第2話 母の限界
第2話 母の限界
雨だった。
窓ガラスを叩く雨粒の音が、夜の静けさを細かく刻んでいた。
時計を見る。
午前二時四十分。
高瀬良子はため息をついた。
眠れない。
今夜もだ。
いや、今夜だけではない。
もう何年もまともに眠っていない気がした。
築三十年を超えたアパートの六畳間。
畳はところどころ擦り切れ、壁紙も黄ばんでいる。
古い蛍光灯の白い光が部屋を照らしていた。
良子は薄手のカーディガンを羽織り、湯呑みを握った。
冷めた麦茶を一口飲む。
その時だった。
ガタン!
隣の部屋から大きな音が響いた。
良子の肩がびくりと震える。
「拓真!」
慌てて立ち上がる。
襖を開けると、二十四歳になった息子の拓真が部屋の隅でうずくまっていた。
耳を押さえ、身体を揺らしている。
窓の外では雷が鳴った。
ゴロゴロと腹の底に響くような音。
拓真はさらに身体を縮める。
「大丈夫、大丈夫だから」
良子はゆっくり近づいた。
刺激しないように。
怖がらせないように。
何年もかけて覚えた。
しかし突然。
拓真が立ち上がった。
テーブルを押し倒す。
急須が床へ落ちる。
湯呑みが砕け散る。
ガシャーン!
破片が飛び散った。
良子は息を呑む。
「拓真!」
拓真は泣いていた。
怒っているわけではない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ混乱していた。
どうしていいか分からなくなっていた。
その姿を見るたび、良子の胸は締め付けられた。
この子も苦しい。
分かっている。
分かっているのに。
疲れてしまう。
朝になった。
良子は寝不足のままパートへ向かった。
スーパーの総菜コーナー。
白い帽子。
薄い水色の制服。
揚げ物の匂いが充満する厨房。
油のはねる音。
眠気で身体が重い。
「高瀬さん、大丈夫?」
同僚が心配そうに声をかけた。
「顔色悪いわよ」
「ちょっと寝不足で」
笑おうとしたがうまく笑えなかった。
仕事を終えて帰宅すると、アパートの階段で待ち伏せされていた。
二階に住む女性だった。
腕を組み、険しい顔をしている。
「高瀬さん」
「はい」
「昨日も夜中に騒がしかったですよね」
胸が痛む。
「申し訳ありません」
「毎日毎日、こちらも眠れないんです」
良子は頭を下げた。
「本当にすみません」
「すみませんじゃなくて」
女性は言葉を飲み込んだ。
怒りたいのだろう。
でも怒鳴れない。
相手が困っていることも分かっているから。
それが余計につらかった。
家に戻ると拓真は窓際に座っていた。
好きな風景写真の本を眺めている。
「お母さん」
珍しく言葉が出た。
たどたどしい声。
それだけで良子は嬉しくなる。
「なあに?」
「カレー」
「食べたいの?」
拓真が頷いた。
良子は涙が出そうになった。
こういう瞬間がある。
だから頑張れる。
だから諦められない。
夕飯はカレーライスだった。
豚肉。
玉ねぎ。
じゃがいも。
人参。
安売りの福神漬け。
湯気の立つカレーの香りが部屋いっぱいに広がる。
拓真は静かに食べていた。
その姿を見ながら良子もスプーンを口へ運ぶ。
幸せだった。
本当に。
だが夜になると現実が戻ってくる。
市役所へ相談に行ったこともある。
障害福祉課。
相談支援事業所。
保健所。
病院。
何度も何度も足を運んだ。
「こちらでは対応できません」
「別の窓口になります」
「今は空きがありません」
「順番をお待ちください」
どこへ行っても同じだった。
悪意はない。
職員も真面目だった。
だが助けは来なかった。
気付けば十年以上が過ぎていた。
ある冬の日。
雪がちらつく午後だった。
良子は相談支援専門員の三崎と向かい合っていた。
喫茶店だった。
コーヒーの香り。
暖房の温かさ。
三崎が静かに言った。
「白百合の丘に空きが出ました」
良子は言葉を失った。
「本当ですか」
「はい」
胸の奥が揺れる。
嬉しい。
でも怖い。
「私が……預けるんですか」
三崎は頷いた。
「お母さん一人で抱えなくていいんです」
その瞬間。
良子の頬を涙が流れた。
何年ぶりだっただろう。
人前で泣いたのは。
入所の日は快晴だった。
春だった。
白百合の丘の庭には色とりどりの花が咲いていた。
職員たちが笑顔で迎えてくれる。
拓真は少し不安そうだった。
良子は何度も何度も服を直した。
拓真の青いシャツ。
紺色のズボン。
新しいスニーカー。
「また来るからね」
拓真は返事をしない。
ただ窓の外を見ていた。
良子は胸が引き裂かれそうだった。
車に乗る。
施設が遠ざかる。
バックミラーの向こうで白百合の丘が小さくなっていく。
涙が止まらなかった。
「ごめんね」
何度も呟いた。
「ごめんね」
その夜だった。
久しぶりに静かな部屋。
物音がしない。
時計の針の音だけが聞こえる。
良子は布団に入った。
眠れるはずがないと思った。
胸が痛かった。
寂しかった。
罪悪感で苦しかった。
だが。
気が付くと朝だった。
窓から柔らかな光が差し込んでいる。
雀の鳴き声が聞こえた。
良子は布団の中で目を開いた。
時計は七時を指している。
八時間近く眠っていた。
何年ぶりだろう。
良子は起き上がった。
そして。
声を上げて泣いた。
安心したからだった。
疲れていたからだった。
助かったと思ってしまったからだった。
母親なのに。
そう思う自分が許せなかった。
朝日が部屋を照らしている。
静かな部屋の真ん中で、良子は顔を覆ったまま泣き続けた。
誰にも聞こえない声で。
長い長い年月の重さを吐き出すように。




