第1話 白百合の丘
# 第1話 白百合の丘
四月の朝だった。
白百合の丘支援センターへ続く坂道の脇には、名残の桜がまだ残っていた。風が吹くたびに花びらが舞い、淡い桃色がアスファルトの上を転がっていく。
朝倉誠は施設の看板を見上げた。
白地に緑色の文字。
その下には小さく、
『一人ひとりの人生に寄り添います』
と書かれている。
「今日からか……」
誠は深呼吸した。
新品の紺色のポロシャツ。
黒いチノパン。
支給された名札。
二十八歳。
介護職を辞めて福祉の世界へ飛び込んだばかりだった。
緊張で手のひらが汗ばんでいる。
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻をくすぐった。
受付の女性が笑顔を向ける。
「おはようございます。朝倉さんですね」
「はい。今日からお世話になります」
「施設長がお待ちですよ」
案内された会議室では十人ほどの職員が集まっていた。
年齢もさまざまだ。
二十代の若い職員。
白髪交じりのベテラン。
みんな同じポロシャツ姿だった。
施設長が挨拶を終えると、隣にいた男性が立ち上がった。
「現場リーダーの野村です」
五十代くらいだろうか。
日に焼けた顔。
太い腕。
目尻には深いしわが刻まれていた。
「朝倉くん、今日は俺が案内するから」
「よろしくお願いします」
野村は歩きながら説明を始めた。
「ここには百人近い利用者さんがいる。障害も年齢も様々だ」
「はい」
「教科書通りにいかないことも多い。まずは慣れることだな」
廊下には色鮮やかな絵が飾られていた。
折り紙で作った花。
クレヨンで描かれた空。
利用者たちの作品らしい。
窓から差し込む春の日差しが床を照らしている。
思ったより明るい場所だ。
誠は少し安心した。
だが、その時だった。
突然。
遠くから大きな物音が響いた。
ガン!
ガン!
ガン!
「え?」
思わず足が止まる。
続いて叫び声が聞こえた。
職員たちが一斉に動き出す。
「拓真さん!」
「危ない!」
野村の顔色が変わった。
「朝倉くん、こっちだ!」
二人は走った。
部屋の前には数人の職員が集まっていた。
中では若い男性が壁を叩いている。
ガン!
ガン!
拳が壁にぶつかる音。
激しい呼吸。
苦しそうなうめき声。
誠は凍りついた。
「な、何が……」
「拓真さんだ」
野村が短く答える。
男性は耳を押さえていた。
壁際にうずくまりながら頭を振っている。
叫び声とも泣き声ともつかない声が漏れていた。
「うああああ!」
職員が静かに話しかける。
「大丈夫ですよ」
「落ち着こう」
「ここにいるからね」
だが届かない。
男性はさらに混乱しているように見えた。
誠は恐怖を感じた。
正直に言えば怖かった。
もしこちらへ向かってきたら。
殴られたら。
そんな考えが頭をよぎる。
しかし。
次の瞬間。
誠は違和感を覚えた。
男性の肩が震えていた。
顔は青ざめている。
額には大量の汗。
目には涙が浮かんでいた。
まるで何かに怯えている子どものようだった。
「……怖いのか」
思わず呟いた。
「え?」
隣の職員が振り向く。
「いや……」
誠は言葉を失った。
暴れている人。
そう見えていた。
でも違う。
一番苦しそうなのは。
一番怯えているのは。
この人自身だった。
その時、厨房から金属音が響いた。
ガシャン!
拓真がさらに耳を塞ぐ。
「うあああああ!」
野村が小さく息を吐いた。
「なるほどな」
「え?」
「今日は厨房の換気設備の点検だった」
誠ははっとした。
聞き慣れない音。
突然の刺激。
それが原因なのか。
職員たちは周囲の人を別室へ誘導し、拓真の近くに余計な人が集まらないようにした。
しばらくして物音が止む。
拓真の呼吸も少しずつ落ち着いていった。
床に座り込み、肩を震わせながら涙を流している。
職員が差し出したタオルを受け取った。
誠は胸が苦しくなった。
恐怖とは違う感情だった。
昼食の時間。
食堂にはカレーの香りが広がっていた。
湯気の立つポークカレー。
キャベツとコーンのサラダ。
オレンジゼリー。
利用者たちは思い思いに食事をしている。
笑う人。
歌う人。
黙々と食べる人。
先ほどの騒ぎが嘘のようだった。
誠は野村の向かいに座った。
「さっきの人……」
「拓真さんか」
「はい」
野村はスプーンを置いた。
「朝倉くん。君はどう見えた?」
誠は少し考えた。
「最初は怖かったです」
「うん」
「でも途中から……苦しそうだと思いました」
野村が微かに笑った。
「それが大事なんだ」
「え?」
「暴れている人を見ると、みんな困った人だと思う」
窓の外では桜吹雪が舞っていた。
柔らかな春の日差し。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
「でもな」
野村は静かに続けた。
「本当に困っているのは本人なんだよ」
誠はスプーンを握りしめた。
拓真の震える肩。
涙。
耳を塞ぐ姿。
その光景が頭から離れなかった。
福祉の仕事をしたいと思っていた。
誰かを支えたいと思っていた。
だが今日初めて気づいた。
自分は何も知らなかったのだと。
白百合の丘の春風が窓から吹き込み、食堂に桜の花びらを一枚運んできた。
それは静かに床へ落ちた。
誠はその花びらを見つめながら思った。
この場所で、自分は何を学ぶのだろう。
そして、あの人が何に困っているのか。
いつか知りたい。
そう強く願った。




