った。いったい何の音だ?周囲を見回すが、目に見える視覚的な異変は無い。
どうも音は上から聞こえるようだ。航空機か?政府の重要施設が集まるこの周囲一帯は飛行禁止であるはずだ。
見上げて、俺は絶句した。空がまるで墨汁でも塗ったかのように、ノッペリと真っ黒いのだ。先程まで夜空をやさしく照らしていた満月と星々も見えない。
いや、違う。上空に存在する、何かとてつもなく巨大な物体が空を覆い隠しているのだ。断じて普通の飛行機などではない。なにせ、総書記公邸の敷地をまるごと覆う程の大きさなのだ。
カッ
突如として強烈な光が周囲を照らす。眩しすぎて目を開けていられない。思わず顔を伏せた。
ズウィンズウィンズウィンズウィン……
奇妙な音が響き渡る。同時に何か振動波のようなものが空気を伝って来た。急激に平衡感覚が失われ、視界が不規則に揺れる。腹から猛烈な吐き気がこみ上げてくるのをどうにか我慢する。
とうとう立っている事もままならなくなり、地面に膝と両手をついて四つん這いになった。
「うえっっぷ……」
迫り上がってきた胃液が食道を焼き、堪え切れずに嘔吐した。
ビチャビチャッ
胃液と共に、少し前に夜食として食べたカップラーメンの残骸が吐き散らかされる。
胃の内容物を全て吐き出しても嘔吐感は消えない。粘ついた胃液が地面と口の間で糸を引く。頭がズキズキと痛み、視界がグルグル回る。
しまいには四つん這いになっているのも辛くなって、地面に倒れ込んだ。先程吐き出した自分の吐瀉物が顔や服に付着するが、そんな事に構っていられるだけの余裕は無い。
ヒュゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……
唐突に光が消え、同時に先程まで全身を覆っていた不快感も消えた。恐る恐る目を開き、吐瀉物まみれの顔を上げる。
ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
再び名状しがたい重低音を発しながら、上空の物体は移動し始めた。真っ黒い何かが動くと、その後方から星空と満月が再び姿を現していく。夜空との境目から推測するに、どうやらそれは馬鹿でかい円盤のような形をしているらしい。
謎の巨大な円盤状の飛行物体は悠然と北の方へ向かって飛び去っていった。
いったい今のは何だったのか。満月と星々の光に照らされた総書記公邸の前庭で、ゲロまみれになった俺は呆然と立ちすくんだ。
それからの混乱は酷いものだった。皆が突然の体調不良から復帰するに従い、総書記公邸は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていった。
「おい、今のは何だ!?」
「米帝の新兵器か!?」
「防空司令部に連絡しろ!対空監視は何をやっていたんだ!」
「すぐにH里かY田からスクランブルを出させろ!」
「いや、Y田はダメだ!在日露軍にはまだ知らせるな!」
「そうだな。これもクレムリンの陰謀家どもの仕業かもしれん」
「うわ、お前ゲロくっさ!」
「他人の事を言えた身か阿呆!」
「おい、誰かバケツと雑巾持ってこい!機材がゲロまみれで使えん!」
「モップもだ!そこの出入口付近の床だけでも拭いておけ!出入りする度に滑って危ない!」
「窓を開けて換気しろ!ゲロ臭くってかなわん!」
ガシャンガシャン
ずるぺったん
バッシャーーーン
「馬鹿野郎!誰がそんな所に水を撒けと言った!?」
「す、すみません!」
誰も彼もが大混乱だ。
そこで俺は己の職分を思い出す。そうだ。総書記閣下の身辺を守るべき第1親衛警備隊にとって、まず確認すべきは総書記閣下の安否であるはずだ。
いつもなら俺たち警備担当者が立てたちょっとした物音にも額に青筋立てて怒鳴り込んでくる、神経質で過敏症の総書記夫人のガミガミ声が聞こえてこないのは不自然だ。
敷地内巡回の任務を放棄する事になるが、今はそちらの方が優先だろう。ゲロまみれのみっともない姿だが、そんな事を言っている場合では無い。総書記閣下の御前に出るには失礼な格好だろうが、非常時ということでご勘弁願おう。俺は総書記夫妻の寝室へと走った。
ドンドンドンドンッ
「閣下!奥様!ご無事ですか!?」
寝室の扉を叩いて呼びかけるが、室内から反応は無い。
そうこうしている内に、何人か集まってきた。
「総書記ご夫妻はご無事か!?」
見りゃわかるだろう。それが分からないからこうして焦っているのだ。
「失礼します!」
ガチャガチャッ
ドアノブを回すが、内側から鍵がかけられている。マスターキーは当直警備責任者が持っている筈だが、この混乱ではどこにいるのか分からない。
「扉を破ります!閣下!奥様!聞こえていたら下がっていてください!」
仮にも国家の最高指導者が寝る部屋である。その扉はなかなかに頑丈だ。分厚いチーク材で鋼板を挟み込んである。本来ならプラスチック爆弾か、せめてスラグ弾を装填したショットガンが欲しい所だが、事態は一刻を争う。
「下がって伏せていろ!」
周囲の人間に注意を呼びかけてから、抱えていた小銃のセレクターを連射にし、ドアノブに向けて構え、トリガーを引く。
ドガガガガガガガ……
一流の職人によって精緻な彫刻の施されたドアノブとその周辺が銃弾によって粉砕されていく。
ピュンッ ピュンッ
内部の鋼板に跳ね返された弾丸が跳弾となって跳ね散った。
「うひぃぃぃぃぃ!」
「しっ死ぬ!」
床に這いつくばった意気地なし共を無視して、ズタズタに引き裂かれたドアノブを銃床で殴って破壊し、扉を蹴り開けた。
「閣下!奥様!ご無事ですか!?」
室内に踏み込み、様子を伺う。キングサイズのベッドが二つ並んだ寝室はもぬけの空だ。ベッドの上に布団はあるが、その下に人間がいるような膨らみはまったく無い。室内に争ったような形跡はなく、ベッドも乱れていない。
念のためにベッドの下やクローゼットの中も検めたが、総書記夫妻の姿は無い。窓は全て閉まっていて、施錠もされている。
「いったい、何が起こったんだ……」
ヤーパン民主共和国の最高指導者とその夫人は施錠された密室から忽然と姿を消していた。
第2話へつづく




