第三話:春は此方次第
平安京において決して逆らってはならぬ相手が三人いる。
一人は帝。
一人は中宮彰子様。
そして最後の一人が彰子様の父、藤原道長である。
もっとも、この三名を危険度順に並べるならば、観測者は迷わず道長様を一位に据える。
帝は制度であり、彰子様は理想だ。だが、道長様は現実そのものだった。
道長様を一言で説明せよ、と問われたならば難しい。あまりにも多機能すぎる。財があり、人が集まり、情報が集まる。そして、誰も気づかぬうちに盤そのものの形が変わっている。
敵対する者が現れても正面から剣を抜くことは少ない。気づけば相手の後ろ盾が消え、味方が減り居場所がなくなっている。
極めて恐ろしい。本人はそれを満面の笑みでやってのける。社長の言葉を借りるなら、「田〇角栄と渋〇栄一とゴッ〇ファーザーを一人でやっている男」だ。
……これ、令和で伝わるんだろうか。
後の世に、道長様の歌として伝わるものがある。
『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』
満月のように何一つ欠けるものはない。そんな絶頂の情景を詠んだ歌だという。だが観測者として考えると、これは誰が詠んだのか首を傾げるものだった。
道長様は人の心を持たぬ怪物ではない。むしろ、人の心を知りすぎた男である。娘の未来を案じ、歌を詠み、気さくで、晩年は御仏に仕える。
だが、その優しさは政から切り離されることはなかった。誰かを守るためには、誰かを切り捨てねばならぬことを知っていた。冷酷だったのではない、情に流されぬ術を身につけていたのではないか。
そんな人物がたとえ酒が入っても読む歌ではないだろうと観測者は思った。なぜ観測者は藤原道長についてつらつら考えているのかというと、答えは簡単。
目の前に本人がいるからだ。
くつろいだ様子で座し、庭の葉桜を眺めながら女房が運んできた唐菓子をぽんぽんと口へ放り込んでいる。どこにでもいる、人の良い中年男性にしか見えない。問題はそのどこにでもいるが、絶対にどこにもいないことである。
「それで、物語の進み具合はどうだ」
観測者の脳内で警鐘が鳴り響く、スポンサーチェックである。
「現在、主人公の人物像を練っております」
「どのような男にするつもりだ」
道長は興味深そうに身を乗り出した。
「容姿に優れ、才にも恵まれ、多くの人を惹きつける人物に」
「ふむ」
「ただし、誰一人として救えぬ男にしようかと」
「面白いではないか」
道長は笑って膝を打った。
「人は、手に入らぬものを欲しがるからな」
「……左様でございますか」
「のう、藤式部。勝った者の心も、負けた者の心も等しく書いてくれ」
道長は御簾の向こうの空を見上げた。
「誰もが自分こそが正しいと思うて生きておる。悪人になろうとして悪人になる者など、おらぬ」
春風が吹いた。庭の残った桜が数枚ひとひら舞った。
「だからこそ人は難しい」
観測者は彰子様と目の前の御仁が似たもの親子だな、と思った。自由に生きれないことを分かったうえで一族と家臣を守るために火の中に飛び込んでいくのだ。
道長が不意に口元を緩めた。
「そういえば」
「はい」
「最近、お前のところへ大きな男が出入りしておるそうだな」
観測者は瞬きをした。大きな男といったら該当者は一人しかいない。
「社長のことですか」
「陰陽寮の」
「はい」
くっくっ、と肩を揺らす中年。耳の早いことだが、宮中ではこういうことはもはや空気だ。無数の目と耳があり、情報が命を左右するこの場所に、プライバシーなんぞ存在しない。後世の言葉を借りるなら、ここは文字通りの『伏魔殿』。魑魅魍魎が百八匹どころか数千匹は蠢いている場所だ
「女房たちの間ではずいぶん評判になっておるぞ」
「何の話でしょう」
「夜な夜な部屋に招き入れて、二人きりで過ごしておるとか」
「まだ一夜だけですよ、物語制作の意見出しに協力してもらっています」
「真顔で言うな」
「事実です」
「そのような言い方をすれば、誤解を招くとは思わぬか」
「なぜでしょう」
「お前は本当に相変わらずだな」
また何か変なことを言ったらしい。だが、事実以外は述べていない。社長は物語構造の分析能力に優れている。
竹取物語を「男版にすると面白い」と言った時など、観測者は危うく徹夜で議論しそうになった。そうなる前に社長は帰っていった。明日また来る。
「そもそも、艶めいたことなど何もありませんでした」
「ほう」
「指一本触れてきませんし」
「……うむ」
「おそらく、性的対象外と認識されているかと」
その瞬間。道長様は口元を隠し、すっと視線を庭へ向けた。
しばらく沈黙が続いた。そして、
「……春は遠いな」
ぽつりと呟いた、観測者も庭を見た。桜の若葉は濃くなり、風には初夏の匂いが混じり始めている。明日には花びらもすべて落ちるだろう。
「もう終わりでは?」
「ははははは!」
道長様が、とうとう声を上げて笑った。腹を抱えて笑っている。戦国時代なら天下人な人物が、である。
「何かおかしなことを申しましたか」
「いや、お前はそのままでよい」
「はあ」
「社長殿も苦労しておるだろうな」
「陰陽寮は多忙ですし、私もいくつか頼みごとをしてしまいました。気をつけます」
「ぶふっ」
道長様は楽しそうに腹を抱えていたが、観測者には何が面白いのかさっぱり分からない。そうして、気がすんだ平安の天下人は、機嫌よく帰っていった。
……疲れた。やはり危険度一位の男である。
春の終わり、とはいえ夕暮れ時はまだ冷え込む。
「早めに行くか」
巨躯の陰陽師――社長は、大きめの葛籠を抱えて内裏の廊下を歩いていた。まだ本格的な夜には遠い、逢魔が時の少し前。夕餉もここで一緒に済ませてしまおうという、彼なりの大雑把な計算だった。
目指すは、藤式部・観測者の部屋。
だが、その部屋の手前に差し掛かって社長は足を止めた。
(……多めに持ってきて正解だったな)
御簾の向こうから華やかな話し声が漏れ聞こえてくる。気配の数は一つではない。社長は苦笑しながら大雑把に部屋に入った。
「邪魔するぜ」
部屋の中にいた面々が一斉に振り返る。そこには、部屋の主である観測者のほかに和泉式部、伊勢大輔、そして赤染衛門までが勢揃いしていた。
「あ、社長さん!」
「いらっしゃーい」
「お邪魔しております」
伊勢大輔が手を振り、和泉式部と赤染衛門はさすがに「お邪魔だったかしら」という風に、少し恐縮した様子で身をすくめる。
だが、部屋の主である観測者だけは微動だにせず淡々と言い放った。
「お前が美味い餅の焼き方を教えると言うから、みんなを呼んだ。美味いものは全員で共有した方が楽しい」
「そうだな、楽しさ倍だな」
社長は最初から察していた。
「これ。中宮様用の海苔と醤油。あと、隠し味に唐辛子と柚子胡椒も追加しといた」
社長が葛籠から綺麗に包まれた特製の調味料を取り出して赤染衛門に手渡す。
「まあ、ありがとうございます!」
赤染衛門が嬉しそうにそれを受け取ると、社長は狩衣の袖ををまくって、たすき掛けをした。
「よし、じゃあ始めるか!」
社長が取り出したのは現代の技術が詰まった焼き網と、炭の代わりに術で熱を発する特製の火鉢だった。たちまち部屋の温度が上がり、心地よい暖かさが満ちていく。
社長は持参した四角いお餅を、手際よく小さなサイコロ状に包丁で切り分けていった。
「みんな色んな味を食いたいだろ? 小さく切っておけば、ちょっとずつ何種類も食べられる『ビュッフェ形式』だ」
「びゅっふぇ……? 唐や天竺の言葉でしょうか?たくさん食べられるのですね、嬉しいです!」
伊勢大輔が目を輝かせる。
網の上に小さなお餅が並べられ、ぷうっと白く膨らみ始める。そこに社長が「現代の醤油」をハケで塗り、海苔を巻いて差し出した。香ばしい匂いが室内に爆発する。
「はい、まずは定番の磯辺餅」
和泉式部がそれを口に入れた瞬間、ぼろぼろと涙を流し始めた。
「うまーーーーーーい!!! 何ですかこれ、塩とも甘葛煎とも違う、深くて香ばしいこの味わいは! 美味しすぎて和歌が五首くらい詠めそうです!!」
「泣くな泣くな、喉に詰まらせるぞ。大輔も、しっかり噛めよ」
「おいひいです、おいひいです社長さん!」
伊勢大輔もリスのように頬張っている。
観測者はといえば、無言のままもぐもぐと口に運んでいた。その目が「これは美味い」と雄弁に物語っている。
「お嬢さん達、まだまだ腹に余裕はあるか?」
社長がニヤリと笑う。悪だくみをした悪党そのものだ。
「次は、大輔が言ってた甘い餡の番だな。まずは定番の『小豆のあんこ』」
その瞬間、お堅い赤染衛門の目がキランと妖しく光った。
「まぁ……なんて上品な甘さ……!」
「まだまだ行くぞ。次は、醍醐の白雪だ。蘇もあるぞ~」
「キャー!何これー!!」
苦労性の赤染衛門がバグった。
社長が術で冷やして持ってきた純白のクリームと、濃厚なクリームチーズが登場する。
赤染衛門はあまりの衝撃に顔を真っ赤にし、目がキラキラを通り越してギラギラになりながら「社長……!」と熱い視線を送っている。完全に最新スイーツの虜であった。
「そして、これだ。黒蜜練」
社長が漆黒の塊を包丁で削り、熱いお餅の上に乗せる。トロリと溶けるチョコレート。
それまで静かに食べていた観測者の目が、ギランと肉食獣のように輝いた。無言でチョコ餅へと手が伸びる。
「お、お前はこっちが好きか。さらにこれ、泡雪糖もあるぞ。網でちょっと炙って、次の餅で黒蜜練と一緒に挟め」
「……うまい」
「ほら、みんなもたんと食え」
伊勢大輔、和泉式部、赤染衛門に口にした。
「……はっ!? お、お餅が、口の中でとろけて……温かい光のようなコクが脳を突き抜けていきます……!」
「見えます! 光り輝く池に蓮の花が咲き誇り、美しい鳥が歌う、あの『極楽浄土』の景色が、ああ、和歌を、和歌を詠まねばっ!!」
「南無阿弥陀仏……いや、南無社長殿! 私は生きたまま浄土へお迎えが来てしまったのでしょうか」
女房たちが美味しさのあまり涙を流して拝み始める(あるいは、美味すぎて腰を抜かして畳に突っ伏す)という、「食の快楽による疑似・極楽浄土体験」が巻き起こった。
極楽浄土でも仏の慈悲でもない。ただの現代のハイカロリーと脂質の暴力だ、と観測者は分析しながら腹が満ちているのにスモア風餅をお代わりしていた。
部屋の中は4人の平安女子のキャッキャという歓声で完全に包まれた。
最初は緊張していた赤染衛門も、今や生クリームを口へ放り込み、和泉式部と伊勢大輔はチョコの美味さに悶絶して畳の上を転がっている。
夕暮れの冷たい空気など、どこへやら。
部屋の中は甘い匂いと、お餅の焦げる香ばしい匂い、そして千年前の女子たちの幸せな笑顔で、どこまでも満たされていくのだった。
部屋の中から響く、女房たちの尋常ならざる絶叫。
さらに、御簾の隙間から内裏の廊下へと漏れ出していったのは、この平安京の誰も嗅いだことのない、香ばしい醤油と甘いチョコレートの暴力的なまでに魅力的な匂いだった。
これに釣られない女性などいるはずもなかった。
「ちょっと、どうしたの!? 大丈夫!?」
「何事ですか、この素晴らしい匂いは……!」
局の外れにある藤式部の廊下をわざと通りかかった別の女房たちが、心配を口実に次々と部屋を覗き込んでくる。
そして、網の上でぷっくりと膨らむお餅と、藤式部たちが目を輝かせて未知のスイーツを貪っている姿を目撃し、
「是非、混ぜて!」
「私も食べたい!!」
「せめて一口!!」
そこからは雪崩のようだった。
噂は一瞬で内裏中に広まり匂いに引き寄せられたゾンビさながらに、女房たちがワラワラと集まってくる。たちまち狭い室内は色とりどりの十二単で埋め尽くされ酸欠状態に陥った。
「狭いな、障子も御簾も全部取っ払っちまえ!」
社長の豪快な号令のもと、本人によって部屋の仕切りが次々と撤去され空間が広げられる。
「焼いて焼いて、焼きまくれー!」
社長の術の火鉢が増設され、気がつけば総勢三十名を超える女房たちの大お餅焼き大会が幕を開けた。
完全にキャパシティを超えた大宴会である。部屋にも廊下にも入りきらずに庭も使った。
先に入店していた初期メンバーの四人は、すでに常連の貫禄を漂わせていた。
「はいはい、押し合わない! 順番に配るから席についていてください」
「そこのあなた、マシュマロは少し炙ってからチョコに挟むのよ、これが最先端!」
「はい、どうぞ。おいしいよー!」
「よく噛め」
赤染衛門、和泉式部、伊勢大輔、観測者の四人が、手際よくホールスタッフとして女房たちを捌いていく。あちこちで「美味しい!」「信じられない!」「おかわり!」と黄色い悲鳴が上がり、お餅を焼く煙と熱気で、平安の夜は更けていくのだった。
***
翌朝。
陰陽寮の物流システムをフル稼働させた社長は、爆速で手土産の手配を完了させていた。
中宮彰子様へは再び最高級の海苔と特製醤油に帝の好きな甘味。さらに「昨夜は女房たちを騒がせて申し訳ない、良かったら帝と御賞味を」との丁重な一筆を添えて。それだけではない、定子様のサロンや宮中のあらゆる部署の女房たちにまで、一口サイズに切り分けた「お餅と調味料と甘味特製アソートセット」を過不足なく行き渡らせたのだ。
朝一番のフォローに胃袋と心を掌握され、宮中全体が社長歓迎モードに突入した。おかげで社長が内裏を歩けば女房たちから「社長さん!」「この前はごちそうさまでした」と黄色い声がかかり、観測者の部屋を訪れる際も周囲の女房たちから「あら、いらっしゃい、どうぞどうぞ」「藤式部様のお部屋へ行かれますよね。そこの方、道をお開けになって!」と、極めてオープンに歓待されるようになった。
その光景を嫉妬と畏怖の目で凝視している男たちがいた。
一部の男性貴族、いわゆる殿上人界隈である。
「……聞き及んだか、例の陰陽寮の社長とやらの噂を」
「うむ、中宮様の局に仕える女房三十人を、一晩のうちに残らず喰い尽くしたとか!」
「あな恐ろしや。夜もすがら、障子も御簾もことごとく取っ払ったあからさまなる部屋にて……女房どもが我先にとあの男に殺到したそうではないか」
「いと怪しからぬことよ。翌朝、女房たちが揃ってあの男にうっとりとした視線を送っておるのが、何よりの証拠。あな妬まし……!」
男たちの間でだけ、尾ひれ背びれのついた「三十人一腹の大試練」として、色恋の武勇伝が真しやかに囁かれていた。
もちろん、当の女房たちのもとには男界隈の噂は届いていない。彼女たちにとって、あの夜はただの楽しい美味しいお餅ビュッフェだからだ。
そしてもう一人、その男たちの阿呆な噂話を耳にしている人物がいた。
藤原道長である。
「ーーということです」
優秀な間諜が、淡々と報告を上げる。
もちろん、道長が抱えるプロの密偵たちだ。藤式部の部屋で何が行われていたか、誰が何を何個食べたかまで、真実はバッチリ完璧に把握している。
「ははははは! 喰い尽くした、か! 男どもの妄想とは哀れなものだな!」
道長は腹を抱えて大笑いした。
そんな道長の目の前には、今朝、陰陽寮から直々に届けられたばかりの綺麗な箱が置かれている。
社長からの贈り物。
中には丁寧に小分けされた餅と、炭を奢った火鉢用の小さな網。そして特製の醤油。
『道長様も、よろしければいかがですか』
そう書かれた無骨な筆跡の手紙が添えられていた。
「儂にまでこれを送りつけてくるとはな……。」
道長は苦笑しながら、さっそく網でお餅を焼き始め香ばしい醤油の匂いに目を細めた。毒見の家臣が頬張る、……目を見開いた直後に悶絶し始めながら「おかわり!」と言った。ということは大丈夫の様だ、まぎらわしい。
道長は社長への令状に藤式部が言っていたことを書いた。餅のアソートセットはすぐに食べ尽くしてしまったから今度は多めに送ってくれとも。
男たちのくだらない嫉妬の噂を肴に、天下人は社長の手のひらの上で、実に美味そうに磯辺餅を頬張るのだった。
一方、陰陽寮のデスクで男界隈の噂を又聞きした社長は豪快に笑い飛ばしていた。社長をよく知る同僚は背中が吊るほど爆笑していた。
しかし、その噂は、存外に早く観測者の耳へ届くこととなった。宮中の仕切りは薄く、人の口にのる風はどこまでも軽いのだった。
***
「社長」
「んー?」
夜。
観測者の部屋を訪ねてきた社長は、手元の木簡や資料から目を離さぬまま低い声で応じた。灯火の揺らぎがその大きな背の輪郭を板敷の上に長く引き延ばしている。
観測者は硯に筆を浸しながら、何でもないことのように問いを投げかけた。
「一夜で三十人の女房を喰らい尽くした後そのまま放置して帰った、との噂をきいた。これはいつぞやの餅焼きの会のことだろうか」
その瞬間、社長が形よく結んだ唇から盛大に息を吹き出した。静かな部屋に不釣り合いな笑い声が弾ける。
「ひでーっ男だな!」
「同意する」
「俺が喰ったのは餅だけだ」
「では、なぜ男たちはそのような解釈に至った」
「認知バイアスってやつだな」
観測者はぴたりと筆を止めた。夜風が御簾の隙間からかすかに流れ込んでくる。
「具体的には」
「まず、男どもは現場を見てない」
「うむ」
「知ってる事実は、『夜』『女房三十人』『障子も御簾も外した』『翌朝みんな嬉しそう』。この四つだけだ」
「確かに」
「で、人間は情報が足りないと、自分の知ってる経験則で空白を埋める」
「利用可能性ヒューリスティックか」
「それな」
社長は悪戯っぽく人差し指を立てた。その指の太さすらどこかこの時代の柳のような公家たちとは違う、力強さがある。
「男どもの頭の中には、『女が大勢集まって喜ぶ理由』の候補が少ねえんだよ」
「食事、贈答品、共同体験、知的交流――他にもいくらでもあるだろう」
「お前ならそう考える。だが、連中は違う」
社長はため息混じりに言った。
「自分が喜ばせる方法しか想像できねぇんだ」
「なるほど」
「だから、『女が夢中になっている男』を見れば、すぐに『色恋に違いない』と決めつける」
「投影か」
「それもある」
観測者は淡々と客観的な分析を続ける。
「加えて、生物学的要因も関係するのでは」
「お、続けてみろ」
社長が興味深そうに目を細めた。灯火の芯が小さく弾ける。
「雄は配偶機会の競争相手に敏感である」
「うん」
「特に希少資源へアクセスする個体に対して、実際の能力以上の脅威を感じやすい」
「その通り」
「つまり社長は女房たちの好意を独占しているように見える」
「実際はチョコと生クリームとマシュマロが人気なんだけどな」
「だが、男たちは自らの競争相手として社長を認識した。ゆえに、『三十人を喰い尽くした』という誇張表現が発生した」
「百点満点」
社長は拍手をして楽しそうに笑った。
「嫉妬、不安、情報不足。この三つが揃うと、人間は勝手に物語を作る」
「……興味深い」
「しかも本人たちは嘘をついてる自覚がねぇ」
「自分にとって最も納得できる解釈を真実だと思い込むからか」
「そういうこと」
観測者はさらさらと紙に書きつけた。
『人は事実を見るのではない。見たい物語を見る』
「何書いてる」
「源氏物語の参考資料にと」
「お前、本当に何でもネタにするな」
あきれ顔の社長を見つめながら、観測者は真っ直ぐな視線を送った。
「社長」
「なんだ」
「確認したい」
「なんか、嫌な予感がする」
眉をひそめる大男に向かって観測者は大真面目に言い放つ。
「お前は私を性的対象として認識しているのか」
一瞬の静寂の後、今度は腹を抱えて社長は笑い出した。
「あははははは!」
「なぜ笑う。至極真面目な問いだ」
「いや、お前、本当に、真正面から来るな」
「聞いてはならない話題だったか」
「いんや、構わねえよ。ただお前、らしいと思ってさ、はー、なんで急にそんなこと聞く気になった」
「男たちの噂を分析していた」
「ふくっく、うん」
「私は自身の容姿を客観的に評価できない。だが、生物学的には若さが性的魅力の一要素になりうることは知っている」
「うん」
「にもかかわらず、お前は指一本触れてこない。ゆえに疑問が生じた」
観測者は淡々と、自らの存在をデータとして突きつけるように結論を述べた。
「私はお前にとって性的対象外なのか、と」
社長の笑みが、ゆっくりと形を変えていく。低い声が夜陰の奥底を揺らすように楽しげに響いた。
「性的対象、ねえ」
男は灯火の向こうから、真っ直ぐに観測者の目を覗き込んできた。
「まず前提として、俺の対象には老若男女の垣根がない」
「垣根がない」
「大事なのは、成人してること。本人の同意があること。相手を一人の人間として尊重できること」
「なるほど」
「性別とか年齢とか肩書きとか、そういうもんは俺の中じゃ優先順位が低い」
社長は腕を組み、ふと視線を落として少し考え込む。夜風が庭の葉桜を揺らし、さらさらと静かな音を立てた。
「……いや、待てよ」
「どうした」
「俺、どこまでいけるんだ?」
珍しく、社長自身が自らの限界を探るように首を傾げた。
その奇妙な仕草に釣られるように、観測者も筆を置いて小さく首をかしげる。灯火に照らされた二人の影が揺れてほんの一時、重なる。
「どこまで、とは」
「人間つーか、枠組みを外した場合だ」
「哲学の話か」
「かもしれねえな。意思疎通が出来れば……。いや、同意があれば動植物行けるような?」
ぽつり、ぽつりと交わされる言葉の間に、沈黙が流れる。
そして社長は観測者をじっと見つめたまま、声音を一段と低くして呟いた。
「……あれだな、森羅万象」
観測者は、思わず目を見開いた。
「スケールが大きいな」
「褒めんなよ―。照れるじゃねえか」
社長は大きな手を振りながら、照れ隠しのように笑った。だが、その会話のテンポは止まらない。観測者は、さらにその境界線を押し広げるように問いを重ねる。
「岩もか」
「おう」
「山」
「いいねえ」
「学問」
「滾る滾る」
観測者は真剣な顔で頷く。一切のからかいを排除した世界の真理を確かめ合うような問答。社長は面白そうに肩を揺らしている。
そして最後に、観測者は声を少し落とし静かに尋ねた。
「――悲しみだけでも?」
その瞬間。
部屋の空気が、張り詰めた弦のようにピンと震えた。男の表情から、一切の笑みが消え去る。低く、熱を孕んだ声が落ちた。
「……最っ高」
観測者の首筋から背中にかけて、一気に産毛が逆立った。
肺が呼吸の仕方を忘れたのか酸素が入ってこない。
耳の奥で自身の血流の音がやけに大きく聞こえた。
指先が白くなるほど無意識に強く締めつけている。
男の輪郭が、灯火の光が、境界線を越えたようにぼやけていく。
(ーーまずい、吐きそう。)
慌てて口元を両手で抑えて肩を丸めている、顔は紙のように白かった。
「キャーッ!!洗面器出すから持たせろ!!」
「きもちわるい……」
「あと、ちょっとよ!!!」
社長が野太い叫び声の直後にオネエに変じて、次元の裂け目から洗面器とタオルを引っ張り出して観測者の顔と床の間に滑り込ませた。
☆しばらくお待ちください☆
結果として、観測者は吐きそうで吐かなかった。洗面器に顔を突っ込んでうずくまる間、社長は酒を片付けて部屋の喚起をした後、水と現代の制吐剤を準備して観測者の横でスタンバっている。
嘔気がある時に背中をさすると余計に嘔気を催すため、社長は観測者に迂闊に触れない。代わりに檜扇で彼女の顔を扇いでいた。
ようやく落ち着き、顔を上げた観測者の顔は某ホラー映画の髪の長い女の幽霊のようだった。この時代に精巧な鏡がなくて良かった。社長はジャパニーズホラーを目の前にしても落ち着いていた。
「……急に、悪寒・動悸・めまいが来た。ビックリした」
「脳が処理堕ちしたのね。はい、お水飲んで」
「なんで、お姉さま言葉なんだ?」
「アンタの為よ、もう。今は考えるの禁止、さっさと寝なさいな」
「そうする、着物脱ぐの手伝ってくれ」
「ハイハイ、式紙に寝床準備させるから動くのは最小限よ」
「重ね重ね申し訳ない」
「水臭いこと言わないのっ、アンタとアタシの仲でしょ?さあ、横になって」
寝床に横になった観測者に掛布代わりの着物を重ねる。社長は次は羽毛布団春・夏用を持って来ようと考えた。
うとうとし始めた観測者が社長にぽつりと言った。
「……私は、お前だけが性的対象だからな」
「最後に爆弾投げてくるのは、良くないと思う。俺の気遣い木端微塵じゃねえか」
社長は枕元に胡坐で座し、腕を組みながら唸るように言った。
観測者は目を細め、かすかに口元を緩めてから眠りについた。社長の目は笑っていなかった。
男はしばらく観測者の顔を眺めてから重い、非常に重たいため息を吐いて部屋を後にした。




